元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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二十三話

 神学には「三位一体(さんみいったい)」という、深遠にして実に不可解な概念が存在する。父と子と聖霊、三つの位格が一体であるという、およそ人間の理性では到底理解の及ばぬ教義である。だが今、この安宿の簡素なロビーに座す我々三人もまた、ある種の歪な三位一体を形成していると言えなくもない。

 

 すなわち、私という『子』を独り占めせんとする狂信的な『父』アベル。

 そして、純粋な善意でもって場をかき乱す、厄介極まりない『聖霊』アグネス。

 

 もっとも、神聖なる三位一体と決定的に異なるのは、我々三者の間に神の愛のごとき調和は微塵(みじん)も存在せず、ただ互いに相容れまいとする、斥力(せきりょく)のみが働いているという点だ。いわば『異端の三位一体』である。その三者が一つ屋根の下で会談を持てばどうなるか。答えは目の前の光景が雄弁に物語っていた。

 

 口火を切ったのは、予想通りというべきか、異端の父なるアベルであった。彼は目の前に座す借金の聖霊アグネスを、その魂の不在を確かめるかのように値踏みすると、次の瞬間にはその存在が視界から消え失せたかのように完璧な無視を決め込み、私にだけ語りかけてきた。

 

「マリアさん。一つ、よろしいでしょうか」

 

 穏やかな声だが、アグネスの存在を意図的に透過させるような、冷たい響きがあった。

 

「我々の旅路は、世界の真理と魂の救済を探求する極めて神聖な巡礼です。……昨日まで油にまみれて串肉を焼いていた女は、その崇高な目的を真に理解されているのでしょうか」

 

 憐れなアグネスは、その串焼女という皮肉が自分に向けられたものだと気づくのに数秒を要し、やがて慌てて背筋を伸ばした。

 

「あ、あの! 私だって、もちろん分かっていますよ! 皆様を助け、善い行いをすることが、神様のお望みです!」

 

 その純粋かつ模範的な回答を、アベルは鼻で笑った。彼は再びアグネスを視界から消し去ると、失望を隠そうともせずに私にだけ続ける。

 

「……ご覧なさい、マリアさん。彼女の言う『救済』とは、飢えた者にパンを与える程度の、表層的で俗な概念に過ぎない。我々が求める『無』という至高の救済とは、あまりに(へだ)たりがある。このような魂と共に歩むことは、あなたの聖なる旅路の妨げになるとは、お考えになりませんか?」

 

 私は心の内で深く嘆息した。

 やれやれ。このままでは計画どころか、私の精神が摩耗して殉教の一途を辿りかねない。この歪な一行を目的地まで繋ぎとめるためには、共通の目的という楔を打ち込むしかないだろう。

 

「アベル様、アグネス様。落ち着いてください」

 声色を強め、テーブルに肘をつき、核心を突く問いを投げかける。

 

「単刀直入に聞きます。あなたたちに『前回』の記憶はありますか?」

 

 最初に反応したのはアベルだった。彼は、まるでその問いを待ち望んでいたかのように、表情をわずかに緩ませた。

 

「……ええ。世界の全てが、あの黒い『無』に飲み込まれていく光景。私は毎夜、その悪夢に苛まれています」

 

 悪夢と断じつつも、その瞳には昏い悦びが宿っている。私は彼に頷き返し、次にアグネスへと視線を移す。

「アグネスは?」

 

「そのような恐ろしい記憶は、ありません」

 彼女は困ったように首を傾げた。

「でも……アベル様の仰るような悪夢ではないですが、不思議な夢なら時々見ることがあります。とても大きな書斎で、マリア様によく似た雰囲気の……大柄な男の方とチェスをしている夢です」

 

 集団失踪の町で指したチェスを朧気に覚えているのだろうか。しかし大柄な男とは。私とは似ても似つかないではないか。

 

「とても懐かしくて、少しだけ悲しい気持ちになるんです」

「はあ……そうなんですか」

 

 アグネスの漠然とした夢の話を一笑に付すこともできず、ただ中途半端な相槌が生まれてしまう。体のどこかに刺さっている小さな棘に気付かされたような、妙な感じがしていた。まるで、忘れてはならない何かを示唆されているかのように。

 

「さて、その支離滅裂な夢が、神の声とでも言うつもりかな」

 アベルの声で我に帰る。

 目的を忘れてはならない。利害の一致へと話を繋げなければ。

 

「──ともかく、我々の目的は『無』の正体を突き止めることです。そのためには、教会の中枢に入り込める『聖女』の権威が不可欠なのです」

 

 もちろん、唯一無二の真の目的――聖女となったアグネスに寄生して怠惰を貪る――ことは完璧に隠蔽している。そんなことも知らない純粋なアグネスは、ぱあっと目を輝かせていた。

 

「でしたら、マリア様こそが聖女になるべきです! あなたほどの知性と気品をお持ちの方はいません!」

「ほう、的を射たことも言えるじゃないか、アグネス」

 

 アベルが、氷のように冷たい声でその提案に賛同した。

「マリアさんが聖女になればいい。つまりあなたは不要だ」

 

 まてまて。私が聖女になってどうする。今回ばかりは長生きがしたいのに。

 アベルとアグネス、その性質は真逆であれ、二人ともが私を聖女の座へと押し上げようとしている。これぞまさしく、私にとって最悪の展開だ。

 

「……まあ、その話は一旦置きましょう。そもそも、この聖女フェスとはどのように候補者を選抜するのですか?」

 

 まだ慌てる時間ではない。ことを進めつつ、策を考えればいい。一旦保留。それもまた効率的な頭脳の働かせ方である。

 

「はい。いくつかの『試験』が課され、それを乗り越えた者たちの中から、最後は候補者同士による『投票』で決まるそうです」

 

 アグネスの言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に懐かしい静寂が蘇った。緊張と香油の匂いが満ちる礼拝堂。緋色の衣を(まと)った老人たちが敬虔な祈りの言葉を交わしながら、その瞳の奥では互いの価値と影響力とを冷徹に値踏みしあう――沈黙こそが最も雄弁な駆け引きの場であった、教皇選挙(コンクラーベ )の記憶だ。

 

 なるほど。試験についてはともかく、最終的な聖女選出とは、つまりコンクラーベのようなもの。神聖な儀式という体裁をとりながら、その本質は票の奪い合いということである。大いに結構。

 

 その本質を看破した瞬間、我が口元には自然と笑みが浮かんでいた。少女のものではない。長年指し続けた馴染みの盤上で、必勝の一手を見出した老練な指し手の、静かな笑みである。

 

「ならば話は決まりました。我々三人全員、候補者として登録すべきです」

 

 きょとんとする二人を前に、私は立て板に水とばかりに詭弁を弄す。

「目的はあくまで『無』の調査。誰が聖女になるかは問題ではありません。むしろ、誰か一人に絞る方が危険です。三人がそれぞれ候補者となり、互いの保険となる。票は分散させるのではなく、最終的に一つの場所に集めるための布石です。いいですか、これは政治です。神聖なる選挙戦なのですよ」

 

 神学と政治の本質が同じであることを、この二人が理解しているかは定かではない。だが、私の老獪な魂が紡ぐ断定的な物言いは、有無を言わせぬ説得力となって彼らを絡め取っていく。

 

「これから我々は同志。三位一体となって、目的を遂行するのです」

 

 この完璧な理屈を前に、アベルは私の真意を探るようにじっとりと見つめた後、「……マリアさんがそうお望みなら、異論はありません」と、忠実なる騎士のように振る舞うことを選んだ。その瞳の奥に宿る独占欲には気づかないふりをしておく。

 一方のアグネスは、「同志」という言葉の響きに心を打たれたらしく、「はい! マリア様が聖女となられるよう、このアグネス、誠心誠意お支えします!」と、どこまでも健気に燃え上がった。

 

 こうしてひとまずは、聖女の座を巡る歪な共同関係が、それぞれ全く異なる思惑を隠したまま、ここに結ばれたのである。

 

 *

 

 場面は移り、聖都の大礼拝堂。聖女候補の登録窓口は、長蛇の列とは言わないまでも、それなりの賑わいを見せていた。我々の番になり、三枚の登録用紙を提出すると、受付の老いた神官がうんざりした様子で告げた。

 

「はい、三人追加ね。これで登録者は五百三人。締め切りまでまだ二週間あるから、最終的には千人は超えるだろうねえ……やれやれ」

 

 ライバルが千人とは、すさまじい。だが締め切りまでまだ時間があるというのは何よりの朗報である。

 

 私は心の内でほくそ笑んだ。

 

 ──それだけの間にアグネスに投票する仲間を増やせる、ということだからな。

 

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