元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
バルガスという唯一の守り手が穴の向こうへと消え、我々の前に残されたのは、世界の終焉を告げる静かな崩壊の始まりであった。
穴から溢れ出したそれは、炎でもなければ水でもない。『無』としか形容しようのない現象。暴力的な破壊ではない。インクを限界まで吸い込んだ羊皮紙が、自らの重みに耐えかねて静かに崩れ、そこに記された文字ごと、ただの黒い染みに還っていく。世界の
「バルガス様! 皆様!」
アグネスが悲痛な叫びを上げ、穴へと駆け寄ろうとする。その動揺を横目に、私は思考を巡らせていた。
神による聖絶や天罰の類であれば、たとえ理不尽であっても、神の明確な意志と目的が介在する。そういったある種の演劇的な仰々しさがあるものだが、
能動的に『消されている』のではない。むしろ逆だ。この世界を構成していた『何か』……いわば、世界を支えていた『摂理』そのものが寿命を迎え、綻び始めているのだ。そして、その綻びから、本来あるべき根源的な『無』が、当然の権利であるかのように染み出している……といったところか。
つまり、この世界は『終わろうとしている』のだ。それも誰かの手によってではなく、ただ静かに、その役目を終えるように。
私はアグネスの手を強く引いた。彼女は驚いてこちらを振り返る。
「行きますよ、アグネス。この舞台はもうすぐ幕が下るようです。我々が役者に甘んじる必要はありません」
◆
『無』の追跡に、音は伴わなかった。
グレートウォールが消え、町の酒場が消え、子供たちの笑い声が染み込んだ石畳が消え、我々が腰を下ろしたチェス盤のあった屋敷が消えていく。その全てが、まるで夢から覚めるかのように、何の痕跡も残さず、静かに剥がれ落ちていく。絶対的な静寂が、かえって我々の
世界の終わりとは、こうも静かなものか。黙示録のラッパの音も、ソドムを焼いた硫黄の炎も存在しない。只々静かに、全てが『無かった』ことにされていくだけ。読み終えた本を、何の感慨もなくぱたりと閉じるかのようだ。
どこか冷めた感傷に浸る私の思考とは裏腹に、この七歳児の肉体は早々に限界を訴え始めた。肺が焼け付くように痛み、足は鉛のように重くもつれ始める。
もはやこれまでか。まあ、三度目の人生の終着点としては、世界の終わりという壮大な舞台が用意されたのだ。悪くないフィナーレだろう。あと数秒もすれば無に呑まれる。
冷静に自らの終幕を受け入れ、
「大丈夫です! 私が必ず!」
アグネスが、何のためらいもなく私をその細腕に抱え上げた。
馬鹿な。合理性の欠片もない。私の素直な心臓はとっくに限界を悟り、あとはいかに穏やかにその機能を停止させるかという、至極まっとうな最終段階へと移行していたというのに。なぜ、既に体力の尽きた私という錘を抱えて、生存の可能性をゼロに近づける。愚の骨頂だ。
そう罵倒しようとした言葉は、しかし、私の背中に感じる、あまりに場違いな鼓動にかき消された。どくん、どくん、とまるで攻城兵器のように無遠慮に響く彼女の心音。それは、私の静かな諦観を激しく揺さぶるように力強く、そして私の止まりかけた心臓に無理やり歩調を合わさせんとする、暴力的なまでの『生』の押し付けだった。
忌々しく内心で毒づくも、私を抱える彼女の腕は驚くほど力強く、その横顔は一点の曇りもない決意に満ちていた。理解不能な彼女の善意が、私の諦観を揺るがしていく。
だが、そんな非合理的な抵抗も、絶対的な終焉の前では無力に等しかった。アグネスの呼吸が荒くなり、その足取りが目に見えてふらつき始める。我々のすぐ背後まで、世界の終わりが静かに迫っていた。
限界を悟ったのだろう。アグネスは唐突に足を止めた。そして、私を抱え直すと、その瞳でまっすぐに私を見据えた。彼女の瞳に、もはや恐怖の色はなかった。そこにあるのは、自らに課した使命を完遂せんとする者特有の、ある種の狂信的な光だった。
「受け身、とってくださいね!」
次の瞬間、私の身体は宙を舞った。彼女は最後の力を振り絞り、私を前方の安全な場所へと放り投げたのだ。
地面を二、三度転がり、砂埃に咳き込みながら顔を上げる。私の視線の先で、アグネスは穏やかに微笑んでいた。その表情は、私を救ったことへの達成感と、自らの信じる『正しさ』を貫いたことへの満足感に満ち溢れていた。
「さあ、行きなさい! あなたは、生きるべき人です!」
私の意思など完全に無視した、あまりに一方的な救済の宣言であった。
彼女は満足げに私に背を向けると、『無』の方へと向き直る。まるで、自らの役目を終え、舞台袖へと下がっていく役者のように。その姿は、世界の縁から剥がれ落ちるように、静かに消えていった。
私は、その光景をただ黙って見つめていた。涙も、叫び声も、湧いてはこない。数秒後に消え去るという覚悟は完了していた。
そのはずなのに、アグネスに調子を狂わされてしまった。
「……アグネス。最後の最後まで、こちらの都合を無視する人でした。あなたが与えたこの数秒の猶予に、一体何の意味があるというのですか。本当に、見事なまでの自己満足です」
これ以上は走れない。私はゆっくりと座り込んで『無』の到来を待つ。しかし、彼女が稼いだこの無意味な時間のおかげで、余計なことを考える時間が出来てしまった。
最後の時間で高尚な思索に耽ろうにも、耳に残るあの心音が、私を放り投げた細腕の感触が、著しく思考の邪魔をする。
チェスでは、結局勝てなかった。
私の計画は、いつもあの善意に打ち砕かれた。
聖人のように振る舞っておきながら、コイン一つで俗な欲に溺れ、等身大の弱さを見せたかと思えば、次の瞬間には己の命すら躊躇なく投げ出す。
ああ、そうだ。
結局、私はあなたという存在を、一度も理解できなかった。
『無』が私の足先に触れる。冷たさも、熱さも、痛みもない。ただ、そこにあったはずの感覚が、静かに
「さて、三度目の退勤といくか。今度こそ、面倒事のない静かな場所へ行きたいものだ」
だが、神よ。もし、あなたの悪趣味な脚本に、まだ続きがあるというのなら。
この奇妙な世界の物語に、三度目の正直があるというのなら。
一つだけ、予言して差し上げましょう。
私はきっとまた、完璧な計画を台無しにする、あの不合理で、面倒で、どうしようもなく眩しい存在を見つけてしまうのでしょう、ね。