地下水路の長い石段を駆け上がるにつれて、肌にまとわりついていた重い湿気が徐々に引いていく。
代わりに鼻腔を刺激するのは、焦げた木材と、それに微かに混じる生々しい血の臭いだ。
頭上を塞ぐ点検口の鉄蓋を力任せに押し上げると、細い隙間から漏れ出す光に、メィリィは思わず瞳を細める。
地下へ潜り始めた時よりも、陽は随分と傾いていた。
それでも暗がりに慣れた目には眩しく、地上へ這い出たあとも暫くは、屋根の合間に覗く空をまともに見ることが出来なかった。
(……随分と酷い有様だわあ)
石畳へ落ちる影は長く伸び、幾棟かの家屋は未だに黒煙を吐き出し続けている。
遠くの通りでは剣戟が鳴り響き、幾人もの悲鳴がどこからか聞こえてくる。
地下に潜っている間も、地上ではずっとこれが続いていたのだろう。
せっかくあちらの仕掛けを止めても、助けるはずだった人間が残っていなければ意味がない。
「……まだやってるのねえ」
続いて点検口を抜けてきた魔獣たちも、鼻をひくつかせながら周囲を気にしている。
地下へ潜る前に、街の中へ放しておいた子たちもいる。
この辺りの様子を知るためにも、まずはその子たちを集めなくてはならない。
「先に出てる子たちも探してきてちょうだい。見つけたら一緒に戻ってくるのよお。パトラッシュがどこにいるかも、分かったら教えてねえ」
傍らの二体へそう告げれば、それぞれ別の路地へ駆けていく。
残った魔獣たちと大通りを避けながら進んでいると、建物の陰には、逃げる先を決めかねている人々の姿もあった。
少なくとも今しがた通った道に敵はいなかったはずだと、そちらを教えながら幾つか角を曲がったところで、背後から幾つもの足音が近づいてくる。
「あらあ、早かったのねえ」
捜しに出した二体の魔獣の後ろには、地下へ入る前に街へ放しておいた子たちが続いていた。
数はそれほど多くない。
いま集まっているのはこの辺りに居た子たちだけだろう。
ふとその中の小柄な一体がメィリィの横をすり抜け、数歩先で立ち止まる。
魔獣は少し挙動不審にも見える速度でちらちらと、こちらと通りの奥を交互に視線を移していた。
「パトラッシュ、見つかったのお?」
メィリィの問いかけに応じるように、魔獣はゆっくりと首を縦に振るう。
「そう、それはよかったわあ。じゃあ、案内してちょうだい」
移動速度を上げるため近くに居た魔獣の一匹の背に乗って出したメィリィの号令に従い、魔獣達は移動を始める。
人の足では瓦礫や火、街なかをうろつく敵を前に随分と時間がかかっただろう道のりも、魔獣達は当然のように踏み荒らしながら進んでいく。
そうして先導する魔獣を追いかけるようにして街を進んでいくと、やがて建物の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「──次の角を右へ! その先の橋を渡ってください!」
「いたわねえ」
角からひょこっと顔を覗かせれば、見慣れた漆黒の巨躯は、路地の奥で迫る敵を押し留めているところだった。
その傍らには剣を振るう赤毛の男もいる。
その背後からこちらへ逃れようとする人々に、何度も道を指し示しているのが、探していた商人だった。
だが、声の届く範囲にいるからといって、皆がすぐに動けるわけでもない。
剣戟のたびに身を竦めてしまう者もいれば、崩れた壁の一部に足を取られ、隣の者へしがみついたまま立ち止まっている者もいる。
足の速い者だけは先へ行かせたのだろうが、路地に残っている人々は、目の前に出口が見えていても、そこへ辿り着くまでに随分と時間がかかりそうだった。
「ハインケルさん、壁際から来ます!」
「分かってる! さっさとこいつら連れてけ!」
頭上の鳥の囀りに重なったオットーの声へ、荒い返事が飛んでくる。
横から噛みつこうとした亜獣を蹴り返しても、ハインケルの剣はすぐに別の刃を受け止めなくてはならない。
赤毛は汗と煤に汚れ、呼吸も荒い。
それでもよろめいた足を踏み直す先は必ず人々の前であり、敵を退けた勢いのまま追うことさえ、今の彼には許されていなかった。
片方が下がれば、もう片方の脇から敵が抜けてくる。
パトラッシュもそれが分かっているからこそ、こちらへ顔を向けることすらせず、屍兵の群れへ低く唸り続けているのだろう。
見つけたことを喜んでいる場合でもなさそうだと、メィリィは跨っている魔獣の首へ手を添えた。
「──メィリィさん!?」
「地下の方は止めたわよお。爆発もしないし、魔女さんたちが残りを見てくれてるから上に戻ってきたの」
「そうですか……よかったです。すみません、こっちも手を貸してもらえますか!」
「そのつもりよお」
魔獣を見た市民の一人が悲鳴を上げかけたものの、オットーの言葉を聞くと、どうにか壁際へ身体を寄せてくれる。
通してもらった先にいるのも、人を喰らおうとする獣たちだ。
違いが分からなければ怖がるのも無理はないのだろうが、今はそれを説明している時間も惜しい。
「その人たちには手を出しちゃ駄目よお。向こうの子たちを押し返してちょうだい」
号令を受けた魔獣たちが路地の奥へ向かうと、それまで人々へ伸びていた亜獣の爪が、割って入った獣の身体を捉える。
石畳を掻く足と足が重なり、すぐ近くで牙が打ち合わされる音に、オットーまで肩を強張らせてしまった。
頼もしい援軍であることは分かっていても、傍に立って平然と見ていられるものではない。
それでも、今まで背後を振り返ることすら出来なかったハインケルが、こちらへ目を配るだけの余裕は出来ている。
「今のうちです! 動ける方から、僕の後ろへ!」
先ほどは剣の音に怯えていた男も、今度は歯を食いしばって瓦礫を乗り越えようとしていた。
足を引きずる隣の者へ肩を貸す余裕まではなくとも、伸びてきた手を握り、引いてやることは出来る。
そうやって出口へ向かう人影が増えていくたび、オットーは詰めていた息を少しだけ吐き出す。
その一方で逃げ遅れている人物もまだいる。
足腰の弱い老人、泣き叫ぶ子供。
1秒が惜しいのに、問題は山のように積み上がっていく。
「押すのよお!」
メィリィの号令とともに数匹の魔獣が無謀とも言える突進を繰り出す。
案の定亜獣によって先頭を走る一匹が無惨な姿に変えられるが、続く二、三匹目がその亜獣達を蹴散らしてみせた。
ここプリステラでは補充の効かない貴重な手駒。
それを消費したことで、僅かな時間ではあるがこの場に一瞬の余裕が生まれる──。
「ハインケルさん、その人をお願いします!」
「ああ!」
オットーに言われるよりも一歩早く動き始めていたハインケルは、老人を背へ担ぎ上げて路地を更に進んでいく。
老人の傍に残っていた女も、これでようやく離れられる。
オットーの脇を通り過ぎる大きな背中の向こうでは、先ほどまで泣いていた子供が、母親に手を引かれながら出口を目指していた。
途中で転びでもしなければ、もうこちらへ戻ってくる必要はないはずだ。
──あと少しだ。
そう思いながら奥へ目を戻したオットーの耳に、みしりと嫌な音が聞こえてくる。
「─────!!」
何かが近くの壁にぶつかった。
見なくともオットーの直感はそれが何であるかを理解する。
「メィリィさん!」
「頑張ってるわよお!」
一度崩れた陣形を立て直すため、己が跨っていた魔獣さえ前線に押し上げてなんとか塞ごうとするメィリィ。
だがただでさえ立ち位置も悪い上に守るものも多く、前線を張っていたハインケルすら抜けた状態では長くは持つはずもなかった。
パトラッシュの鱗を幾つもの刃が擦っていく。
正面から押し寄せる屍兵を退けても、その脇では魔獣の足が石畳を滑り、壁との間に空いた僅かな隙間へ、低く伏せた影が入り込もうとしている。
背後では、通りへ出た母親がまだ子供の手を引いていた。
「──全員路地を抜けた!!」
「あっ──!」
ハインケルのその言葉とほぼ同時。
一匹の亜獣が防衛網を突破して地を駆けてくる。
四足歩行の狼のようなその異形を前にオットーは一度大きく息を吐き出すと、己のマントを腕に絡めて背後の人影を狙う亜獣の口の中へと拳を無理やり差し込んだ。
「──ッグ!!」
歯はやすやすと肉を貫通し、骨と歯がぶつかり合う異様な感覚が体の中を駆け巡る。
そんな状況を無理やり頭の隅に追いやり叫ぶのは、この状況を変えるための一手──!
「ドーナッッッ!!」
噛みついた口の内側で、鋭い岩が膨れ上がる。
差し込まれた拳を噛み砕こうとしていた顎が無理やり押し広げられ、その上顎を内側から突き破った岩の先端が、血に濡れながら突き出していた。
それでも腕を引き抜くまで、オットーは息を止めたままだった。
生え並ぶ歯が肉の中から抜けていく感覚まで、嫌というほど分かってしまう。
「っ、は……!」
手の先から肘の辺りまで、自分のものではなくなったように重い。
握ろうとしても左の指はうまく動かず、傷を押さえた右手の下でマントの切れ端が血を吸い、指の間にまで生温いものが滲み出してくる。
これで本当に止められたのかと足元の亜獣へ目を落とせば、石畳を掻いていた爪も、もう動いてはいなかった。
振り返った先では、母親に引かれた子供が、こちらを見たまま立ち止まっている。
泣き腫らした顔にはまだ恐怖が残っていたが、口を開いたのは、何か言おうとしたからなのだろう。
けれど、今はそのために足を止めてほしくなかった。
「走ってください! まだ、止まらないで……!」
最後まで声を張ろうとして、噛み締めた歯の隙間から息が漏れる。
先ほどまで怒鳴り続けていた時には気にもならなかった呼吸が、今は腕の痛みに邪魔されて、思うように吸うことすら出来ない。
それでも、子供の姿が角の向こうへ消えるまでは見届けられた。
ハインケルも老人を背負ったまま、残る人々を橋の方へ急かしている。
「メィリィさん、もう出られます!」
「分かってるわよお! みんな、戻って!」
呼び戻された魔獣の中には、壁際からなかなか立ち上がれない一匹もいた。
仲間が鼻先で押すようにして促しても、脚を踏ん張った途端に身体が傾き、そのたびに石畳へ爪が引っかかる。
生きてはいる。
それが分かったことに安堵しかけたオットーだったが、その次の一歩が出ない限り、後ろで敵を押さえているパトラッシュまで下がれない。
「まだ動けるでしょう。こっちよお、早く!」
メィリィの声に応じるように、もう一度だけ踏ん張った身体が起き上がる。
ようやく歩き始めたその後ろで、少女を乗せた魔獣もまた、片脚を庇うようにして通りへ戻ってくるところだった。
つい先ほどまで、あれほどの勢いで街を駆けていたはずなのに。
犠牲を払って押し返した時の一匹だけではない。
戻ってきた子たちまで、今までと同じように戦わせられる状態ではなくなっていた。
だが、そこで彼らを案じている自分だって、無事で済んだわけではない。
最後まで敵を押さえていたパトラッシュが身を翻し、すぐ傍へ背を寄せてくれても、いつものように手を掛けようとした途端、左腕から走った痛みに足まで止まってしまう。
ここで自分が逃げ遅れてどうするのか。
そう思ったところで、動かない指先が言うことを聞いてくれるはずもなかった。
「……すみません、もう少しだけ、低くしてもらえますか」
彼女が身を沈めてくれた分だけ、右手と膝でも身体を引き上げることが出来る。
腕を胸へ抱え込んでようやく跨った時には、メィリィもまだ通りの先で待っていた。
石畳を蹴る振動が、傷の奥まで響いてくる。
それでも歩いて逃げるよりはずっと速く、先を行く人々に追いついたところで、ようやく背後の怒号が遠くなった。
誰もこちらへ引き返してはいない。
足を引きずる男も、子供を連れた母親も、老人を背負ったハインケルも、皆がまだ橋へ向かっている。
ならば今は、その足が止まらないようにしなくてはならない。
向こう岸から人々を誘導する声が聞こえてきても、オットーはまだ、左腕を押さえる右手を緩められずにいた。
橋の向こうでは、兵士たちが人々を迎え入れるために道を空けていた。
走れる者にはそのまま先へ向かうよう声がかけられ、足を引きずる者には肩が貸される。
ハインケルに背負われた老人もそちらへ運ばれていくのを見て、オットーはようやく、街側の橋のたもとでパトラッシュを止めた。
これで、あの人々を自分たちだけで守らなくてもよくなる。
そんな安堵から気が緩んだのか、パトラッシュの背から下りようとして身体を傾けた途端、胸に抱えていた左腕がひどく痛んだ。
乗り込む時にはどうにか我慢出来たはずの揺れまで、今は傷の奥をかき回されるように感じてしまう。
右手で鞍を掴んだまま暫く動けずにいると、パトラッシュがこちらの足が地面へ届くところまで身を低くしてくれた。
「……ありがとうございます」
自分の足で立てたところで、すぐに何が変わるわけでもない。
傷に押し当てていたマントの切れ端は、すっかり血を吸って重くなっている。
もう少しまともに巻き直さなくてはと、残った布を裂いてみたものの、片手で結び目まで作ろうとすれば、その間は傷を押さえられなくなるのだ。
「……ったく。貸せ」
対岸の兵士へ老人を預け、橋を戻ってきたハインケルは、その様子を見るなり顔をしかめた。
欄干へ剣を立てかけると、差し出された布の端を受け取り、オットーの代わりに傷の上へ巻きつけてくれる。
まだ息も整いきっていないだろうに、こうして手を貸してくれることには礼を言わなくてはならない。
もっとも、強く締めつけられる痛みに歯を食いしばっているうちは、その言葉さえ出てこなかったが。
「……で、内政官様。テメェ、なんであんな危ねぇ場所まで首突っ込んだ?」
「何でと言われましても……見ての通り、人助けですよ」
「見りゃ分かる。テメェが、わざわざそこまで身体張る必要があんのかって聞いてんだ」
その目は、布の下へ隠れていくオットーの腕に向けられている。
自分でも随分と無茶をしたことくらいは分かっているし、ほかに方法がなかったのかと聞かれれば、すぐには答えられそうもない。
ただ、あの時に腕を引いていたら、代わりに牙を受けたのは背後の人々だ。
それだけはさせたくなかったのだと口にしかけたところで、ハインケルの声が続いた。
「それとも何だ。あの坊主に感化されて、テメェまで英雄様でもやる気か?」
ハインケルの言葉はきっと、演説の場での続きなのだろう。
頭の中にふと思い浮かんだ友人は、どれほど無茶な状況でも最後には笑顔でどうにかしてしまう人だった。
だから皆が頼り、彼もまた、その期待へ応えようとしてしまう。
きっと自分はそんな彼を、英雄ではないと口ではそういいながらも英雄視してしまっていたのだ。
──いや、きっといまも。
「………………御免ですよ。英雄なんて」
漏れ出た言葉は果たして自分のものだったろうか。
心の内側を突き動かす強い衝動に導かれるまま、オットーの口は英雄を拒絶していた。
もしかすれば霧の中で馬車から突き落とされた少年の心が、オットーにこの言葉を言わせているのかもしれない。
「あ?」
「僕は商人です。ナツキさんは騎士です。僕達は自分の大切な事のために、ただ精一杯頑張っているだけで、英雄になるつもりなんてこれっぽっちもありませんよ」
結び目を押さえていたハインケルの手が、僅かに止まる。
何を考えたのかまでは分からないが、こちらへ向けられた目は、やがて再び血の滲んだ布へと戻っていった。
「その割にゃ、ずいぶん命張ってるように見えるがな」
「もちろん死ぬつもりはありませんよ。それに、死んだらナツキさんに怒られますから」
そういってオットーは笑う。
今日一番の笑顔で、親友が怒る姿を想像しながら。
「……そうかよ。だったら精々、怒られねぇようにしろ」
「そのつもりです」
返事を聞いたハインケルは、それ以上聞こうとはしなかった。
結び終えられた布は、右手を離しても傷の上からずれない。
締めつけられた内側ではまだ痛みが脈打っているし、左の指に力を入れようとすれば肘の辺りまで響くものがあるが、それでも押さえ続けていた手を離せるだけで、随分と楽になるものだった。
「お話、もう終わったあ?」
少し離れたところからかかった声に、オットーもようやく自分の腕から目を離す。
メィリィは橋を渡る人々の邪魔にならないよう、魔獣たちを水路沿いの端へ寄せていた。
彼女を乗せていた大型の一体は立ち上がっていたものの、傷ついた脚へ体重をかけるたび、身体が僅かに傾いてしまう。
壁へ叩きつけられた子も、その傍らでまだ腹を石畳につけたままだ。
「ああ、終わりだ」
「じゃあ行きましょうよお。まだいっぱい残ってるもの」
その言葉に急かされるまでもなく、街の奥からは今も助けを求める声が聞こえてくる。
向こう岸で兵士たちに付き添われている人々の姿を見れば、少なくとも、戻ってきた意味はあったのだと思える。
まだ自分の足で歩けるし、声を拾うことも出来る。
ならば、次に何をするべきかなど、考えるまでもないだろう。
「そうですね。次を──」
だが、続きを口にしかけたオットーの声を遮るように、すぐ傍から低い唸りが漏れた。
「──?」
パトラッシュの顔は、街へ戻る通りの先に向けられている。
その視線を追いかけようとしたところで、メィリィの魔獣たちまで同じ方角を睨んでいることに気がついた。
傷を負っている子だけではない。
先ほどまでは敵を見つけるなり前へ出ていた子たちまで、今は毛を逆立て、その場から動こうとしないのだ。
「……何か来ます」
そう告げた頃には、石畳を踏む足音がオットーの耳にも届き始めていた。
今日だけで嫌になるほど聞いた、屍兵の足を引きずるような音とは違う。
意味のない呻き声も、壁へ身体をぶつける音もなく、ただ一定の間隔を保った足音だけが近づいてくる。
その静けさが、むしろ何が来るのか分からない気味の悪さを感じさせた。
「おいおい……」
隣で漏れた声に目を向ければ、ハインケルの手は既に、欄干へ立てかけていた剣を握っていた。
荒れていた呼吸を一度だけ深く整え、柄を身体の前へ据える姿には、先ほどまでのような無造作さがない。
何が見えたのかと視線を戻したオットーの前へ、曲がり角の陰から最初の一人が姿を現す。
血の気を失った肌に、焦点の合わない瞳。
首筋には刃物で深く裂かれた傷があり、服の裂け目から覗く身体にも、生きている者なら立ってはいられないような傷が残っていた。
屍兵であることは間違いない。
だが、その足が石畳へ置かれるたび、体勢を崩すことなく、次の一歩へ移っていく。
つい先ほどまで相手にしていた者たちと同じものだとは、どうしても思えなかった。
その後ろからも人影が続き、通りへ出てきたのは全部で五人だった。
誰も言葉を発することなく、こちらを視界へ収めたところで足を止める。
「……ハインケルさん」
「分かってる。騒ぐな」
低く返しながらも、その目は前から動かない。
街へ続く通りとオットーたちとの間へ身体を入れ、剣先を向けたまま続けられた声にも、冗談を言っているような響きはなかった。
「さっきの木偶どもと一緒にすんな。あいつら──」
その言葉の途中で、鞘から刃が抜かれる音が重なる。
夕暮れの光を拾う長剣を見据えたまま、ハインケルは続きを口にした。
「生きてた頃からまともに人を斬ってた連中だ」
一人が中央へ残ると、他の者たちは左右へ散り、通りの幅を使って間隔を取っていく。
誰かが合図を出した様子はない。
それでも互いの進路を塞ぐことはなく、一人へ近づけばその隣から剣が届くような距離を保っていた。
オットーに剣士の細かな力量までは分からない。
ただ、あの並びの中へ入れば、目の前の相手をどうにかしている間に、別の刃が届いてしまうことくらいは分かる。
さっきの亜獣を止めた時のように、目の前の一体へ全てを向ければ済む状況ではないのだ。
剣を構えたハインケルが、一歩も前へ出ようとしないことにも、それを裏づけられている気がした。
「メィリィさん、魔獣を前に出さないでください。傷ついた子は橋の近くへ」
「分かってるわよお」
普段よりも低い声で答えたメィリィが、立ち上がろうとする魔獣の背へ手を添えている。
パトラッシュにも彼女の傍へ下がってもらい、オットーは橋の向こうへ声を張った。
「こちらへ敵が来ています! 橋から離れて、避難を急いでください!」
対岸にはまだ、老人を支える兵士たちの姿があった。
声を聞いて顔を上げた彼らが、こちらを見たまま立ち止まってしまうものだから、もう一度呼びかけようとした、その時だ。
甲高い金属音が、すぐ背後から響いてくる。
振り返った先では、踏み込んできた屍兵の剣を、ハインケルが下から弾き上げていた。
真正面からの打ち合いでは、彼が上回っている。
跳ね上げられた刃の下には無防備な身体が残され、そのまま踏み込めればと、オットーが思いかけたのも一瞬のことだった。
相手の肩越しから、もう別の切っ先が伸びてきている。
斬り返しかけていた身体を捻ったハインケルの頬を、刃先が浅く掠めていった。
それを避けた先にも、横から回り込んできた者がいる。
空いた胴を狙う剣をどうにか受け止めたものの、鍔の近くまで滑り込んだ刃に手の甲を裂かれ、赤いものが飛び散る。
「チィッ!」
胸元へ叩き込まれた蹴りに、屍兵の身体が後ろへ流れる。
だが、それで倒れてくれるわけでもなく、間合いを取り直すより早く、最初に剣を弾かれた者が再び前へ出てきていた。
その一撃を受ける間にも、別の一体がハインケルの脇へ踏み込もうとしている。
「ドーナ!」
オットーが右手を向けた先で、石畳を押し上げて岩が突き出す。
踏み込もうとしていた足を取られ、屍兵の身体が大きく傾くのを見て、ハインケルも受け止めていた剣を跳ね返し、開いた間からこちらへ身を引く。
間に合った。
少なくとも、左右から同時に斬りかかられるより先に、あそこから下がることは出来たのだ。
だが、安堵しかけたオットーの前で、崩れた相手を追い越すように、別の剣士が既に間隔を詰めてくる。
足を取られた者も、石畳へ突き立てた剣を支えに身体を起こし、再びその後ろへ加わろうとしていた。
一人を退けても、次が来る。
その次を相手にしている間に、最初の者まで戻ってきてしまうのだ。
これでは、こちらが魔法を使うたびに同じような隙を作れたとしても、ハインケルが剣を受け続けなくてはならないことに変わりはない。
「……ふざけやがって」
悪態とは裏腹に、ハインケルはすぐには斬り返そうとしなかった。
岩を避けて横へ広がる敵を切っ先で牽制し、こちらへ回り込もうとする者がいれば、その前へ足をずらしている。
その手の甲からは、まだ血が流れ続けていた。
柄を握り直す指先まで赤く染まっていくのを見れば、もう一度同じ攻防を繰り返すだけで済むとは、とても思えない。
背後から、人を呼ぶ兵士の声がした。
橋の向こうでも避難を急がせてくれているのだろうが、今の屍兵の踏み込みと、先ほどまで自分たちが合わせていた市民の足の速さが、嫌でも頭の中で重なってしまう。
せめて、もう少し遠ざかってくれるまでは。
そう考えかけたオットーの前で、ハインケルもほんの一度だけ、橋の方へ顔を向けた。
「内政官」
「……はい?」
「嬢ちゃん連れて向こうへ行け。そこの連中を、もっと先へ逃がしてやれ」
剣を握る手から血を落としながらも、こちらへ向けられたのは声だけだった。
ハインケルの目は前から動かず、その足も、橋の方へ下がろうとはしていない。
市民が離れるまで誰かが止めなくてはならないことは、オットーにも分かっている。
だが、だからといって、この背中だけを残していけるかどうかは別の話だ。
「……ハインケルさんも、一緒に下がってください。僕がもう一度、足を止めますから」
「さっきはそれでも追ってきただろうが。橋へ寄せんじゃねぇ」
「それでも、一人で残るよりは!」
「俺がこいつら全部斬る必要はねぇ。あいつらが十分離れるまで、ここで止めときゃいい」
そう言いながら、ハインケルは横へ動こうとした屍兵へ切っ先を向ける。
前へ出る気配を見せた相手が踏み込みを止めると、その間にも別の者が、少しずつ立つ場所を変えていた。
こちらの話が終わるまで待ってくれるつもりなど、当然あるはずもない。
剣を構えているだけでも彼が何を気にしなくてはならないのか、その目の動きを見ていれば、オットーにも少しくらいは分かってしまう。
「でも、それじゃハインケルさんが──」
「勝手に殺すな。俺だって死ぬつもりはねぇよ」
つい先ほど、自分が口にしたものとよく似た言葉だった。
胸に抱えた左腕が痛むものだから、オットーはすぐには言い返すことが出来ない。
自分だって、あの時は死ぬつもりで腕を差し出したわけではなかった。
それでもこうして手当てをしてもらわなくてはならなくなったのだから、そのつもりがないというだけで、何もかも大丈夫になるわけではないのだ。
フェリスへロズワールを預け、街へ戻ってきた時には自分にも出来たはずのことだ。
自分に出来ないことは出来る者へ任せればいい。
その分だけ、ほかに助けを求めている声へ手を伸ばす。
そう考えたことが間違いだったとは思わないのに、今は目の前の男の手から血が落ちるたび、そこから目を離せなくなってしまう。
せめて彼も一緒に離れられる方法はないのか。
パトラッシュに前へ出てもらえば、その間にハインケルを下がらせることくらいは出来るかもしれない。
だがオットーがパトラッシュへ顔を向けるよりも早く、その考えを見透かしたような声が飛んできた。
「そいつまでこっちへ寄越すな。今度はテメェが逃げられなくなる」
メィリィの傍らでは、傷ついた魔獣が石畳へ脚を踏ん張ろうとしている。
彼らを押し出して道を作った先ほどの光景が頭を過ぎるが、そのために何を失ったのかも、オットーは見ていた。
残った子たちまで同じように使えば、どれほど持つというのだろう。
答えの出ないまま考えを巡らせているうちに、石畳を擦る刃の音が、すぐ近くから聞こえてくる。
「……来るぞ」
その声に顔を上げれば、屍兵たちは既に構えを変えていた。
中央の二人が僅かに前へ出て、残る者たちも、ハインケルの脇へ回り込めるように間隔を詰めている。
オットーは空いている右手を持ち上げ、踏み込んでくる相手の足元へ意識を向けた。
今は答えが出なくても、せめて先ほどのように、次の剣が届くまでの隙間を作ることくらいは──。
「ハインケルさん──」
「行け」
咄嗟に呼びかけた声を、ハインケルは振り返りもせず遮る。
「ここは俺の仕事だ」
そうやってハインケルが言い切るのとほぼ同時に、屍兵たちが石畳を蹴る。
中央を走る二人の後ろから、残る者たちが左右へ広がりながら続いていた。
一度目の攻防でハインケルがどのように剣を受け、どちらへ逃れようとするのかまで理解したからだろう。
今度は相手の出方を窺うような慎重さがない。
初めから全員で押し切るつもりなのが、その足取りからも嫌というほど伝わってくる。
「チッ──!」
だから、ハインケルは待たなかった。
陣形へ自分から身体を捻じ込むように踏み込み、先頭の一人が剣を振り下ろすより早く横腹へ斬撃を叩き込む。
死体に痛みがあるのかは分からない。
それでも刃を受けた身体が横へ流れたことで、ほんの僅かではあるが相手の並びが崩れる。
続いて開いた隙間へ更に身体を押し込み、返した剣で二人目の刃を受け止めた。
正面から重なった鉄同士が甲高い音を辺り一面に響かせる。
老人を背負って走った後だ。
その前には、数え切れないほどの屍兵を相手に一人で市民を守り続けてもいる。
頬にも手にも傷を負い、呼吸だって完全には戻っていない。
それでも二人を相手に先手を取り、一人を崩した上で次の剣まで受け止めてみせた。
剣聖の家系に恥じぬその動きは、手放しで称賛出来るものだった。
だがそれでも、そこまででしかない。
「ハインケルさん!!」
剣を止めたということは、同時に次の手を失ったということだ。
二人目の刃を受け止めたハインケルの両腕は塞がっている。
最初に斬りつけた相手もまだ倒れてはいない。
オットーが魔法を向けようとしていた場所へ、今はハインケル自身が踏み込んでいた。
このままでは、彼の足元まで崩してしまう。
すぐに狙いを変えようとするが、三人目の剣は既に、動きの止まった彼の脇腹へ滑り込もうとしている。
距離は、もう半歩もない。
今からハインケルが剣を引いても間に合わない。
身体を捻ったところで、逃れた先には残りの剣士が待っている。
咄嗟にオットーが駆け出そうとするが、その距離はあまりに絶望的だ。
逃れられない死の未来を前にして、最悪がオットーの脳裏を駆け巡る。
ここでハインケルが死ねば、犠牲者が出ればどうなるか。
また誰かを救えなかったと知ったあの友人が、その死をどう受け止めるのか。
何もかもを自分のせいにして、背負い続けた末に壊れてしまった姿をオットーは知っている。
もう二度とああはさせまいと、そう思っていたはずなのに。
詳しいことまでは分からなくともスバルが今回に賭けていることくらいは、何となく感じ取っていた。
それなのに、また誰かの死を背負わせてしまったら。
終わる、終わってしまう、今だけは何が何でも死なれるわけには──
「…………は?」
そんな間の抜けた声を漏らしたのは、斬りかかられているはずのハインケルだった。
押し返そうと力を込めていた剣の重みが唐突に失われ、両腕が僅かに前へ泳いでしまう。
その脇腹へ刃が届くことも、左右から次の剣が迫ることもない。
あるはずの痛みも衝撃も来ないものだから、目の前の事実を認めるまでには、僅かな間が必要だった。
敵が、
脇腹へ剣を伸ばしていた相手だけではなく、正面で剣を受け止めていた者も先ほど斬りつけた者も、左右から続いていた剣士たちまで、すっかりと通りから姿を消している。
まるで幻影でも相手にしていたようだが、頬も手の甲も痛み、握った柄は自分の血で濡れている。
石畳には先ほど突き出した岩がそのまま残され、欠けた石も足元に散らばったままだ。
何もなかったことになどなっていない。
「……おい」
吹き飛ばされたのであれば、どこかで音がしたはずだ。
斬り倒されたのなら、その場に身体が残るだろう。
どちらもないままつい今しがたまで自分を殺そうとしていたものだけが、綺麗に消えてしまっている。
だからハインケルはすぐには構えを解けなかった。
敵の姿が見えなくなっただけなら、むしろ先ほどより状況は悪い。
次にどこから剣が飛んでくるのかも分からず、行き場を失った剣先を僅かに動かしながら通りへ目を凝らす。
だが戦士としての勘は先ほどから告げている。
もうここには、敵はいないと。
「どこ行きやがった……?」
左右の路地へ目を向け頭上の屋根まで見上げてみるものの、逃げ去ったと分かる影も物音もない。
自分が見落としているだけならと魔獣たちを窺ってみても、地面へ寄せられた鼻先や立てられた耳の向きが変わるばかりだった。
誰かの後を追えるのであれば、とうにそうしているだろう。
こういうことなら自分より余程頼りになるはずの獣まで動けずにいるのだから、その主へ尋ねる声にも、どうしたって苛立ちが混じってしまう。
「おい、嬢ちゃん。獣どもはどうだ」
「知らないわよお。さっきからみんな探してるもの」
メィリィも気味が悪いのだろう。
彼女の傍にいるパトラッシュまで鼻を鳴らしては敵の消えた場所へ顔を向けており、何かを見つけた様子はなかった。
「……気色悪ぃな」
今度ばかりは少女から何も返ってこない。
だがそんな彼女から周囲へ目を戻したハインケルは、一人だけ反応の違う人間がいることに気づく。
オットーだけが、消えた敵の行方を探していなかった。
一度は通りへ目を向けたものの、それきり路地を覗き込むことも屋根を見上げることもなく、傷ついた左腕を抱えてその場に立っている。
自分が何を見落としたのかと考えるよりも、目の前で起こったことをただ黙って受け止めているように見えたのだ。
「…………」
その沈黙が何を意味するのかまでは分からない。
しかし自分もメィリィも訳が分からずにいる中で一人だけそうしていれば、何か知っているのではないかと疑いたくもなる。
「……おい、内政官」
「はい?」
「テメェ、何か知ってんだろ」
「今は、ここを離れましょう」
否定も肯定もしない返事に、ハインケルの眉間へ皺が寄った。
問いかけを聞き違えたわけではあるまい。
それでも答えようとしないオットーへ更に口を開きかけたところで、少し離れた通りから女の悲鳴が上がる。
続いて何かが倒れる音が響き、遠くから誰かを呼ぶ怒鳴り声も重なった。
こうしている間にもまだ助けを求めている人間がいる。
ハインケルは暫くオットーを睨んでいたが、やがて舌打ちを一つ零した。
「メィリィさん、まだ動けますか?」
「もちろんよお」
その返事へ頷きかけたオットーの傍へ、一羽の小鳥が舞い降りてくる。
早口に訴えるような囀りに耳を傾けたあと、彼が指したのは、今しがた悲鳴が聞こえたのとは別の通りだった。
「メィリィさん、僕たちはあちらへ。まだ逃げ遅れている人がいます」
少女が魔獣たちへ向き直るのを横目に、ハインケルは悲鳴の上がった方へ足を向ける。
「ハインケルさんは──」
「行くに決まってんだろうが」
パトラッシュへ乗ろうとしていたオットーの言葉を遮り、ハインケルは剣を肩へ担ぎ直す。
敵の消えた通りへ一度だけ目を戻したものの、そこには相変わらず誰の姿もなかった。
「……気味悪ぃ真似しやがる」
そう吐き捨てて背を向けると、ハインケルはそのまま前を見据えたまま背後のオットーに言葉を告げる。
「あとで聞かせてもらうからな、内政官」
「……全部終わってからにしてください」
「それまでくたばるんじゃねぇぞ」
たったそれだけを口にして、ハインケルは燃え盛る街の中へと消えていった。
背後ではまだ橋を渡った人々への呼びかけが続き、向かう街の奥からも助けを求める声が聞こえてくる。
1秒も無駄にできないとばかりに、オットーとメィリィも同じく火の手が上がる街の中へと再び入っていくのだった。