元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
竜の鼻っ面に、私の脱ぎたて靴下がクリーンヒットしたまま時が凍りついていた。灼熱のブレスを放たんとしていたはずの神話の厄災は、その顔面に張り付いた聖骸布の芳醇な香りに目を白黒させ、背後ではアグネスとアベルが「え?」という顔のまま動けずにいた。
やがて、ドラゴンは信じられないものを見る目で私を見下ろし、震える声で尋ねてきた。
「──小娘。なぜ俺がにおいフェ……もとい、
「私には『前回』の記憶がありますから。しかし竜のあなたも覚えていないのですか」
私の返答に、アベルが「ほう」と何か感心したように呟き、アグネスは「ぜんかい……?」と一人だけ話についていけていない様子で首を傾げている。周囲の困惑を
「まあ、ちょうどよかったです。ドラゴンさん、あなたには我々の仲間になっていただきたい」
「……何を言うかと思えば。俺にはマザーから言いつけられた役目がある。ここより北に誰も通すなと」
返事を待たずに、私はもう片方の靴もおもむろに脱ぎ始めた。
「おい。何をするつもり──」
有無を言わせず、聖なる靴下の二投目を放つ。放物線を描いたそれは、寸分の狂いもなく竜のもう片方の鼻の穴へと吸い込まれていった。
結果、彼の巨大な鼻腔は、私の両足分の聖骸布によって完全に栓をされることになった。「クゥーン」という、大型犬が叱られた時のような実に情けない声を発すると、ドラゴンの両目から知性の光は急速に失われ、ただ
*
帰りの馬車の中は、血と消毒薬の匂い、そしてアベルの放つ桃色のオーラで実に混沌としていた。
「あまりご無理をされてはいけません。アベル様は、もっとご自分の身体を大切になさらないと」
アグネスが、お世辞にも上手とは言えない手つきで、傷だらけのアベルの腕に包帯を巻いている。
「……驚いたよ。串肉を焼く以外にも、君が上手にできることがあるとはね」
アベルが皮肉たっぷりに言うが、純粋培養の聖霊アグネスにその毒が通じるはずもない。
「まあ! そんなに褒められたら、照れてしまいます!」
彼女は満面の笑みで応じると、感謝を込めて包帯の結び目にぐっと力を込めた。キュッ、という小気味よい音と共に、アベルの口から「オウフッ……!」と法悦に満ちた桃色の吐息が漏れる。
私がその倒錯的な光景に
「おーい。方角、こっちで合ってるのか?」
声の主は、先ほどのドラゴンである。
彼は人型の姿――歳の頃は二十代、日に焼けた肌が眩しい快活な女性冒険者――へと化け、今は動けないアベルの代わりに御者台に座っている。
「その道を真っすぐでお願いします。……というか、なぜ人間の姿に?」
「竜の姿では馬車を運べないからな。なにより俺が街へ入れなくなる」
なるほど、と一旦は納得したが、もう一つ根本的な疑問が残っていた。
「あなたは女性だったのですか?」
「いや、男だ」
即答だった。私は思わず、眉間に深い皺を刻む。
「……では、なぜその姿なのですか」
すると彼は、さも当然とばかりに、悪びれもなくこう言い放った。
「考えてもみろ。屈強な大男が、お前さんのような幼女の靴下の匂いを嗅いで、
「変態ですね。衛兵に通報します」
「だろう? だが、快活でちょっと変わったお姉さんならどうだ。『あらあら、面白い趣味をお持ちなのね』くらいで済むかもしれん。これは人間社会に溶け込むための処世術なんだよ、処世術」
どこからどう見ても変態であることに変わりはないのだが。私は深くため息をつき、「いいから、前を向いて運転してください」と返すのが精一杯だった。
なぜこうも、私の周りにはイロモノばかり集まってくるのか。 神の悪趣味な采配には、もはや呆れる気力すら湧いてこない。 ……だがまあ、竜が仲間というのは、純粋な戦力としては実に心強いのも事実であった。
*
さらに場面は変わり、商業都市の港。
無数の傷を負いながらも恍惚としていたアベルは、治癒に専念させるため宿に置いてきた。私とアグネス、そして人化したドラゴン――自己申告によると名は『リンド』というらしい――の三人は、元傭兵のバルガスと元盗賊のザンギの行方を探していた。
いかにドラゴンの存在が心強いとはいえ、聖女選出の投票において、彼はたった一票にしかならないのである。千人を超えるライバルを相手にするには、あまりに心もとない。それぞれがそれなりの数の部下を引き連れているバルガスとザンギを、何としてでも仲間に引き入れる必要があった。
数日かけて聞き込みを重ねた結果、得られた情報は、「やたら威勢と体格のいい男二人組を最近見かけた」「会う人ごとに金を借りて回っていた」「ようやく買った中古の船が港を出てすぐに浸水し、泳いで戻ってきたらしい」といった、実に情けないものばかりであった。
そして今日、我々はついに決定的な情報を掴んだ。桟橋で釣り糸を垂らしていた老人が、ぼやくように教えてくれたのだ。
「おお、その二人なら一緒に見たぞ。ついさっき、『これで今夜のおかずを釣るんだ』と言ってワシの竿を貸してやったが……ありゃあ、戻ってこんかもなぁ……」
嫌な予感に目を瞑りながら老人の指さす桟橋の先へ向かうと、果たして、夕陽を浴びて寂しそうに釣り糸を垂らす、大柄な男二人の後ろ姿があった。間違いない。バルガスとザンギだ。
私がアグネスへ目くばせをすると、彼女は不安げに一度頷き返し、意を決して二人のもとへ歩み寄った。
「あの……バルガスさんとザンギさん……でよろしかったでしょうか? 突然ですが、私たちに力を貸していただけないでしょうか。手伝っていただきたいことがあるのです……」
さすがに無茶を言っていると実感しているのか、アグネスは胸の前で合掌し、祈るように話しかけていた。
その声に、二人の男は勢いよく振り返った。そして、アグネスの姿を認めた瞬間、まるで神の声を聞いた信者のように、その場に崩れ落ちんばかりに目を輝かせた。
「おお、豊満なる女神よ! こんなに情けない俺たちの前に顕現してくださったのか!」
「この筋肉、この魂、すべてを豊満なる貴女様に捧げましょう!」
彼らは持っていた釣り竿を海へ放り投げると、迷いなくその場に跪き、深く頭を垂れた。
「「喜んで、お供しますともッ!!」」
あまりの即決ぶりに、アグネスは目を丸くしている。実に結構。実に愚直で、実に扱いやすい駒だ。私は計算通りに事が運んだことに満足し、この茶番に割って入る。
「話が早くて助かります。ところで、あなた方の部下はどこに? 彼らの力も、ぜひお借りしたいのですが」
私の問いかけに、二人は顔を見合わせた。跪いたまま、先ほどまでの勢いが嘘のように、急に歯切れが悪くなる。夕陽を浴びて輝くその筋肉が、どこかバツが悪そうに
「あー……そいつらなら、もういねえよ」
バルガスが、ぽりぽりと頭を掻きながら答える。
「俺たちの熱い魂に、あいつらはついてこれなかったのさ! なあ兄弟!」
ザンギがつとめて明るくしているが、その目も悲しいかな、夕暮れの海よりも遠くを見つめていた。
「要するに、愛想を尽かされたと」
私の冷徹な要約に、二人は沈黙で答えた。場の空気が、夕暮れの風に冷やされていく。
「……では、あなた方に残されたものは?」
頭がくらくらする思いで、次の質問を投げかける。何か一つでいい。役立つものがないか。金を借りていたと聞いたが、それはどこか。
二人は再び顔を見合わせると、開き直ったように立ち上がり、胸を張って見せた。
「残ったのは穴だらけの船と、ちょっぴりの借金!」
「それから、この鍛え上げられた肉体だけさ!」
――なんだと。
私の脳内で、完璧に構築されていたはずの選挙戦略が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
めまいを覚え、無意識にふらついた。背後からリンドが「おい、大丈夫か」と支えてくれなければ、みっともなく桟橋に崩れ落ちていたところだ。
私の平穏な未来が、この筋肉と借金でできた二つの巨大な
「マリア様? どうかなさいましたか? 顔色が……」
心配そうに覗き込むアグネスの声も、もはや遠い。私はただ、夕陽に照らされて誇らしげに輝く二つの筋肉の塊を、無表情に見つめることしかできなかった。
かくして、この遠征で得られた戦力はわずか三名。しかも現段階でアベルをのぞき、無一文。我が聖女選挙対策本部は、設立と同時に、極めて深刻な財政難に見舞われることとなったのである。