元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
私は自身の生存権――すなわち、一日三度の温かい食事と
広場は、人いきれと信仰という名の集団ヒステリーが渦巻く、実に救いがたい様相を呈している。あれはもはや人間の集団ではない。熱狂という名の
だが、何ら問題はない。かのモーセは杖で紅海を割ったと言うが、ならば私はこの舌先三寸で信仰のゴーレムを解体してみせよう。必要なのは神の奇跡ではない。人心を掌握する、悪魔的なまでの弁論術なのだ。
泉の最前列では、最も熱心な信徒と化したバルガス隊長が、その大柄な体で人波を押し返し、
彼は目ざとく私の姿を認めると、眉をひそめ、子供を諭すような口調で言った。
「マリア様、このような場所は危険です。さあ、宿舎へお戻りください。アグネス様は、我々がお守りしますゆえ」
その言葉を、私は右手をあげて
「バルガス隊長。あなたほどの信仰心をお持ちの方ならば、既にお気づきのはずです。今のアグネス様が、我々の知る、ただの心優しき乙女ではないという事実に」
「……どういう、意味ですかな?」
バルガスの声に、戸惑いと警戒の色が浮かぶ。良い傾向だ。思考停止した狂信から、疑問という理性の入り口へと、彼を引き戻しつつある。
私はゆっくりと、泉の中心でコインを弾くことに没頭するアグネスを指し示した。その目元には大きなくまが出来上がり、ぶつぶつと何か聞き取れない言葉を呟いている。本人は快楽を貪っているつもりかもしれないが、集団ヒステリーの外側にいる私からすれば苦痛を感じているようにしか見えない。
「ご覧なさい。あの方はもはや、我々の知るアグネス様ではない。あまりに多くの奇跡をその身に降ろされた結果、神の
「器……? 人の言葉を……?」
唖然としてオウム返しにするバルガスに、私は決定的な一撃を放つべく、畳みかける。
「そうです。そして、その聖なる『器』が発する神託を、我々のような俗人にも理解できる人の言葉に翻訳する者が必要だとは思いませんか?」
私は、ゆっくりと自分自身を指差した。バルガスの瞳が、驚きに見開かれていく。
「これまでずっと彼女の
紛れもない詭弁である。だが、過去の事実に新たな意味を付与し、相手の認識を上書きしてしまえば、それはもはや嘘ではなく、啓示された『真実』となる。竜と対話をした私を思い出したのだろう。バルガスの中で、「アグネスのお供の、か弱き幼女マリア」という既存の認識が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが見て取れた。代わりに、「聖女の言葉を唯一解する、神秘の巫女マリア様」という、私がたった今作り上げた虚像が、彼の思考の中心に堂々と鎮座したのだ。
私は彼の肩にそっと手を置き、共犯者へと引き入れるための最後の囁きを贈る。
「さあ、バルガス隊長。あなたこそは、女神様の真意を理解する唯一の騎士である。我々二人で、女神様の真の奇跡を、あの俗なる願いにしか頭が回らない哀れな民衆に、正しく見せて差し上げましょう」
「おお……? おおっ! そうか! そうであったのですな!」
完全に私の言葉を信じ込んだバルガスは、感極まったように目を見開き、天を仰いだ。彼の単純さは、こういう局面においては美徳ですらある。
彼はすぐさま振り返ると、自らの役割を完璧に理解し、その雷鳴のような声で広場に響き渡る号令を発した。
「静粛にィ! 皆の者、静粛にせいッ! これより、女神アグネス様の神託を解する、マリア様より、有り難きお言葉がある!」
その
完璧である。舞台は整った。
私はゆっくりと一歩前へ進み出て、集まった全ての視線を一身に浴びながら、この
「皆様、ご安心を。これまでの奇跡は、ほんの序章にすぎません。これより、女神アグネス様の真の御力が、この私という『巫女』を通じて、皆様に正しく、そして余すことなく示されるでしょう!」
私の宣言は、乾いた薪に投げ込まれた
これより始めるのは、いわば期待値のインフレーション・コントロール。宗教とショービジネスの本質は同じである。そして、バブルというものは、いつだって弾けるために存在するのだ。