プリステラの地下深く。
地上で続いている戦いも、ここまで降りてしまえば聞こえ方は随分と変わる。
建物が崩れる音も人の叫びもほとんど届かず、時折石壁を伝ってくる鈍い振動だけが、頭上で未だ戦いが続いていることを思い出させていた。
代わりに狭い水路へ絶えず響いているのは、壁際を流れる汚水と三人分の足音だ。
苔と泥、それにどこから流れてきたのか分からない腐肉の臭いが籠もる中を進んでいると、ふと、そのうち一つだけが少しずつ遅れていることにメィリィが気付く。
「遅いわあ。早くしないと、お兄さんの言ってた時間になるわよお?」
肩越しに振り返れば、少し後ろではテュフォンが何の苦もなく段差を飛び越え、そのさらに向こうでエキドナが壁へ手をつきながら同じ場所を越えようとしていた。
白い頬にはとっくに汗が滲み、湿気を吸った長い髪まで張り付いている。
「生憎……っ、ボクはキミたちと違って健康優良児じゃないんだ。もう少し……っ、歩く速度というものを、考えてほしいね」
一足先に段差を越えたテュフォンには息を乱した様子もなく、汗の滲んだエキドナを不思議そうに見上げる。
「ドナはひんじゃくだなー」
「キミと比較されるのは甚だ不本意なんだが」
言い返した直後、エキドナは長い息を吐き、それでも足を止めずに先を行く二人を追って角を曲がる。
そうして幾つ目かの分岐へ差しかかったところで、メィリィの傍を歩いていた魔獣の一体が、何の合図もないまま暗がりの奥へ姿を消した。
「そもそもだ。メィリィ、キミが連れてきた魔獣を使えば、ここまで苦労して歩く必要もないんじゃないかな?」
「駄目よお。こんな狭いところでいっぱい動かしたら、足音も臭いも隠せないもの。向こうに気づかれちゃうでしょう?」
「それは分かっているけれどね。何も全てを待機させる必要は――」
「まだ駄目」
柔らかい声音のまま、返事に迷いはない。
改めて周囲を見れば、地下へ降りた時には何体もいた魔獣も、ここまで来る間に随分と数を減らしている。
枝分かれした水路を越えるたび一体、また一体と姿を消していたことを思い返せば、今では三人の近くに残る気配の方が少ない。
「……まあいい。キミがそうしたいなら、そうするといいさ」
「最初からそう言えばいいのよお」
「ボクは単純に少しでも楽をしたかっただけなんだけどね」
背後から聞こえたぼやきに、メィリィが小さく笑う。
そのすぐ横では相変わらず元気の有り余っているテュフォンが水溜まりを飛び越え、着地と同時に跳ねた汚水を避けようとエキドナが露骨に身体を引いた。
そんなやり取りをしながらさらに奥へ進んでいると、やがて先頭を歩くメィリィの足が僅かに緩む。
「もう少しよお」
気付けば、狭かった水路の形も少しずつ変わっていた。
左右から迫っていた石壁は歩くほど遠ざかり、それまで一本だった水の流れも幾つかに枝分かれして、暗がりの向こうへ別々に伸びている。
天井が高くなったことで三人の足音も先ほどまでより広く響き、返ってくる反響には僅かな遅れまで混じり始めた。
「……近いね。さっきまでより、術式を流れているマナがはっきりしてきた」
それまで息を切らしていたエキドナが、ふと前方へ目を細める。
体力の有無とは無関係に、目的のものが近づいたとなれば意識の切り替えだけは早く、その紫紺の瞳は石壁のさらに奥を確かめるように向けられていた。
「じゃあ、ここで合ってるのねえ?」
「ああ。この先に中継貯水区画があるはずだ。都市全体へ仕掛けられた術式を一度まとめるなら、構造上ここを使うのが一番都合がいい」
その返事を聞くや否や、それまで二人の間を歩いていたテュフォンが前へ飛び出す。
「なら早く行くぞー!」
「待ってくれ。キミは本当に人の話を――」
テュフォンは返事を待たず角の向こうへ消え、メィリィまで足を速めたことで、結局エキドナも再び急かされる羽目になった。
そしてさらに一つ角を曲がったところで、それまで行く手を狭く塞いでいた石壁が不意に途切れた。
その先に広がっていたのは、それまで歩いてきた水路とは比べものにならないほど大きな空間だった。
高い天井を何本もの太い石柱が支え、その足元ではいくつもの水路から流れ込んだ黒い水が一つに混ざり合っている。
持ち込んだ明かりも途中までは石床を照らしているものの、少し離れた柱の向こうまでは届かず、空間の半分以上は暗闇に沈んだままだ。
先に飛び込んでいたテュフォンが辺りを見回す横で、少し遅れて入ってきたメィリィがふと鼻をひくつかせる。
ここまでの道中では、水路脇を走る鼠の音も、壁際を這う虫の姿も嫌というほど目や耳に入っていた。
けれど、この辺りへ近づいてからはそれが妙に少なく、代わりに鼻につくのは汚水や腐肉だけではない、もっと生々しい獣の血肉に近い臭いだ。
どこから流れてくるのかと暗がりの奥へ目を凝らしたところで、
――ぬちゃり。
水の流れる音に混じって、何かが濡れた石床を踏んだ。
少し間を置いてもう一度。
今度は一つではなく、濡れた肉を擦り合わせるような音が幾つも重なりながら、石柱の向こうから近づいてくる。
テュフォンが足を止め、ようやく追いついたエキドナも息を整えるより先に顔を上げた。
やがて明かりの端へ最初に姿を見せたのは、四つ足で歩きながら胴体にだけ人間の形を残した異形だった。
その後ろからも、片側を鱗に覆われたもの、二種類の獣を無理矢理一つに繋いだようなものが次々と姿を現す。
獣とも人とも言い切れないそれらが濡れた石床へ広がっていく中、群れのさらに奥で金色の髪が揺れた。
「あー……なんでテメェらがここにいやがるんですか?」
聞こえた声に、メィリィの足が止まる。
身体から力が抜け、次の一歩が出なかった。
「メィリィ?」
すぐ隣から名前を呼ばれても返事はせず、メィリィは石柱の向こうから出てきた人影を見つめたまま動かない。
異形の間を縫うように一人の少女が前へ出てくる。
長い金髪に白い肌、その中で目立つ赤い瞳まで明かりの中へ入ってしまえば、もう見間違えようがなかった。
「ああ。誰かと思えば、メィリィじゃねーですか」
赤い瞳がエキドナからテュフォンへ、そして最後にメィリィへ向けられる。
名前を呼ばれた瞬間、頭の中に浮かんだのは今いる地下水路ではなかった。
小さくなった身体。
無数に増えた視界。
自分で動かしているはずなのに、自分のものとは思えなくなった羽と脚。
あの時、身体を蠅へ作り替えられた感覚が、カペラの顔と一緒に蘇る。
「随分と勝手に遊び回ってたみてーですけど、ご主人様へ挨拶もできねぇんですか?」
耳に入った声に、記憶の中で無数の羽が鳴った。
指先が震え始める。
止めようとして手を握っても上手く力が入らず、息を吸えば胸の途中で引っ掛かった。
それでも、メィリィはカペラから目を逸らさなかった。
「おいでなさい」
カペラが指をこちらへ向け、自分の方へ招くように曲げる。
「そこの出がらしどもから離れて、こっちへ来るんです。聞こえてるでしょう?」
足は動かない。
頭では言葉の意味を理解しているのに、向けられた指を見るだけで膝の裏から力が抜ける。
握った手にも上手く力が入らず、もう一度息を吸おうとしても今度は喉の奥でつかえた。
「まさか、また躾けられてぇんですか?」
その言葉で、記憶の中の羽音がまた耳の奥へ広がった。
「メィリィ」
ふと横から名前を呼ばれ、メィリィの視界の端でエキドナの周囲へマナが集まった。
そのさらに前では、テュフォンもいつの間にかカペラへ身体を向けている。
二人が動こうとしているのを見て、メィリィは震える手を持ち上げ、掌を二人へ向けて制した。
「……はい」
喉の奥に引っ掛かっていた息ごと押し出した声は、自分で聞いても嫌になるほど素直だった。
カペラは疑う素振りもなく、止めていた指をもう一度こちらへ曲げる。
「最初からそうしてりゃいいんですよ。ほら、こっちへ来て、そのクソ生意気な連中から離れなさい」
言われた通りに濡れた石床へ一歩を踏み出すと、靴底の感触が普段よりもはっきり足の裏へ伝わってくる。
そこからもう一歩と距離を詰めるほど、赤い瞳も白い指も身体を作り替えられた時と同じ近さへ戻り、無数の羽や脚の感覚まで記憶の底から引きずり出されていった。
「そう、それでいいんですよ」
近づいてくる声にも返事をせず、それでも足だけは止めない。
やがて手を伸ばせば届く距離まで来ると、カペラの腕もこちらへ伸びてくる。
「良い子ですねぇ」
白い指が頬へ触れようとした瞬間に肩が強張ったが、後ろへ逃げようとする身体を押さえ込んだまま、身体の陰に隠した指先だけを僅かに曲げる。
流れ込む水に紛れて広がった波紋がカペラの足元まで届いて消えた直後、黒い水面が一気に割れた。
「――っ!?」
飛び出した巨大な顎がカペラの胴体へ食らいつき、その身体ごと背後の石壁へ叩き込む。
轟音と共に石壁が陥没し、砕けた石片と水飛沫に赤い血が混じる中、メィリィは横へ跳んで濡れた石床を滑りながら距離を取り、そのまま腕を振り下ろした。
暗がりから返った低い唸りに呼応して、ここへ来る途中の分岐で姿を消していた魔獣たちが別々の水路から次々と現れ、カペラの背後も左右も埋めていく。
「……は?」
崩れた石壁の向こうから、それまでとは違う声が漏れる。
瓦礫の隙間から血に濡れた金髪が覗き、噛み砕かれた腹を押さえながらカペラが身体を起こした。
向けられた赤い瞳を前にしても、メィリィの指先から震えは消えていなかった。
「もう、それは一回やったもの」
握った手の中で震えが伝わり、喉もまだ上手く開かない。
それでも一度だけ息を吸い直すと、今度はさっきよりもはっきり声が出た。
「二回も同じことで、お兄さんに迷惑はかけられないわあ」
「テメェ……」
低く漏れた声とともにカペラの背中を内側から骨が押し上げ、白い皮膚を突き破って左右へ広がる。
続けて片腕まで輪郭を崩し、鱗に覆われた先端が大蛇の頭へ変わった。
「何してやがるんですかァァァッ!!」
怒声と同時に大蛇が石床を抉りながら伸び、開いた顎がメィリィへ迫る。
「アクニンは許さないぞー!」
その顎が閉じるより早く横から飛び込んだテュフォンの拳が下顎を跳ね上げ、大蛇ごとカペラの上体を仰け反らせる。
その小さな背中が、今度はメィリィとカペラの間を塞いだ。
「お前、メィリィをいじめたな?」
返事を待たずに振るわれた拳がカペラの身体へ突き刺さった次の瞬間、貯水区画いっぱいに乾いた破砕音が響き、拳を受けた場所から骨も肉も形を保てないまま弾け飛ぶ。
血肉と骨片が黒い水へ降り注ぎ、飛んできた赤い飛沫がメィリィの頬まで濡らした頃には、つい先ほどまで人の形をしていたものに原形らしいものさえ残っていなかった。
「なんだー?」
だというのに、その惨状を作ったテュフォンだけは散った血肉ではなく自分の拳を見下ろしている。
「変な感じだぞ」
「変ってえ?」
「ちゃんと当たったのに、アクニンをやっつけた感じがしない」
あれだけ壊しておいて何を言っているのかと返そうとしたところで、ふと水面へ浮かんでいた肉片が流れに逆らった。
「……え?」
一つが動けば、石床へ散った骨片も後を追う。
離れた肉までが互いを探すように寄り集まり、噛み合った骨の断面へ肉が絡みついていく。
腕が出来れば指が伸び、潰れた頭も形を取り戻し、辺りへ散らばっていた身体が目の前で再び一人の少女へ組み上がっていった。
「エルザより酷いわねえ……」
「じゃあ、もう一回だな!」
「待て、テュフォン」
再びカペラへ向かおうとしていたテュフォンを止め、エキドナは黒い水へ散った肉が集まっていく様子を横目に貯水区画の壁へ目を向ける。
「……なるほどね」
苔と汚泥に覆われた石壁の奥では、水路の途中で感じていたものとは比べものにならない量のマナが幾重にも絡み合っていた。
一つを追えば別の流れと重なり、そこからさらに枝分かれして壁の向こうへ消えていくため、眺めているだけではどこが始まりでどこが終わりなのかも判然としない。
「……出会い頭から、調子に乗ってんじゃねーですよ」
背後から声が聞こえた頃には、辺りへ散らばっていた肉のほとんどが元の場所へ戻っていた。
骨が繋がり、その上を肉と皮膚が覆っていけば、つい先ほどテュフォンに砕かれたばかりのカペラが何事もなかったように立ち上がる。
「死に損ないの出がらしが!」
「やっぱり生きてるぞー!」
「見れば分かるよ」
言葉を返しながら、エキドナは壁の奥を走るマナから目を離さない。
「キミはあの女をこっちへ近づけないでくれ。倒せるなら止めはしないが、追いかけて遠くへ行くのはなしだ」
「なんでだ?」
「ボクはこれからこっちを弄る。途中で邪魔されたくない」
「分かった!」
「さっきから人を無視して好き勝手――」
「お前はこっちだぞー!」
返事を終えたテュフォンが石床を蹴り、カペラの言葉ごと正面から押し潰すように飛び込んでいく。
二人がぶつかった衝撃で足元の水が弾け、次いで石を叩き割る音が貯水区画へ響き渡った。
カペラが腕を獣のものへ変えて振るえばテュフォンの拳がそれを迎え撃ち、どちらかが石床を蹴るたびに黒い水が波打つ。
その戦いを背に壁際へ向かったエキドナを追って、今度は周囲に残っていた異形たちが動き始めた。
横から飛び出した一体が先頭の異形へ噛みつき、その後ろから抜けようとしたものへ別の一体が身体をぶつける。
貯水区画へ繋がる幾つもの水路から次々と魔獣が姿を見せ、エキドナへ続く道を埋めようとする異形を押し返していった。
その間を抜けたエキドナが石壁を覆う苔を払い落とせば、下から現れたのは幾つもの小さな魔石だった。
指先を触れた途端、それまで壁越しにしか分からなかったマナの流れが鮮明になり、一つの魔石から伸びた経路が別のものへ繋がり、重なってはまた別れていく。
「……見つけた」
ばらばらに見えていた流れを順に追っていけば、その全てが一度だけ同じ場所を通っている。
そこから逆に辿っていくうち、ひとつ止めれば終わるような単純な術式ではないことも見えてきた。
「随分と面倒なものを作ってくれたじゃないか」
試しに一つの流れへ指先からマナを差し込み、僅かに進路をずらす。
途端に行き場を失ったマナは止まるどころか隣の経路へ流れ込み、その先にある別の術式へ吸い込まれていった。
「なるほど……直接切れば、そのまま流れ込むか」
不用意に一箇所を壊せば、止めるどころか別の場所へマナを送り込むことになる。
となれば先に逃げ道も含めた全体の流れを把握する必要があり、エキドナが再び壁へ意識を戻したところで、魔獣の間を一体の異形が抜けた。
「随分と用心深いじゃないか」
「止まりなさい!」
メィリィの声に異形の顔だけがこちらを向く。
しかし足を止める様子はなく、そのままエキドナへ向かって石床を蹴った。
「……やっぱり駄目ねえ」
届くより先に横から魔獣が食らいつき、勢いのまま異形を石床へ転がす。
「テメェの声なんざ、そいつらには届かねぇですよ!」
「知ってるわよお」
噛みついた魔獣へ異形の爪が振り下ろされるより早く、メィリィが次の二体を動かした。
「その子は後ろ。代わりに二人、右から回って。魔女さんのところには行かせないでねえ」
傷ついた一体が離れると同時に左右から別の魔獣が入り込み、異形をエキドナから引き離していく。
無理に倒そうとせず、近づこうとするものだけを押し戻していけば、壁際にはエキドナ一人が動けるだけの空間が残った。
「魔女さん、ここまででいい?」
「ああ、十分だ。そのまま空けておいてくれ」
メィリィたちが作った空間を使い、エキドナは壁面に沿って術式を追っていく。
途中で幾度も枝分かれしていたマナは貯水区画の外へ出るとそれぞれ別の方向へ向かっているものの、どれも必ず一度はこの場所を経由しており、そこからさらに流れを辿っていけば、都市へ送り出すものとは別に新たなマナを引き込んでいる経路まで見えてきた。
「……そういうことか」
貯水区画を中継点に、都市の各所へ送り出したマナで一つの起爆を次へ、その次へと繋げるための術式なのだ。
全体の構造を頭の中で組み直しながら、エキドナが指先から僅かにマナを送り込んだところで、背後から再び石を砕く音が響いた。
「また治ったぞー!」
「だから潰すだけじゃ駄目だと言っているだろう!」
「楽しそうねえ」
「どこがだい!?」
言い返しながらもエキドナは壁から目を離さない。
次の攻撃へ移ったカペラの腕にはまだ皮膚の戻っていない場所が残り、剥き出しの肉の隙間から覗く骨がそのまま爪へ形を変える。
振り下ろされた一撃をテュフォンの拳が正面から砕き、黒い水を大きく跳ね上げた。
「メィリィ」
「なあに?」
「今からボクの右側には、何があっても入れないでくれ」
返事の代わりに魔獣たちの配置が変わり、右側へ寄ろうとしていた異形がまとめて押し返される。
それを横目にエキドナが術式へマナを流し込めば、壁の中へ隠れていた経路が淡い光となって浮かび上がった。
石柱の裏を回り、黒い水の向こうへ伸び、そこからさらに枝分かれしていく光を目で追えるようになったことで、先ほどまで頭の中だけで組み立てていた経路が一気に繋がっていく。
「これなら――」
中央へ集まる流れへ干渉すると、押し出されたマナが空いた経路へ滑り込んだ。
そこからさらに別の道へ誘導し、起爆へ繋がるものだけを避けながら一つずつ流れを寄せていく。
「ようやく手を付けられる」
カペラとテュフォンがぶつかるたび、衝撃が石壁を伝って浮かんだ光を揺らす。
そのたびに砂埃が降り、異形が魔獣の隙間を抜けようとするものの、エキドナがそちらへ意識を割くより早くメィリィの声が飛んだ。
「左から二人! そっちは前に出ないで!」
左右へ回った魔獣に押し戻された異形が水を跳ね上げ、そのすぐ横でエキドナは最後まで残っていた経路へ触れる。
「そこだ」
だが、今度は動かない。
こちらから押し込んだ分だけ別の場所からマナが補われ、せっかく寄せた流れが元へ戻ろうとしている。
「……なるほど」
まだ供給元が残っている。
流れを逆に辿った先、黒い水を挟んだ向こう側の壁に、周囲より一回り大きな魔石が埋め込まれていた。
「メィリィ、向こうの壁にある大きな魔石が見えるかい?」
「今それ聞くのお!? 見えるわよお!」
「あれを壊さずに、表面だけ傷つけてくれ!」
「注文多いわねえ!」
不満を口にしながらも、メィリィの指示を受けた魔獣が異形の間を抜けて対岸へ駆ける。
飛んできた爪を躱して壁へ取りつくと、魔石そのものを割らないよう表面へ刻まれた術式だけを爪で削り取り、その途端、エキドナを押し返していたマナの流れが目に見えて弱まった。
「上出来だ」
供給が戻るより早く残った経路を動かし、散っていたマナを中央へ寄せていく。
壁一面へ伸びていた光も少しずつ同じ場所へ集まり始め、その変化に気づいたカペラの怒声が貯水区画へ響いた。
「――テメェ、何してやがる」
それまでテュフォンへ向いていた意識が、初めて明確にエキドナへ向く。
「おい。そこから手ぇ離せ!」
テュフォンを振り払ったカペラが石床を蹴り、まだ骨の覗く片腕を晒したまま、残った腕を獣のものへ変えてエキドナへ振り下ろす。
「ドナの邪魔するなー!」
追いついたテュフォンの拳が横から突き刺さり、振り下ろされた腕を骨ごと砕く。
それでも前へ出ようとした肩口から新たな骨が伸びるものの、肉も皮膚も追いつかず、歪な腕が形になるより先に次の拳が腹へめり込んでカペラの身体を柱まで弾き飛ばした。
「どうやら、正解らしいね」
「クソ魔女がァッ!」
背後の絶叫を無視して、エキドナは一箇所へ集めたマナを動かす。
起爆術式へ届く直前で流れを横へ逸らし、先ほどまで調べていた経路の中から何にも繋がっていない場所へ全てを逃がした。
「……よし」
壁を走っていた光が中央から順に消えていく。
魔石も一つ、また一つと沈黙し、最後まで残っていたものが弱く明滅したところで、頭上から伝わってきていた振動にも新たな爆発が重なることはなかった。
テュフォンの拳で柱へ叩きつけられたカペラが身を起こすが、腹に開いた穴は肉が蠢くだけでまだ塞がっていない。
「……ああ、もう」
血の混じった息を吐きながら、カペラが顔を上げる。
「肝心の一発が死んだなら、残りのゴミなんざ使い物にならねーですよ」
掴まれていた腕を自ら引き千切り、噴き出した血と肉を正面からテュフォンへ浴びせる。
「なっ――」
ほんの一瞬だけ緩んだ拘束を抜け、カペラの背中から骨が伸びた。
だが翼へ変わろうとする肉はすぐには追いつかず、片側の輪郭を歪ませたまま無理矢理広げる。
「待てー!」
打ち下ろされた翼に黒い水が巻き上がり、その中をカペラは天井近くまで飛び上がる。
追って跳んだテュフォンの指先を逃れ、古い点検口へ身体をねじ込むと、邪魔な石枠ごと砕いて奥へ消えていった。
点検口へ身体をねじ込みながらも、カペラの赤い瞳だけは魔獣の間に立つメィリィから離れない。
「次に会ったときは、今度こそテメェの身体も心も、二度と逆らえねぇ形に作り直してやりますよ」
それだけを残して姿を消した。
しばらく聞こえていた翼の音も次第に遠ざかり、やがて地下を流れる水音に紛れて聞こえなくなった。
「追うぞー!」
「待った」
点検口へ向きかけたテュフォンの背後で、主を失った異形の爪が石床を削った。
振り向きざまに拳を叩き込めば身体は水路の脇まで転がっていくが、それで終わりではなく、残った何体かも牙を剥いたままこちらを窺っている。
「なんでだ、ドナ! あいつまだいるぞ!」
「ああ。見れば分かるよ」
「なら追いかけるぞ!」
「キミがここを離れたら、残っているそいつらを誰が片付けるんだい?」
言葉を裏付けるように、先ほど殴り飛ばされた異形が黒い水の中から起き上がる。
さらに別の一体が壁際を回り込み、エキドナへ向かおうとしていた。
「むー……」
「追うなら、ここを片付けてからだ。ボクたちまで持ち場を空ける必要はないだろう?」
テュフォンが不満そうに点検口を見上げている間にも、異形との距離は縮まっていく。
「まずはこっちを終わらせよう。文句はその後に聞くよ」
「……分かった」
今度は迷わず目の前の敵へ向かい、飛び込んできた一体を真正面から迎え撃つ。
拳を受けた異形が水飛沫と一緒に石床を転がる中、エキドナも残った術式を確かめようと壁へ向き直った。
「メィリィ、残りを――」
そこで言葉が途切れる。
すぐ近くでは魔獣と異形がまだ争っているのに、メィリィだけがそこから取り残されたように、カペラの消えた点検口を見ていた。
「メィリィ?」
二度目に呼ばれて、視線がエキドナへ戻る。
「……なあに?」
返事は普段と変わらない。
けれど身体の横に下ろされた右手は握り切れず、曲げた指が小さく震えていた。
「メィリィ、怖かったのかー?」
「怖かったわよお」
言いながら息を吐こうとして、途中で喉につかえる。
何度か浅く呼吸を繰り返してから、メィリィはもう一度口を開いた。
「ものすごーく怖かったわ」
「でも、あいつの言うこと聞かなかったぞ?」
「そうねえ」
黒い水の向こうで魔獣が一体、異形の爪を受けて身体を引いた。
メィリィの目がそちらへ移り、今まで動かなかった右手も持ち上がる。
「怖いからって、言うことを聞かなくちゃいけないわけじゃないもの」
まだ震えの残る指先が、今度は迷わず魔獣たちへ向いた。
「ほら、まだ終わってないわよお。怪我してる子は後ろに下がって。動ける子だけでいいから、あの子たちを水路の方へ追い込んでちょうだい」
傷を負った個体が前線を離れ、空いた場所へ別の二体が入る。
正面にはテュフォンがいるため、異形は左右へ逃げようとするものの、そこにも魔獣が回り込み、少しずつ水路の奥へ押し込まれていった。
「……見事な判断だったよ」
「当然でしょう?」
次の一体へ指示を出そうと伸ばした手が、途中でほんの少しぶれる。
「そこまで震えながら言われると、あまり格好はつかないけどね」
「うるさいわねえ」
睨まれたエキドナは肩を竦める代わりに壁へ向き直り、まだ光の残っている魔石へ指を触れた。
戦闘の音が一つ、また一つと水路の奥へ遠ざかるにつれて、壁を走っていたマナの光も順番に消えていく。
最後まで残った一本を確かめ、そこからも光が失われたところで、
「……今度こそ終わりだ」
壁から離れたエキドナの身体が、そのまま石床まで沈んだ。
歩き通したうえに術式へマナを流し続けた反動まで重なり、壁へ背中を預けたあとは、頬へ張り付いた髪を払う余力さえ残っていない。
「ドナ、またひんじゃくになったぞ」
「ボクはさっきからずっと貧弱だよ……」
テュフォンの指摘に返す声にも、もう先ほどまでの勢いはなかった。
「帰れるのお?」
「少し休ませてくれればね」
その時、頭上から鈍い振動が落ちてきた。
石柱に積もっていた砂がぱらぱらと水面へ落ち、静かになりかけていた貯水区画に細かな波紋を広げていく。
「魔女さん」
「なんだい?」
「私、上に戻るわあ」
「残っている術式は?」
「もう魔女さんが見ればいいでしょう?」
「薄情だなぁ」
「それに、お兄さんから地下に残ってろとは言われてないもの。上だって、まだ終わってないでしょう?」
再び伝わってきた振動に、今度は三人とも頭上へ意識を向ける。
しばらく待っても静かになる様子はなく、メィリィは地上へ続く水路の方へ身体を向けた。
「先に出てる子たちもいるし、合流してくるわあ」
「好きにするといいさ」
言われる頃には、もう傍に残っていた魔獣の背を軽く叩いている。
「最初からそのつもりよお」
促された魔獣が暗い水路へ入り、メィリィもその後へ続こうとしたところで、点検口から落ちてきた小さな石片が黒い水を打った。
足が止まる。
見上げた先にあるのは、カペラが砕いた石枠と、その向こうへ続く暗闇だけだった。
「じゃあ、またあとでねえ」
それ以上は立ち止まらず、先を行く魔獣を追って水路へ入る。
角を曲がれば貯水区画の明かりも届かなくなり、残った二人の姿も暗がりの向こうへ消えていった。