元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

12 / 30
十二話

 (およ)そ、歴史というものは常に熱狂によって動かされてきた。そして、その熱狂の中心には、しばしば担ぎ上げられた偶像(アイドル)の姿がある。民衆は自らの手でそれを作り上げ、自らの欲望を投影し、そして飽きれば、あるいは期待を裏切られれば、同じその手で躊躇(ちゅうちょ)なく引きずり下ろすのだ。実に身勝手で、実に人間的で……いや、今は思索(しさく)もほどほどにしよう。これ以上腹が減っては命に関わる。

 

 私は自身の生存権――すなわち、一日三度の温かい食事と静謐(せいひつ)な午睡の時間を確保する権利――を脅かす、この極めて非生産的な熱狂を終結させるべく、確固たる意志をもって広場へと足を踏み入れた。目指すは熱狂の中心地。神の悪戯か、あるいは単なる偶然か、今や『女神』として君臨するに至った、我が寄生生活の宿主、アグネスのいる泉のほとりである。

 

 広場は、人いきれと信仰という名の集団ヒステリーが渦巻く、実に救いがたい様相を呈している。あれはもはや人間の集団ではない。熱狂という名の接着剤(モルタル)で塗り固められ、一個の巨大な生命体と化した、いわば『信仰のゴーレム』である。この神学的珍獣の分厚い皮膚を、物理的に突破しようなどと考えるのは、筋肉で物事を解決しようとする蛮族の発想に他ならない。

 だが、何ら問題はない。かのモーセは杖で紅海を割ったと言うが、ならば私はこの舌先三寸で信仰のゴーレムを解体してみせよう。必要なのは神の奇跡ではない。人心を掌握する、悪魔的なまでの弁論術なのだ。

 

 泉の最前列では、最も熱心な信徒と化したバルガス隊長が、その大柄な体で人波を押し返し、英国近衛兵(ロイヤルガード)もかくやという剣幕でアグネスを警護していた。

 彼は目ざとく私の姿を認めると、眉をひそめ、子供を諭すような口調で言った。

「マリア様、このような場所は危険です。さあ、宿舎へお戻りください。アグネス様は、我々がお守りしますゆえ」

 

 その言葉を、私は右手をあげて(さえぎ)る。そして、彼の目を真っ直ぐに見()え、この茶番劇の幕引きを告げる第一の鐘を鳴らした。声色はあくまで(おごそ)かに、響きには有無を言わせぬ絶対的な確信を込めて。

 

「バルガス隊長。あなたほどの信仰心をお持ちの方ならば、既にお気づきのはずです。今のアグネス様が、我々の知る、ただの心優しき乙女ではないという事実に」

「……どういう、意味ですかな?」

 

 バルガスの声に、戸惑いと警戒の色が浮かぶ。良い傾向だ。思考停止した狂信から、疑問という理性の入り口へと、彼を引き戻しつつある。

 私はゆっくりと、泉の中心でコインを弾くことに没頭するアグネスを指し示した。その目元には大きなくまが出来上がり、ぶつぶつと何か聞き取れない言葉を呟いている。本人は快楽を貪っているつもりかもしれないが、集団ヒステリーの外側にいる私からすれば苦痛を感じているようにしか見えない。

 

「ご覧なさい。あの方はもはや、我々の知るアグネス様ではない。あまりに多くの奇跡をその身に降ろされた結果、神の御心(みこころ)を地上に顕現させるための、尊い『器』そのものと化しておられるのです。もはや、我々と同じ人の言葉を発することすら難しくなっておられる」

「器……? 人の言葉を……?」

 唖然としてオウム返しにするバルガスに、私は決定的な一撃を放つべく、畳みかける。

 

「そうです。そして、その聖なる『器』が発する神託を、我々のような俗人にも理解できる人の言葉に翻訳する者が必要だとは思いませんか?」

 私は、ゆっくりと自分自身を指差した。バルガスの瞳が、驚きに見開かれていく。

 

「これまでずっと彼女の(かたわ)らに在り、その魂の最も近くに(はべ)ってきた存在……。バルガス隊長、その役割を担うために、この(マリア)はここにいるのです」

 

 紛れもない詭弁である。だが、過去の事実に新たな意味を付与し、相手の認識を上書きしてしまえば、それはもはや嘘ではなく、啓示された『真実』となる。竜と対話をした私を思い出したのだろう。バルガスの中で、「アグネスのお供の、か弱き幼女マリア」という既存の認識が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが見て取れた。代わりに、「聖女の言葉を唯一解する、神秘の巫女マリア様」という、私がたった今作り上げた虚像が、彼の思考の中心に堂々と鎮座したのだ。

 

 私は彼の肩にそっと手を置き、共犯者へと引き入れるための最後の囁きを贈る。

「さあ、バルガス隊長。あなたこそは、女神様の真意を理解する唯一の騎士である。我々二人で、女神様の真の奇跡を、あの俗なる願いにしか頭が回らない哀れな民衆に、正しく見せて差し上げましょう」

 

「おお……? おおっ! そうか! そうであったのですな!」

 完全に私の言葉を信じ込んだバルガスは、感極まったように目を見開き、天を仰いだ。彼の単純さは、こういう局面においては美徳ですらある。

 彼はすぐさま振り返ると、自らの役割を完璧に理解し、その雷鳴のような声で広場に響き渡る号令を発した。

「静粛にィ! 皆の者、静粛にせいッ! これより、女神アグネス様の神託を解する、マリア様より、有り難きお言葉がある!」

 

 その一喝(いっかつ)で、あれほど騒がしかった広場が水を打ったように静まり返る。最も厄介な番犬は、今や私の最も忠実な協力者と成り果てた。

 完璧である。舞台は整った。

 私はゆっくりと一歩前へ進み出て、集まった全ての視線を一身に浴びながら、この滑稽(こっけい)な偶像崇拝を破壊するための、壮麗なる序曲を高らかに宣言した。

 

「皆様、ご安心を。これまでの奇跡は、ほんの序章にすぎません。これより、女神アグネス様の真の御力が、この私という『巫女』を通じて、皆様に正しく、そして余すことなく示されるでしょう!」

 

 私の宣言は、乾いた薪に投げ込まれた松明(たいまつ)のように、群衆の期待を再び、いや、以前にも増して燃え上がらせた。彼らはもはや、単なる奇跡の目撃者ではない。私の演出によって、神聖なる神託劇の当事者となる。

 

 これより始めるのは、いわば期待値のインフレーション・コントロール。宗教とショービジネスの本質は同じである。そして、バブルというものは、いつだって弾けるために存在するのだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。