元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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二十話

「──あの、司祭様。私には、何が何やら」

 

 私の白々しいまでの演技に対し、アベル司祭は、もはや作り物めいた表情を一切かなぐり捨てていた。そこに浮かぶのは、喜びでも、怒りでも、あるいは侮蔑ですらない。ただ何もないのだ。古井戸の底を覗き込むような、静かで、どこまでも深い虚無が、その双眸には揺蕩(たゆた)っていた。私の言葉など、彼の耳には届いてすらいないのかもしれない。彼はただ、探し物をようやく見つけたというような、静かで揺るぎない確信だけをその身に纏い、じっと見つめている。

 

「マリアさん。こちらで話しましょう」

 有無を言わせぬ響きだった。彼に導かれるまま、私は告解室の重い扉をくぐった。聖職者と信徒が罪を告白し、神の赦しを乞うための小部屋。だが今この空間に神がいるとしたら、それは慈悲深い父ではなく、ただ沈黙するだけの冷たい傍観者に違いない。

 

 格子戸を挟んで向かい合わせに座ると、濃密な闇が私たちの間に聖域と俗世を隔てるかのように横たわった。しかし、どちらが聖でどちらが俗なのか。この男を前にしては、その境界線すらも曖昧になる。

 

「かつて、僕はごく平凡な司祭でした」

 闇の向こうから声がした。

 懺悔でも、ましてや説教でもない。遠い昔に死んだ男が、自らの墓碑銘を読み上げるかのような、一切の体温を伴わない声だった。

 

「村人の悩みを聞き、子供たちに文字を教え、神に祈りを捧げる。変わり映えのしない穏やかな日々。それが永遠に続くと信じて疑わなかったのです。あの日までは」

 彼の言葉が、闇の中で重く響く。

 

「世界が終わりました。いや、終わったという表現は正確ではないか。世界が『無かったこと』にされたのです。全ての存在が、音も無く、意味も無く、ただただ白紙に還っていくのを、私は見ていました」

 

 その平坦な口調は、内容に対してあまりにもリアリティを欠いていた。だが、その言葉が描く光景を私は知っている。

 

「気が付くと、見慣れた自室の寝台にいました。日付は巻き戻り、世界は何事もなかったかのように続いていた。悪夢だと言い聞かせました。ですが、この指先に残っているのです。万物を消し去った、あの『無』の感触だけが」

 

 どうやらアベルもループを経験しているらしい。私だけかと思ったが、彼も神に選ばれた何者かなのだろうか。

 

「誰も覚えてはいませんでした。村人たちは以前と変わらぬ顔で私に挨拶をし、子供たちは以前と同じ遊びに興じている。この世界は完璧に修復されていた。……ならば、狂っているのはどちらです? 世界か、僕か。それを確かめなければならなかった」

 

 狂っているのは双方に決まっている。そう喉まで出かかった言葉を、私は辛うじて飲み込んだ。この男は自らの正気と世界の真理を天秤にかけ、その均衡を確かめるために、最も安易で、最も野蛮な手段を選んだのだ。

 

「まず、痛みが必要でした。自分の腕をナイフで切りつけ、流れ出る血の赤さと熱だけが、僕という存在の輪郭を教えてくれる。次に、死を観察しました。鼠を、鳥を、山羊を……その命が尽きる瞬間を、ただ瞬きもせず見つめ続けた。彼らの死はあまりに呆気なく、僕が見た世界の終わりに比べれば、取るに足らない些事(さじ)でした。ですがね、マリアさん。その小さな命が境界線を越えるたびに、僕はほんの少しだけ、『こちら側』にいることを実感できるのです」

 

 彼の声に、初めて微かな熱が宿った。それは信仰の熱ではない。己の存在証明という、最も根源的で、最も孤独な探求に取り憑かれた者の熱だ。今朝、我が家の鶏に向けられたであろう、あの氷のように冷たい手が、先ほどまで私の手を包んでいたことを思い出し、胃の腑が冷たくなるのを感じた。

 

「……ですが、それももう限界でした。答えは見つからない。ならば、もう一度死を体験し、あの『向こう側』に還るしかない。そうすれば、何かが分かるかもしれない。……でも、怖かった。たった一人で死に、また何事もなかったかのように『再配置』されてしまうことが」

 

 闇の中で、彼の気配が真っ直ぐに私に向けられる。

「──そして今日、あなたと出会いました」

 まずい。話の矛先が決定的にこちらへと向いた。この男の孤独に、私という存在がどのような意味を持ってしまったのか。考えるまでもなく、最悪の答えしか思い浮かばない。

 

「マリアさん。どうやらあなたの瞳の奥には、僕と同じ『世界の終わり』が映っている。その豊富な知識や老獪な立ち回りは、繰り返す人生の中で蓄積されたものなのでしょう?」

 

 ああ、やはりそうきたか。

 この男にとって私とは、永劫の孤独の果てに初めて見出した『同類』。彼の狂気を真実だと証明する、唯一の観測者。暗澹(あんたん)たる地獄に差し込んだ一筋の光明。要するに、彼は私を『救い』そのものだと、とんでもない勘違いをしてしまっているのである。

 

「マリアさん。あなたは僕にとっての奇跡だ。どうかお願いです」

 

 その救いの女神(という役割を勝手に押し付けられた私)に対し、彼は闇の中でひどく真摯な響きを伴って、こう続けたのだった。

 

「──僕と一緒に、死んでくれませんか?」

 

 ヤバイ。

 私の脳内は、ただその一語によって完全に占拠されていた。これは、面倒とかいうレベルではない。格が違う。私がこれまで対処してきた、権力欲にまみれた聖職者たちの陰謀や、世俗的な面倒事など、この男が持ち込んできた厄介さに比べれば、まるで子供のままごとに等しい。私が、というより人類が対処可能な面倒事の範疇を、遥かに超越している。関わっちゃダメ、絶対。私の正直な心臓が早くもアップを始めていた。

 

「マリアさん、あなたと一緒なら、今度こそ怖くない」

 話している内容とはおよそ似つかわしくない、恍惚とした声色。べったりと、格子戸の奥から顔を押し当てて、その目はどこか遠いところにいってしまっている。このままでは格子の網目からレロレロと舌を突き出してきかねない。

 

「え、ええ。その件はまたいずれ、じっくりと……。今はその……少し、祈りの時間をいただいても?」

 

 私は、およそ考えうる限り最も当たり障りのない言葉を紡ぎ出し、この狂人の懇願を巧みに受け流そうと試みた。そして、これ以上の会話は無用とばかりに席を立ち、告解室の出口へと、そそくさと足を向ける。一刻も早く、この男から物理的に距離を取りたい。

 

 そう思い、私は戸に手をかける。

 

「マリアさん」

 背後から、静かに声を投げかけられた。

「あなたは先ほど、聖都へ行きたいと仰っていましたね。あそこに、何かあるのですか? 僕と一緒でよろしければ、お力になれるかもしれません」

 

 その言葉は、まるで異端審問官の最初の尋問のように、私の足を床に縫い付けた。我が精神に、一枚の羊皮紙が幻出する。それは、まさしく悪魔が差し出す契約書であった。

 

 第一条項には、光り輝くインクでこう記されている。

【甲(アベル)は、乙(マリア)に対し、聖都への迅速かつ絶対安全なる通行を保証する】

 なんと甘美な響きであろうか。私が地道に画策していた小細工など赤子の手にも等しい、まさしく特権階級の特急券。これに署名さえすれば、面倒な手続きの一切を飛び越し、最短距離で怠惰なる目的地へと到達できるのだ。

 

 しかし、その下には、血で書かれたかのようなおぞましい第二条項が続く。

【代償として、(マリア)(アベル)の魂と、その旅路の終わりまで、あるいは世界の終わりまで、行動を共にしなければならない】

 これは比喩ではない。文字通り「死ぬほど厄介な男」と行動を共にするなど、我が魂の平穏に対する最も冒涜的な侵害行為に他ならない。

 

 おお、見よ。契約書は私の目の前で、署名をしろと無言の圧力をかけてくる。この契約を破棄すれば、聖都への道は再び遠のき、面倒な策謀の数々が私を待つだろう。しかし、これに署名すれば……その先にあるのは、疑いようもなく地獄である。

 

 神よ! 私の行こうとする道は、どうしてこうも複雑怪奇な入り組み方をしているのか。私は、ただ怠惰に、平穏に過ごしたいだけだというのに。

 

 私が押し黙り、この究極の契約書を前にサインすべきか否かで懊悩(おうのう)していると、頭のおかしいアベルはそれを己の都合の良い解釈をしたらしい。まるで真理に到達したかのような、確信に満ちた声でこう言った。

「……そうか。あなたは、僕などには計り知れぬ深淵を覗いておられる。軽々しくお話しになれぬのも道理です」

 

 違う、断じて違う。イカれた契約書を前に逡巡しているだけだ。しかし、私の魂の絶叫が、この誇大妄想の求道者に届くはずもなかった。彼は私の眉間のシワ見て、いったいどんなロジックが働いたのか、契約への同意として受け取ってしまったのだ。

 

「あなたほどのお方が目指す場所……。きっとそこには、僕が求め続けた答えもあるのでしょう。分かりました。このアベル、あなたの聖なる旅路に、剣として、盾として、肉の壁として、お供します」

 

 署名する前に、契約が強制執行されてしまった。

 私がハッと顔を上げた時には、全てが手遅れだった。アベルは殉教を決意した騎士のように敬虔に、しかしその瞳の奥には狂信の火を爛々と宿して、静かに私を見つめている。

 

 告解室から命からがら逃げ出した私は、聖堂の隅でひとり、天を仰いで頭を抱えた。

 

「どうしてこうなった……!」

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