元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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十九話

 アベルに握られた手から、魂を凍てつかされているようだった。教皇庁の悪党どもにはまだ人間的な『熱』があったが、この男からは何も感じられない。

 

「──で、いったい何を見てしまったのかな?」

 

 このアベル司祭は単なる狂人ではない。常軌を逸しているのは確かだが、その根底にあるのは、より深く、より暗い、一般的な理解の範疇を超えた何かだ。私が今朝の出来事――不審者の男が彼自身であること――に気づいているか、探りを入れているのは明白。ここで下手に動揺を見せるのは最悪の選択肢だ。

 

 思考を高速で切り替える。やはり受け手に甘んじず、攻めるべきだろう。だがまずは、この男の猜疑心を解くことが先決。すなわち、次の手は完璧なる「無垢な神の子羊」への擬態。

 

「ご、ごめんなさい、司祭様……何かを見たとかではないのです」

 

 私は怯えに潤んだ瞳でアベルを見上げ、か弱い小動物のように身を震わせた。握られた手への恐怖はそのままに、しかし彼の言葉の真意は何も分からない、といった風を完璧に繕う。

 

「ただ少し、立ちくらみがしてしまって……。お話を、聞いてくださいますか?」

 

 アベルは何も言わず、ただ静かに私を見ている。その沈黙が肯定であると判断し、私は堰を切ったように言葉を紡ぎ始めた。これより披露されるのは、私の老獪な精神と七歳の肉体が織りなす、珠玉の大芝居である。

 

「あの、司祭様にお願いがあるんです! わたくし、聖都へ行ってみたいのですわ。本で読んだ聖女様のように、私も神様のお役に立ちたいと、ずっと、ずっと思っておりましたの!」

 

 子供らしい純粋な憧れ。けなげな信仰心。そしてこの、か弱くも愛らしい容姿。さあどうだ。この三位一体パーフェクトマリアちゃんの前に、人の心を持つ者ならば抗う(すべ)はあるまい。

 

 アベルは穏やかな笑みを浮かべたまま、大きく頷いた。

「それは実に感心なことだ。君のその信仰心は、きっと神様にも届いていることだろう」

 

 私の右手を握る力が、ぐっと強まった。よく見ると、アベルの手首には多くの切り傷の跡がついている。古いものから、つい最近付けられたようなものまで、袖口から見える部分だけでも相当な数だ。

 

「だがね、子羊よ。神は聖都にだけいらっしゃるのではない。この静かな村で捧げる祈りも、聖都で捧げる祈りも、神にとっては等しく貴いことなのだよ。君は、ここにいるべきだ」

 

 優しい声色とは裏腹に、その言葉は有無を言わさぬ拒絶の響きを帯びていた。私を、この村に縫い付けようとする明確な意志。まだ疑われているのかもしれない。第一のアプローチは、かくもあっさりとかわされた。まあ予期していたことだ。情に訴えて勝てる相手ではない。

 

 ならば、と私は即座にプランBへと移行する。無垢が通じぬのなら、次はこの枢機卿として長年培ってきた知性の出番だ。論理は力。弁論は芸術。この世間知らずの田舎司祭に、神学の深淵というものを見せつけてくれる。

 

「……ですが司祭様。あなたの仰ることは、神の御心の一側面を捉えてはおりますが、その実、極めて危険な静寂主義に陥る可能性を孕んでおりますな」

 

 私はあえて、七歳の少女ではなく、講壇から学生を諭す教授のような口調で切り出した。一度神学論争の土俵に上がれば、相手を完膚なきまでに論破するまで止まれないのは前世からの悪癖である。だが今回ばかりはこれでいい。さあ、始めようではないか。我が魂の独壇場を。

 

「聖典には『聖地を目指す巡礼は、より大いなる功徳を積む』と明確に記されております。これは単なる物理的な移動を意味するにあらず! 辺境という安寧から、あえて中心という混沌へ身を投じること。すなわち、自らの信仰を試すという『動的な祈り』に他ならない! あなたの言う『ここにいるべき』という思想は、その尊い試練から信徒を遠ざける、いわば『信仰の怠慢』を推奨しているに等しいのです!」

 

 たたみかける私を前に、しかしアベルは眉一つ動かさない。その静かな佇まいは、まるで嵐が過ぎ去るのを待つ枯れ木のように、私の放つ言葉の奔流をただ受け流している。手応えのなさに一瞬苛立ちを覚えるが、構うものか。このまま言葉の洪水で押し込んでやろう。

 

「かの聖ヒエロニムスもこう説きました! 辺境の祈りと、教会の総本山たる聖都での祈りの『価値』が、神学的解釈において同一ではありえない、と! これを無視するのは、我らが二千年の長きにわたり積み上げてきた、教会の歴史そのものへの冒涜ではございませんか!」

 

 まあ、あの方は真逆のこともおっしゃっていたが、この男にそこまでの知識はあるまい。たとえそこを突かれたとて既に反論は用意してある。完璧な論証だ。この知的レベルの攻撃に、辺境の司祭ごときが耐えられるはずもない。勝ち誇った私が同意を促すようにアベルを見つめると、彼はようやく、実にゆっくりと口を開いた。

 

「──なるほど。君は実に博識なようだ」

 その声には感心もなければ、反論の色もない。ただ事実を述べているだけの、無機質な響きがあった。

 

「君の言葉は実に雄弁で、美しい。だがね、子羊よ。その美しさは、墓碑に刻むためのものだ。どれほど言葉を積み上げても、神の沈黙という名の天蓋には届かない。真の救済とは、全ての言葉がその意味を失い、全ての存在が等しく『無』へと還る、絶対的な静寂の中にしか存在しないのだから」

 

 暖簾に腕押し、糠に釘、などというレベルではない。私の築き上げた論理の城は、彼のその一言で、まるで最初から存在しなかったかのように、その概念ごと消し飛ばされた。彼の思想の根幹は、この世界の「否定」にある。肯定を前提とする私の神学は、彼の前では産声を上げる前に殺された赤子も同然だったのだ。

 

 やはりこの男は狂っている。私が知るどんな異端者とも違う。彼の内にあるのは虚無。それも、全てを慈しむかのように、静かに飲み込んでいく、底なしの虚無だ。

 

 もはや、残された手段は一つ。外交的手段は尽きた。芸術的な弁論術が通用しないこの蛮人には、最も原始的で、最も下品な武器を突きつけてやるしかない。これより先は、相互確証破壊も辞さない、冷戦の領域へと移行する。

 

「話は変わりますが、今日の未明にフードを被った方が、わたくしの家の鶏の首を綺麗に折ってしまった事件をご存知でしょうか? 最近よく起きているそうなのです。家畜の命が無暗(むやみ)に奪われる事件がね」

 

 いささか迂遠(うえん)ではあるが、これは紛れもない脅迫である。お前の正体は露見しているぞ、と。

 

「──ところで、司祭様はいつも朝がお早いので?」

 

 その瞬間、アベルの表情から、初めて笑みが消えた。しかし、そこに動揺の色はない。

 

「さて、どうだったかな」

 彼は平然とそう言い放つと、氷のように冷たい声で、私の耳元に囁いた。

「仮に、君が私を疑っているとして、一つ質問をしてみようか。毎日彼らの魂の救済を願うこの私と、まだ十にも満たない少女。村の皆は、どちらの言葉を信じると思うかな?」

 

 ああ、なんという見事な手筋か。私が長年、教皇庁という魔窟で磨き上げ、幾人もの政敵を沈めてきた『権威』という名の伝家の宝刀。それを、まさかこんな辺境の地で、自らの喉元に突きつけられることになろうとは。私の放った脅迫という名の矢は、彼の揺るぎない立場の優位性――信徒からの『信頼』という名の城壁に阻まれ、虚空へと霧散した。言葉の武器を完全に封じられた今、私はただの無力な七歳児にすぎない。

 

 万事休す。もはや頭に残っているものは、そんな言葉だけになった。全ての作戦が破られ、完全に手詰まりだ。思考という名の城壁が、内側から音もなく崩れていく感覚。焦りと恐怖が、冷たい汗となって背中を伝う。

 

 沈黙が支配する。ステンドグラスの光の中を舞う埃の粒だけが、やけにゆっくりと見えた。不意にアベルが口を開いた。

「ところで、私からも一つ聞いてもいいかな」

 

 穏やかな問いかけ。しかし、その声は井戸の底から響くように冷たく、全ての感情が削ぎ落とされていた。

 

「君はいま、何週目なのかな?」

 

 ――何、を。

 

 脳内で高速回転していた全ての歯車に、一本の杭が打ち込まれたようだった。完璧に構築していた「無垢な少女マリア」の仮面が、計算し尽くされた微笑ごと凍りつき、音を立てて砕け散る。私は目を見開き、目の前の異端者を見ることしかできない。

 

「……言っている意味が、わかりません」

 ようやく口をついて出た言葉が、それだけだった。

 

 私の動揺をアベルは見逃さなかった。初めて、彼の虚ろな瞳の奥に、獲物を見つけた狩人のような微かな光が宿る。彼は確信を深めたように、静かに言葉を続けた。

 

「その老獪な立ち回り、とても小さな子供のものとは思えない。だが例えば、君──いや、()()()がいくつもの人生を経験しているのなら、それにも説明がつくのです」

 

 私が後退りすると、彼も一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その虚ろな瞳が、私の魂の奥底まで解剖するように射抜いていた。

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