元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
次の町への道筋は、驚くべきことに、あのバルガスが仕入れてきた情報であった。何でも、酒場で酌婦の尻を追い回す傍ら、しっかりと旅商人から聞き出していたのだという。彼の騎士としての能力は、その大半が下半身の筋肉に注ぎ込まれているとばかり思っていたが、どうやら僅かながらの理性も残置されていたらしい。天の配剤とは不可思議なものである。
「北に
自信満々に胸を張るバルガスを前に、私の内心はしかし、少しも晴れやかではなかった。「北」という単語が、私の脳内に巣食うにおいフェチドラゴンの忌まわしき忠告を呼び覚ますからだ。曰く、『北は愉快なことになっとるから、行かん方がええで』と。おそらくそんな口調だったはずだ。正直、においフェチだったという強烈な個性が先行するあまり、彼のシルエットすら
もっとも、我々の進路は厳密には「北上」ではなく、「北壁に沿った東進」である。この微妙な方角の違いが、果たして我々の運命を吉兆へと導くのか、あるいは単なる誤差として凶事へと収束するのか。神の気まぐれな采配がどちらに転ぶか、という壮大な賭けの議題としては面白いが、生憎と私は、自身の命を泉のコイン投げのごとく運否天賦に任せるほど酔狂ではない。だが悲しいかな、我々のリーダーの頭の中からは竜の忠告などとうに消え去っているようである。「前進あるのみですっ」と堕落から立ち直った聖女候補様はやる気に充ち満ちていた。
やがて我々の眼前に姿を現した『グレートウォール』は、まさしくその名の通り、天を摩するほどの威容を誇っていた。人間の矮小さを嘲笑うかのような、あまりに巨大で、あまりに無慈悲な石の連なり。アグネスとバルガスがその荘厳さに息をのむ中、私の興味を引いたのは、壁面そのものよりも、そこに延々と刻まれた無数の文字であった。
「すごい数ですね……。これは、旅の方々が神様に宛てて書いたお手紙、なのでしょうか……?」
目を輝かせるアグネスの純粋な解釈に、私は内心で鼻白んだ。神への手紙、か。だとしたら随分と冒涜的で、ひねくれた手紙もあったものだ。
何世代にもわたって書き殴られたであろう文字の奔流。それは祈りというよりは、むしろ呪詛に近い執念を感じさせた。私は馬車に揺られながら、いくつかの言葉を拾い読みしていく。
ある者は、高みからの景色をこう嘆き、
"Solitudo in culmine"
(頂には孤独のみ)
またある者は、己の内なる偽善をこう告白する。
"Sanctus in publico, diabolus in cubiculo"
(公には聖人、内には悪魔)
そして極めつけに、神そのものへ反旗を翻す者までいる始末だ。
"Deus non vult"
(神はそれを望まない)
ふん、くだらない。実にくだらない人間たちの愚痴の掃き溜めだ。
――だが、不思議と悪い気はしなかった。どの時代、どの世界にも、私と同じような天の邪鬼がいた。その事実が、私の孤独な魂をほんの少しだけ慰撫するのであった。
そんな神学的愉快な道中を経て、我々は一つの町にたどり着いた。
しかし、その町の様子は、どう考えても常軌を逸していた。
門は開け放たれ、家々の食卓には、まだ微かに湯気の立つスープが置かれている。酒場のエールは飲みかけのまま放置され、路上には子供が遊んでいたであろう木馬が転がっていた。まるで、ついさっきまで人々が生活を営んでいた光景が、そのまま時を止めて保存されているかのようだ。
「きっと皆さん、何か急な用事で町を空けているだけですわ。すぐに戻ってこられます!」
アグネスは、持ち前の楽天主義を遺憾なく発揮する。
「そうでしょうか。どう見ても異様なことが起きているように見えますが──」
私は思考を巡らせた。争った形跡はない。金品も手付かず。ならば賊の類ではあるまい。集団移住? いや、それにしては生活の痕跡が生々しすぎる。計画されたものではない。まるで、ちょっと用を足しに席を立ったくらいの軽さである。町全体で同時にトイレに行きたくなるようなことでもあったのか?
──いやいや、どうでも良いではないか。私が何故、この不可解な現象の謎を解き明かしてやらねばならないのか。私は神学者であって探偵ではない。私の使命は、あくまで平穏な寄生生活の維持にある。建設的な思考とは『過去何が起きたか』をだらだらと考えるのではなく『今この状況を如何に利用するか』である。
すなわち、住民のいない町。これは、他人の目を気にすることなく、最も快適な寝床と食料を確保できる、またとない好機ではないか!
皆が「住民の方々を待ちましょう」と真剣に話し合っている脇で、私は既に、理想の寄生先を選定すべく町中を吟味し始めていた。そして最終的に、最も立派な町長の家と思しき邸宅の書斎に目をつける。革張りの椅子に、そこそこの蔵書。悪くない。実に悪くない。ここを私の拠点とする。
書斎を物色していた我々は、やがてテーブルの上に置かれたままのチェス盤を見つけた。それは、まさに勝負の真っ最中で打ち捨てられており、駒が大きく動かされて緊迫した局面であったことが伺える。
「立派な盤ですな。町の主は、よほどの好き者だったと見える」
バルガスが感心したように言う。
私が(ふむ、白がかなり追い詰められているな。ここからの逆転は……)などと盤面を分析していると。
「まあ……」
アグネスが後ろから盤面を覗き込み、ぽつりと呟いた。
「黒は、あと三手でチェックメイトでしたのに。残念ですわね」
その言葉は、あまりにも静かで、確信に満ちていた。
なんだと。この複雑な盤面を一瞥しただけで、詰みまでの手順を完全に読み切ったというのか。当てずっぽうか? いや、具体的すぎる。まぐれで口にできる類のものではない。
枢機卿として、常に知性の頂点にいたという私の自負が、チリチリと音を立てて燃え上がる。
「……アグネス様は盤面がお分かりになるのですか? 大したものです」
私は平静を装いながらも、隠しきれない対抗心を
「――よろしければ、この私がお相手しましょう。私も、少しばかり
ゲームが始まると、私の余裕は
アグネスの指し手は、穏やかで迷いがない。しかし、その一手一手が、私の戦略の根幹を静かに、的確に破壊していく。それは教科書通りの定跡ではない。経験則と直感、そして相手の心理の裏をかく、老獪としか言いようのない打ち筋であった。
馬鹿な。私の仕掛けた罠に、ことごとく気づいているだと。いや、違う……気づいているどころではない。私の思考の、さらにその先を読んで、罠そのものを利用してこちらを追い詰めている……。
私が額に冷たい汗を浮かべ、絶体絶命のピンチに陥った、まさにそのタイミングであった。
「すっかり夜になりましたが、誰も戻ってきませんな。俺は町の外周をもう一度見回ってきます」
バルガスの声が、私を敗北の淵から救い出した。私は息を整え、努めて冷静に尋ねる。
「……アグネス様。一体、どこでそのような指し方を?」
アグネスは、きょとんとした顔で首を傾げ、にこりと微笑んだ。
「さあ……どうしてでしょう? 昔から、これだけは得意だったんです」
その悪意のない、あまりにも純粋な答えは、どんな弁舌よりも雄弁に、二人の間にある才能の差を私に突きつけた。私は、初めてアグネスという存在に、一種の畏怖を覚えるのであった。
町の探索は、バルガスの帰還によって新たな局面を迎えた。彼は町の北側、グレートウォールに穿たれた禍々しい『穴』を発見したと言うのだ。付近にいくつもの壁の残骸があり、最近向こう側へ開通したもののようであるらしい。
夜になっても住民が戻らない状況に、アグネスは不安と善意をない交ぜにした表情で、希望的観測を口にした。「もしかしたら町の方々は、この穴の先にあるどこかへ遊びにいったのかもしれませんね! 私たちもいきましょう!」
その言葉が、バルガスの守護騎士としての使命感に火をつけた。
「お二人を危険な目には遭わせられません。俺が必ず、この先の安全を確かめて戻りますんで。アグネス様、マリア様、どうかご無事で!」
「分かりました。お願いしますね、バルガス様。住民が帰ってこないのは、意外と壁の向こうには楽園があるからかもしれませんよ!」
バルガス隊は松明を手に、アグネスの祈りに見送られながら決意を秘めた顔で宵闇の向こうへと小さくなっていく。
アグネスが祈りを捧げるのを横目に、私は奇妙なものに気づいた。
ついさっき開いたばかりのはずの、この穴の入り口。その岩肌に、まるで世界の法則そのもののように滑らかな文字が刻まれている。
"Hic finis est"
(ここが、終わりである)
警告というより、単なる事実の告知。その無機質な響きに私が眉をひそめた、まさにその瞬間だった。
壁の向こうから、短い悲鳴が一つ。
直後、闇の中に灯っていたバルガス隊の松明の光が、すべて、ぷつりと消えた。
残されたのは、完全な暗闇と沈黙のみ。