元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

2 / 30
二話

 馬車に揺られること丸一日。我が故郷が地図上のどの染みであったかなど、もはやどうでもいい。重要なのは、私が今、テラルヴァ王国のへそに位置するという独立都市国家、『聖都ルクス』の敷居をまたいだという事実だけだ。

 

 その都市がいかに神聖であるかは、馬車が『聖壁』と呼ばれる巨大な門をくぐった瞬間に、嫌でも伝わってきた。理屈ではない。空気に、光に、石畳の一つ一つにまで染み込んだ、過剰なまでの神聖さが、私の鼻についたのである。

 

 天を突く尖塔、白亜の壁、磨き上げられた石畳。これでもかと詰め込まれた神聖さのイメージはあまりに過剰で、かえって信仰の自然な発露というものを感じさせない。むしろ「信仰をテーマにした会員制高級スパ」とした方が納得がいく。ゴシック建築による天の高さを利用した吹き抜けは精神を開放させ、バロック様式の過剰な装飾は俗世の悩みを忘れさせる心理的効果を狙ったもの。パンフレットにはきっとこう書いてあるだろう――「当施設では、神の愛という最高級の施術により、あなたの魂から『個性』という名の老廃物を根こそぎデトックスいたします」と。実に結構なことだが、私はそもそも魂の垢すりなど頼んだ覚えはない。

 

 案内された修道院の内部は、輪をかけて私の精神衛生を損なうものであった。床は一点の曇りもなく磨き上げられ、私の(今は実に愛らしい)顔が映り込んでいる。これは自らの罪を内省せよという無言の圧力か、あるいは単に掃除係のシスターが極度の潔癖(けっぺき)症であるかのどちらかだろう。どちらにせよ、実に居心地が悪い。すれ違う聖職者たちは、私を一瞥(いちべつ)すると、一様に敬虔(けいけん)な、それでいて宝石の原石を鑑定でもしているかのような眼差しを向けてくる。やめていただきたい。私は誰がどう見たって普通の七歳児である。それを研磨などしてみろ。出てくるのはピカピカの聖女などではない。ただ書斎の隅でほこりを被る観葉植物のように、静かに光合成だけして生きていたいと願う初老のおじさんなのだから。

 

 何より腹立たしいのは、この七歳児の肉体の燃費の悪さである。前世の私の身体が、長年の美食と運動不足によって磨き上げられた『省エネモード搭載リムジン』だったとすれば、今生の肉体は、常にアクセル全開でなければ坂道も登れぬ欠陥品の軽自動車に他ならない。重厚な扉から次の扉までの、この無駄に長く、かつ無駄に荘厳な廊下を歩くだけで、私の肺はふいごのように(あえ)ぎ、心臓は『これ以上の労働には断固反対する!』と抗議のストライキを始める。壁に手をついてかろうじて身体を支える私の姿は、周囲の大人たちの目には、さぞ健気(けなげ)に映ったことだろう。「まあ、聖なる場所の雰囲気に緊張していらっしゃるのね」などと慈愛(じあい)に満ちた(ささや)きが聞こえてくるが、断じて違う。これは緊張ではない、我がポンコツボディに対する絶望のポーズである。そう叫んでやりたいのを、私はかろうじて飲み込んだ。飲み込んだ唾液が喉のおかしなところに突き刺さってゲッホゲッホと大変惨めな目にあった。

 

 候補生たちが集められた大広間は、宗教的熱意という名の集団ヒステリーの発信源であった。皆一様に瞳を輝かせ、(きた)るべき選抜に胸を高鳴らせている。ああ、面倒だ。実に面倒くさい。コンクラーベの時でさえ、自分が選ばれたいと思う者の方が少なかったはずなのに、この世界の人々は狂っているのか。

 

 昇進自体は良い。労力は増えるかもしれないが、その分(むく)いがある。だが目立つ場所に立たされるトップはダメだ。ひたすら大勢の目に「お導きください」と晒され続け、一切のサボタージュを禁止されるのはもちろん、いかなる失敗も許されない。ちょっと人と変わったことをしようものなら「信じていたのに」と彼らは死神へと豹変し、ことごとく鎌を振りかざして襲ってくる。故にトップだけは目指してはいけない。ほどほどが一番なのだ。

 

 この面倒事の震源地からいかにして速やかに脱出するか、その計画の第一稿を脳内で練り始めた、その時であった。

 

「まあ……! なんて可愛らしい方でしょう!」

 

 甲高い、しかし鈴を転がすような声が響いたかと思うと、一人の乙女が私に向かって駆け寄ってきた。亜麻色の髪を揺らし、太陽のような笑顔を振りまくその乙女こそ、高名な貴族の出身にして、今回の聖女候補の最有力と目されるアグネス、その人であった。

 彼女は、まるで壊れ物を扱うかのように私の手を取り、その両手で優しく包み込むと、頬をバラ色に染めてうっとりと私を見つめた。

 

「お日様のごとき金髪に、幼いようでいて全てを見透かすような藍色の瞳……あなたがマリア様ですね!」

 

 ……なんだこれは。私の長年培ってきた対人関係における地雷探知機が、何の反応も示さない。レーダーには何も映っていないのに、目の前には太陽光発電式の人型決戦兵器が立っている。バグか? システムエラーか? 否、これこそが神の言う『試練』の正体、すなわち論理的思考を根こそぎ破壊する『純粋さ』という名の精神攻撃だというのか! 言葉の裏を読もうと『人間観察眼』を最大出力で稼働させるも、そこには何の打算も下心も見当たらない。あるのはただ、小さな子供に対する庇護(ひご)欲と、無垢(むく)なる好意のみ。これはまずい。計算ずくの人間ならばいくらでも手玉に取れるが、この手の天然素材の聖人は、私の詭弁(きべん)神学の最も苦手とするところだ。

 

 私はこのアグネスという少女を、「計画最大の障害」かつ「精神的に最も有害な天敵」と即座に認定した。そして、この鳥籠(とりかご)からの一刻も早い脱出を、改めて神に――いや、我が心に固く誓ったのである。見ておれ神よ。私はお前の期待という名の理不尽な要求に対し、怠惰(たいだ)という最も高尚(こうしょう)な手段をもって、断固として反抗する。

 

 かくして、「平穏なる日常奪還計画」は始動した。

 第一段階は、古典的なサボタージュによる不真面目アピールである。まずは厳粛(げんしゅく)な祈りの時間。私はわざとらしく船を()ぎ、あからさまに集中力を欠いた態度を示した。これで「信仰心の足りぬ者」の烙印(らくいん)を押されるはずだった。

 

 ところが、私の隣に座っていたアグネスが、その様子に気づくなり、そっと彼女自身の肩を私に貸してきたのである。

 

「マリア様、お疲れなのですね……さあ、私にお寄りかかりになって」

 

 その光景を目撃した指導役の老シスターは、何をどう誤解したのか、感涙にむせびながらこう言った。

 

「まあ、ご覧なさい。年長者のアグネス様が、深い信仰ゆえに疲れ果てたマリア様を(いた)わっている。なんと美しい姉妹愛でしょう!」

 

 ……違う、そうではない。老シスターよ、あなたのその(にご)ったマナコをよく開いて見なさい。これは姉妹愛などという生易しいものではない。純粋という名の捕食者が、怠惰という名の獲物に覆いかぶさっている。生存競争の縮図がここにある。ああ、弱肉強食。これぞ神が創りたもうた世の(ことわり)か!

 

 朝の身支度の時間もまた地獄であった。私が不器用な子供の手で髪を結うのに難儀(なんぎ)していると、どこからともなくアグネスが現れ、「マリア様、私にお任せください!」と、満面の笑みで(くし)を手に取るのだ。彼女が私の髪をさらうたび、私の『一人で静かに暮らしたい』というささやかな願いの糸が、一本、また一本と何処とも結びつくことなく()かれていく。「まあ、天使の輪ができていますわ!」などと無邪気に喜ぶ彼女の横で、私の頭には天使の輪ではなく、もはや悪魔の角が生えつつあることを、彼女は知る由もない。

 

 次なる一手は、聖歌の練習における不協和音テロだ。姉妹たちの天使の歌声とやらが響き渡る中で、私は意図的に調子っぱずれな声を張り上げた。均一に整えられたボーリングピンに一投をお見舞いするようで、実に爽快である。悪魔の角を生やした私に、もはや遠慮はなくなっている。これで協調性の欠如を糾弾(きゅうだん)されるに違いない。

 

 すると、またしてもアグネスだ。「マリア様、大丈夫ですわ! あなたの歌声は、まるで迷える子羊のように愛らしいのです! 私が導いて差し上げます!」

 言うや否や、私の音程に合わせる形で、即座に完璧なハーモニーを奏で始めたのである。

 この奇妙なデュエットは、あろうことか音楽担当の神官に絶賛された。

「なんと斬新な! 主旋律から逸脱することで、かえって神の偉大さの多面性を表現している! 天才的なアレンジだ!」

 

 もはや眩暈(めまい)がする。アグネスの(いき)な計らいは、私の計画をことごとく最悪の形でアシストしていくのだ。我が地獄への道はお前の善意で舗装されているというのか。

 

 極めつけは食事の時間であった。出されたパンを前に、私は聖職者にあるまじき我儘(わがまま)さを示すべく、手をつけずに放置するという消極的かつ圧倒的抵抗を試みた。

 

「まあ、マリア様はこれがお嫌いなのですね? 大丈夫ですわ、私が代わりに食べて差し上げます!」

 

 アグネスはにこやかに私の皿からパンを片付けると、「その代わり、こちらの豆は栄養満点ですから、たくさんお食べになって?」と、自分のスープまで差し出してくる始末。

 結果、私が手にしたのは「好き嫌いの多い我儘(わがまま)な子」という評価ではなく、「小食で(はかな)げな美少女」という、全くもって不本意な称号であった。

 

 数々のサボタージュは、アグネスという「善意のフィルター」を通過することで、ことごとく美談へと変換されてしまう。私が廊下を歩けば誰もが道を譲り、アグネスはいつでもどこでも私に付き従い、世話を焼く。私は意図せずして「アグネスと仲の良い、才能あふれる儚げかつ天使な美幼女」という、鳥肌もののキャラクターイメージを確立してしまったのだ。

 

 そんなある日、候補生全員が集められ、最初の選抜試験である『神学問答(ディベート)』の開催が告げられた。周囲が緊張に包まれる中、私一人が内心でほくそ笑んでいた。

 

 小手先のサボタージュが通用しないのなら、仕方あるまい。アグネスの善意という物理攻撃が通用しない舞台──すなわち純粋な論理の世界で決着をつけさせていただこう。

 

「待っていろ、愚かな審査員ども。お前たちがひれ伏すほどの完璧な理論で、『怠惰(たいだ)こそが神への絶対的信頼の証である』という、この崇高(すうこう)なる真理を証明してやろう。そして、完膚(かんぷ)なきほど見事に落第して、平穏な日常を取り戻すのだ!」

 

 私の本領を発揮する時が、ようやく来たのである。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。