元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
静まり返った森に、私の声が響き渡った。
「──小娘。今、何と?」
やはり口が
口元が緩むのをなんとか
「ですから、申し上げたのです。あなたの仕事は、さぞ骨が折れることでしょうなと。先ほどの威嚇の咆哮は、まるで義務感から発せられる退屈な欠伸のよう。実に形式的だ。本当に敵意がある者の殺気とは、もっと攻撃的で焼け付くような匂いがするものです」
ハッタリである。だが、この「匂い」という言葉に、巨大なトカゲは過剰なまでに反応した。彼は
「ほう……今『匂い』と言ったな? 人間の小娘風情が、竜の中でも随一の嗅覚を誇るこの俺に、『匂い』を語るか。面白い。ならば言ってみろ。この俺からはいかなる『匂い』がする?」
試してきたか。面倒だが、ここで怯むわけにはいかない。
「──さて、どうでしょう。少なくとも、空腹の獣が獲物を前にした時の、刺激的な香りではありませんね。どちらかと言えば、退屈な仕事を押し付けられ、早く定時で帰りたいと願う、
もちろん、口から出まかせである。犬でもない私に細かな匂いなど分かるはずもない。どころか、よく考えれば中間管理職には
「……小娘、お前は少しだけ、モノが分かっているようだな」
どうやら正解らしい。竜の鋭い視線がわずかに下がっていた。彼はしばし黙り込んだ後、ふん、と鼻を鳴らした。
「我らが感じとる『匂い』とは、魂の本質そのものだ。例えば――」
彼は、私を試すように、アグネスの方へちらりと視線を向けた。
「そこの女。あれからはむせるほど甘ったるい善意の香りがする。純粋すぎて胸焼けがする珍しいものだ。俺は好かんがな」
次に、バルガスを
「あっちの男は論外だ。汗と下心と安酒の匂いが混じった、ありふれた俗物の香り。実に不味い。ゲロだ」
なるほど、見事に的確である。その
私が内心で頷いていると、竜は再び、私に向き直った。巨大な頭部がぬっと寄せられ、今度こそ私自身の魂を吟味するように、深く息を吸い込んだ。
「だが──お前は違うな? 実に複雑怪奇な匂いがする。熟成されきった年代物の皮肉と、極上の
腐敗臭とは心外な。あれは神への最も誠実な対話の言葉が持つ、聖なる香りのはずだ。だが、これで全ての点と点が繋がった。この巨大なトカゲは、私の放った「クソッタレ」の残り香に釣られて出てきた、ただの迷惑な隣人なのである。それも、極度の「においフェチ」という、実に面倒な性癖をお持ちの。
私はここにきて、相手の弱み、すなわち特殊性癖を完全に
「雷光ですか。ええ、心当たりは、無いこともありませんよ」
私は
「しかし、あれはいわば私の魂の
「垢だと? 馬鹿を言え!」
竜は
「あれは魂の熟成によってのみ
垢という表現もかなりオブラートに包んだ方である。実際は「クソッタレ」なわけなので。と、言いたいのを堪えて次の詭弁を
「お褒めに
私の持って回った物言いに、竜は
「ならば……ならばせめて、その香りの
もはや神話の威厳など
「……仕方ありませんね。あなたほどの好事家にお会いできたのも何かの縁。本来なら門外不出の秘宝ですが──今回限り、特別ですよ」
芝居がかったため息をつき、おもむろに足元の粗末な靴を脱ぎ始める。神聖な儀式のごとき所作に、アグネスもバルガスも、そして竜までもが
「ご覧なさい」
まるで聖別された聖遺物のごとく指でつまみ上げ、竜の鼻先へ
「この布こそ、我が
竜は、私の薄汚れた靴下を、まるで至高の宝物のように前足でそっと受け止めると、
「うっ……ブホッ……! この凝縮された怠惰と
取引は成立した。私は冷え切ったスープに思いを
「手付金として、その聖骸布を差し上げましょう。これで我々の安全な通行を保証していただきたい。もし約束を破れば……分かっていますね? 残る片方と、さらにはもっと危険な部位から放たれる究極のアロマで、あなたの縄張りを未来
竜はごくりと喉を鳴らし、恐怖とも恍惚ともつかぬ表情で頷いた。去り際に、彼は
「──物好きな小娘よ、忠告だ。この先の北の道だけは行くな。マザーの命令というだけではない……昔から、そっちへ行った者は誰一人として戻ってこないんでな。せいぜい東か西の街道へ抜けるんだな」
北には別の竜の
「まあ……!」アグネスが感極まった声で
「マリアは、自分の大切な靴下を竜さんにプレゼントして、仲直りのしるしにしたのですね! 恐がらず、自分の持ち物を分かち合うなんて……なんて優しくて勇気のある子なのでしょう!」
純粋な美談の誕生である。実にめでたい。どうやら竜との対話は私だけのものであったらしい。一方、バルガスは
尊敬と疑念。二種類の新たな視線が私に突き刺さる。それを訂正する気力もなく、私はただ、すっかり冷め切ってしまったであろう我が昼食のことだけを、静かに考えていた。