元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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二十二話

 さて。実際問題、どうしたものか。

 このような状況において、凡百の人間が取りうる選択肢は「助ける」か「見捨てる」かの二つであろう。しかし、枢機卿としての長年の経験は、二元論がいかに思考を浅薄にするかを教えてくれている。選択肢は二つではない。答えは常に一つ。いかにして最小限の労力で、最大限の平穏を確保するか。ただそれだけだ。

 

 そもそも、私の計画の根幹は何か。それは、この純粋培養の善意の塊、アグネスを次期聖女の座に押し上げ、私はその権威の陰で誰にも邪魔されず安寧を貪るという、実に合理的で美しいものであったはずだ。

 しかし、どうだろうか。目の前にいるのは、詐欺に遭い、多額の借金を背負い、聖女候補の座を自ら降りた、ただの油臭い串焼き娘。これでは私の壮大なる寄生計画の礎となるどころか、不良債権そのものではないか。

 

 見捨てる? 論外だ。それでは計画が根本から破綻する。おまけに、その先に待っているのは、この頭のオカシイ司祭との二人きりの終末旅行だ。どちらがより地獄に近いかなど、考える余地すら残されていない。

 ならば答えは明白。目前にある多少の面倒事に目をつぶり、この不良債権に投資してやるのだ。彼女を借金地獄から解放し、再び聖女への道を歩ませる。それが、私の輝かしい怠惰な未来を確保するための、唯一にして最も効率的な選択なのである。

 

「アベル様、こちらへ」

 

 作戦は決まった。いったん串焼き屋から離れ、まずはもっともらしい理屈を並べてアベルの協力を得ようと試みる。聖女候補を救うことの神学的な意義、弱き者を助けることの司祭としての責務、云々。しかし、彼の返答は私の想定を遥かに下回り、絶望的なまでに俗っぽいものであった。

 

「嫌です。彼女は気に入らない」

 続けざまに、彼は私をじっと見つめてこう付け加えた。

「それに、あなたに馴れ馴れしい」

 

 子供か。この男は。

 そのあまりに幼稚な理由に、私は一瞬絶句した。この男には神学も理屈も通用しない。真理の探究者たる聖職者の仮面の下に隠されていたのは、ただのワガママな幼児であった。私はめげずに戦略を切り替える。

 

「……逆に問いますが、アベル様。どうすれば、あなたはこの哀れな子羊のために、その御手を貸してくださるのですか」

 

 私が食い下がると、アベルは不意に黙り込み、何を思ったか自身の司祭服の裾を無言でめくりあげた。妙に筋肉質な肌が露わになる。

 

「では私の脇腹を、つねっていただけますか」

「……は?」

 

 本気で耳を疑った。ふざけるのも大概にしていただきたい。

「そのような冗談は、時と場所を――」

「本気です」

 

 アベルの顔は真剣そのものであった。その瞳は、あたかも殉教の儀式に臨む聖人のように、澄み切った狂気を宿している。私は天を仰いで深いため息をつくと、しぶしぶその筋肉質な肌に手を伸ばし、彼の脇腹を指先で軽くつまんだ。

 

「もっと、強く」

「…………」

 

 要求に応じ、爪が白く食い込むほどに、ありったけの力でその脇腹をつねりあげた。常人であれば悲鳴の一つも上げようものを、アベルは眉一つ動かさない。

 

「もう……いいですか」

 うんざりして手を離そうとすると、アベルは私の手を掴んで首を振る。そして延々と講釈を垂れ流し始めた。

 

「人体で最も痛みを感じるのはどこか。諸説ありますが、痛みには種類があるのです。鋭さと鈍さ、その二つを同時に味わえるのが、この脇腹。ましてや、マリアさん、あなたの祝福された御手で与えられる痛みとなれば、それはもはや聖痕にも等しい至上の――」

 およそ時間稼ぎと思われる倒錯的な演説に、私の我慢は限界を超えた。

「いい加減にしろ!」

 渾身の力を込めた正拳突きを、寸分の狂いもなくアベルの鳩尾(みぞおち)に叩き込む。

「オウフッ……!」

 

 さすがに顔を歪めるかと思いきや、アベルは腹を押さえながらも、顔色一つ変えなかった。それどころか、まるで至上の法悦に達したかのように満足げな、桃色の吐息を吐き出しやがった。

「分かりました。協力しましょう」

 

 *

 

 場面は変わり、焼き串屋の前。腕を組み、仁王立ちする七歳の美少女が一人。私である。その背後には、先ほどの奇行が嘘のように静謐な表情を浮かべたアベルが、忠実な護衛のように控えている。

 

「何度言ったら分かるんだ! 借金は二十タラント金! ここに契約書もあるだろ! アグネスには返済が終わるまで働いてもらうぞ!」

 

 店主の甲高い声が、夕暮れの往来に響き渡る。私は一歩前に進み出ると、交渉の口火を切った。まずは第一の矢。権威の利用といこう。

 

「店主殿。アグネスは聖女の有力候補だった者です。それを俗世の借金で縛り付けるとは、感心しませんな。この一件が教会の耳に届けばどうなるか、お分かりでしょう。それに、もし彼女が正式に聖女となれば、このようなはした金、すぐにでも返せるとはお思いになりませんか?」

 

 店主の顔に、わずかな動揺が浮かぶ。すかさず第二の矢を放つ。欲望への訴えかけだ。

 

「むしろ、こう考えては如何(いかが)か。今、彼女を快く送り出せば、いずれどんな逸話が生まれるか。『聖女アグネス、その苦難の時代を支えた伝説の焼き串屋』。あなたの店に、聖地巡礼の客がひっきりなしに訪れる栄光の未来が、私にははっきりと見えるのですが……」

 

 私の甘言に、店主の目が卑しく揺らめいた。しかし、目先の二十タラント金という誘惑には抗いがたいらしい。彼がまだ渋るのを見て、私は最後の矢をつがえ、静かに声のトーンを落とした。

 

「そもそも、一つ根本的な疑問があります。二十タラント金。家が一軒立つほどの大金です。それを一介の串焼き屋がどのようにして貸すことができたのでしょう? アグネスに偽の聖遺物を売りつけたとされる詐欺師と、どんな取引をされたのですか? ……おそらくこの高額な取引には一度も現金が登場していないのでしょう。となると、信用をもとに売買契約が結ばれたと考えるのが妥当です。……詐欺師とあなたとの間に、どのような信用関係があったのでしょうか?」

 

 三つ目の矢とはすなわち、脅迫。言外に「お前も詐欺グループの一味だろう。バレバレだぞ」と脅しているのである。ここでミソとなるのが、証拠は何一つないこと。これを一本目として撃ち込むと、強硬な相手には通じづらい。先に放った権威と欲望という毒矢は、相手の態度を軟化させ、さらには逃げ道を作ってやるためのものでもあったのだ。

 

 店主の顔から、さっと血の気が引いた。図星らしい。私は畳みかけるように、とどめの一言を突き刺した。

 

「……もしかすると、あなたは今すぐにでも、『告解』をしたくなっているかもしれませんね。実に都合がいい。私の後ろにいるこの男は、こう見えても司祭ですので」

 

 私が合図すると、背後に控えていたアベルが、にたりと口の端を吊り上げた。それはお世辞にも聖職者の浮かべるべき表情とはいえず、罪人の魂を啜りに来た悪魔の笑みそのものである。

 店主の戦意は、完全に砕け散った。私の的確な脅しと、アベルの放つ無言の圧力に屈し、彼は震える声でアグネスの解放を認めた。

「……お、覚えておけよ! 借用書が無くなるわけじゃねえからな!」

 そう捨て台詞を吐くのが、哀れな店主の精一杯の抵抗であった。

 

 *

 

 すっかり夜も更け、我々は聖都の安宿に部屋を取ることにした。問題は部屋割りである。常識的に考えれば、女性二人、男性一人で部屋を分けるのが当然の帰結であろう。しかし、その常識が通用しない男がここに一人。

 

「マリアさんと一緒の部屋がいいのですが」

 頭のオカシイ司祭様が、至極真面目な顔でそう宣った。こんな時のアベルの瞳には一点の曇りもなく、どこまでも倒錯した忠誠心だけが宿っている。アグネスが「し、司祭様!? 男女が同じ部屋で夜を明かすなど、神への冒涜ですわ!」と顔を真っ赤にして抗議するが、彼の耳には届いていない。

 

「マリアさんの眠りを脅かす悪霊がいるやもしれません。私が聖なる肉の壁となり、夜通しお守りしなければ」

「結構です。あなたの方がよほど悪霊じみている」

 

 私は彼の申し出を一蹴(いっしゅう)し、部屋の扉をぴしゃりと閉めた。それでもなお扉の向こうから「マリアさん、せめてお祈りだけでも」「マリアさん、子守唄はいかがですかな」と粘る声を完全に無視し、内側から鍵をかけた。

 

「ふう、やっと落ち着けますね」

 私が寝台に腰掛け、大きく息を吐くと、隣の寝台に座ったアグネスが、改めて深々と頭を下げた。

 

「マリア様。本日は、本当にありがとうございました。今日のご恩は、このアグネス、一生忘れません」

「アグネスはちっとも変わりありませんね。その素直さは美徳ですが、もう少し疑うことを覚えた方がよろしいかと」

 

 私は思わず、内に秘めておくべき言葉を返してしまっていた。

 

「はい……あれ?」

 アグネスが、不思議そうに小首を傾げる。

「私たち、今日が初対面ではありませんでしたか?」

 

 うっかりしていた。

 柄にもなく感傷的なことを口走ってしまった自分を、内心で激しく罵倒する。この女の純粋さに当てられて、私の老獪な精神も少しばかり調子が狂ったらしい。

 

「いや、変わりないというのは比喩です。つまり、あなたのその聖女としての資質が噂に違わぬ、いや噂以上に純真であったことへの感嘆を述べたにすぎず、決して過去に面識があったことを示唆するものでは……いや、よく考えれば隠す必要もないのか? よし、この際だ。アグネス──」

 

 滔々(とうとう)と繰り出される自分でもよく分からない言い訳の途中で、すぅ、すぅ、と穏やかな寝息が聞こえてきた。見ればアグネスは、激動の一日の疲れからか、安心しきった顔で既に眠りに落ちている。私の長広舌は、極上の子守唄として機能したらしい。

 やれやれ、と肩をすくめ、私も寝台に身体を横たえた。天井の木目を眺めながら、先ほどの彼女の言葉を反芻(はんすう)する。

 

「一生忘れない、か」

 

 孤独を感じるアベルの気持ちが、少しだけ分かった気がした。

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