スバル「強くてニューゲー……これ本当に強い?」   作:空見大

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5章終了まで今度こそほんとにほんとに書き終わりました。
2日に一回ペースで更新予定です。
質重視しすぎていつまで経っても終わらないので掲載優先でちょっとやっていきます。
文量ハチャメチャに多くなりましたがお付き合いください。


激動の水上都市

「助けてっ!」

 

 黒煙の向こうから上がった悲鳴を聞きつけ、エミリアは水路沿いの通りを駆け抜ける。

 曲がり角を抜けた先では通りに面した家屋の一つが激しく燃え上がっており、窓から吐き出される黒煙を掻き分けるようにして、何人もの住民がこちらへ逃げてくるところだった。

 

 着の身着のまま飛び出してきたのだろう。

 裸足の男もいれば、泣きじゃくる子供を抱えた女もいるし、血の滲む腕を押さえながら必死に足を動かしている老人の姿もある。

 誰しもが突如として始まったこの町の惨状を前にして、逃げ惑うことしかできないでいた。

 

「ひ、ひぃっ……!」

 

 列の最後尾を走っていた男が悲鳴を上げ、その場で足を止める。

 その男のすぐ後ろ。逃げてきた住民たちと同じく黒煙の中から飛び出してきたのは、この町をいま我が物顔で闊歩している亜獣だ。

 

「そこ、動かないで!」

 

 エミリアはそんな言葉と同時に地面へ向けた掌から冷気を走らせ、男へ飛びかかろうとした亜獣の四肢をせり上がった氷槍で貫く。

 石壁へ縫い止められた異形が獣じみた絶叫を上げるが、殺しきれたかを確かめている暇はなく、続けて流した冷気で通りに溜まっていた熱と煙を押し退けた。

 

「今のうちに! こっちへ!」

 

 止まっていた男の背中を声で押し、後ろから続く住民たちも纏めてこちら側へ通す。

 ひとまず、この人たちは大丈夫。

 だが助けなければならない市民の数はあまりにも膨大だ。

 

「倒しても倒しても、きりがないかしら!」

 

 ベアトリスの声とほとんど同時、炎に炙られていた建物の外壁から大きな石塊が剥がれ落ちる。

 避難民の真上へ落ちてきたそれが何もない空中へ激突し、細かな破片となって路地の外へ弾き飛ばされたことで、ようやくエミリアも自分の頭上まで気にしている余裕がなかったことに気付いた。

 

「ありがとうベアトリス!」

 

「構わないのよ。エミリアは前に集中するかしら!」

 

「うん!」

 

 言われた通り、まだ住民の残る前方へ視線を戻す。

 その横を抜けてレムが列の先頭へ走り、逃げてきた人たちが向かおうとしている先へ目を凝らした。

 

「この先はレムが確認します! エミリア様とベアトリス様は後ろを!」

 

「お願い!」

 

 これで前はレム、上はベアトリスに任せられる。

 ならば自分は後ろから追ってくるものを止めればいいと振り返ったところで、エミリアは小さく息を呑む。

 

 先ほど壁へ縫い止めた一体だけではない。

 煙の向こうで動く影は一つ、二つと数えて終わるような数ではなく、通りの奥からこちらへ向かってくるものだけでも、すでに両手の指では足りなくなっている。

 傲慢の大罪司教による放送から、まだ数十分ほどしか経っていない。

 

 それなのにプリステラでは至るところから炎が上がり、街に放たれた屍兵と亜獣は、逃げ遅れた住民を探すように水路沿いの細い通りにまで入り込んでいた。

 

 あまりにもジリ貧だ。

 ここにいる敵を倒したところで、その間にも別の場所で誰かが襲われているし、その人を助けに向かえば、今度は別のところから悲鳴が上がる。

 だからといって、目の前で助けを求めている人たちを見捨てて先へ進むなんて、エミリアには出来るはずもない。

 

「──来ないで!」

 

 追い縋ってきた屍兵の足元を氷で絡め取り、横合いから飛び込んできた亜獣を二本の氷槍で弾き飛ばす。

 それでも敵がいなくなることはなく、倒れた一体の向こうからすぐに次の影が黒煙を抜けてきた。

 

 終わりが見えない。

 それでも、こちらも一人で戦っているわけではなかった。

 

「走れ! もう少しだ!」

 

 避難民の中から上がった声に、エミリアの視線がそちらへ向く。

 先頭についていたレムのものではなく、逃げている住民の一人が後ろへ向けて上げた声だった。

 そのすぐ後ろでは、足をもつれさせて転んだ男のところへ前を走っていた別の男が引き返し、腕を肩へ回して無理矢理にでも立ち上がらせようとしている。

 母親とはぐれたらしい子供を抱き上げた女も、足を悪くした老人へ肩を貸している男も、その誰もが最初から知り合いだったようには見えない。

 

 自分たちが助けなければならない人たちが、その中でもまた別の誰かを助けている。

 

 そんな光景を見ているうちに、少し前に広場で聞いた言葉が不意に頭へ浮かんだ。

 

 ──誰もが笑顔になる結末を迎える。

 

 正直に言えば、あのときはスバルらしいと思うのと同じくらい、本当にそんなことが出来るのだろうかとも思っていた。

 誰も死なせたくない、誰も不幸にしたくないなんて、願うことは出来ても、実際に全てを自分の手で救うことなんて出来ない。

 今だってそうだ。

 エミリアたち三人だけでは街中にいる人たちへ手を伸ばすことは出来ず、どれだけ走っても、どれだけ敵を倒しても、まだ遠くから悲鳴が聞こえてくる。

 

 けれど──あの言葉は、何もスバルが一人で全員を助けるという意味ではなかったのかもしれない。

 

 転んだ男が、見知らぬ誰かの肩を借りてもう一度走り出す。

 子供を抱いた女はその背中を追い、そのさらに後ろを、別の誰かに支えられた老人が進んでいく。

 

 誰かを一人助ければ、その人がまた別の誰かへ手を伸ばせる。

 

 それなら、今ここで自分がするべきことは難しくなかった。

 

「──大丈夫。絶対にここは通すから!」

 

 誰に向けた言葉だったのかは、自分でもよく分からない。

 それでも応えるように何人かの住民がこちらを振り返り、エミリアは再び黒煙の向こうから迫る影へ両手を向けた。

 

「エミリア!」

 

 鋭い声に顔を上げる。

 目の前の亜獣へ意識を取られている間に、炎へ晒され続けていた建物の外壁へ大きな亀裂が走っていた。

 軋む音と共に二階部分が通り側へ傾き始め、その真下を、まだ何人もの住民が走っている。

 

「──っ!」

 

 考えるより先に両手を突き出した。

 石畳を割りながら二枚の氷壁がせり上がり、倒れ込んできた外壁を左右から受け止める。

 

 凄まじい重みが魔法を通して両腕へ圧し掛かった。

 ひび割れた壁面から瓦礫が零れ、頭上では焼けた木材が今にも千切れそうな音を立てている。

 

「早く! そのまま走って!」

 

 氷壁の下に残された僅かな隙間を、住民たちが次々に駆け抜けていく。

 一人、二人、三人。

 数えている余裕などないのに、最後の一人を見落とさないよう視線だけは列から外せない。

 

「エミリア様、最後です!」

 

 レムが逃げ遅れた男の背中を押し、自分も氷壁の内側へ滑り込む。

 その姿がこちら側へ抜けた瞬間、それまでどうにか形を保っていた家屋が大きく沈んだ。

 

「ベアトリス!」

 

「分かってるのよ!」

 

 限界を迎えた氷壁が砕け散るのと入れ替わるように、透明な障壁が通りを塞いだ。

 崩れ落ちた瓦礫が轟音と共に障壁へ降り注ぎ、その向こうから追いついてきた亜獣まで勢いのまま透明な壁へ激突する。

 

「……っ、全員、通れた?」

 

 乱れた息を整えることも忘れ、エミリアは避難してきた人たちへ目を走らせる。

 すでに列の後方まで確認していたレムが、すぐに大きく頷いた。

 

「はい。こちらには、もう誰も残っていません」

 

「よかった……」

 

 ずっと胸の奥へ詰め込んでいた息が、ようやく少しだけ抜けた。

 膝から力まで抜けそうになるのを堪えながら、エミリアも住民たちの背中を追う。

 

 これで、この通りにいた人たちは助けられた。

 ほんの僅かな時間くらい、それを喜んでも──。

 

「きゃあああっ!」

 

 右手の路地から女の悲鳴が上がった。

 

 ほとんど同時に左手、水路沿いの建物の向こうで何かが激しく砕け、続いて幾人もの叫び声が重なる。

 

 胸へ浮かびかけた安堵が一瞬で消えた。

 

「右と左……!」

 

 レムも双方へ視線を走らせる。

 片方なら迷う必要はなかった。

 三人で向かい、そこにいる人たちを助ければいい。

 

 けれど今は、二つの場所からほとんど同時に助けを求める声が上がっている。

 

 全員でどちらかへ向かえば、もう片方へ辿り着く頃には手遅れになっているかもしれない。

 だからといって三人しかいない戦力を分ければ、その先でどれだけの敵を相手にすることになるのか分からない。

 

 右を見る。

 続けて左を見る。

 

 迷ったのは、ほんの一瞬だった。

 

「……どっちも」

 

 自分の口から零れた声に、ベアトリスとレムがこちらを見る。

 

「両方とも助けなきゃ!」

 

 こんな状況で欲張りなのかもしれない。

 出来るかどうかも分からない。

 それでも、さっき見た人たちがそうしていたように、自分たちも届くところまで手を伸ばせばいい。

 

 ベアトリスはそんなエミリアの顔を一度だけ見上げ、すぐに胸を張った。

 

「それでこそベティのエミリアなのよ! レムはエミリアと左へ。右はベティに任せるかしら!」

 

「ベアトリス一人で!?」

 

「一人じゃないのよ。この先にいる連中を助ければ、そいつらも一緒に逃げられるかしら」

 

 先ほどエミリアが見ていたものを、ベアトリスも見ていたらしい。

 自信満々に言い切る姿へ、それ以上止める言葉は出てこなかった。

 

「……うん。じゃあ、お願い!」

 

「任されたのよ!」

 

「こちらもレム達が必ず守ります!」

 

 三人で頷き、それぞれが悲鳴の聞こえた方向へ身体を向ける。

 

 その瞬間だった。

 

 都市のはずれで、巨大なマナが弾けた。

 

「──っ!」

 

 一拍遅れて腹の底まで揺さぶる轟音が押し寄せ、足元の石畳が大きく震える。

 周囲の建物が軋み、割れ残っていた窓硝子が一斉に音を立てた。

 

 何事かと顔を上げた先で、建物の向こう側から炎の柱が立ち上がる。

 周囲の屋根など簡単に追い越して空へ伸びたそれは、街のどこにいたとしても見落としようのないほど巨大だった。

 

「──ロズワールが始めたかしら」

 

 ベアトリスが目を細める。

 

 その声を聞きながら、エミリアは炎の柱から周囲へ視線を戻し──すぐに異変へ気付いた。

 

 こちらへ近づいていた亜獣が、足を止めている。

 崩れた家屋の陰からこちらを窺っていた一体も、逃げていく住民ではなく都市中央へ顔を向けていた。

 

 一体だけではない。

 

 通りの向こうにいた屍兵が進路を変える。

 別の路地から姿を見せた亜獣も。

 こちらへ向かっていたものだけではなく、さらに遠くで誰かを追いかけていた影まで次々と獲物を放り出し、爆音とマナの発生源へ走り始めていた。

 

「そっか……」

 

 何をしているのかは、それだけで分かった。

 

 あれだけ派手に暴れれば、街中に散らばっている敵にも自分の居場所を知らせられる。

 ロズワールは最初から倒すためだけに戦っているのではない。

 街に散った敵を自分のところへ集め、その分だけ、エミリアたちが住民を助けて回れる時間を作ろうとしている。

 

 炎の柱の周囲では、すでに幾つもの黒い影が集まり始めていた。

 

 自分たちが助ける人の数だけ。

 もしかすれば、それ以上の数を。

 

 あの場所で、ロズワールが一人で引き受けようとしている。

 

「……エミリア」

 

 ベアトリスに呼ばれ、エミリアはようやく炎から目を離した。

 

 今すぐあちらへ向かいたい気持ちがないわけではない。

 けれど、それではロズワールがわざわざ敵を引きつけている意味がなくなってしまう。

 

 右手から、また悲鳴が聞こえた。

 左の水路からも、誰かが助けを呼んでいる。

 

 なら、今やるべきことは決まっている。

 

「行こう」

 

 拳を握り直し、エミリアは左手の水路へ身体を向ける。

 

「ロズワールが作ってくれた時間、絶対に無駄にしない!」

 

「当然かしら!」

 

「はい!」

 

 三人の足音が重なり、すぐに二つへ分かれる。

 エミリアとレムは水路沿いの通りへ。

 ベアトリスは反対側の路地へ。

 

 黒煙の向こうから響き続ける、それぞれの悲鳴へ向かって。

 

 △▼△▼△▼△▼△▼

 

 幾つもの通りと水路が交わる大交差点からは、不自然なほど人の姿が消えている。

 少し前まで避難民が行き交っていた石畳には、置き去りにされた荷物と砕けた瓦礫だけが残り、遠くから響く破砕音や爆発音が、ここだけ取り残されたような静けさを時折揺さぶっていた。

 

 その中央で、スバルは腕を組んだまま一つの通りを睨んでいる。

 隣では暇を持て余したダフネが身体を揺らすたび拘束衣の金具を鳴らしているが、今はそちらへ構っている場合ではない。

 

 オットーとラムはロズワールの陽動へ。

 エキドナたちもそれぞれ別の持ち場へ向かい、今この場に残っているのはスバルとダフネだけだ。

 

 もっとも、二人でぼんやり突っ立っているわけではない。

 待っている相手がいる。

 

 これまで何度も同じ時間を繰り返す中で、プリシラがこの騒乱を大人しくやり過ごしたことは一度もなかった。

 宿を出れば人の集まる場所へ向かい、その後ろを途中ではぐれたリリアナが大騒ぎしながら追いかけてくる。

 道順だけは毎回微妙に違うせいで居場所まで決め打ちは出来ないが、都市中央へ向かう以上、この大交差点のどこかを通る可能性は高い。

 

 だったら探し回るより、ここで待つ。

 

「それで? 凡愚はこのような場所で何をしておる」

 

 考えを肯定するように、待ち望んでいた声がやってくる。

 見て見れば抜き身の陽剣を片手にプリシラ・バーリエルが立っていた。

 炎と黒煙に荒れた街中であろうと、その立ち姿だけは呆れるほど普段通りで、なにを隠そう彼女こそスバルが待っていた相手だ。

 

「待ってたぜ、プリシラ」

 

「ほう。妾がここへ来ると分かっておったような口ぶりじゃな」

 

「まぁな。っていうか、お前がこんな状況で大人しくしてる方が想像つかねぇ」

 

「……妾の行動を読んだつもりか?」

 

「そこまで大層なもんじゃねぇけど、お前ならきっと被害が大きそうな方に向かって走ってくだろうと思ってさ」

 

 赤い瞳が僅かに細められる。

 別に大したことを言ったつもりはないのだが、プリシラはそのまま数秒ほどスバルを見つめ、言葉の裏側まで探ろうとしているようだった。

 何度も顔を合わせてきたことで以前より彼女のことを知っているのは事実だが、それをわざわざ説明するつもりもない。

 やがて何かしら納得したのか、プリシラは呆れたように息を吐き出す。

 

「随分と分かったような口を利く」

 

「でもこうやって外れてないだろ?」

 

「不遜な物言いだけは一人前になったようじゃな」

 

「おかげさまで絶好調だぜ」

 

 肩を竦めたところで、曲がり角の向こうから騒々しい足音が近づいてくる。

 かなりの勢いで走っているらしいのに足音の間隔は酷く不揃いで、何度か転びかけるたび、背負っている何かが大きく揺れる音まで一緒になって響いていた。

 

「プリシラ様ーっ! 置いていかないでくださいませーっ!」

 

「ほら、もう一人も来た」

 

 身の丈ほどもあるリュートを背負ったリリアナが、勢い余って転びかけながら大通りへ飛び込んでくる。

 どうにか踏み止まった彼女は両膝へ手をつき、肩を大きく上下させながら乱れた呼吸を整えようとしていた。

 額へ滲んでいる汗も、周囲の熱よりプリシラへ追いつくために走り続けた結果と考える方が自然だろう。

 

「も、もう少し……もう少しだけ歩幅というものをですね……!」

 

「妾に合わせられぬ己の短い脚を恨むがよい」

 

「理不尽!」

 

 悲鳴じみた抗議だけは勢いよく飛び出す。

 そこから何度か大きく息を吸い、ようやく顔を上げたリリアナは、そこで初めてスバルの存在に気付いたらしい。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、続けて隣のダフネまで視界へ入ったところで、今度は別の意味で目を丸くする。

 

「おや、ナツキさんではありませんか! 直接お会いするのは初めてですね。キリタカさんの件はどうもありがとうございます! それから、そちらのお嬢さんは……なんとも独創的でアヴァンギャルドな装いを──」

 

「あー、悪い。その辺は全部終わってからだ。リリアナ、中央広場の放送魔法器はまだ使えるか?」

 

 このまま好きに喋らせていたら何処まで話が広がるか分からない。

 矢継ぎ早に続く言葉を途中で遮ると、リリアナは唐突に話題を切り替えられたことに目を瞬かせる。

 

 初日の王戦でフェルトが使うために用意された、都市全体へ声を届ける放送用の魔法器。

 今回スバルが欲しいのも当然そちらだが、問題は大罪司教どもが街を占拠している真っ最中に、それがまともに使える状態で残っているかどうかだった。

 

「魔法器そのものは壊されておりません。ただ、いまは都市庁から制御を握られております」

 

「まぁそうだよな……キリタカさんは?」

 

「ご無事です! 都市庁さえ取り返せれば、すぐ放送を戻せるよう準備しているはずです」

 

「なら十分だ」

 

 ひとまず欲しかった答えは返ってきた。

 ここまで来て魔法器そのものを破壊されていました、では洒落にならないが、都市庁を奪い返しさえすれば使えるのなら問題はない。

 

「俺たちはこのあと都市庁を取り返す。放送が戻ったら、短い音を三回鳴らす。それを合図にしてくれ」

 

「合図、ですか?」

 

「ああ。その音が聞こえたら中央広場へ行って──歌ってほしい」

 

 そこで初めて、リリアナの表情から先ほどまでの騒がしさが消える。

 胸元のリュートへ添えていた指に僅かに力が入り、何かを確かめるようにその縁へ触れ直した。

 

「いつ、でしょうか」

 

「それは、お前が決めてくれ」

 

「私が、ですか?」

 

「ああ」

 

 リリアナが困惑するのも当然だった。

 合図を出すと言われ、その直後に肝心なところは自分で決めろと投げられれば、大抵の人間は似たような顔をするだろう。

 

 とはいえ、その部分だけはスバルが決めるべきではないと思っている。

 

「俺じゃ分かんねぇんだよ。この街の奴らが今どれだけ怖くて、どこまで追い詰められてて、いつなら誰かの声を聞けるのか」

 

 何度同じ時間を辿ったところで、分かるようになるのは自分が見聞きした範囲までだ。

 次にどこで何が起きるのかは覚えられるし、誰がどちらへ向かうのかだって、繰り返せばある程度は予想出来る。

 けれど、それで離れた場所にいる人間の頭の中まで覗けるようになるわけではない。

 

 今この瞬間、逃げ回っている住民が何を怖がり、何を考えているのか。

 どの程度まで追い詰められたら誰かの声すら耳へ入らなくなるのかなんて、スバルが何度死んだところで知りようがなかった。

 

「でも、お前なら分かるだろ」

 

「…………」

 

「俺より、お前の方が人の声を知ってる。だから任せたい」

 

 そこを分かったふりして自分で決めるくらいなら、最初から分かる奴へ任せた方がいい。

 リリアナは歌い手で、それを聞く人間の顔をスバルより遥かに多く見てきたのだから、少なくとも自分で決めるよりは間違いなくマシだろう。

 

 すぐには返事がなかった。

 リリアナは胸元のリュートへ視線を落とし、その縁を指先でゆっくりとなぞっている。

 

「合図は出す。そこまでは俺たちが何とかする。その先で、いつ歌えば一番届くのかは……お前が決めてくれ」

 

 遠くで何かが爆ぜ、遅れて届いた振動が足元の石畳を小さく揺らす。

 それでもスバルはそれ以上何も付け加えず、リリアナが自分から顔を上げるのを待った。

 

 やがて、リュートの縁を撫でていた指が止まる。

 伏せられていた顔が上がり、先ほどまでそこにあった戸惑いは、少なくとも迷いと呼べるものではなくなっていた。

 

「……分かりました。そのときが来たと、私が思った瞬間に歌います」

 

 一度大きく息を吸い、リリアナが胸元のリュートを抱え直す。

 

「泣いている人にも、怒っている人にも、歌なんて聞きたくない人にも──勝手に届けてみせますとも!」

 

「頼んだぜ、リリアナ」

 

 いかにも彼女らしい答えに短く頷き、スバルは今度こそプリシラへ向き直る。

 リリアナ本人に引き受けてもらえた以上、次に必要なのは彼女を歌える場所まで無事に送り届ける人間だ。

 

「で、プリシラ。中央広場までリリアナを頼めるか?」

 

「ほう」

 

「歌ってる間も含めて、こいつのところまで敵を通したくない。お前なら出来るだろ」

 

 陽剣の切っ先が僅かに持ち上がる。

 頼み事をされて不快というより、ようやく自分を待ち構えていた理由へ辿り着いたらしい。

 

「凡愚が妾を待ち構えていた理由は、それか」

 

「まあな。お前にしか任せられないし」

 

 即答すると、プリシラの赤い瞳が僅かに細められる。

 相変わらず人へ物を頼む態度ではないのかもしれないが、今さら彼女へ下手に出たところで話が早くなるとも思えない。

 何より、出来るかどうかを確かめる必要すらない相手だからこそ、ここで待っていたのだ。

 

 数秒ほど何も言わずスバルを眺めたあと、プリシラは至極当然のように鼻を鳴らす。

 

「知っておる」

 

「……何をだよ」

 

「妾以外に務まらぬということをじゃ」

 

「はいはい。そういうことでいいよ」

 

「事実を雑に扱うでないわ」

 

 まともに付き合えばいつまで経っても話が終わらない。

 適当に流したスバルから興味を失ったように視線を外すと、プリシラは今度はリリアナへ顔を向ける。

 

「歌い手」

 

「は、はいっ!」

 

「合図が鳴ったならば、その後はそなたが決めよ」

 

 先ほどスバルから言われたものと同じ指示を、今度はプリシラから重ねられる。

 リリアナが一度こちらを見たものの、スバルは特に口を挟まず、そのまま続きを任せた。

 

「人の心がどこで揺れ、どの瞬間に己の声を求めるか。剣を振るう妾や、この凡愚よりも、そなたの方がよほどよく知っておろう」

 

「なんで俺だけついでに貶された?」

 

「口を挟むな。いま妾は歌い手と話しておる」

 

「はいはい……」

 

 追い払われるように片手を上げる。

 横から口を出したところで、どうやらプリシラの方も言いたいことはスバルと大差ないらしい。

 

「妾が中央広場まで道を開く。そなたは己の歌が最も届くと思った瞬間に声を上げよ」

 

「…………」

 

「もっとも──声が震えようと、音を外そうと構わぬ。だが、恐怖に屈して歌うことをやめるだけは許さぬぞ」

 

 その言葉に、リリアナの喉が小さく動く。

 遠方から届いた爆発音に続き、風に混ざって誰かの悲鳴が聞こえてきた。

 ほんの少し前まで大袈裟なほど騒がしかった彼女も、この先で何をすることになるのか分かっていないわけではない。

 安全な場所で歌うのではなく、街中で戦闘が続く最中、その真ん中へ自分から向かうことになる。

 

 胸元のリュートを抱く腕へ、ゆっくりと力が籠もる。

 

「歌います」

 

 小さくても、迷いのない声だった。

 

「声が震えても、音を外しても、怖くて泣いてしまっても……最後まで歌います」

 

「当然じゃ」

 

 それだけ聞けば十分らしく、プリシラは褒めるでも励ますでもなく陽剣を肩へ担ぎ直す。

 彼女にとっては出来ると答えた以上、実際にやり遂げるのが当然なのだろう。

 

「行くぞ、歌い手。妾が通した道で足を止めることは許さぬ」

 

「承知しましたーっ!」

 

 先ほどまでの緊張を吹き飛ばすような返事を残し、リリアナが真紅の背中を追って走り出す。

 大きなリュートを背負ったままでは相変わらず危なっかしい足取りだが、それでも今度は置いていかれまいと必死にプリシラの後ろへ食らいついていた。

 

 二人の姿が大通りの先へ遠ざかり、やがて黒煙の向こうへ消えていく。

 これで中央広場については、ひとまず自分が出来る準備を終えた。

 

 放送を取り戻すのはスバルたち。

 その合図を聞いて歌う瞬間を決めるのはリリアナ。

 そこまで彼女を連れていき、歌い終わるまで守るのはプリシラ。

 

 全部を自分でやろうとする必要はない。

 というより、そんなことをしていたから何度も手が足りなくなったのだと、嫌というほど思い知らされている。

 

 短く息を吐き、隣へ視線を向ける。

 ずっと話を聞いていたダフネは特に退屈した様子もなく、拘束衣の中でいつものように笑っていた。

 

「行くぞ、ダフネ。まだ助けを求めてる奴はいくらでもいる」

 

「はいはぁい」

 

 拘束衣の金具が鳴る。

 スバルとダフネは再び戦闘の音が響く通りへ足を向けた。

 

 少し前までプリシラとリリアナがいた大通りから離れるにつれて、周囲には再び戦いの気配が濃くなっていく。

 遠くから響く破砕音に混じって、どこかで誰かが叫ぶ声が聞こえ、炎に焼かれた木材の臭いが鼻につく。

 熱を含んだ風が吹くたびに煙へ紛れた細かな灰が頬を掠める中、隣を歩くダフネだけはそんな街の様子を気にするでもなく、いつもの調子で拘束衣の金具を鳴らしていた。

 

「ねぇ、すばるん」

 

「なんだ?」

 

「すばるんは、どうしてそんなに頑張るんですかあ?」

 

 唐突に投げかけられた問いに、煙の向こうを探っていた視線が僅かに揺れる。

 声音そのものは普段と変わらず、何かを責めているわけでも、試しているわけでもない。

 ただ分からないものを前にして、分からないから聞いている。

 ダフネにとっては、本当にそれだけの疑問なのだろう。

 

 だからこそ、適当に笑って流す気にはなれなかった。

 

「助けたい人がいて、笑ってほしい奴がいて、みんなと一緒にいたいからだよ」

 

「それだけですかあ?」

 

「それだけじゃ足りねぇのか?」

 

 少しだけ振り返れば、ダフネは真顔だった。

 からかっている様子もなければ、意地の悪い笑みを浮かべているわけでもなく、首だけを不思議そうに傾けて本当に答えの続きを待っている。

 

「ダフネは分かりません。ドナとか、みんなを助けたい気持ちはありますけどお……」

 

 言葉を探すように一度だけ間を置き、周囲へ顔を向ける。

 その先にあるのは燃えかけた家屋と、逃げ遅れた誰かが落としたのであろう荷物、それから道端へ転がったままの片方だけの靴。

 

「ここにいる人たち、ダフネもすばるんもほとんど知らないですよねえ? 見たこともない人まで、どうしてすばるんが助けるんですかあ?」

 

「…………」

 

 今度は、すぐに返事が出てこない。

 

 見知らぬ人間だから助けないなんて、そんな風に考えたことはなかった。

 目の前で誰かが死にそうなら助けたいし、泣いているならどうにかしたい。

 自分に出来ることがあるのなら、手を伸ばさずにいる方がよほど難しい。

 

 ただ、それを当然だと思っているのは自分だけなのかもしれない。

 

 何度も死んだ。

 名前も知らない誰かが死ぬのを見て、そのたびにやり直してきた。

 次の周回では顔すら合わせないまま救えた人間もいるし、スバルが自分を助けたことを本人が永遠に知ることのない相手だっている。

 

 それでも、だから何だと思う。

 

「助けたいからだよ」

 

 結局、口から出てきたのは最初と大して変わらない答えだった。

 我ながら説明になっていないが、これ以上に上手い言葉を探したところで、自分の中にあるものから遠ざかっていく気がする。

 

「そのために、すばるんが死んでもですか?」

 

 今度こそ、足がほんの僅かに鈍る。

 

「……死にたくはないんだけどな」

 

 苦笑いと一緒に吐き出した言葉は、自分で思っていたよりずっと素直だった。

 

 死ぬのは嫌だ。

 痛いのも怖いのも、何度経験したところで慣れた試しなどなく、死ぬたびに何かが削れていくような感覚だって今も消えてはいない。

 だから、死んでもいいと思っているわけではないし、自分の命と引き換えに誰かを助けたいわけでも、死ぬことそのものに価値があると思っているわけでもなかった。

 

 それでも一度誰かが死ぬところを見てしまえば、その人を助けられる可能性が残っていると知りながら諦めることも、スバルには出来ない。

 見捨てて、それを仕方なかったと納得して次へ進む方がずっと賢いのかもしれないが、残念ながら自分はそこまで上手く出来ていなかった。

 

「なぁ、ダフネ」

 

「なんですかあ?」

 

「これが終わったら、みんなで飯を食おうぜ」

 

 今度は、ダフネの足が完全に止まる。

 数歩先まで進んだところで金具の音が途切れたことに気付き、振り返れば、相変わらず真顔のままじっとこちらを見ていた。

 

「……ご飯ですかあ?」

 

「ああ」

 

「今その話します?」

 

「今だからするんだよ」

 

 自分でも少し馬鹿げているとは思う。

 街は燃えていて、敵はまだそこら中にいる。

 これから都市庁を取り返さなければならず、誰が次に傷つくのかも分からないし、自分だってこの先もう一度死なずに済む保証などどこにもない。

 

 そんな最中にする話としては、あまりにも呑気だ。

 けれど、この戦いの先に欲しいものを考えるなら、スバルにとってはこういう話の方がずっと分かりやすかった。

 

「こんだけ大変なことをやり遂げた後の飯なら、きっと今まで食べたことないくらい美味いぞ。お前も好きなもん、好きなだけ食えばいい」

 

「好きなだけ……」

 

「そう。エキドナもテュフォンも、メィリィも、ベア子もエミリアも。オットーとかラムとかロズワールとか……まあ、とにかく全員だ。でっかい卓でも囲んでさ」

 

 そこまで言えば、嫌でもその光景が頭へ浮かんでくる。

 

 食事の席ですら好き勝手に喋り続けるエキドナに、目の前の料理へ遠慮なく手を伸ばすテュフォン。

 その隣ではダフネが二人以上の勢いで全てを平らげようとして、メィリィは呆れながら魔獣たちの分まで確保しようとするだろう。

 ベアトリスなら間違いなくスバルの隣を譲らず、エミリアはそれを見て笑っていて、オットーは何かしら文句を言い、ラムもいつもの冷たい顔でこちらへ余計な一言を投げてくる。

 

 ありふれた幸せな光景だ。

 今この街で命を張ってまで欲しがるものとしては、笑ってしまうほどささやかな未来でもある。

 

 けれど、誰かを助けるたびに、その人間もそんな先へ辿り着いてくれればいいと思う。

 もちろん名前も知らない住民全員を同じ食卓へ座らせたいわけではない。

 今日ここで生き残った誰かが、自分の知らない場所で家族と飯を食って、くだらないことで笑えるのなら、それでいい。

 

 そしてスバル自身も、同じようにその先へ行きたい。

 助けた人間だけを未来へ送り出して、自分だけが途中で死んで終わる結末を望んでいるわけではないのだから。

 

「俺だって食いたいんだよ。その飯」

 

 口にしてみれば、随分と当たり前の話だった。

 

「……だから、死にたいわけじゃねぇ」

 

 さっき聞かれた問いへの答えとして正しいのかは分からない。

 ダフネに伝わったかどうかも、相変わらずの真顔からは読み取れなかった。

 

 しばらく何も言わず、普段なら食事という言葉を聞いただけで飛びついてきそうな魔女が、珍しくその場で考え込むように首を傾けている。

 やがて、止まっていた金具が小さく鳴った。

 

「…………分かりましたあ」

 

「何が?」

 

「ご飯です」

 

「そっちかよ」

 

「すばるんが死んだら食べられないですからあ。ちゃんと来てくださいねえ?」

 

 一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく笑う。

 

「……おう」

 

 再び横へ並んだダフネの顔は、結局最後までほとんど変わらない。

 全部を分かってもらう必要もないし、自分だって彼女の考えていることを全部理解出来るわけではない。

 

 それでも、この戦いの向こう側に同じ予定を一つ置くことくらいは出来る。

 

 前方の路地で何かが激しく砕け、遅れて助けを求める悲鳴が上がる。

 

「行くぞ!」

 

 スバルが石畳を蹴るのを追いかけ、すぐ後ろから拘束衣の金具が激しく鳴り始めた。

 

 ▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△▽△

 

 都市中央で、夜を待たずして空が赤く染まっていた。

 家々の屋根を遥かに越えて立ち上がる火柱が周囲を照らし、遅れて押し寄せた熱風が大通りを一息に駆け抜ける。

 その中心でロズワールが片腕を振るえば、炎を避けて左右へ散ろうとしていた屍兵たちが暴風に呑まれ、砕けた石片と一緒に路地の奥まで吹き飛ばされた。

 

「また増えましたね」

 

 その背後へ回り込もうとしていた一体を風刃で切り払い、ラムは大通りの先へ目を向ける。

 つい今しがた纏めて吹き飛ばしたばかりだというのに、別の路地から現れる影は途切れず、屋根の上を走っていた亜獣まで進路を変えてこちらへ向かっていた。

 

「そぉれが目的だからね。むしろ喜ぶところじゃあないかな」

 

 言葉通り、ロズワールが次に放った炎は目の前の敵だけでなく、大通りの端に並ぶ建物まで赤く照らした。

 これだけ派手にマナを撒き散らしていれば、離れた場所にいる敵からも嫌でも目につく。

 倒した数より新たに寄ってくる数の方が多いのも、今ばかりは失敗ではなく狙い通りだった。

 

 その最中、黒煙を抜けてきた亜獣の爪がロズワールの肩口を浅く掠める。

 

「ロズワール様」

 

 ラムの声が僅かに低くなる。

 すぐさま飛ばした風刃が亜獣の首を刎ねたが、その目は新しく裂けた衣装へ向けられていた。

 

「この程度なら問題ないとも」

 

 言っていること自体は間違っていない。

 傷と呼ぶのも大袈裟な程度の裂け目で、血もすでに止まり始めている。

 

「問題がないからと、傷を増やしていい理由にはなりません」

 

 それでも次に同じところから何かが抜けてくれば、今度は自分の風が先に届くようラムは立ち位置を半歩変える。

 

「相変わらず手厳しいねぇ」

 

 軽く笑う声に返事はせず、ラムも次の敵へ意識を戻した。

 

 普段のロズワールならば、そもそも敵をこれほど近くまで寄せること自体がほとんどない。

 だが今日の目的は目の前の敵を効率よく倒すことではなく、一体でも多くを都市中央へ引き付け続けることにある。

 安全な距離から順番に焼き払っていては、街中へ散った敵までこちらへ食いつかせることは出来ない。

 

 そして、それでいい。

 ここへ敵が集まっている間だけ、他の場所から敵が減る。

 正面から押し寄せる程度ならば、ロズワールにとって問題にもならない。

 炎でも風でも、魔法を撃つだけの僅かな時間さえあれば近づく前に消し飛ばせるのだから、ラムが拾うべきなのはその外側──建物の陰や屋根を伝って背後へ回り込み、正面の爆炎に紛れて魔法を放った直後だけを狙うような敵だけだった。

 幾つもの視界を繋いだ千里眼の中で、右手から迫る一体と屋根を駆ける二体、そのさらに向こう、左の細路地から姿を現した三体を捉える。

 先頭がロズワールへ爪を伸ばすより早く風を走らせ、その腕を斬り飛ばすと同時に、屋根から飛び降りた亜獣を外壁へ叩きつけた。

 

「右です」

 

 短く告げれば、ロズワールはそちらを見ることすらしない。

 

「分かっているとも」

 

 右手から迸った炎が細路地を舐め、潜んでいた屍兵ごと赤い光の中へ呑み込んでいく。

 

 正面をロズワールが焼き払い、死角へ回ったものをラムが落とす。

 長く傍らで過ごしてきた二人にとって、この程度なら細かな確認を重ねる必要もなく、ロズワールが一歩進めばラムもそれに合わせ、ラムの風が道を開けばその先へ魔法が飛ぶ。

 

 敵の数が増えるほど周囲は荒れていくのに、二人の間に焦りはない。

 

 

「ロズワール様」

 

「なんだい?」

 

 次の群れが途切れた僅かな隙に、ラムは自分の横を顎で示す。

 

「もう半歩、こちらへ」

 

 周囲を一瞥したロズワールが素直に位置をずらしたところで、その脇を風刃が抜け、背後へ回っていた亜獣の胸を深く裂いた。

 

「ここで十分だと思うけどねぇ」

 

「ラムはお願いをしているのではありません」

 

 瓦礫へ沈む亜獣から顔を戻すと、ロズワールは肩を竦める。

 

「それは怖い」

 

 それで話は終わり、次に敵が現れれば二人とも何事もなかったように戦闘へ戻った。

 

 少し離れた瓦礫の陰で、パトラッシュが低く鼻を鳴らした。

 その背に跨るオットーは目を閉じたまま、言霊の加護を通して押し寄せる音の中から、ここを離れるために必要なものだけを拾っていく。

 石畳を踏み鳴らす屍兵や瓦礫を蹴る亜獣の足音は、とうに一つ一つ数えていられる量ではない。

 右手の細路地は少し前まで使えたはずなのに、今では幾つもの足音が重なっていて、正面に至ってはロズワールへ引き寄せられた敵で完全に塞がれている。

 残る左手も途中で家屋が崩れているが、その先にある広い通りにはまだ大きな足音が入り込んでおらず、崩落した場所さえ抜けられればパトラッシュなら速度を落とさず走り切れるはずだった。

 

 首筋へ手を置く。

 

「もう少しです」

 

 答えるように地竜の喉が鳴った。

 目を開ければ、炎の向こうに立つロズワールの衣装には、先ほど確認したときよりもまた赤が増えている。

 このあと何が起きるのかは聞いているし、それが必要だということも、本人が承知した上でやっていることも知っていた。

 知っているからといって、目の前で傷が増えていくのを平然と眺めていられるかは別の話だ。

 

「……ほんと、嫌な役ばっかり回ってきますね」

 

 誰にも聞こえない声で吐き出し、もう一度だけ耳を澄ませたところで、敵のものとは違う足音が混じっていることに気付いた。

 

 複数人。

 乱れの少ない足取りに、一歩ごとに金属の擦れ合う音まで重なっている。

 

 誰なのかまでは分からないが、少なくとも屍兵でも亜獣でもなく、生きた人間の一団が左手の通りへ近づいてきていた。

 ならば、これ以上待つ理由もない。

 

 ロズワールへ集まる足音はすでに十分な数へ膨れ、逃げるための道も、その先まで抜けるための手もある。

 

「揃いました……!」

 

 戦場の喧騒へ負けないよう声を張り上げる。

 

 返事はない。

 炎の向こうで一瞬だけこちらを見たロズワールの口元が、普段と変わらない形のまま持ち上がった。

 

 直後、今までで最も大きな爆炎が大通りを呑み込む。

 目前まで迫っていた屍兵の群れが炎と暴風に攫われ、熱風に煽られたラムも反射的に腕で顔を庇った。

 

 視界が戻る頃には、ロズワールが一歩先へ出ている。

 

「ロズワール様!」

 

 すぐさまその背を追い、正面から立ち上がろうとしていた屍兵へ風を叩きつけるため、ラムはロズワールの横を抜けて半歩だけ前へ出た。

 

 その瞬間、まだ晴れきっていない爆煙の中から別の人影が飛び出した。

 

 真っ直ぐ突き出された刃先が狙うのは、ラムの喉だ。

 

「──っ」

 

 一歩退けば避けられる。

 けれど今の位置でそれをすれば、すぐ背後にいるロズワールを刃の正面へ残すことになる。

 

 判断が止まったのは、ほんの一瞬だった。

 

 ラムが風を放つより早く、その横から大きな身体が割り込む。

 

 刃が肉へ深く沈む、湿った音がした。

 

 頬へ生温かなものが飛ぶ。

 そこから先はほとんど身体が勝手に動き、放った風が屍兵を横殴りに吹き飛ばした。

 

 けれど、その次が続かない。

 

 目の前を塞いでいた身体が傾き、咄嗟に伸ばした両腕へ見慣れた重みが落ちてくる。

 支えきれずに膝をつきながら、それでもラムは腕の中を見られなかった。

 

 見れば分かってしまう。

 先ほど聞こえた音が何だったのか。

 頬へ付着した温かなものが何なのか。

 自分へ預けられた身体から、どうしてこれほど力が抜けているのか。

 

 分からないわけがないからこそ、見たくなかった。

 

「…………」

 

 口を開いても、名前が出てこない。

 いつもなら考えるより先に呼んでいるはずのその人を、今だけは名前にしてしまうことすら怖かった。

 

 それでも腕へ伝わる重みは消えてくれない。

 

 恐る恐る顔を下げた先で、鮮やかな衣装の胸元いっぱいに赤が広がっている。

 

 両手で傷口を押さえる。

 指の間から血が溢れた。

 

 力を込めても止まらない。

 掌を濡らした赤が手首を伝い、石畳へ落ちていく。

 

 この人なら、この程度でどうにかなるはずがない。

 何か考えがある。

 今にも鬱陶しい笑い方をしながら、驚いたかいとでも言って目を開ける。

 

 そうでなくては困る。

 

「…………さま」

 

 ようやく喉から零れた声は、自分でも聞き取れないほど小さい。

 

 返事はなかった。

 

 そこで初めて、ラムは腕の中の顔を見る。

 薄く開いた瞼は動かず、傷を押さえる手にも何の反応も返ってこない。

 

「……ロズワール、様……?」

 

 やっと名前になった。

 

 それでも返事はない。

 

 名前を呼べばいつも振り返った。

 呆れた顔をしても、冷たい言葉を投げても、最後には必ずあの間延びした声が返ってきた。

 

 なのに、今は何も返ってこない。

 

「ロズワール様ァッ!!」

 

 ようやく現実へ追いついた絶叫が、炎の残る大通りへ響き渡った。

 

 その直後から、それまで一箇所へ殺到していた群れの動きが崩れ始める。

 上空を旋回していた亜獣の一体が別の戦闘音へ向きを変え、路地の奥でも新たな炎が上がった方角へ何体かが流れていく。

 

 だが、それは包囲が解けたというほど都合のいいものではない。

 すでに目前まで迫っていた敵は残り、動かないロズワールを抱えたラムへ一体の屍兵が刃を向ける。

 

「ラムさん!」

 

 その横合いから黒い地竜が飛び込んだ。

 パトラッシュが屍兵を肩口で弾き飛ばし、オットーも背中からほとんど転がり落ちる勢いで石畳へ降りる。

 

「立てますか!? ここを離れます!」

 

 返事はない。

 ラムの紅い瞳は腕の中にいるロズワールへ落ちたままだった。

 

 オットーは奥歯を噛む。

 

「すみません!」

 

 ラムの腕の中へ手を差し入れ、そのままロズワールを抱え上げる。

 腕へ落ちてきた長身は重いくせに、自分から身体を支えようとする力だけが嫌になるほど返ってこない。

 この瞬間が来ること自体は、最初から聞いていた。

 それなのに、抱え上げた拍子に傷口から溢れた血が腕を伝ってくると、本当にこれでいいのかと今さら胸の奥がざわついた。

 

「……死なせませんよ」

 

 パトラッシュの背へロズワールを押し上げ、今度はその場へ残ったラムへ手を伸ばす。

 

「ラムさん」

 

 反応がない。

 

「ラムさん!」

 

 腕を掴んだところで、ようやく紅い瞳がこちらを向いた。

 

「今は、信じてください。死なせたくないなら!」

 

 その言葉だけは届いたらしい。

 掴んだ腕から抵抗が抜ける。

 

 ラムを引き上げ、自分もパトラッシュの背へ飛び乗った。

 

「行ってください!」

 

 地竜の四肢が石畳を蹴る。

 

 直後、頭上から振り下ろされた刃が黒い鱗を掠め、火花が散った。

 パトラッシュは速度を落とさず、オットーが先ほど確かめていた左の通りへ身体を滑り込ませる。

 

 崩れた家屋の手前まで来たところで、その先から複数の人影が現れた。

 

 白髪の老剣士が先頭へ躍り出ると、退路へ入り込もうとしていた屍兵へ銀閃が走る。

 一体が崩れるより早く二体目。

 その後ろから深緑の軍装に身を包んだ兵士たちも次々と通りへ広がり、追ってくる敵との間へ壁を作った。

 

「退路はこちらで確保いたします。どうか、その方を!」

 

「ヴィルヘルムさん……!」

 

 オットーは一度だけ深く頭を下げる。

 

「お願いします!」

 

 パトラッシュが開かれた道を駆け抜ける。

 背後ではすぐに盾と刃がぶつかり、ヴィルヘルムたちが追ってきた敵を受け止める音が重なった。

 

 防衛線の内側まで入っても、血と煙の臭いは濃く残っている。

 通りの壁際には負傷した兵士や救出された住民が座り込み、その間を水や治療道具を抱えた兵士たちが慌ただしく行き交っていた。

 

 パトラッシュの背へ横たえたロズワールからは、走っている今も血が滴り続けている。

 衣装へ染み込んだ赤はすでに元の色が分からないほど広がり、揺れるたびに力なく垂れた腕が小さく上下した。

 

「負傷者を通せ!」

 

 前方から兵士の声が上がる。

 人が左右へ避け、パトラッシュ一頭が抜けられるだけの道が作られていく。

 

 その奥には簡素な救護場所が設けられ、敷かれた布の上で治療を受ける者たちの姿が見えた。

 中央では青い髪が忙しなく揺れ、一人の兵士の傷へ手を当てて淡い光を注いでいる。

 

「フェリスさん!」

 

 呼びかけに顔が上がる。

 オットーからパトラッシュへ向いた目が、その背に横たわるロズワールを捉えたところで表情を変えた。

 

「ちょっと、何その傷!? 早く下ろして!」

 

 治療を終えた兵士から手を離し、すぐさまこちらへ駆け寄ってくる。

 

 パトラッシュを止め、オットーはロズワールの身体へ腕を回した。

 一人では支えきれない長身を近くの兵士にも支えてもらい、そのまま救護所に敷かれた布の上へ慎重に横たえる。

 

 そのすぐ脇へラムも降りた。

 戦場を離れてから一言も発していない。

 血に濡れた自分の両手にも構わず、ただロズワールの傍へ膝をつく。

 

 フェリスは何も尋ねず、ロズワールの胸元へ両手を重ねた。

 淡い光が傷口を包み、首筋へ伸ばした指が何度か位置を変える。

 

 胸へ耳を寄せたあと、表情がさらに険しくなった。

 

「……これは、酷いね」

 

 ラムの肩が小さく揺れる。

 

「ロズワール様は……」

 

 最後まで声にならない。

 

 フェリスは答えず、もう一度脈を探す。

 胸から背まで貫いた傷と、ここへ辿り着くまでに失った血。

 呼吸も脈も、辛うじて拾える程度しかない。

 

「呼吸も脈もほとんど拾えない。傷だけ見れば、とっくに手遅れでもおかしくないよ」

 

「…………」

 

「普通なら、死んでる」

 

 ラムの指先が震えた。

 

 けれど、治癒の光は消えない。

 フェリスの指先が胸元でもう一度止まり、僅かに眉が動く。

 

「でも、まだ諦めなくていい」

 

 今度ははっきりとした声だった。

 

「この状態でも、今ならまだ繋げられる。だからフェリちゃんに任せて」

 

「……助かる、のですか」

 

「助ける」

 

 短い返答と同時に、傷口を包んでいた光が一段強くなる。

 

 ラムはそれ以上を尋ねなかった。

 その場へ膝をついたまま、力なく横たわるロズワールの手を両手で包み込む。

 返ってくる力はなくても、その手を離そうとはしなかった。

 

 少し後ろからそれを見ていたオットーも、そこでようやく肺の奥まで息を吸い込む。

 

 本当なら、ここに残っていたかった。

 ロズワールがもう一度目を開けるところまで見届けたいし、フェリスの言葉通りに傷が塞がっていくのかも確かめたい。

 

 だが、すぐ近くでは今も剣と盾がぶつかり合い、防衛線の向こうからは時折、戦う者とは違う叫び声まで風に乗って届いてくる。

 ここへ来る途中にも聞いた声だ。

 視線を戻しても、フェリスはこちらを見ていない。

 ロズワールの傷だけを見つめて治癒を続けるその傍らで、ラムも変わらず主人の手を握っていた。

 

「ラムさんを、お願いします」

 

 返事を求めず、深く頭を下げた。

 そのままパトラッシュへ戻り、血で滑りそうになる手で手綱を握り直す。

 

 一度だけ振り返れば、淡い光の中でラムはまだロズワールの手を握り続けている。

 

「……行きましょう、パトラッシュ」

 

 小さく鼻を鳴らした地竜の首が前へ向く。

 次の瞬間には、再び戦場へ続く石畳を駆け出していた。

 

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