本当は次の話とセットで更新したかったのですがそんな事を言い続け更新頻度がどんどん低下してるので良い感じに切って適宜掲載していく形で行きます。
余談ですが季節の変わり目で風邪ひいたので皆様はお気をつけください。
「──以上で私の演説を終わります。ご清聴、本当にありがとうございました!」
世界が巻き戻っていく。
ほんの数瞬前まで喉の奥を詰まらせていた己の血の生温かい感触も、腹を無残に裂き割られた熱を伴う激痛も、すべてが嘘のように消え去っていた。
──ずっと迷っていた。気がつけば袋小路にはまり込み、抜け出せなくなっていた。
気がつくのを恐れていたから。傷つくのを、恐れていたから。
でも、もう思い出すことができた。
歓声に沸く広場の中、スバルは誰よりも静かに、それでも確かな力を込めて一歩を踏み出した。
「スバル……?」
演説を終えて安堵の吐息をこぼしていたエミリアが、唐突に目の前へと進み出てきた少年の姿に目を丸くする。
人前で、スバルがこんなふうに突拍子もない行動へ出る姿を、エミリアはこれまで一度も見たことがない。
普段こそおちゃらけていても、真面目な場では誰よりも騎士として振る舞うのが彼だった。
だからこそ、そんな彼が自分の前へ進み出てきたことに、驚きを隠せない。
そんなエミリアの戸惑いをよそに、スバルは滑らかな動作で片膝をついた。
群衆の熱狂が、彼の纏うただならぬ空気に気づき、少しずつざわめきへと変わっていく。
やがて、スバルの周囲からふっと音が遠のいた。
スバルは顔を上げ、眼前の銀髪の少女を見つめる。
その向こうに、この都市のどこかで自分たちを監視しているはずの黒幕を重ねながら、はっきりと通る声で彼は告げた。
「俺は、エミリアの一の騎士、ナツキ・スバルだ」
己が誰の騎士であったかを改めて思い出すように、スバルは大衆の前で宣言してみせる。
それはエミリアへ捧げる誓いであると同時に、己自身へ言い聞かせるための言葉でもあった。
そんな彼の声は広場の隅々まで、遮られることなくどこまでもまっすぐに届いていく。
「俺の命も、剣も、全てはエミリアのためにある。これから何が起きようと、俺は、俺の全てを懸けて、君の背中を守り抜く。だから──」
騎士でありたいわけではない。騎士になりたいわけでもない。
ただ、エミリアを、仲間を守りたいのだ。
スバルにとってはそれがすべてであり、何にも代えがたい真実であった。
「誰の思い通りにもならねぇ。俺たちは、俺たちのやり方で全部ひっくり返して、誰もが笑顔になるハッピーエンドを迎えてみせる」
スバルの決意を前にして、広場が水を打ったように静まり返っていく。
突然の宣言。その言葉の真意を正確に理解できた市民は、きっとほとんどいなかっただろう。
それでも、声に込められた熱だけは、大衆の心に確かに届いていた。
誰かが息を呑み、やがてその音さえ聞こえなくなるほどの静寂が場を支配する。
群衆の中心で向かい合う二人以外、まるで世界には誰もいなくなったかのように、ことの顛末を誰もが静かに見守っていた。
「ありがとう、スバル。頼りにしているわ」
その言葉の真意までは分からずとも、エミリアはスバルが差し出した覚悟を真正面から受け取り、花が綻ぶように笑って深く頷く。
その姿はまさに王とその騎士として、その場にいる誰もが認めざるを得ないものであった。
──そうして、予期せぬ騎士の宣誓も終わる。
熱狂の余韻を残したまま、時間とともに広場を埋めていた人波がゆっくりと引いていく。
各陣営を含め町全体が祭りの終わりを感じ取り、日常を送るために次の予定へ進む中。
スバルも特に騒ぎ立てることはせずに、オットーやベアトリスたちと共に宿へ続く途についた。
「演説、すっごーく緊張しちゃった」
「なかなかいい演説だったかしら」
「ナツキさんが急に前に出たときはどうなることかと思いましたが、無事終わってよかったです」
「いやー、俺も気が付いたら前出ててマジビックリ」
「無計画だったんですか……? そのことにいま僕は一番驚いてますよ」
「スバルならいつものことかしら」
そんな風に雑談を交わしながら歩くスバルたち。
ふと、石造りの建物の隙間に入り込んだ道すがら、スバルはわずかに歩調を緩め、不自然にならない程度に最後尾を歩くエキドナが追いつくのを待った。
その横顔へ、誰にも気づかれないよう鋭い視線を送る。
ほんのわずかな目配せ。
それに気づいたエキドナは微かに眉を動かすと、スバルと同じく歩調を緩め、建物の影が色濃く落ちる暗がりへと音もなく身を潜める。
広場から流れてくる喧騒と、仲間たちの他愛ない会話。前を歩くエミリアたちは意識を前に向けており、最後尾の二人が足を止めたことには気づいていない。
彼女たちの背中が遠ざかり、話し声が届かなくなったことを確かめて、スバルは足を止めた。
「何度目か、聞いてもいいかい?」
建物の影に身を隠したまま、エキドナが探るような静かな声で口火を切る。
確証までは持てていないらしい。わずかな不安を滲ませながら、それでも自分の予想を信じるように、エキドナはスバルの答えを待っていた。
だからスバルは、エキドナの問いかけに対して正直に答える。
「あんまり数えてない。ただ、考えて試した正攻法は全滅、全部真正面から叩き潰された」
「……アンチ死に戻りか。こうもキミ相手にしっかりとした対抗策が練られているとなると、状況はかなり厳しいね」
直接的な回数を答えずとも、それだけでエキドナには通じたらしい。
彼女の表情を見れば、その先にどんな結論を置いたのかも、おおよその見当はつく。
短くはあるが、濃い付き合いだ。いまのエキドナが何を考えているのか、スバルにもなんとなくではあるが理解することはできる。
だからこそ胸の内に溜め込んでいた言葉を、スバルはエキドナへ投げてみることにした。
「エキドナ、悪いんだけど話聞いてくれるか?」
「もちろん。それで君の気が晴れるならどれだけでも話をしよう」
彼女の理知的な紫紺の瞳が、暗がりの中でスバルを真っ直ぐに映し出す。
ほんのわずかに震えているのは、自分がこれから何を言われるのか、もう分かっているからだろう。
それを分かっていて、スバルは率直に疑問を投げかける。
「お前、ダフネがこの後何をするか知ってるだろ」
その瞬間。長く白い睫毛がわずかに震えた。
それでも、エキドナはスバルから目を逸らさない。
表情を崩すまいと唇を引き結び、やがて絞り出すように答えた。
「──ああ、分かっている」
言い逃れもせず、ただ静かに、エキドナはその問いかけを肯定した。
分かりきっていた事実をわざわざ本人の口から確認したのには理由がある。
彼女が何を思って黙っていたのか。それだけは、エキドナ自身の言葉で聞きたかった。
そんなスバルの胸中を察してか、エキドナはそのまま言葉を続ける。
「ダフネが君に会いに来た時点で、そうなることは分かっていた。彼女にとって君がどのような存在であるか、彼女の視線や常にテュフォンが同行していた事を考えると、答えは既に出ていたといってもいい」
その響きだけを聞けば、まるで他人事のようだった。
ダフネがスバルを殺しに来ていることも、その果てにスバルがどれほど傷つくのかも、彼女は最初から知っていた。
互いに近づけば近づくほど、その傷が深くなることさえも。
それでも、彼女は黙ることを選んだ。
これから先のためでもあったのだろう。けれど、それだけではないはずだ。
スバルにとって魔女とは恐れるだけの存在ではなく、この世界では友達にだってなれるのだと知ってほしかったのではないか。
いつか来る裏切りに怯えて、いま目の前にいる魔女たちまで遠ざけるスバルを、彼女は見たくなかったのではないか。
だから、根拠もなく彼ならどうにかすると信じ、口を噤んでくれたように思えた。
だとしたら、それはあまりにも強欲で、怠惰な行いだ。
「ボクにこれを聞くのは初めてかい?」
「ああ。お前……そんな顔するんだな」
スバルの目の前で、エキドナは初めて目を瞑った。
まるで、溢れそうになる何かを堪えるように。
初めて見る彼女の表情に、とっさにスバルの口からそんな言葉がこぼれると、エキドナは少しだけ寂しそうな声音で言葉を返す。
「……君は逆に優しい顔をするんだね。ボクは結局キミを守ることも、ダフネを踏みとどまらせることも、何もできていないのに」
伏せられた彼女の睫毛が震える。
言葉にしたのは無力さへの自嘲だけだったが、その奥にあるものを、スバルは見落とさなかった。
四百年の業を背負った魔女が見せたのは、一人の少女と何も変わらない剥き出しの苦悩だった。
魔女の知恵と人の心、その両方を併せ持つからこそ苦悩するエキドナの姿は、この世界で何度も見てきた、スバルが信頼する彼女の在り方そのものだった。
改めてそれを認識できたからこそ、スバルは心の底からこの言葉を返すことができた。
「まだ何も起きてないんだよ。この世界じゃ俺はまだダフネに何もされてないし、ダフネだって、何もしてない。だからまだここからやり直せる」
未来で起きる惨劇を理由に、いま目の前にいるダフネを裁き、拒絶しなくて済む。
自分で選び直すための余地を残してくれたこと、それ自体がスバルにとっては最大の救いだったのだ。
「お前はすげぇよ、きっと全部見えててそれでも黙ってくれてるんだから。ずっと、感謝してる」
彼女がしてくれたことを思えば、スバルは感謝こそすれ、責めることなど考えすらしない。
エキドナが自分を守ろうとして選んだことなら、その重さごと受け取ればいい。
そんな言葉に、暗い路地裏の張り詰めた空気がふっと緩む。
エキドナは信じられないものを見るように小さく息を呑み、やがて己の敗北を認めるように、ゆっくりと強張っていた肩の力を抜く。
「正直、君のことを舐めていたよ。キミはボクなんかじゃ想像できないくらいのお人好しだ。正直、魔女なんかよりよほど恐ろしい……エミリアに君をあげるのが本当に嫌になってきた」
冗談めかしてはいるが、その瞳は笑っていない。
いつもより鈍く、黒い光を帯びたそれを、スバルは見なかったことにして笑い返す。
「……お前が本気で狙ってくるのは心臓に悪いから勘弁してくれ」
たったそれだけで、エキドナは悪戯を思いついた子どものように笑った。
こうして他愛もない話で笑えるのなら、きっとこの先にも同じ時間は作れる。
だから勝って、生き延びるしかないのだ。
「そんなこんなでエキドナ、こっからが俺の反撃パートになるわけなんだけど……改めて協力してもらってもいいか? いろいろ考えたしお前とも何回も作戦会議したけど、それじゃどうにもならないことは分かった。だからちょーっと無理してもらう必要がある」
「ふふっ、ボクで良ければいかようにでも。この体を好きに使ってくれるといい」
いつぞや聞いたようなセリフも、頼れる仲間としての言葉であれば言葉通りに頼らせてもらおう。
言質はこれで取れたのだ。いまさらどうやってもひっくり返すことはできない。
「おーけー、ならやっちまおうぜ。作戦名は、ガンガン行こうぜだ」
△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽
エキドナとの話し合いを終えたスバルは、ラムとオットー、それからダフネの三人を連れて、祭りの余韻が残る街を走っていた。
人の流れを避け、建物の隙間を縫い、都市の外周へ向かってひたすらに足を動かす。道のあちこちには露店の片づけに追われる店主や、興奮の冷めない子どもに手を引かれる母親、演説について声高に語り合う若者たちが、楽しそうに日々を謳歌していた。
すぐそこまで狂気の手が伸びてきていることなど知る由もなく、誰もが今日の続きを生きている。
天頂を越えた陽が、水路の水面を白く照り返していた。
まだ空には昼の青が残っているが、建物の足元に伸び始めた影を見れば、残された時間がそう長くないことは嫌でも理解できる。
思い返されるのは、少し前の出来事だ。
『これ、なんなのかしら』
『いつも頑張ってくれるベア子にプレゼントだ。俺ちょっとオットーと一緒にラムを呼び出しに行ってくるから、二十分くらいしたら中身開けて見てくれ』
『……分かったのよ』
情報を知るもの、知らないもの。
誰が何のトリガーを踏むのか、いまのスバルにはある程度見えてしまっている。
だからこそベアトリスたちから離れ、スバルは後ろを走るラムへ、感謝の言葉を伝えずにはいられなかった。
「正直、姉様が話を聞いてくれてマジで助かったよ。ごねられてたら終わってた」
前を向きながらスバルがそう呟いた理由は、ラムやオットーに対して大した説明もせずに付いてきてもらっているからだ。
必要だからそうしているが、二人はその真意を知らない。
ただ黙ってついてきてくれなど、普段のラムであれば鼻で笑って一蹴してもおかしくないような要求だ。
ロズワールやレム、メィリィもいたのにその中でラムについてくることを頼んだのも彼女にとって違和感だろう。
それでも、スバルの異常なまでの切迫感から何かを察したのか、余計な問答を挟まずにここまでついてきてくれている。
しかし、そんなスバルの安堵の言葉を受けたラムの顔には、微かに苛立ちの色が浮かんでいた。
薄紅色の瞳が、品定めをするようにスバルを鋭く射抜く。
「不快よバルス。ラムのことを、人の話を聞かず自分の主観だけで動く人間のように言うのはやめなさい。ラムはいつだってラムの判断で動くだけよ」
冷ややかに吐き捨てられた言葉。
だが、自分自身の判断で動いていると豪語しながら、今の彼女は一切の説明を持たないスバルの背中にただ黙って追従しているのだ。
その見事なまでの矛盾に、隣を走っていたオットーがたまらず口を挟む。
「……前後の文が矛盾してませんかねぇ!?」
「うるさいわ。バルスはラムの言った通りエキドナ様に一歩踏み出した。ならラムも一度くらいは言うことを聞いてあげるのが優しさというものよ。ありがたがって這いつくばりなさい」
言うだけ言って、ラムはつんと顔を背けてしまう。
エキドナの名前を持ち出したのは、きっと彼女なりの照れ隠しだろう。口では這いつくばれと言いながら、ラムの足は一度も遅くならない。
何も知らずについて来ているわけではない。それが分かるから、もう一度零れた感謝は、さっきよりもずっと素直なものになった。
「ありがとな」
思わず零れた二度目の感謝に、ラムは一瞬だけスバルを見た。
しかし今度は悪態を返すこともなく、小さく鼻を鳴らすと、僅かに速度を上げてスバルの横へ並ぶ。
やがて四人は人波を抜け、水路沿いの細い階段を上って、目的としていた高台へ辿り着く。
都市の外周から張り出したそこには、身を隠せるようなものは何もない。吹き抜ける風に晒された石床と、腰ほどの高さの縁があるだけだ。
中央にそびえる都市庁はもちろん、街を四つに分ける水路まで一望できる。水門を回っているロズワールの居場所を探すにも都合がいい。
これまで繰り返してきた中で、誰と遭遇し、どこで何が起きれば破滅への引き金が引かれるのか。スバルはそれを嫌というほど思い知らされている。
そのどれにも触れず、なおかつ都市全体の動きを見渡せる唯一の場所がここだった。
「それで──ここで本当にいいのかしら」
何もない高台を一瞥して、ラムが僅かに眉を寄せる。
「ああ、場所も時間もここでいい。あとはロズワールが仕事を終えるまで、街の動きを見てればいい」
縁へ歩み寄ったスバルの目に、先ほどまで自分たちもいた街並みが飛び込んでくる。
祭りを終えたばかりの人々が行き交い、露店の店主が残った商品を片づけ、遠くの水路では小舟が緩やかに水面を進んでいた。
その一つ一つが、あまりに何気なくて、だからこそ目を逸らせない。
全部を救う確実な方法なんて、まだ分からない。
だけど、誰か一人でも諦めるつもりはなかった。そのために、自分がやれることを最後までやり抜く。
強く握り締めた右手を開くと、手のひらには爪の跡がくっきりと残っていたが、もう指先の震えは止まっていた。
「すばるん、これから何が起きるんですかぁ?」
沈黙を破ったのは、いつもとは少し違う、こちらの心の内を窺うようなダフネの言葉だった。
「化かし合いだよ……正直、敵の正体もあらかた予想がついた。ベアトリスもエキドナも、そんでダフネ。お前も言わないでいてくれてるおかげで、俺はまだ確証を持たずに全力でやれる。ありがとな」
「……………………」
その言葉を聞いたダフネは、表情を変えることなくただじっとスバルを見つめている。
彼女たちが何かを知っていることに、もう疑いはなかった。
問い詰めれば、おそらく答えにも辿り着けるだろう。
だが、今は聞かない。
相手の正体や事情など、いまこの盤面をひっくり返すための最優先事項ではない。
不要なノイズで決断を鈍らせないためにも、知ることのできる答えを、スバルはあえて自分の意思で後回しにした。
スバルが視線を街へ戻すと、ダフネもそれ以上は何も言わず、ただ静かにこちらの動向を眺め続けているだけだった。
「ナツキさん」
ふと、そんな二人のやり取りを聞いていたオットーがスバルへ声をかける。
手はぎゅっと握られ、口元も強く結ばれていた。
何かを言いかけては、そのたびに言葉を呑み込んでいることが見て取れる。
揺らぐ視線は彼の内情そのものであり、珍しく感情が駄々漏れな彼を前に、スバルは少しだけ温かい気持ちになった。
心配されることは嬉しいことだ。それだけ相手が自分のことを思ってくれているのだから。
だからこそ、スバルはオットーへ胸の内からの言葉を返す。
「不安な顔するなよオットー、ここからが本番だぜ」
オットーは何も答えなかった。ただ、握り締めていた手をゆっくりと解き、今度はスバルから目を逸らさない。
オットーが再び口を開こうとした、そのときだった。
『あー、あー』
不快な雑音が、都市の空気を震わせる。
都市の各所に設置された魔法器から流れ出してきたのは、まるで錆びた刃物で金属を引っ掻くような、酷くしわがれた声だ。
低い男の声が、一言の途中で甲高い子どもの声へと入れ替わり、さらにその奥から別の響きが滲み出してくる。重なった音が互いを押し退け合い、年齢も性別も、話している人間の輪郭さえも残していない。
聞き覚えはない。
それどころか、これまで繰り返してきたすべての周回において、一度も起きなかった出来事だった。
「来たな……!」
高台の縁に置いたスバルの指へ、ゆっくりと力が籠もっていく。
知らない声。知らない展開。もう数えるのも嫌なほど繰り返した世界に見えた活路は、希望というより恐怖に近い。
だがそれを恐ろしいと思うのと同じだけ、スバルの口元には笑みが浮かんでいた。
ようやく、相手の予想から外れることができたのだから。
『はじめまして、英雄。よく俺を引きずり出したな。正直、驚いたよ。俺は魔女教大罪司教、傲慢担当。名前は──』
声は人を小馬鹿にしたようにしながら名乗りを上げる。
何度殺されても届かなかった黒幕へ、ようやくこちらの指が触れたのだ。
焦る気持ちと共に身体が前へと乗り出しそうになるが、続く言葉にその動きも止められる。
『残念だが、言ってやらねぇ。後まで引っ張るのが好きなんだ。悪いけど、付き合ってもらうぜ?』
名乗りの直前で言葉を切り、傲慢は愉快そうに笑う。
何重にも歪んだ笑い声は都市全体へ響いているはずなのに、言葉の端々に混じる感情だけは、真っ直ぐスバル一人へ向けられていた。
『さて、この放送を聞きながら、何の話か分からず仲間外れにされてる気分の奴らに告ぐ。暴食の大罪司教を殺害し、俺たちの可愛いペットを二匹も殺し、あまつさえ多数の妨害工作を仕掛けてくる悪逆非道な男──ナツキ・スバルを殺せ』
自分の名前が響いた瞬間、眼下に流れていた人波が、まるで見えない壁にぶつかったように止まった。
荷物を抱えた男も、露店の屋根を畳んでいた店主も、揃って魔法器を見上げている。
少し遅れて人々は隣にいる誰かと顔を見合わせ、やがて街のあちこちへ小さなざわめきが広がっていった。
声までは聞こえない。それでも、自分の名前が人々の間を渡っていることは分かった。
つい先ほど、広場でエミリアの演説を聞いていた人間も多い。今すぐ全員が傲慢の言葉を信じるとは、スバルにも思えなかった。
大罪司教を倒した英雄が魔女教に狙われている、それだけなら、むしろ同情する者の方が多いだろう。
だが、魔女教がこの街を襲う理由として、ナツキ・スバルの名は確かに置かれた。
いまは戸惑いでしかないものも、この先で血が流れ、守りたい誰かが傷つけば、同じ形では残らない。
『期限は夕刻、陽が落ち切るまで。それまでに殺せなかった場合は、この街の人間を全員殺す。もっとも、俺以外の奴らがそんなに悠長に構えていられるかは知らねぇけどな。俺だけじゃ役者不足なんで、他の大罪司教のみなさんも絶賛稼働中だ』
言葉が終わるよりも早く、遠方で地面を殴りつけるような爆発音が轟いた。
遅れて届いた衝撃が、高台の石床から足の裏へ駆け上がる。街の一角から黒い煙が立ち上り、止まっていた人々が弾かれたように走り出した。
悲鳴が水路を渡って押し寄せてくる。
その中で誰かが何を叫んでいるのかまでは聞き取れない。ただ、先ほどまでそこにあった何気ない日常が、もうどこにも残っていないことだけは分かった。
『気の長い連中ばっかでもないしな。じゃあ英雄様、精々みんなを救えるように頑張ってくれ』
それきり、魔法器から流れていた雑音は途切れた。
代わりに都市を満たしたのは、別の方角から上がる破壊音と、狭い道へ殺到する人々の怒号だった。
いま目を逸らせば、また自分だけが答えを知っている世界へ戻ってしまう気がして、スバルは眼下の街を睨み続けた。やがて白くなった指を一本ずつ縁から剥がし、隣に立つラムへ告げる。
「都市庁に千里眼を飛ばして、今の放送の主の姿を確認してほしい」
「バルスに言われなくともやっているわ……チッ」
ラムは既に片目を閉じ、都市庁へ顔を向けていた。
開いたままの瞳が、焦点を探すように僅かに揺れる。
何かを掴みかけるたびに逃しているのか、眉間の皺が少しずつ深くなっていった。
「……波長が合わない。けれど、弾かれているのとも違う。何なの、これは」
一度、二度。何度試してもラムの瞳には何も映らない。
何度目かの失敗の後、ラムは閉じていた目を開いた。
いつも冷ややかな赤い瞳に、見慣れない苛立ちが残っている。
「見れなかったわ。それで、ラムを呼んだ理由はこれで終わりなのかしら」
「いやいやまさか、こっからよ大事なのは。正直、ラムとオットー、二人にかかってる大事なことが無数にあんだから」
スバルの言葉の終わりへ重なるように──上空から、空気を鋭く引き裂く飛翔音が急接近してきた。
「すぅばぁる君、言われた通り四方の水門への対策は滞りなく終わらせた。大罪司教でも来ない限り、急場は凌げるだろう」
見上げれば、重力という世界の理すらも手玉に取るような優雅な軌道を描き、何もない高台の石床へと音もなく舞い降りる長身の影があった。
宮廷魔導師、ロズワール・A・メイザース。
奇抜な道化の化粧を施したその顔にはいつもと変わらぬ底知れない笑みが貼り付いており、狂気に呑まれつつある都市を飛び回っていたはずにもかかわらず、その佇まいには一切の疲労感すら見受けられない。
「流石だぜロズっち」
スバルは短く、だが確かな安堵と信頼を込めて賞賛の言葉を口にする。
実際、この規格外の魔導師が一切の出し惜しみなく迅速に動いてくれたおかげで、開戦直後に起こるはずだった都市機能の致命的な崩壊は免れているのだ。
水門の機能を一時的に閉鎖する作業も、空を飛べるロズワールであれば大幅な時短が出来る。
水門に括り付けられた被害者たちを即座に助け出すことは難しくとも、エミリアと同じく死を先延ばしにすることはロズワールにもできた。
「構わないとも。それで? わぁたしをここに呼んだ理由はなんだい?」
ロズワールが黄色と青の双眸を細め、スバルの腹の底を探るように首を傾げる。
その問いに対し、スバルはすぐには答えず、横に立つラムへと静かに視線を流した。
「あー……まぁ、そのなんだ。ちょっとラム、向こう行っててくれないか?」
あからさまな仲間外れの提案に、ラムの細い眉がピクリと跳ね上がる。薄紅色の瞳が、不快感を隠そうともせずにスバルを鋭く射抜いた。
「どうしてラムがこの場を離れる必要があるのかしら」
「まぁまぁ、必要なことだからさ。な?」
スバルは両手を軽く前に出し、決して悪意があるわけではないと宥めるように微笑みかけた。
これから告げる作戦は、彼女が聞いていれば絶対に成立しない。
スバルの揺るがない双眸を見つめ返し、ラムは数秒の睨み合いの末、舌打ちを一つ残して足音を荒立てながら高台の端へと遠ざかっていく。
彼女の耳に届かない距離まで離れたことを確認し、隣で息を潜めていたオットーが、耐えきれないように口を開いた。
「それでナツキさん、辺境伯に何をお願いするつもりなんですか? ラムさんを引き離したくらいですから、とんでもないことさせるつもりですよね」
胃を絞り上げるようなオットーの悲痛な推測。
だが、それに応えるスバルの眼差しには、狂気でも絶望でもなく、ただ眼前の仲間に対する絶対的な信頼だけが宿っていた。
「私はなぁんでもやってみせるとも」
道化の仮面の下で、ロズワールはスバルの意図を測るように目を細める。そんな彼に対し、スバルは微塵も揺るがない声で、はっきりと告げた。
「その事なんだけどロズワール──悪いけど、死んでくれないか?」
高台を吹き抜ける風の音すらも消え去るような、絶対的な沈黙。
あまりにも突拍子もないスバルの要求に、横で聞いていたオットーの呼吸が完全に停止した。
「……は? ナツキさん、今なんて……?」
頭の理解が追いつかず、オットーが目を見開いて表情を強張らせる。
そんな彼をよそに、スバルは淡々と作戦の骨組みだけを口にした。
「まぁ落ち着けよ。作戦はこうだ──ロズワールには、この都市のど真ん中に居座る固定砲台として暴れてもらう」
開戦初期の混乱を彼一点に引き受けさせ、敵の戦力と視線を意図的に一箇所へと釘付けにする。
他の仲間たちがそれぞれの目的地へ辿り着き、配置につくための時間を稼ぐための、巨大で悪趣味な囮。
「ロズワールが目立てば目立つほど犠牲者の数は減って、この状況をひっくり返せる可能性が生まれる。ただし……本気の致命傷を負ったと敵に思わせる必要がある」
「なぁるほど、理解した」
一歩間違えれば、偽装ではなく本当の死を迎える狂気の沙汰。
出来なければ敵の注意を買いすぎたロズワールに待つのは死だけだ。
だがロズワールはそれを理解しながらも、スバルの提案をあっさりとした声音で受け入れた。
「ラ、ラムさんに聞かれたら殺されますよ!?」
ようやく思考が追いついたオットーが、悲鳴に近いツッコミを上げる。
彼女が敬愛する主に対して、自ら死地に赴き、あまつさえ死体になれと要求したのだ。
もし彼の言う通りラムが聞いていれば一体どうなっていたことか。
だがそのオットーの心配を誰より理解しているのもまたスバルだ。
「声のボリューム下げろ! ラムに聞こえんだろ。絶対そうなるから、そうならないように離したんだよ」
慌ててオットーを制しつつ、スバルはロズワールへ視線を戻す。
ラムを騙すという残酷な役目を負わせることになるが、それでも勝つためにはこれしかなかった。
「ロズワールはタフだし、そこら辺の線引きもうまい。間違ってもミスらないだろうし、ビビッて逃げるようなこともない。正直ロズワールがなんとかしてくれなきゃお手上げだ。だから無理を承知で頼んでる」
「当然、任された仕事は完璧にこなして見せるとも」
スバルの言葉に対してロズワールがそう返せば、オットーが口を挟める事などもはやない。
頼ってほしいと願い続けていたのはオットーだ。
その形が思っていたよりも随分過激な物であったことを除けば、むしろ彼が望んでいた姿がそこにあったとすらいっていい。
どんな反応をすれば良いのか迷うオットーの目の前で、スバルはゆっくりとロズワールの近くへと寄っていく。
そうして拳を握りしめたまま彼に向かって突き出した。
「──絶対生還しろよ」
願いを絞り出すようなスバルの声。
都市全体に蔓延る悪意の目線を一手に引き受けてもらわねばならないのだ、死ねと言っているのと殆ど変わらない。
だがそれに怯えて何もしなければ未来は変わらない。
そんな決意を込めたスバルの行為に少し微笑みを見せ、ロズワールは優しく自分の拳をスバルのそれに当てる。
「いわれずとも。どちらかといえば、わぁたしはラムやオットー君の方が心配だぁけどね」
「僕ですか?」
「主人を失ったラムと、わぁたしを殺した相手を前に、ラムとほぼ死体の私を連れて逃げる必要があるんだぁからね」
そういえば、とようやくオットーの思考が追いついたのは、スバルの事に脳のリソースを割かれなくなったからか。
同時にそれがどれだけ困難なことであるかを理解したオットーは、なんとも言えない表情を浮かべずにはいられなかった。
「まぁそんな暗い顔すんなよオットー。案外なんとかなるもんだぜ、パトラッシュも手伝ってくれるだろうしな」
「……ナツキさんこそ、無茶はしないでくださいよ」
「悪いけどそりゃ無理な相談だ。でもやれることやりきって、最後はみんなで美味いご飯でも食べようぜ」
スバルは真っ直ぐにオットーの目を見つめ返し、未来の約束を口にする。
全員で生きて明日を迎える。その未来を、スバルは少しも疑っていなかった。
「ええ」
そのスバルの迷いのない眼差しに背中を押され、オットーは深く頷いた。
スバルから最後の指示が渡ると、仲間たちが一斉に動き始めた。
オットーは、スバルの指示であらかじめこの高台の麓へ待機させていたパトラッシュの元へ向かい、その手綱を取る。
ロズワールは何食わぬ顔でラムを傍へ呼び戻し、何も知らない彼女は当然のように主の隣へ並んだ。
その姿にオットーの表情が一瞬だけ強張ったが、彼は何も言わず、己を落ち着かせて目的のために街の中を進んでいく。
事前にベアトリスへ渡した手紙。それが今頃、各陣営を動かす道標となっているはずだ。
送り出した仲間たちは、誰一人として足を止めなかった。
ダフネだけが傍らで、ただ静かにスバルの行動を眺め続けている。
それでいい。
今度は彼らの判断を信じ、自分に託された役目を果たす番だ。
ふたたび信じるのだと自分に言い聞かせ、ナツキ・スバルは大きく息を吐きだした。