お待ちいただきありがとうございます
「──以上で私の演説を終わります。ご清聴、本当にありがとうございました!」
世界が巻き戻る。
エミリアの凛とした声に続き、万雷の拍手と熱狂する市民たちの歓声が唐突にスバルの鼓膜を打った。
目の前に広がっているのは、水門都市プリステラの中央広場。愛する少女が生み出した目も眩むほどの輝かしい光景だ。
ほんの数瞬前まで鼓膜を劈いていた天文学的な質量の激流が都市を飲み込む破滅の轟音と身を包む冷たい水の感覚。それが嘘のように消え去り、代わりに希望に満ちた温かな熱波が肌を撫でる。
(……戻っ、た)
自分の体の感触を確かめながら、スバルは改めて自分が今どこに立っているのかを強烈に自覚する。
あまりの圧倒的な質量と破壊力を前に、痛みすら感じる暇もないほどの一瞬の死ではあった。
だがつい先ほどまで肺を乱暴に押し潰し、体の中を理不尽に支配していた冷たく淀んだ濁流の感触は、どうしようもない吐き気と不快感としてスバルの全身にねっとりとこびりついている。
「…………」
鳴り止まない歓声から強制的に意識を切り離し、スバルは煮えたぎる焦燥感を奥歯を噛み締めて押さえつける。
震えそうになる指先を固く握り込み、スバルは直前の死の盤面を猛スピードで整理し始めた。
まず確定した最悪の事実として、ペテルギウスがこの都市に居る事。
そして都市の四方にある巨大な水門が、既に魔女教によって完全に抑えられている事だ。
不可解なのは前回と違い、水門を開けることに対して大罪司教側が一切の手加減や交渉の余地を見せるつもりがなかった点だ。
それに2度の死に戻りの道中で動かされることもなかった堅牢極まりないはずの水門が、なぜ突如としてあのようなタイミングで無惨に内側から破壊されたのか。
スバル自身が中央広場を通ったことが原因か?
確かに理由の一つとして考えられる要因ではある。だがそれにしても相手がいきなり盤面ごと吹き飛ばし、勝負を投げ出すような真似をするだろうか。
ではどのような状況であればあのような暴挙に出るのか。
あの一手はまるで子供が自分の思い通りにいかなくなった盤面を無理やりひっくり返そうとしたような、ひどく理不尽で乱暴な痕跡を感じた。
つまりは──誰かが意図的にこの盤面を監視し、必要に応じて外側からかき乱している。
魔女教という狂人の集団をさらに俯瞰し、スバルの死に戻りを対策するかのように確実に殺しにきている黒幕。
それはきっとーー
「ナツキさん。何があったんですか」
ふいに隣に立つオットーからひどく静かな声がかかる。
熱気にあてられる群衆の中で、ただ一人顔面を蒼白にさせひどく曇った表情を浮かべていたスバルの異変を的確に見抜いてのことだろう。
別の世界線とはいえ彼とはすでに幾度となく死線を潜り抜けた間柄だ。スバルの瞳の奥に淀む暗い絶望の残滓を、オットーが見逃すはずもなかった。
自分の中で先程の出来事にある程度の結論をつけたスバルは、強引に肺の奥まで息を吸い込み、真っすぐな目でオットーを見つめ返した。
「魔女教にやられた。ペテルギウス……怠惰だけじゃなくて、色欲もたぶん来てる。この分だと他の大罪司教が居る可能性もな」
──というより、これまでの経験と背筋を撫でるような嫌な直感に照らし合わせれば、スバルの見立てでは確実に
最悪なのは感情を狂わせる憤怒、続いて強欲、状況次第では前回のようにルイが出てくる可能性すらあり得るだろう。もはやどんな規格外の敵が押し寄せてこようと、今のスバルは驚かない自信があった。
スバルの重すぎる言葉に、オットーは鋭く眉をひそめ、顔に深い緊張を走らせる。
「分かりました、少し席を外しましょう。今なら我々が離れても違和感は少ないです」
既に眼前の壇上では、エミリアが街の人間からの質疑応答に真摯にこたえているフェーズに移っている。
オットーに案内されるがままにスバルがその場を離れると、その尋常ではない空気の揺らぎを察したように、エキドナもまたベアトリスと共に静かに寄ってきた。
演説台の裏手へ降りても、四人は一切の会話を挟む事は無く、ひどく重苦しい沈黙を纏ったまま、人通りが少ない路地裏へと足早に進んでいく。
広場の熱狂から切り離された、冷たい石造りの空間。オットーが周囲に誰もいない事を確認し、張り詰めた静寂の中で第一声を上げたのはエキドナだった。
「さて、状況はなんとなくではあるが理解している。相手は魔女教かい?」
「ああ。それも多分かなり本腰を入れてきてる。下手すると大罪司教全員集まっててもおかしくない……今のところ見たのは、怠惰と色欲がいるかもってくらいだ」
「そうかい。それはかなりひどい状況だね」
己が死の淵で掴んできた血みどろの情報。
それを聞いたエキドナはひどく冷ややかな表情のまま、呆れたように小さく息を吐き出した。
感情の起伏こそ薄いが、彼女の明晰な頭脳は大罪司教が複数体同時に襲い掛かってくる盤面がどれほど絶望的であるかを即座に弾き出しているはずだ。
事前に予想していた事ではあるし、そのためにあれこれ策を練ってきたとはいえ、これほど絶望的な状況からはじまるとはエキドナの想定をはるかに超えている。
「もう四方の水門は抑えられてる。通信設備も抑えられてたから多分都市庁もダメだ」
「どちらにせよ最優先で解放しないといけないのは水門なのよ。それから都市庁含めて回っていくしかないかしら」
魔女ですら対抗することが出来ないほどの圧倒的な暴力。
自然の力とはそれほどの物であり、どちらにせよあれが敵の手の内にあるだけでもこちら側はいつだって負けうるのだから。
これで一先ずの目標は決まった。
だが目標が定まったところで、それを実行するための手駒があまりにも不足している。
「問題は人手だね。仮に大罪司教が全員いるとして、憤怒、強欲、怠惰、色欲、場合によっては暴食と更には傲慢か。揃いも揃ったね」
「そういえば嫉妬はどうなってるんだ? サテラの魔女因子が無いなら誰かに移動してるはずだろ?」
「それについては心配するだけ無駄かもしれないね。少なくともこの数百年、嫉妬の大罪因子を持つ大罪司教は見つかっていない」
さらりと語られる衝撃の事実。
エキドナはまるでなんの事でもないように口にしたが、その衝撃の事実を前にしてスバルは一瞬動きが止まる。
「初めて聞くぞ、その話」
「世界樹の時と同じく、これは私にとっての常識なんだ。認識の齟齬は許してほしい。それよりも問題は六人の大罪司教のほうだろう? 彼らがどこにいるかのほうが大切だ」
その言葉はどこまでも淡々としている。
いまさら隠していたことを問いただしたところでエキドナが吐くとは思えないし、ここまでの彼女の動きを思えば無理に聞き出すことによってより最悪な状態になる可能性もある。
有無を言わせぬ指摘にスバルは内心の苛立ちを抑え込みながら直前のループの記憶を掘り起こす。
ペテルギウスの放送とほぼ同時に起きた水門の爆破。あの連携を、自意識と狂気だけで動く大罪司教たちが自発的に行えるとは到底思えなかった。
「……水門にはいないはずだ。居ても憤怒くらいだと思う」
「どうしてですか?」
「ペテルギウスの指示したタイミングで水門が壊れた。アイツ等が人の指示を聞いてなにかできるわけ無いだろ?」
「普通だったら突拍子もない考察なのに、やけに説得力あるのがなんとも言えませんねぇ」
居ない根拠がそんな性格ではないから。
命を懸けるには普通ならとてもではないが適しているとは言えないようなものだが、いまこの場合においてはそれで十分に納得するだけの根拠足りえてしまうのは彼らの日頃の行いだろう。
「何にせよ、であれば水門の奪還を秘密裏にやることは不可能ではないだろうね。問題は他の王選候補者にどうやって協力を依頼するか、そちらだろうね」
「そこら辺はオットーに丸投げしかない気はしてるんだけど、いけそうか?」
「やるしかないでしょう? バレないようにというのがどこまでできるかですが」
血が滲むほど唇を噛み締めながら、オットーは深く頷いた。
限られた時間と情報の中で、彼に課せられた役目は極めて重い。
だが、ここで折れるわけにはいかないのだ。
スバルが自分を頼り任せてくれるのであれば、それに答える事こそがオットーが自分に課している使命なのだから。
「ラインハルト以外には少なくとも接触したい。水門が破壊されたのはアイツと会った後だから、少なくとも監視はされてるはずだ」
「他の陣営の方に協力を仰ぐとしても、それより先に水門は確保しておきたいところですねr」
「スバルとベティ、お母様とロズワール、鬼の姉妹とメィリィとして……あと一区画分、戦力が足りないかしら」
ベアトリスが頭の中で戦力を割り振りながら、忌々しげに顔を顰める。
四つの水門と都市庁、その他諸々の遊撃を考えれば、純粋な暴力の数が圧倒的に足りていなかった。
「区画に向ける戦力もそうだけれど、数自体も心もとないね」
「他陣営の呼びかけを待ってる暇はあんまねーぞ?」
限られた戦力をどう割り振り、後手から盤面を巻き返すか。
四人の間に重く淀んだ思考の沈黙が落ちようとした、まさにその時だった。
薄暗い路地裏の入り口から、パタパタと軽やかな足音が近づいてくる。
「スバル、それにみんなもどうして急にこんなところに?」
明るく凛とした声と共に姿を現したのは、たった今演説を終えたばかりのエミリアだった。
焦ってやってきた彼女の左右にはまるで護衛のように付き従うダフネとテュフォンの姿もある。
質疑応答はどうしたのかとか、隠れてここまで来たのにどうやってこれたのかとかいろいろ言いたいことはあった。
だが真っすぐに自分を見つめてくるエミリアの視線を前にして、スバルは彼女をまもりたくなる弱い心に蓋をして声をなげかける。
「ごめんエミリア、魔女教が来た。力を貸してほしい」
スバルの喉から絞り出されたのは、ひどく泥臭くて身勝手な懇願だった。地獄のような死地へ再び彼女を引きずり込む罪悪感に、胸の内側が焼けるように痛む。
しかし、エミリアは小さく瞬きをすると、ふわりと春風のような笑みをこぼした。
理不尽な事態に対する恐怖も、厄介事に巻き込まれたという不満もない。
ただ、スバルから真っ直ぐに頼られた事実が、彼女の芯にある気高い炎をいっそう強く燃え上がらせたようだった。昏く沈んでいた路地裏の空気が、彼女の放つ眩しいほどの光に照らされていく。
「もちろん! わたしすごーく頑張っちゃうんだから!」
「質疑応答は終わったのかい?」
「もちろん。ちゃんとみんなの言葉はしっかりと聞いてきたんだから」
弾むような銀鈴の声。その心地よい余韻を断ち切るように、エキドナが静かに歩み出た。
エミリアの力強い頷きを見届けた彼女は、満足げに視線を滑らせる。その矛先は、退屈そうに石畳を蹴っていた幼い魔女へと向けられる。
「それなら言うことはないよ。エミリアはスバルについて行ってほしい。テュフォン。悪いんだけど付き合ってもらってもいいかい? 悪人がこの都市の水門を占拠している。これはこの町の規則にも法にも反している、やってくれるね?」
「いいぞー。悪い奴らは懲らしめないとなー」
幼気な声が路地に反響する。善と悪を指標にする彼女にとって、エキドナが用意した大義名分は十分すぎる餌だった。
テュフォンももちろんエキドナの思惑に気が付いていないわけではないだろうが、こと今回に至っては既に被害者が居る可能性が示唆されている。
「助かるよ。それぞれ担当を決めよう。私達は東を、スバル達は西を、ラム達には南を、テュフォンには北をお願いしたい」
「僕だけ町中走り回っての大立ち回りですか。みなさんが攻略するまでの時間稼ぎくらいはしてみせます」
「場合によっては君はメィリィとともに行動したほうがいいだろう。こと今回に至っては情報伝達の速度が全てだ。その点、君たち二人は相性がいい」
流れるような言葉の応酬。オットーが腹を括ったように重い吐息を漏らし、これでようやく反撃の陣形が整う──スバルがそう安堵しかけた、まさにその瞬間だった。
気が付け音もなくスバルの近くに寄っていたダフネは、スバルの服の裾を掴みながら少しの笑みと共に言葉を投げる。
「ダフネはぁ、すばるんについていきます。良いですよねぇドナ」
その言葉に、スバルの心臓が微かに警鐘を鳴らす。
どちらにせよ暴走する可能性のあるダフネは身近に置いておきたかった相手ではあるが、話の流れに乗って彼女から近寄ってきたことが何とも言えない不気味さが有ったのだ。
反射的にスバルがダフネの方へと視線を向けてみれば、彼女は子供のようない幼い笑みを浮かべながらスバルには何も言わずただ楽しそうにしているだけ。
エキドナの方に視線を変えてみれば彼女は一瞬何かを考えるような素振りを見せるが、彼女の行動をとめるつもりはないらしい。
「彼が構わないならそうするといいだろう」
「よろしくお願いします、すばるん」
口元を歪め、底知れない瞳でスバルの覚悟を値踏みするように笑うダフネ。
結局のところここを突破しようと思えば彼女をどうにかするしかないのだ。
逃れられないなら近くに居てくれた方がいくらかマシだろう。
「ああ。誰も欠けずに今回も切り抜けよう」
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路地裏での作戦会議を終え、スバル、エミリア、ベアトリス、そしてダフネの四人は、割り当てられた西の区画へと足早に移動を開始した。
祭りの熱気に浮かれる群衆の目を掻い潜りながら、スバルは油断なく周囲に視線を這わせる。いつどこから狂人どもが牙を剥くか分からない極度の緊張感が、張り詰めた糸のようにスバルの神経を摩耗させていた。
「それじゃあエミリアたん、予定通り敵がいたら動き止めるのを優先で」
「ええ。いつでも行けるわ」
都市の生命線とも言える水門の制御施設。その重厚な扉の前に辿り着いたスバルは、短く指示を飛ばす。
エミリアは真剣な面持ちで頷き、手のひらに極低温の魔力を薄らと滞留させた。
中にどれほどの戦力が潜んでいるか。最悪の事態を想定し、スバルは奥歯を噛み締めて勢いよく扉を押し開けた。
「た、助けてくれぇ……っ!」
「嫌だ、嫌だぁ!!」
扉が開かれた瞬間に鼓膜を打ったのは、敵の雄叫びでも、剣戟の音でもなかった。
そこに響き渡っていたのは、地獄の底から絞り出されたような、数十人に及ぶ一般市民たちの絶望の悲鳴だ。
視界に飛び込んできた光景に、スバルの思考が真っ白に染まる。
水門を制御するための巨大な魔力機構。その冷たい金属と魔晶石の隙間に、生きた人間の肉体がぐちゃぐちゃに融合させられていた。
腕が歯車に絡みつき、胴体が配管と繋がり、顔だけが辛うじて外に剥き出しになって苦悶の表情を浮かべている。
人の命を、尊厳を、文字通り機械の部品として扱うあまりにも冒涜的な悪意。
吐き気を催すような惨状を前に、スバルは喉の奥が痙攣し、完全に言葉を失っていた。
「……悪趣味かしら」
あまりの光景にエミリアが顔を青ざめて息を呑む中、ベアトリスだけが静かに、しかし明確な嫌悪と怒りを込めて吐き捨てるように呟く。
そしてスバルの背後では、ダフネが無機質な瞳でその惨状を見つめながら、一切の感情を交えることなくただ静かに己の不可解な基準と照らし合わせるように、コトンと首を傾げていた。
スバルが胃液を吐き出しそうになるのを必死に堪え、彼らを助ける方法を模索しようと一歩を踏み出した、まさにその時だった。
ぶつっ、と。
空間の空気を震わせるような、ひどく嫌なノイズが響いた。
それは都市の各所に設置された、拡声用の魔法器の電源が乱暴に入れられた音だ。
ペテルギウスが水門の異変に気がついたのかと、先のループの記憶がフラッシュバックして一瞬身に力が入るスバル。
だが、スピーカー越しに聞こえてきたのは、ペテルギウスの狂乱とはまた違う、粘りつくような甲高い声だった。
『あーあー、聞こえてやがりますか?』
「誰かと思えば、カペラかしら」
ベアトリスが忌々しげに目を細める。
王城での凄惨な死闘の記憶。スバルの脳裏に、あの醜悪な肉塊と変幻自在の悪意が鮮明に蘇り、ぞくりと背筋に悪寒が走る。
『はぁ〜い。プリステラで暮らしてやがる有象無象のウジ虫共。今日もうじゃうじゃと群れて交わってやがりますねぇ。私様は魔女教大罪司教、色欲担当カペラちゃん様です。私様が求めるのは、英雄ナツキ・スバルその体。死んでようが生きてようがどちらでも構わねーですから、カペラちゃん様の前に引きずって持ってきやがってください』
都市全土に響き渡る、あまりにも理不尽で悪辣な要求。
その言葉の意味を理解した瞬間、スバルの顔面から一気に血の気が引いた。
この水門都市にいる数万の人間すべてに、自分の命を天秤にかけさせたのだ。
「すばるんは変なのに好かれますねぇ」
「お前に言われるとなんて返せば良いのか分かりづらいよ。でもまずいな、この流れは……」
拘束衣の中で身じろぎしながら場違いな笑い声を上げるダフネに、スバルは引きつった顔で毒づく。
だが、冷や汗は止まらない。カペラの目的は、単にスバルを狙うことではない。群衆の恐怖を煽り、パニックを引き起こし、スバルたちを物理的にも精神的にも孤立させるという極めて悪趣味な盤面の支配だ。
『さて、どーせ話聞いてないお前らくず肉の為に、もう一度だけ言ってやります。中央広場にナツキ・スバルを踏ん縛って連れてくること。それがおめーらに課せられた唯一の役目です。それが出来ねーくず肉どもは、獣の餌にでもなりやがってください』
それでは、と言い残して、ぶつりと音が消える。
再び静寂が戻った制御室の中には、壁に埋め込まれた市民たちの苦しげな呻き声だけが残されていた。
「クソっ、なりふり構わねぇことしてくれるじゃねぇか」
「これでスバルんは街の人からも追われるわけですねー、人気者は大変そうですねぇ?」
「うるせぇ、それよりもまずはここを何とかすることのほうが先決だ。ベア子、この人達解放してあげられないか?」
自分の置かれた絶望的な状況を一旦思考の隅に追いやり、スバルは目の前の命を救うべくベアトリスにすがるような視線を向ける。
だが頼れる相棒の返答は、あまりにも残酷な真実だった。
「無理なのよ。色欲の権能によって、体がこの形で固定されているかしら。どうしようもないのよ」
ベアトリスは悲痛な色を瞳に浮かべながら、ゆっくりと首を横に振る。
カペラの権能は物理的な拘束ではない。肉体の定義そのものを書き換えられている以上、無理に引き剥がせば、彼らはただの血肉の塊へと成り果ててしまう。
少なくともこれを解除する方法は現状存在しえないのだ。
「ベティにできるのは痛みが無いよう楽にしてあげることだけ。エミリアが凍らせることが出来るなら、それがきっと最善なのよ」
「凍らせるってそんな……私、生きたまま凍らせることなんて、
彼女の紫紺の瞳が、恐怖と戸惑いで激しく揺れ動く。
だがベアトリスはそうして己を信じ切れず揺れ動くエミリアを前にしてもただまっすぐ言葉を続ける。
「たとえそうだとしても、やるしかないのよ。どちらにせよ目の前の彼らは、それが出来なかったら楽にしてあげることしかできないかしら」
震えるエミリアの背中を、ベアトリスが痛ましいほどに合理的で、けれど確かな優しさを込めた声で押す。
いま決断しなければ、彼らはこの悍ましい姿のまま、終わりのない激痛と絶望を味わい続けることになるのだ。
「……分かった、やって見せるわ」
数秒の、永遠にも似た葛藤の末。
エミリアは血の滲むような覚悟と共に顔を上げ、前に出る。
彼女の全身から、空気を軋ませるほどの冷気が立ち上る。繊細な魔力の操作によって生み出された絶対零度の波動が、施設内に融合させられた市民たちを包み込んでいった。
パリパリと音を立てて、彼らの肉体を薄い氷の膜が覆い尽くしていく。
凍てついていく彼等の表情は、先程までの苦悶が嘘のように、どこか穏やかなものに見えた。
果たして彼等が生きているのか死んでいるのかは定かではない。
ただ、もうこれ以上無意味に傷つくことはないだろう。
「これで少なくとも苦しむ事は無くなったのよ。あとは色欲さえどうにかすれば活路も見えてくるかしら」
「……そうなると、次は都市庁か。さっきの放送でラインハルトが向かってる可能性にかけたいが……」
氷の彫像と化した市民たちを見つめながら、スバルはギリリと奥歯を鳴らす。
遠くの通りから、放送を聞いてパニックに陥った群衆の悲鳴が微かに届く。立ち止まって感傷に浸る時間すら、今の彼らには残されていなかった。
「ここから見える限りでは、情報が足りなすぎるのよ。それに敵も分かりやすく位置を晒した以上、対策は取っていると考えるべきかしら」
「くそっ、全部後手後手だ」
ベアトリスの冷静な分析が、スバルの焦燥感に拍車をかける。
すべてが最悪の方向へと転がり落ちていく感覚に、スバルは己の無力さを呪いながら都市庁への道を睨みつけた。
状況が分からない以上、大本を叩きに行くしかない。
スバルは血まみれの市民たちに後ろ髪を引かれながらも、迫り来る最悪の事態を想定して踵を返し、エミリアたちと共に再び街へと走り出した。
町中は既に少しではあるが破壊の痕跡が見て取れ、遠く離れた街のあちこちから悲痛な叫び声や鈍い爆発音が絶え間なく聞こえてくる。平和だった水門都市は、たった数分の間に完全な戦場へと姿を変えていた。
焦燥感に急き立てられるように入り組んだ路地を駆け抜けようとした、その時。
ふと、前方から鋭い風切り音が鼓膜を叩き、銀色の閃光がスバルの頬を掠めるようにして飛んできた。
「……ッ!?」
咄嗟に首を逸らして刃を躱すスバル。
頬に微かな熱と痛みが走る。見れば、路地裏の物陰から、粗末な刃物や鈍器を握りしめた数人の男たちがスバルめがけて殺到してくるところだった。
口から泡を飛ばし、完全に理性を失った獣のような足取り。スバルがその切先を紙一重で避けると、即座にエミリアが前に出て、分厚い氷の壁を隆起させて男たちの行く手を塞いだ。
「街の人達がなんで襲ってくるの!?」
氷の壁の向こう側で、なおもこちらへ向かって武器を振り下ろそうとする市民たちの姿に、エミリアが悲痛な声を上げる。
彼らの顔に見覚えはない。だが、その服装は間違いなくプリステラで暮らす一般市民のものだった。
「さっきの放送を聞いていても立ってもいられなくなったかしら。魔女教とベティ達、どっちの方が怖いかが市民にとっては重要と言う話でしかないかしら」
ベアトリスの推測通り、血走った目で口々にスバルの名前を叫びながら迫り来る群衆の顔に、明確な殺意や純粋な悪意は存在しない。
あるのはただ、自分が助かりたい、愛する家族を守りたいという切実な生存本能と、カペラの悪辣な天秤によって背中を押された狂気だけだ。彼らもまた、魔女教の被害者に他ならない。
「気にしないでいいよエミリアたん。早く行こう」
この場で彼らを取り押さえることに意味はない。スバルは唇を噛み切りそうなほどに強く引き結び、あえて冷徹に言葉を絞り出した。
スバルたちは血走った目で街を徘徊する暴徒たちの目を掻い潜りながら、本命である都市庁へと息を潜めて移動する。
誰も傷つけず、誰からも見つからないように。張り詰めた緊張感が体力をゴリゴリと削っていく中、やがて一行は目的の都市庁前広場へと辿り着いた。
だが、そこで彼らを待ち受けていたのは、想定を遥かに超える凄惨な光景だった。
「……ッ、なんだ、これ」
美しいはずの白い石畳のあちらこちらに、無残に引き裂かれた赤黒い肉片と、べっとりとした血溜まりが散乱している。
それは先程の暴徒たちの仕業などではない。圧倒的な暴力によって、文字通り原型を留めないほどに蹂躙された痕跡。むせ返るような鉄錆の匂いが広場全体を覆い尽くしており、背後に立つダフネが、絶望的な盤面を前にしたスバルがどう動くのかを見極めるように、静かな視線を突き刺してくる気配がした。
「はぁい! どうもどうも、ようやく来てくれやがりましたねぇ!」
凄惨な広場の中央。都市庁のバルコニーから、耳障りなほどに明るく、底抜けに狂った声が降り注いだ。
「お前は……ッ!」
スバルが鋭く視線を跳ね上げる。
そこにいたのは、悪意を煮詰めて人の形を与えたような存在。この街を地獄へと変えた元凶の一人ーーカペラだ。
「指定したのは都市中央広場で、カペラちゃん様に直接会いに来いなんて一言も言ってねーですけど? わざわざカペラちゃん様に会いに来たそのいじらしい努力だけは褒めてやりますよぉ」
「貴方が、色欲の大罪司教……!」
エミリアが氷の魔力を全身から立ち昇らせながら、激しい怒りを込めてカペラを睨みつける。
水門の惨状、暴徒化した市民、そしてこの広場の血溜まり。すべてを引き起こした張本人を前に、彼女の美しい瞳には強い拒絶が宿っていた。
王城襲撃の際に直接遭遇する事は無かったがその時の犠牲者がいまどうなっているかもエミリアは知っている。
カペラの方は知りえる事がなかろうと、エミリアからしてみれば怒りをぶつけるのに十分すぎる理由が存在するのだ。
「まるでちょっとした有名人じゃねぇですか。ただぁ? くっせぇ雌肉になんて微塵も興味ねぇんですよ」
「──ッ!」
エミリアの怒りなど歯牙にもかけず、カペラは嘲笑うように吐き捨てる。
一切の対話が成立しない、絶対的な価値観の断絶。
言葉をぶつけるだけ無駄だと悟ったエミリアが、反射的に氷の刃を創り出してカペラに向かって投げつける。
鈍い音を立てながら深々とカペラの腹部を氷の刃が貫くが、カペラは余裕な態度を一切崩す事は無い。
「まったく聞いてた通りで、扱いやすいったらありゃしねぇですねぇ」
腹にささった氷の刃を引き抜き、カペラは楽しそうに笑う。
甲高いその声が苛立つ精神を更に逆なでするが彼女にとってみればそれすら思い通りと言ってもいい。
「どれだけあがこうと、ここに来た時点でもう終わりなんですよおめーらは!」
突如、都市庁の広場を囲い込むようにして、巨大な火の手が天高く巻き上がった。
轟音と共に吹き荒れる熱波が退路を完全に塞ぎ、スバルたちを円形に切り取られた炎の檻の中へと閉じ込める。
物理的な逃げ場を失った焦りを隠し、スバルは精一杯の虚勢を張ってカペラを睨みつけた。
「おいおい、こんな目立つ真似したら、ラインハルトさんが黙ってねーぜ?」
「流石にそこで人任せはちょっとどうかと思うかしら」
スバルの放ったハッタリに、ベアトリスが皮肉交じりに応じる。
だが、彼女の小さな手はスバルの袖を強く握りしめており、この包囲網が尋常ではないことを精霊の勘で悟っているようだった。
頼みの綱である剣聖の名前を出されても、カペラの表情からは微塵も余裕が消えない。
「いいんですよ。剣聖の奴は、ここに数分は来れねー手はずになってますし。……どうせお前ら、ここから生きて帰れねーですから」
カペラの醜悪な嘲笑と同時に、周囲を囲む燃え盛る火の壁を突き破り、無数の影がずるりと姿を現した。
炎の中から無傷で現れたその姿を見て、スバルの顔面から一気に血の気が引く。
(……なんだ、コイツら。ただの屍兵じゃねぇ……ッ)
炎の照り返しを受ける生気のない虚ろな瞳。だが、その足運びや武器の構えには、生前に叩き込まれたであろう洗練された武の気配が色濃く残っている。
ラインハルトが隣にいたとしても、足手まといになるスバルが確実に生存できるかと聞かれれば怪しいほどの、強烈な殺気を放つ強者たち。
他国──おそらくは帝国の猛者などを素体として、綿密に用意された強力な屍兵。その全てが、音もなくスバルたちを取り囲み、冷酷な切先を向けて立ちはだかっていた。
「だから言ったじゃねーですか。詰んでやがるんですよ、おめーらは」
まるでスバルたちがこの場所へ逃げ込んでくることを最初から知っていたかのような、完璧すぎる包囲網
ただの狂人には決して作れない、盤面を完全に支配する悪意の存在を確信し、なんとかこの場を乗り越えるために前を見据えてーー