元枢機卿のTS聖女は怠けたい。 作:匿名
長い地下道を抜けた先の小部屋では、シメオン監督官が茶を飲んで待っていた。部屋の奥には苔むした古い扉が一枚だけ。
「おや、ようやく次の人がきた。本試験会場はこの扉を進んだ先ですが、さてあなた方が今から間に合うかどうか……」
彼は壁にかけられた古時計をちらりと見やり、芝居がかったため息をついてみせる。
「聖女選抜の最終試験は『日没』と共に始まります。残された時間は、あと一刻もありませんぞ」
その言葉は、ゴール目前で安心しかけていた我々の魂に、再び冷や水を浴びせた。まさか、まだ時間制限の中にあったとは。我々は顔を見合わせ、シメオンの無言の催促に押されるように、重い石の扉を押し開けて先へ進む。
そして背後で扉が閉まった瞬間、世界から光が消えた。
比喩ではない。文字通り、光という概念そのものが世界から完全に
「急げ!」「時間がないぞ!」「真っ暗じゃないか!」
背後から押し寄せてきたのは、先ほどの熱狂の残滓そのものだった。我々の後をつけてきていただろう候補者たちが、無思慮に次々と暗闇へ身を投じていく。そして案の定、その勢いは内側から瓦解した。自分の置かれた状況を理解した者からパニックが伝播する。
「うわっ!」「押すな!」「前が見えん!」
まさに阿鼻叫喚の地獄だった。狭い通路は押し寄せる人間で混み合い、互いの足元を踏み、体を押し付け、転倒する音が鳴り響く。あの屈強なバルガスでさえ、苦悶の声を漏らしていた。このままでは進むどころか、圧死しかねない。一瞬の逡巡が命取りになると、私は即座に判断した。
「聞こえるか、戻るぞ!」
私は鋼を打ち鳴らすような声で叫ぶ。
「次の入口が開く瞬間だ! その光を目指して退け!」
その声に我を取り戻したのだろう。混乱のさなかにあった一行は私の指示に従い、後続が開けた扉から漏れる一筋の光を命綱に、人間の濁流を掻き分け、なんとか入口まで撤退した。
息を切らして闇から這い出た我々を、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべたシメオンが出迎える。「おや、ご帰還ですかな?」その声には、我々の失敗を愉しむ色が隠しようもなく滲んでいる。「念のため申し上げておきますが、これは暗闇の試練です。照明は規則違反ですぞ」彼は古時計に目をやり、ことさらに大きく溜息をついてみせた。
「さて、日没まで半刻を切りました。小賢しい作戦を練るのも結構ですが、そもそも中に入らねば始まりませんよ」
その安っぽい挑発を鼻であしらいながら、私は憔悴しきって這い出てくる他の候補者たちへと、冷静な観察の目を向けた。
この試験の本質は、暗闇そのものではない。暗闇によって浮き出される『人間の脆さ』だ。理性を欠いた獣のようにひしめき合う混乱のさ中、単独で正確に進むのは不可能に近い。
しかし、妙である。先に入っていったはずのアベルの姿が見当たらない。彼はまだ、あの暗闇の中にいるのか? いや、あの男に限って、こんな場所で手間取っているはずがない。ならば、とうに突破してしまったのだ。一体、どうやって? 視覚が役に立たないこの状況でゴールに至る方法とは?
視覚が機能不全に陥るなら、残された感覚器に頼るほかないだろう。聴覚、あるいは嗅覚か。だが、悲しいかな人間という種は、そのどちらの能力も実に貧弱だ。闇の中で反響する悲鳴を頼りに進めと? あるいは、このむせ返るような人間の汗の匂いの中から、正しい道を示す芳香を探せと? 馬鹿馬鹿しい。我々はコウモリや犬ではないのだ。
一度はその陳腐な発想を切り捨てた、まさにその瞬間だった。
「いや──犬、か」
思考の迷路に迷い込んだ私の脳裏に、一つの可能性が浮かび上がる。
そうだ。なぜ気づかなかったのか。実に単純なことだ。我々の仲間には、ただの犬どころではない、はるかに優れた「鼻」を持つ存在がいるではないか。
だが問題は、その「鼻」に何を追わせるかだ。ゴールには芳しい香りのご馳走でも用意されているなら話は別だが、そんな希望的憶測は何の役にも立たないだろう。ならば、より確実な──。
そこで私は思考を止めた。時間が惜しい。あとは実行するのみである。
「皆さん、列車を見たことはありますか? あの鉄の塊は、決して脱線しない。なぜならレールの上を走るから。そして、車両同士が固く連結されているからです」
私は周囲の「突然何を言っているんだ?」という嘲笑を意にも介さず、静かに語る。
「暗闇の中では、誰もが互いにぶつかり合って自滅するだけです。だから我々は連結する必要があるのです。リンド、あなたはレールを見つけ出すことができる。先頭をお願いします」
私はリンドの肩を掴み、有無を言わさず先頭に立たせた。
「二番目は私。三番バルガス、四番アグネス、最後尾はザンギ。前の肩に手を置いてください。そして……」
今から始まる茶番劇に口角が吊り上がるのを止められない。自信半分、自嘲半分である。
「この静寂は人の心を蝕みます。だから音を出すのです。さあリンド、元気よく出発進行と行きましょう! ぽっぽー!」
「ぽっぽー! っておい、いったい今、俺たちは何をさせられているんだ?」
訝しげなリンドに、私は小声で囁く。
「いいから、黙って扉を開けて闇の中へ。……あなたにしかできない役目です」
かくして、我々貧乏聖女候補団は「人間列車」という、実に
「リンド! あなたはただの竜ではありません。人のにおいが大好きなにおいフェチドラゴンです。アベルの血の匂いは覚えていますか!」
その言葉に、リンドは全てを理解したらしい。
「……そういうことか。あの根暗野郎、やってくれたな!」
彼の足取りが、迷いのない確かなものに変わる。皆で「ぽっぽー」と音を鳴らし続けるので、前後不覚に陥ることもない。
「そうです! 彼が残した血の道しるべは、我々にとってのレールそのもの! 前と後ろの連結さえ保てば、方角に迷うこともありません! 全速力で進みますよ!」
五両編成の人間列車は、暗闇の中を猛然と駆け抜け始めた。 途中でパニックに陥った他の候補者がぶつかってきても、列の中央を固めるバルガスと、最後尾のザンギが「ぽっぽー!」と一喝し、その屈強な肉体で弾き飛ばしていく。彼らはまさに、この暴走列車の装甲と化していた。
やがて暗闇の先に、ぼんやりとした光が漏れ出る扉が見えてきた。ゴールである。
扉を抜けると、そこは雪国であった。
アベルの顔は痛々しく腫れあがり、頭からは血が流れていた。壁に体を擦りつけながら、ただひたすらに前進するという、実に彼らしい無謀な方法でこの暗闇を攻略したらしい。醜くなったその顔で我々を一瞥すると、腫れあがった口の端を満足げに釣り上げた。
最奥に座す老婆が、パチパチと乾いた拍手をした。
「お見事。ほとんどの者が己の恐怖心に囚われ自滅する中、あなた方は他者の残した『狂気の信仰』を嗅ぎ分け、それを『合理的な道しるべ』として利用した。邪道を以て王道を行く、見事な突破方法です。合格」
老婆がゆっくりと立ち上がる。その瞬間、部屋の空気が変わった。雪原の冷気とは質の違う、もっと根源的で、抗いがたい圧力がその場を支配する。まるで、悠久の時を生きる神話そのものが、長い眠りから目を覚ましたかのように。その場にいた誰もが、呼吸すら忘れ視線を奪われていた。
枯れ枝のような指がフードの縁にかかり、静かに影が払われる。
「シメオンと共に、最終試験の監督を務めさせていただきます。プリマと申します」
そこに現れたのは、深い皺が刻まれた顔だった。歳月という名の彫刻家が、気まぐれと悪意の限りを尽くして刻み込んだかのような、複雑な貌。
だが、その瞳だけは、老いという概念を完全に拒絶していた。まるで悠久の時を生きる竜が、悠然と眼下の世界を眺めるかのように、測り知れない深淵の色を宿している。
「え……初代の、聖女……プリマさま?」
アグネスが、目の前の存在が信じられないといった様子で呟く。
「マザー……!」
リンドの口から漏れたのは驚愕と、そして長年会うことのなかった肉親に対するような、複雑な感情の入り混じった声だった。
──聖女プリマ。おとぎ話の中に登場する、竜と人との戦争に終止符を打ったといわれる聖人にして、聖都ルクス建国の母。千年前の伝説の存在が、何故ここに? 彼女はいったい何歳なのか。
更にはリンドの親分にあたる存在『マザー』でもあるらしい。実際、並の存在感ではないのが一目で分かる。しかし彼女から感じるのは、敵意や悪意ではない。もっと根源的な……言うなれば、永い時を生き続けた者だけが纏う『諦観』のようなもの。
プリマは、アグネスやリンドの驚きに反応を示すでもなく、ただ静かに、暗闇の迷宮から生還した者たち一人ひとりの顔を、慈しむようでもあり、同時に何かを値踏みするようでもある、不思議な眼差しでゆっくりと見渡した。
そして、最後に私の前でその視線がぴたりと止まる。
彼女が何かを言うことはなかった。ただ、その竜の瞳の奥で、ほんの一瞬、まるで同類を見つけたかのような、あるいは自らと同じく『世界の理から少しだけはみ出してしまった者』を見つけたかのような、微かな揺らぎを見せた。