元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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一章
一話


 そもそも、である。

 神は存在するのか? この問いは、神学者が生涯(しょうがい)をかけて挑むべき深遠なるテーマであるが、私に言わせれば答えは実にシンプルだ。存在するに決まっている。でなければ、この私を教皇にしようなどという、悪趣味極まる喜劇をいったい誰が演出するというのか。

 そう。皮肉なことに、私の人生における最大の不幸こそが、神の存在証明に他ならなかったのである。全知全能の神がいると仮定すればこそ、この理不尽な配役が「神の気まぐれ」という唯一の解答にたどり着くのだから。

 

 システィーナ礼拝堂の荘厳(そうごん)な天井画に見守られながら、二週間にも及ぶ耐久コンクラーベは、もはや私の精神を削り尽くすための宗教的拷問と化していた。

 

 初めのうちは良かったのだ。「次代の教皇は誰か」などという、まるで競馬の予想屋にでもなったかのような無責任な議論に興じ、有力候補たちの顔を値踏みしては、心の中で「あの御仁は少々厳格すぎる」「こちらの方はもう少し俗世の空気を吸うべきだ」などと、さも高尚な批評家然としていられたのである。枢機卿(すうききょう)という地位は、要するにそういうものである。責任から最も遠い場所で、最も神聖な権威を弄ぶことを許された、特権的観客なのだ。

 

 ところが、どういう運命の悪戯か、あるいは悪魔の差金か。おそらく神の暇つぶしだろう。遅々として進まぬ投票の末、風向きが変わり始めた。まるで淀んだ空気が突如として流れ出すように、有力者たちが互いを食い合おうと自滅した挙句、どういうわけか私の名を書いた票が、一票、また一票と増え始めたのである。冗談ではない。私はただ、この長ったらしい会議をさっさと終わらせたいだけなのだ。お気に入りの書斎で、配達させたばかりのマルゲリータ・コン・ブッファラをダイエットコーラで流し込み、聖アウグスティヌスの『告白』を開きもせずただ尻目に置き、「ああ、信仰とはなんと面倒なものか。それに比べてこのピザの円満な形状はどうだ」などと悦に入りながら、本当にやりたいこと、すなわちインターネットの海で猫の動画を漁るという、至高の知的活動に没頭していたいだけの、しがない聖職者なのである。いや聖職者というよりは、もはや宗教という壮大なシステムに寄生する高等遊民なのである。そんな私に、全世界の教徒十億の魂を背負えと? 世界が終わっちまうぞ。私じゃない。世界がだ。

 

 いよいよ票が三分の二に達しようかというその刹那、私の絶望は臨界点を超えた。

 

 教皇になる……? この私が本当に……?

 

 あの純白の法衣は、トマトソースの染み一つで国際問題に発展しかねない、極めて管理の難しい衣類だぞ。信徒たちの前に立って手を振る?  あれは見た目以上に手首への負担が大きい、一種の重労働だ。ミサの司式は言うに及ばず、延々と続く謁見、各国の首脳との腹の探り合い、おまけに復活祭のスピーチの原稿は自分で考えろと? 過労で殉教する未来しか見えんではないか。

 

 考えれば考えるほど狂っている。どうして私がこんな大役を負わねばならないのだ。どうして教皇は私より先に逝ってしまわれたのか。

 ……どうしても何もない。聖下の死は過労が原因だ。

 

 とにかく無理だ。絶対に無理だ。そんな責務を背負わされるくらいなら、いっそ今この場で心臓が止まってくれたほうが、どれほど神の御心にかなうことか……!

 

 そう願った瞬間、私の心臓は、素直にもその機能を停止した。実にあっけないものである。

 

 周囲の同僚たちが「おお、神よ!」「猊下が!」などと騒ぎ立てる声を遠くに聞きながら、私の意識は急速に薄れていった。

 

 見よ。神はやはり存在したではないか。そして、私のささやかな願いを聞き届けてくださった。なんという慈悲深き御方であろうか。アーメン。

 

 ……と、穏やかな気持ちで永遠の眠りにつこうとした私に、どこからともなく、不思議な声が響き渡ったのである。

 

『お前の腐った魂に、ひとつ試練を与えてやろう』

 

 腐っているとは、なんとも心外な物言いではないですか。教皇という俗世の権力の頂点から逃れるため、己の命すら(いと)わなかったこの清貧(せいひん)な魂のどこが腐っているというのですか。これはむしろ、聖人の域に達した信仰心の現れと評価されるべきではないのですか。そう猛然と抗議しようとしたが、私の口はもはや存在しなかった。意識は底なしの暗闇へと引きずり込まれ、かくして私の第一の人生は、実に()まらない形で幕を閉じたのである。

 

 *

 

 次に目覚めた時、私は赤子になっていた。しかも、身に覚えのない女の赤子である。

 

 一体全体、どういうことか。

 

 私の視界に広がるのは、粗末な木材で組まれた天井と、そこからぶら下がる干し草の束。私を抱きかかえる女の腕は、土と労働で節くれだっている。周囲に漂うのは、貧しさと家畜の匂いが混じり合った、お世辞にも芳しいとは言えない香りであった。どうやら私は、前世とは比較にもならぬほど、社会のヒエラルキーの最底辺に生まれ落ちたらしい。

 

 まあ、それ自体はあまり問題にならなかった。人は慣れるもの。枢機卿(すうききょう)として贅沢の限りを尽くしたのだ。質素な生活もまた一興というものだろう。問題は、この家の両親と思しき男女の、私に対する態度であった。彼らは、見るからにその日暮らしの貧しい農民であったが、どういうわけか、私にだけは妙に厚遇するのである。乏しい蓄えから絞り出したであろうミルクを優先的に与え、粗末な食事の中から最も柔らかい部分をスプーンですくっては私の口に運び、私が少しでもぐずれば、まるで世界の終わりであるかのように狼狽(ろうばい)する。上の子であろう、薄汚れた兄や姉たちは、それを(うらや)ましそうな、それでいて諦めたような目で見ている。

 

 これはおかしい。何かがおかしい。この過剰なまでの優遇は、無償の愛などという美しいものではない。もっと打算的で、粘りつくような、何か別の感情の匂いがする。彼らは私を、まるで大切に育てられる「金の卵を産む鶏」か何かのように扱っているのだ。一体、私に何を期待しているというのだ……?

 

 答えは私が七つになった日、あまりにも突然かつ理不尽な形で突きつけられた。

 

 その日、村に一台の立派な馬車がやってきた。村中が固唾(かたず)を飲んで見守る中、馬車から降りてきたのは、純白の豪奢(ごうしゃ)な祭服をまとった、いかにも尊大な神官であった。そして神官は、我が家のオンボロな扉を叩き、私を一瞥(いちべつ)するなり、こう言い放ったのである。

 

「見つけたぞ、聖女の卵よ。喜ぶがよい。今日よりお前は、神に仕える身となるのだ。さあ、教会へ参るぞ」

 

 我が両親は、その言葉を聞くなり、まるで長年待ちわびた吉報を受け取ったかのように、感涙にむせび始めた。そして、私の背中を押し、涙ながらにこう言ったのだ。

 

「ああ、マリア……! お前は()()()()()()に、立派な聖女様になるんだよ!」

 

 その瞬間、私の脳内で、これまで霧に包まれていた全ての点と点が、悪魔的な星座を描き出していた。

 ああ、そういうことか!

 この両親の歪んだ愛情は、私個人に向けられたものではない。私の背後にちらつく、教会が発行する小切手に向けられたものだったのだ! 

 

 私は娘として愛されていたのではなく、「金の卵を産む鶏」もとい、将来死してなお有望な「聖遺物を生む聖女」として丁重に管理されていただけだったのである!

 

 前世では信仰を食い物にして生きてきた私が、今世では自らの存在そのものが信仰のダシにされるとは。これはまるで、悪趣味なドッキリ番組ではないか。神よ、あなたは私が「してやられた」と悔しがる顔を、高みからポップコーンでも頬張りながら見物しているのだろう。この番組の出演料はいつ支払われますか。

 

 かくして私は、両親の涙(投資回収によるもの)に見送られ、純白の馬車へと強制的に放り込まれた。

 

 聖女になる? 冗談ではない。私は神に仕えることの面倒から逃れるために、一度死んだ男なのだ。それがどうして、異世界でまで同じような責務を負わねばならないのか。

 

 ガタガタと揺れる馬車の中で、私は必死に記憶の糸をたぐり寄せた。そして、思い至ったのである。あれは、まだ私が言葉もろくに話せぬ赤子であった頃。貧困かつ不自由な環境に癇癪(かんしゃく)を起こした私は、前世の癖で、つい神への悪態を口にしてしまったのだ。最も神聖にして、神に直接届くとされる、あの古の言葉で。

 

「Maledicte!(クソッタレ!)」

 

 中指を立てた瞬間、雲一つない快晴であったはずの空に、突如として暗雲が立ち込め、近くの枯れ木に轟音(ごうおん)と共に雷が突き刺さったのである。

 

 当時の私は、それを単なる偶然の一致、あるいはこの世界の気候が不安定なだけだろうと高を(くく)っていた。しかし、あの現象は紛れもない「奇跡」として、この貧しい村の住人たちに認識されたに違いない。ラテン語で神を罵倒(ばとう)した赤子が、奇跡を起こした聖女候補として祭り上げられた。これ以上の皮肉があるだろうか。

 

 ああ、神よ。あなたの試練とやらは、どうやら私の想像を遥かに超えて、悪趣味で執念深く、そして輪をかけて面倒くさい。いったい私が何をした。

 

 私を乗せた馬車は、私の絶望など露知らず、聖なる都へと続く道を、軽快な音を立てて進んでいく。

 

 私は窓の外を睨み、眠りこける神官にバレないよう小声で「Maledicte(クソッタレ)」と中指をおっ立てた。

 唸る轟雷。飛び起きる彼。

 なるほど。きっとこの『クソッタレ』をあなたに食らわせるまでが試練なのですね。

 

 私は神官の熱い視線を感じながら、立てた中指を抱きかかえるようにして眠りについた。

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