元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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十話

 静まり返った森に、私の声が響き渡った。 慈悲(じひ)を乞うでもなく、威嚇(いかく)するでもない、まるで長年連れ添った隣人に時候(じこう)挨拶(あいさつ)でもするかのような、実に場違いなほど平坦な声が。バルガスが「は?」と間の抜けた声を漏らし、背後のアグネスが息を飲む気配がする。目の前のドラゴンは、威嚇の咆哮(ほうこう)をぴたりと止め、溶岩のような瞳を困惑に(またた)かせた。

 

「──小娘。今、何と?」

 

 やはり口が()けたか。 彼の目には知性の光が宿っている。それはすなわち、暴力という非生産的な手段に頼らずとも、弁論という私が最も得意とする土俵で、この茶番を終結させられる可能性を示唆(しさ)していた。

 

 口元が緩むのをなんとか(こら)えながら、(つか)んだ糸を手繰(たぐ)るように次の句を(つむ)いでいく。

 

「ですから、申し上げたのです。あなたの仕事は、さぞ骨が折れることでしょうなと。先ほどの威嚇の咆哮は、まるで義務感から発せられる退屈な欠伸のよう。実に形式的だ。本当に敵意がある者の殺気とは、もっと攻撃的で焼け付くような匂いがするものです」

 

 ハッタリである。だが、この「匂い」という言葉に、巨大なトカゲは過剰なまでに反応した。彼は侮蔑(ぶべつ)と好奇が入り混じったような目で私を見下ろす。

 

「ほう……今『匂い』と言ったな? 人間の小娘風情が、竜の中でも随一の嗅覚を誇るこの俺に、『匂い』を語るか。面白い。ならば言ってみろ。この俺からはいかなる『匂い』がする?」

 

 試してきたか。面倒だが、ここで怯むわけにはいかない。

 

「──さて、どうでしょう。少なくとも、空腹の獣が獲物を前にした時の、刺激的な香りではありませんね。どちらかと言えば、退屈な仕事を押し付けられ、早く定時で帰りたいと願う、哀愁(あいしゅう)漂う中間管理職の匂い、とでも申しましょうか」

 

 もちろん、口から出まかせである。犬でもない私に細かな匂いなど分かるはずもない。どころか、よく考えれば中間管理職には刺激的(スパイシー)な臭いを放つ者も少なからずいる。これはやってしまったか。

 

「……小娘、お前は少しだけ、モノが分かっているようだな」

 

 どうやら正解らしい。竜の鋭い視線がわずかに下がっていた。彼はしばし黙り込んだ後、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「我らが感じとる『匂い』とは、魂の本質そのものだ。例えば――」

 

 彼は、私を試すように、アグネスの方へちらりと視線を向けた。

「そこの女。あれからはむせるほど甘ったるい善意の香りがする。純粋すぎて胸焼けがする珍しいものだ。俺は好かんがな」

 

 次に、バルガスを一瞥(いちべつ)する。

「あっちの男は論外だ。汗と下心と安酒の匂いが混じった、ありふれた俗物の香り。実に不味い。ゲロだ」

 

 なるほど、見事に的確である。その辛辣(しんらつ)な寸評に共感、むしろ好感さえおぼえる。彼とは良い酒が飲めそうだ。

 私が内心で頷いていると、竜は再び、私に向き直った。巨大な頭部がぬっと寄せられ、今度こそ私自身の魂を吟味するように、深く息を吸い込んだ。

 

「だが──お前は違うな? 実に複雑怪奇な匂いがする。熟成されきった年代物の皮肉と、極上の怠惰(たいだ)……か? その歳で、どうすればこれほどまでに魂が仕上がるのだ? いや、それよりも、その奥底に(かす)かに残っている……そうだ! 先ほどの雷光が放った、あの至高の腐敗(ふはい)臭! あれはお前の仕業か!」

 

 腐敗臭とは心外な。あれは神への最も誠実な対話の言葉が持つ、聖なる香りのはずだ。だが、これで全ての点と点が繋がった。この巨大なトカゲは、私の放った「クソッタレ」の残り香に釣られて出てきた、ただの迷惑な隣人なのである。それも、極度の「においフェチ」という、実に面倒な性癖をお持ちの。

 

 私はここにきて、相手の弱み、すなわち特殊性癖を完全に掌握(しょうあく)したのである。事態は決したも同然だ。されど慎重に。まだ笑ってはいけない。交渉のテーブルから離れるまでは。

 

「雷光ですか。ええ、心当たりは、無いこともありませんよ」

 

 私は鷹揚(おうよう)(うなず)いてみせる。

 

「しかし、あれはいわば私の魂の排泄(はいせつ)物。魂が外界の理不尽と接触した際に生じる、いわば形而上(けいじじょう)学的な『(あか)』のようなもの。そう易々(やすやす)と人様にお見せできる代物ではございません」

「垢だと? 馬鹿を言え!」

 竜は侮辱(ぶじょく)されたかのように()えた。

 

「あれは魂の熟成によってのみ(かも)し出される至高のアロマだ! 神代に仕込まれたヴィンテージワインに匹敵する! それを垢だと抜かすか!」

 

 垢という表現もかなりオブラートに包んだ方である。実際は「クソッタレ」なわけなので。と、言いたいのを堪えて次の詭弁を(つむ)ぎ出す。

 

「お褒めに(あずか)り光栄の至り。ですが、ヴィンテージワインも(せん)を開ければ香りは失せるもの。魂のコルクを、そう何度も抜くわけにはいきますまい。精神のデカンタージュには、相応の準備と時間と、何より面倒を乗り越えるだけの対価が必要となりますゆえ」

 

 私の持って回った物言いに、竜は苛立(いらだ)ちと渇望(かつぼう)が入り混じった(うな)り声をあげた。

 

「ならば……ならばせめて、その香りの欠片(かけら)だけでも……! その垢とやらが本物かどうか味わわせてくれ!」

 

 もはや神話の威厳など微塵(みじん)もない。その姿は、お気に入りの玩具をねだる巨大な子供である。そこで私は悪魔的な発想に至り、そうとは悟らせぬよう最大限譲歩した(てい)で、究極の提案をすることにした。

 

「……仕方ありませんね。あなたほどの好事家にお会いできたのも何かの縁。本来なら門外不出の秘宝ですが──今回限り、特別ですよ」

 

 芝居がかったため息をつき、おもむろに足元の粗末な靴を脱ぎ始める。神聖な儀式のごとき所作に、アグネスもバルガスも、そして竜までもが固唾(かたず)を飲んで見守っている。そして私は実にゆっくりと、()き古した靴下を片方だけ引き抜いた。

 

「ご覧なさい」

 

 まるで聖別された聖遺物のごとく指でつまみ上げ、竜の鼻先へ(かか)げてみせた。元は純白だった靴下は、決して短くない路上生活のおかげで、もはや元の色を想像することすら困難な、見事なグラデーションを描いている。

 

「この布こそ、我が怠惰(たいだ)なる魂が日々(つむ)ぎ出す、最も濃密な『垢』を吸着させた聖骸布(シンドネ)である! 長き間、私の矮小なる肉体と過酷な外界とを(へだ)ててきたこの防壁には、我が魂の本質……すなわち、あらゆる労働に対するアンチテーゼと、平穏への飽くなき渇望が、余すところなく染み込んでいるのです!」

 

 竜は、私の薄汚れた靴下を、まるで至高の宝物のように前足でそっと受け止めると、恍惚(こうこつ)の表情でその匂いを深く、深く吸い込んだ。

 

「うっ……ブホッ……! この凝縮された怠惰と不遜(ふそん)の香り! 複雑に絡み合った厭世観(えんせいかん)のハーモニー! いたいけな幼女らしからぬ腐敗臭! たまらん!」

 

 取引は成立した。私は冷え切ったスープに思いを()せながらも、最後のダメ押しを忘れない。

 

「手付金として、その聖骸布を差し上げましょう。これで我々の安全な通行を保証していただきたい。もし約束を破れば……分かっていますね? 残る片方と、さらにはもっと危険な部位から放たれる究極のアロマで、あなたの縄張りを未来永劫(えいごう)、聖なる腐敗臭で満たしてご覧にいれます。そうなれば、あなたご自慢の繊細(せんさい)な嗅覚も、ただ一つの香りしか感じられぬ、単機能の鼻へと成り下がるでしょうな?」

 

 竜はごくりと喉を鳴らし、恐怖とも恍惚ともつかぬ表情で頷いた。去り際に、彼は律儀(りちぎ)に忠告まで残していく。

 

「──物好きな小娘よ、忠告だ。この先の北の道だけは行くな。マザーの命令というだけではない……昔から、そっちへ行った者は誰一人として戻ってこないんでな。せいぜい東か西の街道へ抜けるんだな」

 

 北には別の竜の縄張(なわば)りか、面倒な魔物の巣でもあるのだろう。当然避けるに決まっている。私がそう冷静に分析する一方で、背後の二人は、この常識では考えられない光景を、それぞれの形で解釈していた。

 

「まあ……!」アグネスが感極まった声で(ささや)く。

「マリアは、自分の大切な靴下を竜さんにプレゼントして、仲直りのしるしにしたのですね! 恐がらず、自分の持ち物を分かち合うなんて……なんて優しくて勇気のある子なのでしょう!」

 

 純粋な美談の誕生である。実にめでたい。どうやら竜との対話は私だけのものであったらしい。一方、バルガスは怪訝(けげん)そうな表情で私を見つめていた。こちらが正しい反応だろう。

 

 尊敬と疑念。二種類の新たな視線が私に突き刺さる。それを訂正する気力もなく、私はただ、すっかり冷め切ってしまったであろう我が昼食のことだけを、静かに考えていた。

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