元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
馬車に揺られること丸一日。我が故郷が地図上のどの染みであったかなど、もはやどうでもいい。重要なのは、私が今、テラルヴァ王国のへそに位置するという独立都市国家、『聖都ルクス』の敷居をまたいだという事実だけだ。
その都市がいかに神聖であるかは、馬車が『聖壁』と呼ばれる巨大な門をくぐった瞬間に、嫌でも伝わってきた。理屈ではない。空気に、光に、石畳の一つ一つにまで染み込んだ、過剰なまでの神聖さが、私の鼻についたのである。
天を突く尖塔、白亜の壁、磨き上げられた石畳。これでもかと詰め込まれた神聖さのイメージはあまりに過剰で、かえって信仰の自然な発露というものを感じさせない。むしろ「信仰をテーマにした会員制高級スパ」とした方が納得がいく。ゴシック建築による天の高さを利用した吹き抜けは精神を開放させ、バロック様式の過剰な装飾は俗世の悩みを忘れさせる心理的効果を狙ったもの。パンフレットにはきっとこう書いてあるだろう――「当施設では、神の愛という最高級の施術により、あなたの魂から『個性』という名の老廃物を根こそぎデトックスいたします」と。実に結構なことだが、私はそもそも魂の垢すりなど頼んだ覚えはない。
案内された修道院の内部は、輪をかけて私の精神衛生を損なうものであった。床は一点の曇りもなく磨き上げられ、私の(今は実に愛らしい)顔が映り込んでいる。これは自らの罪を内省せよという無言の圧力か、あるいは単に掃除係のシスターが極度の
何より腹立たしいのは、この七歳児の肉体の燃費の悪さである。前世の私の身体が、長年の美食と運動不足によって磨き上げられた『省エネモード搭載リムジン』だったとすれば、今生の肉体は、常にアクセル全開でなければ坂道も登れぬ欠陥品の軽自動車に他ならない。重厚な扉から次の扉までの、この無駄に長く、かつ無駄に荘厳な廊下を歩くだけで、私の肺はふいごのように
候補生たちが集められた大広間は、宗教的熱意という名の集団ヒステリーの発信源であった。皆一様に瞳を輝かせ、
昇進自体は良い。労力は増えるかもしれないが、その分
この面倒事の震源地からいかにして速やかに脱出するか、その計画の第一稿を脳内で練り始めた、その時であった。
「まあ……! なんて可愛らしい方でしょう!」
甲高い、しかし鈴を転がすような声が響いたかと思うと、一人の乙女が私に向かって駆け寄ってきた。亜麻色の髪を揺らし、太陽のような笑顔を振りまくその乙女こそ、高名な貴族の出身にして、今回の聖女候補の最有力と目されるアグネス、その人であった。
彼女は、まるで壊れ物を扱うかのように私の手を取り、その両手で優しく包み込むと、頬をバラ色に染めてうっとりと私を見つめた。
「お日様のごとき金髪に、幼いようでいて全てを見透かすような藍色の瞳……あなたがマリア様ですね!」
……なんだこれは。私の長年培ってきた対人関係における地雷探知機が、何の反応も示さない。レーダーには何も映っていないのに、目の前には太陽光発電式の人型決戦兵器が立っている。バグか? システムエラーか? 否、これこそが神の言う『試練』の正体、すなわち論理的思考を根こそぎ破壊する『純粋さ』という名の精神攻撃だというのか! 言葉の裏を読もうと『人間観察眼』を最大出力で稼働させるも、そこには何の打算も下心も見当たらない。あるのはただ、小さな子供に対する
私はこのアグネスという少女を、「計画最大の障害」かつ「精神的に最も有害な天敵」と即座に認定した。そして、この
かくして、「平穏なる日常奪還計画」は始動した。
第一段階は、古典的なサボタージュによる不真面目アピールである。まずは
ところが、私の隣に座っていたアグネスが、その様子に気づくなり、そっと彼女自身の肩を私に貸してきたのである。
「マリア様、お疲れなのですね……さあ、私にお寄りかかりになって」
その光景を目撃した指導役の老シスターは、何をどう誤解したのか、感涙にむせびながらこう言った。
「まあ、ご覧なさい。年長者のアグネス様が、深い信仰ゆえに疲れ果てたマリア様を
……違う、そうではない。老シスターよ、あなたのその
朝の身支度の時間もまた地獄であった。私が不器用な子供の手で髪を結うのに
次なる一手は、聖歌の練習における不協和音テロだ。姉妹たちの天使の歌声とやらが響き渡る中で、私は意図的に調子っぱずれな声を張り上げた。均一に整えられたボーリングピンに一投をお見舞いするようで、実に爽快である。悪魔の角を生やした私に、もはや遠慮はなくなっている。これで協調性の欠如を
すると、またしてもアグネスだ。「マリア様、大丈夫ですわ! あなたの歌声は、まるで迷える子羊のように愛らしいのです! 私が導いて差し上げます!」
言うや否や、私の音程に合わせる形で、即座に完璧なハーモニーを奏で始めたのである。
この奇妙なデュエットは、あろうことか音楽担当の神官に絶賛された。
「なんと斬新な! 主旋律から逸脱することで、かえって神の偉大さの多面性を表現している! 天才的なアレンジだ!」
もはや
極めつけは食事の時間であった。出されたパンを前に、私は聖職者にあるまじき
「まあ、マリア様はこれがお嫌いなのですね? 大丈夫ですわ、私が代わりに食べて差し上げます!」
アグネスはにこやかに私の皿からパンを片付けると、「その代わり、こちらの豆は栄養満点ですから、たくさんお食べになって?」と、自分のスープまで差し出してくる始末。
結果、私が手にしたのは「好き嫌いの多い
数々のサボタージュは、アグネスという「善意のフィルター」を通過することで、ことごとく美談へと変換されてしまう。私が廊下を歩けば誰もが道を譲り、アグネスはいつでもどこでも私に付き従い、世話を焼く。私は意図せずして「アグネスと仲の良い、才能あふれる儚げかつ天使な美幼女」という、鳥肌もののキャラクターイメージを確立してしまったのだ。
そんなある日、候補生全員が集められ、最初の選抜試験である『
小手先のサボタージュが通用しないのなら、仕方あるまい。アグネスの善意という物理攻撃が通用しない舞台──すなわち純粋な論理の世界で決着をつけさせていただこう。
「待っていろ、愚かな審査員ども。お前たちがひれ伏すほどの完璧な理論で、『
私の本領を発揮する時が、ようやく来たのである。