原作と明確に違うところ合ったら、いい感じに直すのでひっそり感想とかで教えてください。
都市中央へ近づくほど、通りから人の気配は薄れていく。
もっとも、街の混乱が収まったわけではない。
少し離れた通りからは今も怒号と剣戟が鳴り響き、建物の向こうには黒煙が幾筋も伸びていた。
遠くで何かが崩れるたびに足元の石畳へ微かな振動が伝わってくるというのに、都市庁へ続く道には人影一つ見当たらない。
そんな不気味な静けさの中、建物の隙間から覗く目的地を見据え、スバルは小さく息を吐き出した。
「そろそろ鐘を鳴らしたいところだけど……」
リリアナが歌い出すための合図を届けるには、都市庁を取り返して放送用の魔法器を使えるようにしなければならない。
目的地まではもう目と鼻の先だ。
街の惨状を思えば一刻も早く踏み込みたいところだが、相手が相手だけにそう簡単にもいかなかった。
「カペラがなぁ……」
色欲の大罪司教カペラ。
スバルがこれまで戦ってきた大罪司教の中でも二番目に最悪な、性根の腐りきった女である。
仮にスバルが単身で飛び出せば、これ幸いとばかりに好き放題してくることは間違いない。
ダフネにはここまで何度も助けられているが、カペラとの戦いまで丸ごと任せられるわけではない。
これまで何度となくあの女に殺されてきた経験が、今だけは焦らず仲間を待てと警鐘を鳴らしていた。
「ねぇ、すばるん」
そうしてスバルが考え込んでいると、不意に服の袖を引かれた。
視線を落とせば、ダフネが不思議そうな顔でスバルを見上げている。
「どうした?」
「さっきからずっとそっちを見てますけど、誰か待ってるんですかぁ?」
指さされたのは、二人が歩いてきた道とは別の通りだ。
考え事の合間にも、そんなにそちらを気にしていたらしい。
待ちわびているのが丸分かりだったと思うと少しばかり情けないが、今さら見栄を張ったところで仕方がない。
「予定通りならエミリア達がそろそろ来てくれるからそれを待ってるんだけど……」
「──スバル!」
返事を終えるよりも早く、背後から聞き覚えのある声が響いた。
思わず振り返った先、二人が歩いてきた道をこちらへ駆けてくる紫紺の髪を見つけ、スバルは驚きに目を見開く。
「ユリウス!? なんでお前がここに!?」
カペラを相手にするなら、これ以上ないほど頼もしい援軍だ。
だがこれまでの周回では、このタイミングでユリウスが自発的に現れたことなど一度もなかった。
何とか彼を呼び出したかったものの、他にやらなければならないことが多すぎて諦めた選択肢だった。
その本人が今、自分の名を呼んで駆けてくるのだから、すぐには返す言葉も出てこない。
「遅れて申し訳ない。エキドナ様から君の援護に回るようにと言付かってね。微力ではあるが協力させて頂こう」
ようやく足を止めたユリウスは、乱れた呼吸を整えながらも、いつもの人当たりのいい笑みを浮かべている。
どうやらエキドナが手を回してくれたらしい。
自分の知らないところでも仲間たちがそれぞれに動いてくれている。
その事実が今のスバルには何よりありがたかった。
「そういうことか、納得した。色欲との戦いにお前が居てくれるのは正直超助かるよ。街の状況は分かるか?」
「北側の大通りまでは避難路を繋いできた。道中でラインハルトとも遭遇したが、彼はそのまま市内の救助へ向かっている」
「なら、そっちは任せてよさそうだな」
「ああ」
そちらを任せられるとしても、目の前の友人まで万全とはいかない。
騎士服には土と煤がこびりつき、所々に付着した返り血には彼自身のものまで混ざっている。
北側からここまで避難路を繋いできた代償が、平然とした顔の下に隠しきれずに残っていた。
それでも今から、彼に力を借りなければならない。
申し訳なさから遠慮を口にしたところで、街の誰かが助かるわけでもないのだ。
「──いけるか?」
「もちろんだとも。いまこの瞬間にも街中で怯え、震えている者達がいる。私がここで足踏みをしているわけにもいかない」
相変わらずの騎士らしい返答に、スバルは口元を緩めた。
自分の傷については一言も触れず、口にするのは街で怯える人々のことばかりだ。
少しばかり面倒な友人の性分に安心しかけたところで、ユリウスもスバルの頭から足元までを見渡し、意地の悪い笑みを浮かべる。
「私の目から見れば君のほうがよほど無理をしているように見えるがね?」
痛いところを突かれた。
ダフネに何度も助けられながらここまで来たというのに、身体に刻まれた傷の数ではユリウスを上回っている始末だ。
他人の心配をしている場合かと言われれば、ぐうの音も出ない。
だが、だからといって自分は無理でしたと引き下がれるほど、ナツキ・スバルの騎士としての矜持も安いものではなかった。
「元気いっぱい100%だよ俺は。後はエミリアたん達が来てくれたら元気120%に勇気まで付いてくるぜ?」
「そうか。ならば問題ないのだろうね」
こちらの強がりを見透かしているのか、それとも本当に納得したのか。
それ以上追及せず隣へ並んだユリウスに、スバルも余計なことは言わず、共に通りの向こうへ目を向けた。
そうして待つこと数分。
今度こそ、見慣れた三人組が路地の向こうから姿を現した。
「スバル君!」
真っ先にこちらへ気が付いたレムが、傍らにいたエミリアたちを置いて駆け寄ってくる。
その姿を見つけたスバルも思わず顔を綻ばせ、片手を上げて応えたものの、どうにも彼女の勢いが収まる気配はない。
──いや、ちょっと待て。
このままだと、もしかして。
「──おおっ!?」
予想を裏切ることなく胸元へ飛び込んできたレムを、スバルは数歩たたらを踏みながらも男の意地でどうにか受け止めた。
傷だらけの身体には少々堪える衝撃だったが、そんなことを口にするよりも早く背中へ回された腕に力がこもり、胸元へ押しつけられた青い髪の向こうから、震えを隠しきれない声が聞こえてくる。
「無事で……よかったです」
「おう。レムも無事で良かった……あとレムさん、ちょい力強いかも、俺の背中がビキビキ言ってる」
「すみません。凄く心配だったんです。スバル君ならきっと大丈夫だって信じてましたけど」
そう謝りながらも、レムの腕はなかなか離れない。
普段なら少しばかり茶化してやるところだが、彼女の震える声を聞いてしまえば、それも何となく憚られた。
急かす気にはなれなかった。
いや、こうして腕の中にいるレムの無事を、スバル自身ももう少し確かめていたかったのだ。
そんなことを考えながら肩越しへ目を落とすと、レムの給仕服にも戦いの跡が残っているのが見えた。
腕には応急処置らしい布が巻かれ、その端から薄く赤が滲んでいる。
レムだって自分にできることを精一杯やって、ここまで戻ってきてくれたのだ。
スバルはただ優しく彼女の背中へ手を添えた。
「もう、レムってば急に走るんだから……!」
追いついたエミリアの声に、ようやくレムの腕から力が抜けていく。
その肩越しに、スバルはベアトリスのしかめ面を見つけた。
無事だと笑って済ませるには、少々傷を増やしすぎたらしい。
「少し見ない間に、また随分とボロボロになっているのよ」
「これでも結構頑張ったんだぜ? ダフネにも助けられたしな」
はにかむスバルを見てベアトリスはやれやれと言わんばかりに頭を振って見せる。
そんな仕草が愛らしくてスバルが抱きしめると、ベアトリスは驚いたように悲鳴を上げていた。
そんな二人のじゃれ合いの横で、エミリアはダフネへ向き直り、真っすぐと頭を下げる。
「ありがとうダフネ。スバルを守ってくれて」
「別にいいですよぉ。約束もしましたしぃ」
「約束? スバルとしたの?」
「ええ」
首を傾げるエミリアに、ダフネはそれ以上答えようとしない。
いまはゆっくり説明している時間もなく、スバルは代わりにパンと手を叩いた。
「──さて、これで全員揃ったわけだし……都市庁奪還戦やっていきますか」
「作戦はあるのかしら?」
もちろん何も考えずにここまで来たわけではない。
ただあの女がどこからこちらの様子を窺っているかも分からないのに、大っぴらに話す気にはなれなかった。
それに今からやろうとしていることは、作戦と呼ぶには少々稚拙すぎる。
後は一人で抱え込まず、この頼もしい面々に付き合ってもらうしかない。
「まぁとりあえず成るように成れって感じだ。少なくとも最悪の状況じゃない」
「分かりました! レムも頑張ります!」
「それは作戦とは言わないかしら。でもスバルがそう言うなら、ベティは最善を尽くすのよ」
「頼りにしてるぜ。それじゃあ特に問題なければ行くか! 都市庁攻略戦」
スバルの声に仲間たちも頷き、一行は都市庁へ向かって歩き出した。
互いを見失わない程度に距離を保ちながら大通りへ出ると、それまで建物の陰に隠れていた都市庁の全貌が視界へ飛び込んでくる。
しかし、そこでスバルが目にしたのは、想像していた惨状とはまるで違う光景だった。
少し離れた場所では今も剣戟や悲鳴が響き、街の至るところで建物が壊されているというのに、都市庁だけは何事もなかったかのように普段の姿を保っている。
外壁に大きな損傷は見当たらず、入口付近に戦闘の痕跡すら残っていない。
ここを奪還しようと考えたのがスバルたちだけだとは思えなかった。
街の警護を担う者たちなら、真っ先に取り返そうとするはずだ。
その抵抗の跡さえ見当たらないのだから、中で何が待っているのか考えるだけでも気分が悪くなる。
──わざわざ相手の懐へ飛び込んでやる必要もないか。
そう判断したスバルは、都市庁の少し手前で足を止めた。
建物の窓からも十分に姿が見える位置だ。
仲間たちが不思議そうにこちらを窺う中、スバルは大きく息を吸い込み、都市庁へ向けて声を張り上げる。
「──カペラちゃーん!!」
静まり返った大通りに、何とも場違いな呼び声が響き渡る。
まるで近所の友達を遊びに誘う子供のような気さくさに、隣のユリウスが目を丸くしていた。
だが、そんな反応に構っている余裕はない。
上階の窓から入口まで見渡しても、人影はない。
まるで誰もいないかのような静けさだが、それを素直に信じてやれるほどスバルもお人好しではなかった。
「……聞こえてんだろカペラ! 俺はお前のことをよーく知ってる」
上階を見上げたまま、スバルは声を張り上げ続ける。
脳裏に浮かぶのは、何を考えているのか分からない、あの張り付けたようなにやけ面だ。
「愛情を確かめるために人を傷つけて、自分を愛してくれない奴がいれば癇癪を起こす。自由人気取りのイカレ野郎」
返事はない。
この程度の悪口なら、自分の都合のいいように受け取って笑っているのだろう。
ならばカペラ自身が決して触れられたくないところへ踏み込むまでだ。
「大罪司教になる前から、お前は何も変わってねぇ。姿を変えたって、中身まで変わった気で居るのはお前だけだ」
これまでとは違う言葉を選んだ途端、スバルの胸には嫌な緊張が走った。
ここではない世界で何十回もの死を繰り返し、ようやく知り得た情報。
思い返したくもない犠牲の果てに、スバルはあの女が何を決して許さないのかを知った。
姿形を変えても隠せないものを、他人に知られているという屈辱。
かつてカペラを攻略するために用いたそれが、この世界の彼女にも突き刺さるのなら。
「だってお前は──」
だが、その先を口にすることは叶わなかった。
上階から響いた耳障りな音に顔を上げると、窓が内側から大きく歪み、周囲の外壁までひび割れ始めている。
続いて凄まじい力で押し出された窓枠が石材や硝子を巻き込み、スバルたちへ向けて降り注いできた。
「──スバル!」
「っ!」
ユリウスの声と共に身体を横へ引かれ、踏ん張る間もなく足元がよろめく。
そのすぐ目の前へエミリアの氷壁がせり上がり、降り注いだ石材と硝子が激しい音を立ててぶつかった。
飛び散る破片から腕で顔を庇う間にも、さっきまで自分が立っていた場所へ窓枠が落ち、砕けた石材の下に埋もれていく。
「ワリィ、助かった」
「構わない。それよりもどうやらおびき出す事には成功したようだね」
ユリウスに促されて顔を上げれば、都市庁の上階では今も外壁が砕け続けていた。
崩れた窓の向こうから巨大な黒い塊がせり出し、壁を押し広げながら、その異様な輪郭を露わにしていく。
長い首に黒い鱗、外壁へ深く食い込む巨大な爪。
やがて広げられた翼が傾いた陽光を遮り、スバルたちのいる通りへ大きな影を落とした。
何度となく目にしてきた、カペラが好んで取る龍の姿そのものだ。
腹部には痛々しい傷が残っているが、巨体を支える足にも、広げた翼にも、怯む気配はない。
黒龍は崩れた壁へ爪を食い込ませたまま、瓦礫の向こうから顔を覗かせたスバルを真っ直ぐに捉えていた。
赤黒い瞳に宿る感情を読み違えるはずもない。
そこにあるのは、いつもの人を小馬鹿にしたような愉悦ではなく、ただひたすらに剥き出しの怒りだった。
「…………」
喉の奥から漏れた低い唸りが大気を震わせ、腹の底まで響くような振動が身体を伝ってくる。
その迫力に思わず喉が鳴ったものの、スバルはどうにか顔を引きつらせずに済んだ。
──随分と怒らせたらしい。
「よし、出てきたな」
「必要なのは分かるけれど、無理しすぎなのよ」
「結果オーライだろ? それに無茶はこれからだぜ。頼むぜみんな」
少なくとも、あの女を都市庁から引きずり出すことはできた。
カペラにこちらの連携を考える余裕を与えず、自分へ意識を向けさせ続ける。それがスバルの引き受けた囮役だった。
見上げる先で起き上がった巨体が上階を覆い、その影の下にいる仲間たちの姿がやけに小さく見える。
まともに受ければ死ぬのは分かっているが、ここまで付き合わせておいて、今さら自分だけ怖気づくわけにもいかない。
スバルは腰から鞭を引き抜くと、黒龍を見上げながら精一杯の笑みを浮かべてみせる。
「かかってこいよ黒蜥蜴! 魔獣討伐は俺の専売特許だぜ!」
その言葉に応えるように黒龍が翼を広げ、二度、三度と羽ばたくだけで巨体は都市庁の屋根を越えていく。
巻き起こった突風が通りの瓦礫を吹き飛ばし、スバルも思わず腕で顔を庇った。
逃げたのか?
そんな淡い期待は、頭上で大きく旋回した影に押し潰された。
「来る!」
エミリアの警告とほぼ同時に黒龍が翼を畳み、開かれた大口から炎の息吹が溢れ出す。
その巨体までもが凄まじい勢いで落下してくるのを見て、エミリアは咄嗟に氷の障壁を展開した。
だが、あれほどの質量を持つ相手だ。
氷壁が炎を遮る間にスバルも全力で石畳を蹴ったものの、続いて叩きつけられた巨体の勢いまでは殺しきれず、砕け散る氷の向こうから巨大な前脚が迫ってくる。
──マズい。
「スバル君!!」
次の瞬間、横合いからの強い衝撃に身体が引き倒され、スバルの視界が大きく揺れた。
受け身を取ろうと突き出した肘に鋭い痛みが走り、すぐ傍では巨大な爪が石畳を抉り取っている。
轟音と共に破片が跳ね上がり、慌てて顔を庇ったスバルのすぐ向こうを、勢いを殺しきれなかった黒龍が通りを削りながら滑り込んでいった。
レムの腕に抱きかかえられたまま、滑り去る巨体を見送ることしかできなかった。
耳の奥で心臓がうるさく鳴っていた。
「スバル君、怪我は?」
「肘打ってジーンってなってるくらい! レムは?」
「大丈夫です!」
その返事にひとまず安堵し、スバルは痺れの残る肘を庇いながら立ち上がる。
指先は動くし、鞭だってまだ振るえる。
どうにかそう確かめたところへ、傍らから容赦のない声が飛んでくる。
「煽るのが効果的なのは分かるけれど、これじゃあどっちの方が楽だったか分からないのよ」
「俺もちょっと気にしてんだからそこは目を瞑ってくれ」
軽口の間にも、土煙の向こうでは巨体の影がみるみる縮んでいく。
やがて瓦礫を踏み越えて現れたのは、先ほどまでの黒龍とは似ても似つかない小柄な少女だった。
左脇腹にはまだ黒い鱗が残り、その下の傷も塞がりきっていないようだが、当の本人はそんな負傷など気にする様子もなく、邪魔そうに鱗を剥がしながらスバルを睨みつけてくる。
「てめーは一体何なんですか? 人の事を知ったような気でべらべらと……ッ」
一通り都市庁の前を壊して、ようやく口を利く気になったらしい。
剥き出しにした牙と吊り上がった目を見れば、まともな会話が成立するとは思えなかったが、それでも今さら引き下がる理由はない。
スバルは痛む肘を気にしながらも、不敵に笑って言葉を返した。
「それはオマエの得意分野だろ? カペラ・エメラダ・ルグニカ」
一瞬だけ、カペラの顔から表情が消える。
作り物のように整ったその顔は、何も知らなければ可愛らしい少女のものにしか見えないだろう。
だが次の瞬間には剥き出しの怒りが表情を塗り潰し、到底少女のものとは思えない罵声が大通りへ響き渡った。
「もうオメーはいいです。可愛い可愛いカペラちゃん様が、この世界で何よりも酷い苦痛を与えて殺してやりますよ、このクソ肉袋がァッ!!」
その叫びを合図にしたかのように、周囲の路地や建物の屋根から亜獣たちが次々と姿を現す。
人間だった頃の名残を留めながらも、もはや人とも獣とも呼べない異形の群れだ。
路地から溢れた個体に屋根から飛び降りた後続まで加わり、都市庁前の通りは瞬く間に埋め尽くされていった。
それでも、亜獣だけなら今の仲間たちで対処できる。
問題は、その群れに紛れてカペラまで見失ってしまうことだ。
「ベアトリス!」
「分かってるのよ!」
返事と共に先頭の亜獣が吹き飛び、巻き込まれた後続までまとめて石畳へ転がっていく。
しかし、倒れた身体を踏み越えて次の一体が飛びかかり、開いた隙間はすぐに別の影で埋まってしまった。
仲間たちが押し寄せる群れを食い止める中、スバルは亜獣の向こうにいるカペラを見失うまいと目を凝らす。
だが、そちらばかりを警戒していたせいで、すぐ近くまで迫っていた別の危険に気付くのが遅れてしまう。
「すばるん、右ですよお」
「右──っ!?」
ダフネの声に反射的に身を沈めれば、頭上を鋭い爪が掠めていった。
狙いを外した亜獣はそのまま背後へ突っ込んでいき、その先にいたダフネへと牙を向ける。
「ダメですよぉ、おいたは」
だが、細い腕が一度振るわれただけで、亜獣の身体が呆気なく砕け散る。
続けてダフネへ飛びかかった別の一体も、細い手に払われて後続へ叩き返された。
折り重なって倒れる亜獣の向こうへ視線を戻した瞬間、スバルの目に別の影が飛び込んでくる。
「──肉袋ァ!」
耳を劈くような罵声と共にカペラが飛び出し、スバルの首へ爪を伸ばしてくる。
咄嗟に身体を仰け反らせたものの、逃れきれなかった先端が服ごと胸元を引き裂き、焼けるような痛みが走った。
「ぐっ──!」
あまりの激痛に息が詰まるが、ここで動きを止めれば次こそ喉を引き裂かれかねない。
スバルは悲鳴を噛み殺すと、目の前に迫った小柄な身体へ渾身の蹴りを叩き込む。
「ぎゃッ!!」
カペラの身体が後方へ弾かれ、スバル自身も反動で石畳を滑る。
あの女にとって蹴りの一発など大した痛手にはならないだろうが、それでも互いの間には確かに距離が生まれた。
偶然手に入れた僅かな時間を無駄にすまいと、スバルは息を詰まらせたままエミリアの名を叫ぶ。
「エミリア!!」
「分かってる!」
応じたエミリアが両手を広げると、石畳から氷が次々とせり上がっていく。
路地の入口で亜獣を迎え撃つダフネを外に残し、円形の氷壁がカペラとスバルたちを取り囲んだ。
向こうでは早くも爪を立てる音が響いている。
これを破られる前に、あの女を叩かなければならない。
「所詮は人モドキ、足止め程度もできねーですか」
氷壁の向こうへ悪態をついたカペラに、ユリウスが低い姿勢から斬り込んだ。
狙うのは、少女の姿へ戻ってもなお塞がりきらない左脇腹の傷。
だが、切っ先が届くよりも早く腰から肩にかけての肉が不自然に膨れ上がり、黒い鱗に覆われた巨体が騎士の眼前へせり出してくる。
「くっ──!」
膨張する肉へ斬りつけたものの、硬い鱗に阻まれた刃は傷まで届かず、続けて押し出された巨体がユリウスへ激突する。
咄嗟に剣を引き戻して受け止めた彼だったが、その勢いまでは殺しきれず、身体が後方へ弾き飛ばされた。
「ユリウス!」
「構うな!」
靴底で石畳を擦りながらも、ユリウスは剣を握ったままだ。
だが、彼が構え直すのを待たずに伸びたカペラの腕は、吹き飛ばした相手ではなくスバルの喉元へ向かってくる。
──要するに、狙いは最初から俺かよ。
身を引こうとした眼前に白い壁がせり上がり、続いてエミリアの声が響いた。
「スバル、動かないで!」
足を止めたスバルの目前で、氷壁へ爪が突き刺さる。
その腕に横合いから鉄球が叩き込まれ、砕かれた手首を包むように氷が伸びていった。
地面へ縫い留められた腕を見て、ようやく動きを止められたかと思ったのも束の間。
カペラは拘束された腕を付け根から引き千切り、構わずこちらへ踏み込んでくる。
「げっ……!」
カペラは氷へ残した肉など見向きもせず、空いた肩から新たな腕を生やして爪を伸ばす。
スバルの喉元へ届く寸前、それを弾いたのは戻ってきたユリウスの剣だった。
「チッ、邪魔くせぇ騎士様ですねぇ」
「君の相手は私だ」
剣と爪の応酬はスバルの目では追いきれないが、斬り飛ばされた肉や脚を貫く氷を見れば、攻撃が届いているのは確かだ。
それでもカペラは傷ついた箇所を作り直し、ユリウスの肩越しにこちらを窺っている。
「スバル君、下がって!」
「分かってる! 分かってるけどアイツ俺しか見てねぇ!」
退こうとした先へ長い尾が回り込み、スバルは横へ身を投げ出す。
すると、その先端が反対側へ跳んだベアトリスに向かい、間に割り込んだレムの鉄球に弾かれた。
だが、尾は打たれた箇所から不自然に折れ曲がり、今度はレムの脇腹へ叩きつけられる。
「レム!」
「……大丈夫、です」
途切れがちな返事に、とても大丈夫とは思えない。
ユリウスが尾を斬り落とし、エミリアがカペラを押し戻している間にも、レムは呼吸を整えるだけで精一杯の様子だった。
駆け寄ろうとしたスバルも、立ち上がりかけたところで胸の痛みに顔を顰める。
裂かれた傷が服に擦れ、肘の痺れも抜けていないせいで、握り直した鞭にはろくに力が入らない。
助けられたばかりで情けない話だが、今の自分が近づいても、また彼女に庇わせることになりかねなかった。
そんな一行の様子を、カペラは追撃もせずに眺めている。
こちらを睨みつけていた瞳が、スバルを守るために動いた仲間たちへと向けられた。
「大事にされてるんですねぇ、肉袋」
斬られた尾を縮める少女の顔には、先ほどまでの怒りに代わって愉快そうな笑みが浮かんでいる。
あれほど執拗にスバルだけを狙っていた女が、今は仲間の反応を見て笑っている。
「愛されてるじゃねーですか。羨ましいですねぇ」
「お前に愛がどうだの言われても嬉しくねぇよ」
吐き捨てるスバルには構わず、カペラは剣を向けるユリウスへ目を移すと、喉の奥で笑った。
「フハッ、そういう話じゃねーんですよ」
言い終えるなり地面を蹴ったカペラに、仲間たちの攻撃が集中する。
だが、進路を塞ぐ氷槍も、肩を抉るベアトリスの光も、今度は避けようとしない。
横から鉄球を受けて身体が傾いても、すぐに姿勢を立て直して距離を詰めてくる。
「おいおいおい……!」
氷に貫かれた脚を引き千切り、新たに生やした脚で踏み込んだカペラは、背中を斬りつけたユリウスにさえ振り返らなかった。
迫る腕へスバルは鞭を絡め、せめて引き倒そうと力を込める。
ところが、逆にこちらの身体が引き寄せられ、踏ん張る間もなく靴底が石畳を滑った。
「しまっ──」
咄嗟に鞭を手放した時には、もうカペラの腕が胴へ回っている。
振りほどこうとした両腕ごと締め上げられ、胸の傷を圧迫する力に息が詰まった。
「──っ!」
そのまま身体の向きを変えられれば、眼前には追ってきたユリウスの姿があった。
カペラへ振るわれるはずの剣の前に、スバルが押し出されたのだ。
反射的に肩を強張らせた鼻先で、刃が止まる。
無理に踏みとどまったユリウスの体勢が崩れ、その隙へ背後から伸びた尾が滑り込んでいった。
「ユリウス!」
脇腹を打たれて吹き飛ばされたユリウスは、剣を握ったまま石畳に片手をつく。
すぐに立ち上がろうとするものの、その動きは途中で鈍り、押さえた脇腹から血が滲んでいた。
自分を斬らないために、止めてくれたのだ。
その一瞬を狙われた友人へ駆け寄ることすら出来ず、スバルは彼の指の間を伝う血を見つめる。
耳元で弾けた甲高い笑い声が、やけに近く聞こえた。
「キャハッ。止めちゃいましたねぇ、これがお前等の決定的な弱点。肉袋が邪魔なら、ちゃあんと止まってくれる」
首を捻って睨みつけても、カペラはユリウスの反応を楽しんでいるばかりだ。
近づこうとしたエミリアには、スバルの首筋へ爪を押し当ててみせる。
彼女が足を止めると、少女の口元がますます吊り上がった。
「こいつごとアタシを斬れるんですかぁ?」
「俺を巻き込む前提で話進めんな!」
「うるせーですよ肉袋。こっちはいま騎士様と大事なお話してるんですから、ちょっと黙ってろ」
腹を締め上げられ、続く悪態まで押し戻される。
どうにか足だけでも動かそうとしたスバルをカペラは軽々と持ち上げ、ようやく立ち上がったユリウスへ見せつけるように突き出した。
「で? どうなんです? 斬れるんですか? 斬れねーんですか?」
「君が何をしたいのか、甚だ疑問だ」
声は落ち着いていても、剣を握り直すユリウスの目は隙を探している。
カペラもそれを承知しているらしく、少しずつ身体をずらしては、彼と自分の間へスバルを置き続けていた。
「ワタクシ様がしたいことは一つだけ。おめーらが醜く足掻いて、それがなんの意味もないって理解させる事。どう? 愛してるから殺せない? それとも、みんなを守るためなら大事な大事なお友達ぐらい殺せちゃう?」
肩越しに覗き込んできた顔には、隠そうともしない期待があった。
ユリウスの返事を待つ気さえないらしく、カペラは楽しげに言葉を重ねる。
「どっちにしたって最高じゃねーですか。殺せばオメーらの愛なんざその程度。殺せなきゃ、その薄っぺらい愛情抱えて仲良くくたばれ」
友人がスバルを斬れなかったことを、あの女は嬉々として笑っている。
自分が痛めつけられるだけなら、悪態の一つでも返してやればいい。
だが助けてくれた仲間たちの思いまで好き勝手に弄ばれて、黙っていられるほどスバルは出来た人間ではなかった。
「……やっぱ、オレお前のこと嫌いだわ」
「あらぁ奇遇じゃねーですか。こっちもオメーのこと死ぬほど嫌いですよ?」
にたりと歪んだ口元を残し、カペラの背中が大きく膨れ上がっていく。
黒い鱗を纏った尾と翼が少女の身体には不釣り合いな大きさとなり、そのまま周囲の氷壁へ叩きつけられる。
砕けた氷の向こうから亜獣がなだれ込み、エミリアたちは再び群れの相手を捺せられていた。
先頭の一体をレムが吹き飛ばしても、倒れた身体を踏み越えて後続が押し寄せてくる。
再び仲間たちが亜獣の対処に追われる中、カペラは満足げに笑いながらスバルを抱え直し、ユリウスの前へ押し出した。
「ほら、騎士様。今なら、ど真ん中ですよ?」
ユリウスは剣を下ろさず、静かに呼吸を整えている。
その沈黙を迷いと受け取ったのか、カペラは亜獣の唸り声にも負けない声で畳みかけた。
「さあ、愛してるお友達ごと──斬ってみろよ。どうしましたぁ、騎士様。早くしねーと、周りのお仲間から順番に食われちゃいますよ?」
そう嘯くカペラは気付かない仲間たちの変化。
スバルの目にはベアトリスが準備を整えているのが目に入る。
彼女はレムの袖を引いて何かを耳打ちし、それに応じたレムも一度だけこちらを確かめる。
「スバル」
呼びかけてくるユリウスの声に揺らぎはない。
彼は迷っているのではなく、こちらの答えを待っているのだ。
もがくのをやめると、身体へ食い込んでいた力が僅かに緩む。
諦めたと思ったのだろう、耳元ではカペラがなおも楽しげに笑っていた。
その声を聞きながら、スバルは正面の騎士を見据える。
かつて自分へ剣を向けた友人の、苦しそうな顔を忘れたわけではない。
けれど、今から彼に頼むのは、あの時と同じ結末ではなかった。
ベアトリスもレムも、既に動き始めている。
ここから抜け出すために、今度も彼らの力を借りるのだ。
胸を締めつける腕の下で、スバルはどうにか息を吸い込んだ。
「──やれ! ユリウス!」
「──分かった。君たちを信じよう」
脇腹を押さえていた手が剣へ戻り、握り直した柄に血の跡が残る。
引かれた刀身へ六つの光が集まり、傷ついた騎士の姿を照らし出す。
絡み合ってもそれぞれの色は消えず、赤も青も、その輝きを増していく。
足元に散った氷まで光を映し、砕けた壁の内側が明るく染まっていた。
「……は?」
耳元の声から、笑いが抜ける。
先ほどまで幾度も振るわれていた剣と、目の前のそれは明らかに違った。
離れていても肌へ圧が刺さり、スバルの背筋まで強張る。
それでも目は逸らさなかった。
「オイ」
カペラが腕へ力を込め、スバルを更に前へ押し出した。
自分の姿を隠そうとするような強引さに、ユリウスの剣先は動かない。
六色の刀身は、スバルも、その後ろのカペラも捉えていた。
「オイ、テメェ……本気でやる気ですか? こいつが先に真っ二つになるんですよ!?」
ようやく慌てた声を聞けたが、笑ってやる余裕はなかった。
こちらへ向いた切っ先を見るたび、喉が勝手に息を呑み、解けもしない拘束から逃れようと身体が強張る。
「私も、そしてそこに居る彼も騎士だ。この国を守るためであれば、それがどれほどの罪であるかを理解しながら、私はこの剣を振るおう」
「────っ!!!」
言葉にならない声を漏らし、カペラがスバルごと後退しかける。
ーーミシリと嫌な音かなり響き、続いて痛みを覚える冷気が足元から伝わってきた。
エミリアが放った氷だ。
それはカペラにとって無理やり踏み砕けば抜け出せる程度。
だざ一度足を止めさせれば間に合う。
鎖を手放したレムが、眼前に差し出されたベアトリスの両足首を掴む。
脇腹を庇っていたはずの身体が大きく回り、ベアトリスが亜獣の頭上へ投げ放たれる。
金色の髪が、宙に大きな弧を描いた。
ーー所謂ところのジャイアントスイングだ。
かつてラムを投げた時と同じ投げ方だが、今度のスバルは飛んでくる相手を待つ側だった。
彼女が届けてくれる小さな相棒から、もう目を離さない。
伸ばされた両手がスバルの肩を掴み、飛び込んできたベアトリスがそのまましがみつく。
カペラが小さな乱入者へ目を向けるより早く、聞き慣れた声が響いた。
「──E・M・M」
胸を締め潰していた力が、唐突に遠のく。
自由になったわけではなかった。
肩に添えられた小さな手も、胴へ巻きついた腕もそのまま見えているのに、身体を引きずられる感覚だけが消えている。
「な──」
カペラの驚きの声を掻き消して、
クラリスタ。
六色を束ねた一撃が、スバルとベアトリス、そして背後のカペラを呑み込んだ。
黒い鱗が剥がれ、巨大な翼の輪郭が崩れ去る。
胴を締め上げていた腕の外側から肉が崩れ、その向こうでは石畳が一直線に抉られていく。
剥がれ落ちる黒い鱗も、巻き上がった瓦礫も、光の奔流に呑み込まれ、目の端を流れていった。
スバルには、何も届かない。
視界を埋め尽くす輝きの中、守るべき幼女の感触だけがスバルの唯一の支えだった。
「──ギャァぁぁッ!!!?」
今までとは違う真に迫った悲鳴が響き渡り、スバルを縛っていた腕の残骸が背後へ崩れ落ちた。
斬られようと潰されようと笑っていた女が、地面に伏して声を張り上げている。
足が石畳へついた途端、戻ってきた身体の重さに膝が折れかけるが、スバルはベアトリスを抱き寄せ、どうにか踏みとどまる。
胸も肘も痛むものの、あの一撃によって負った傷はどこにもない。
肩にしがみつくベアトリスも無事だった。
浅い呼吸を繰り返す彼女を支え、指先に残る小さな震えを感じながらカペラから距離を取る。
そこでようやく、スバルはベアトリスをそっと地面へ下ろした。
振り返った先では、地面についたカペラの腕が膨れ上がっていた。
また起き上がるのかと身構えたものの、人の腕へ戻りかけたそれは途中から獣の前脚へ変わり、体重を支えきれずに潰れてしまう。
生えかけた翼は萎れ、顔の半分には鱗が残ったままだ。
肉は再生しているのに、元の姿へ戻らない。
何度攻撃を受けても止まらなかった相手が、今は立ち上がろうとするたびに、自分の身体を崩していた。
その間にも、傍らへ迫った亜獣をレムが拾い上げた鉄球で叩き伏せ、残る数体はエミリアの氷に呑み込まれていく。
壁の隙間まで再び塞がれると、ようやく内側に押し寄せていた群れが途絶えた。
「やった──!?」
氷を伸ばした手を下ろしかけ、エミリアがカペラへ顔を向ける。
確かに今度こそ倒せたと思いたくなる有様ではあるが、その言い方にはスバルも反応せずにいられなかった。
「エミリアたんそれ特大フラグかも!?」
「あはっ、あははっ、キャハハハハハハハハハハ!!!!!」
案の定、と言いたくもなる耳障りな笑いが響き渡る。
顔を持ち上げたカペラは、少女の面影を残す側の頬だけを引きつらせ、腕とも翼ともつかないものを地面へ突き立てた。
ユリウスが剣を構え直しても、こちらへ向けられた目は逸らされない。
「おめーらは勘違いしてやがるんですよ、どこまでも! たかだか一撃決めただけで調子に乗りやがって」
持ち上がった身体が大きく傾き、ようやく笑いが途切れる。
その口元から、今度は低く押し殺した声が漏れた。
「とっととくたばりやがれ」
その言葉に続いて、カペラの腹だけが内側から押し広げられていく。
数秒も待たずに大きく膨らみ、女の口からは喘ぐような声が漏れ始めた。
止めなければ、と頭では分かっていても、崩れかけた人の身体が内側から膨らんでいく光景に、スバルは咄嗟の一歩を踏み出せない。
だってそんなの、いままで一度たりとも見たことがなかったから。
「──くふっ」
その遅れを笑うように口元が歪み、次の瞬間、腹が内側から裂けた。
どちゃりと水音を立てて、大きな何かが石畳へ落ちる。
「お前──そこまでやるか」
零れ落ちたのは人間だった。
成人の男にしては小さく、かといって子供とも呼びづらい身体に、見覚えのある二人分の姿が
暴食の大罪司教、ロイとライ。
無理やり繋ぎ合わされた二人は、石畳に手をつき、その異様な身体を起こそうとしていた。
「────?」
こちらへ向けられた顔には、言葉が通じている様子もない。
だがその手足へ力が籠もった瞬間、今日一番の悪寒がスバルの背筋を駆け上がる。
「スバル!!」
間へ飛び込んだユリウスが、異形の突進を正面から受け止める。
激突の音と共にその姿が遥か後方へ弾き飛ばされ、開いた視界にはもうツギハギの顔が迫っていた。
にたりと歪む口元を前に、何度も味わってきた死の予感が身体を突き動かす。
死にたくない。
その一心で、隣にいるベアトリスとは逆側へ身を投げ出す。
筋繊維の千切れる音と共に、振り抜かれた腕が鼻先を掠めていった。
「────っ!」
「スバル!!」
誰の呼び声だったのかさえ、今のスバルには分からない。
体勢を戻せないこちらへ次の腕が迫り、その向こうではユリウスがまだ倒れている。
ベアトリスの手が伸びてくるが、身を投げ出したスバルの服には、その指先さえ届かない。
エミリアたちが駆けつけるよりも早く、異形の腕が目の前を塞いでいく。
ようやく皆とここまで来たというのに、また、あの場所からやり直すのか。
同じ顔にもう一度会えたって、自分を信じて剣を振るってくれたことも、胸元で震えるレムを受け止めたことも、全部なかったことになる。
その恐怖に引きつる喉をどうすることも出来ず、スバルはせめて彼女たちへ見せる顔だけでもと、口元を持ち上げかける。
その目前で、空間がぐらりと歪んだ。
「──あ?」
爆音と共にツギハギが地面へ叩き込まれ、砕けた石畳の向こうに小さな少女が立っている。
何が起きたのかは分からない。
だが、目の前にいる相手を見間違えるはずがなかった。
「スピカ……?」
もう二度と会えないと思っていた相手だ。
帝国で何度も命を救われ、共に過ごした日々がその顔と重なり、スバルは思わず手を伸ばしかける。
彼女が自分を覚えているのかどうか、そんなことを確かめるより先に、また会えたという喜びで胸がいっぱいになっていた。
けれど、スピカは振り返らない。
いまだ言葉を継げないスバルを背に、倒れたツギハギを見下ろしている。
「……結局、私らは食べて、食べられて。そんな簡単なことも、まともにできなかったんだね」
スピカは困ったように笑った。
足元に倒れた異形を見つめる瞳には、怒りよりも、どこか寂しげな色が浮かんでいる。
けれど、その顔を見ているうちに、少女は小さく首を横に振った。
ツギハギが石畳へついた手足に力を込め、再び起き上がろうとする。
スピカはもう一度こちらへ向き直ることなく、スバルを庇うように一歩前へ出た。
こちらを振り返らないまま、彼にだけ届くほど小さな声で少女は名乗る。
「魔女教大罪司教『暴食』担当──スピカ・アルネブラ」
名乗り終えるより早くツギハギが飛びかかり、少女がそれを迎え撃った。
鈍い音が立て続けに響く。一方が退けばもう一方が間合いを詰め、二人の足元では石畳の破片が跳ねていた。
割って入るどころか、スバルにはその攻防を追うことさえ難しい。
なのに、耳の奥には今の名乗りがいつまでも残っていた。
スピカ・アルネブラ。
あの名前を、彼女は覚えていてくれた。
自分が与えた名を、自分の口で名乗ってくれたのだ。
帝国で共に過ごした日々が彼女の中にも残っている。そう思うと胸がいっぱいになり、思わずもう一度その名を呼びかけそうになる。
けれど、スピカは大罪司教として名乗り、こちらへ一度も振り返らない。
ならば彼女の選んだ距離を、スバルの都合で壊すわけにはいかなかった。
無事な姿を見られただけでも、今は十分だ。
そう自分に言い聞かせても、喉まで上がってきた名前はなかなか引っ込んでくれない。
そのとき、離れた場所からカペラの不機嫌な声が飛んできた。
「誰だか知りませんけど、人がせっかく使えるようにしてやった肉にケチつけてんじゃねーですよ。いきなり出てきて人の玩具ぶっ壊して、何様のつもりです?」
「……玩具?」
スピカが顔を上げた。
先ほどまで異形を見つめていた瞳が、まっすぐカペラへ向けられる。
「……そっか。そういうつもりなんだ」
小さく頷いて、もう一度ツギハギへ視線を落とす。
少女の指先がぎゅっと握り込まれた。
「二人とも、もう死んでるのに」
その声には、先ほどまでの寂しさとは違う感情が滲んでいた。
「ねえ。これ、何が楽しいの?」
問いかけながらも、答えを待つ様子はない。
カペラが何かを言い返すより早く、スピカは顔をしかめた。
「やだな。こんなの、すっごく嫌い」
言い終わると同時に、ツギハギの姿が視界から消えた。
目で追うこともできない踏み込み。僅かに遅れて轟音が響き、気づけば異形の身体が石畳へ叩きつけられている。
折れた腕があらぬ方向へ曲がり、衝撃を受けた氷壁の一部が崩れ落ちた。
つい先ほどは、迫る一撃を避けるだけで精一杯だった相手だ。
それをスピカは正面から受け止め、押し返していた。
それでもツギハギは起き上がろうとし、残った力で拳を振り上げる。
だが、その拳が届くより早く、異形の胴が大きく折れ曲がった。
二人分の身体を繋ぐ腹部へ裂け目が走り、支えを失ったツギハギが片膝をつく。
その懐には、いつの間にかスピカが立っていた。
「何して──!」
カペラの声を背に、スピカは自分へ倒れかかってくる胸へ静かに掌を添えた。
「……もういいよ」
胸に添えた掌を、ほんの少し押し出したように見えた。
それだけだったはずなのに、身体の内側で何かが弾けるような音がして、ツギハギが大きく仰け反る。
その声が届いたのかどうかも分からないまま、異形の手足から力が抜けていった。
スバルへ向いていた首が横に傾き、倒れかかった身体は地面へ届くより先に薄れ始める。
足が消え、継ぎ合わされた胴が消え、最後には歪んだ顔も残らなかった。
砕けた石畳の前でスピカが短く息を吐く。
それを見て、スバルもようやく肩の力を抜いた。
レムも少女の方を見ていたが、崩れた氷壁の隙間で亜獣が動くと、すぐに鉄球を構え直していた。
ベアトリスもまだ警戒を解いていない。外からは、今も爪が氷を引っ掻く音が聞こえる。
スバルが残る敵へ意識を戻しかけたところで、背後から耳障りな声が届いた。
「……あーあ。クッソつまんねぇ」
振り向けば、カペラが歪な翼を持ち上げている。
腰から下には黒い鱗が残り、片腕も鳥とも龍ともつかない形のままだ。
それでも逃げるつもりなのだと察したユリウスが、離れた場所から石畳を蹴った。
「待て!」
その進路へ残る亜獣が一斉に群がる。
ユリウスが剣を振るい、エミリアの氷が道を開こうとするが、倒した一体の向こうからまた別の影が飛び出してくる。
群れを抜けるより早く、カペラの身体がふらつきながら宙へ浮いた。
屋根の高さまで逃れた女が、崩れた顔をスバルへ向ける。
「覚えとけよ、クソ肉袋! 次はぜってぇ、オメーが一番嫌がる顔にしてから殺してやる!」
「……やれるもんならやってみろ。クソ女」
「キャハッ!」
耳障りな笑い声を残して翼が羽ばたき、瓦が砕ける。
そのまま屋根の向こうへ消えた影を追い、ユリウスが建物の壁を蹴って縁へ手をかけた。
逃がしたくないのはスバルも同じだ。
あれだけのことをされて、ここで背を向けられるのが悔しくないはずもない。
だが、今の友人を追撃へ行かせるわけにはいかなかった。
「追うな!」
呼び止められたユリウスが身を翻し、石畳へ降り立つ。
着地の衝撃に眉を顰め、脇腹を押さえる。その手を下ろしてから、こちらへ静かに問いかけた。
「……いいのかい?」
「逃げに徹したアイツを追いかけるのはまずムリだ。それより都市庁を押さえるのが優先」
そう言いながら、スバルはユリウスの足元へ落ちる赤い雫を見ていた。
レムも打たれた脇を庇いながら鉄球を振るい、エミリアとベアトリスも残る亜獣への対処で息を乱している。
追えるかもしれない。だが、そのために誰かをもう一度あの女の前へ送り出す気にはなれなかった。
皆が傷を負いながら、ようやくここまで辿り着いたのだ。
取り返すべきものは、まだ目の前に残っている。
「放送を戻す。残ってる連中をさっさと片付けて、ここを制圧するぞ!」
「了解した」
ユリウスが剣を返し、エミリアたちも残った亜獣の対処へ戻っていく。
その中でただ一人、スピカだけがゆっくりと背を向けた。
少しずつ遠ざかる小さな背中。
さっきまで、無事でいてくれただけでいいと思っていた。
彼女がこちらとの距離を保とうとしているのも、分かっている。
それでも、このまま何も言わずに見送ることだけは、どうしてもできなかった。
「──待て」
足音が止まる。
けれど、スピカは振り返らない。
どこにいたのか。どうしてここへ来たのか。ずっと無事だったのか。
聞きたいことはいくらでもあった。できることなら、以前のように他愛のない話だってしたかった。
だが、ここで昔の仲間として呼び止めれば、彼女が守ろうとしているものまで壊してしまうかもしれない。
スバルは幾つもの問いを飲み込んで、初対面の相手にも尋ねられる言葉を選んだ。
「……なんで助けた」
「……え?」
半分だけ振り返ったスピカが、不思議そうに瞬きをする。
それから、何かに気づいたように口元を緩めた。
「ああ。あれね。……あんなままにしておきたくなかったの」
「……それだけか?」
スピカは少しだけ首を傾げた。
何か言いたそうに唇を動かしたものの、結局そのまま口を閉じてしまう。
それから、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
「……それだけじゃ、ダメかな?」
その顔を見て、スバルは次の言葉を見失った。
嘘をついているわけではないのだろう。あの異形を見つめる少女の顔には、確かな嫌悪があった。
それでも、ツギハギを倒すためだけではなく、自分を助けるためでもあってほしかった。
名前を覚えていてくれた。それだけで嬉しくて、再会できただけで十分だと思っていたはずなのに。
レムも声をかけかけては唇を結んでいる。
彼女もまた、何と言えばいいのか分からずにいるらしい。
そんな二人を見つめていたスピカが、ふっと笑った。
「じゃあね、
最後に呼ばれた自分の名前が、耳に残った。
スピカは前へ向き直り、崩れた外壁の隙間を抜けて薄暗い路地へ歩いていく。
角を曲がる直前、その足取りがほんの僅かに緩んだ。
けれど、振り返ることはない。
スバルが何も返せずにいる間に、その小さな背中は通りの向こうへ消えていった。