元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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三十話

 根競(こんくら)べは十巡目に突入していた。

 

 アグネス  4票。

 ヴィオレッタ1票。

 

 依然として我々の優勢は揺るがないが、この状況そのものが地獄であった。得票率9割という勝利条件はもはや、相手を徹底的に屈服させる完全勝利と同義。だが、このヴィオレッタという女の心を折るにはどうすればよいのか。

 

 あちらは買収という切り札を持っているが、こちらは何も決め手がない。灼熱の室内で、ただ無為に時間が過ぎるのを待つしかないのか。熱気が脳を茹だらせ、思考が形となる前に蒸発していく。

 

 汗だくのアグネスが、息も絶え絶えに、まだスープの残っている椀を手に固まっていた。限界が近いのだろう。その好機を、女狐は見逃さない。

 

「ふふ……分かっていたとは思うけれど」

 ヴィオレッタが懐から取り出したのは、一枚の紙。

「あなたの借金も、ここにあるわ」

 

 串肉屋が持っていたはずの借用書である。ヴィオレッタはそれを、まるで最後の慈悲を与えるかのようにテーブルに滑らせた。

 

「私が情けないせいで……皆さんがこんな目に……」

 

 アグネスの瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。

 

「早く、お互い楽になりましょう?」

 

 ヴィオレッタもまた、扇子を動かすその手が微かに震えている。彼女も限界なのだ。

 目の前で起きようとしている買収劇だが、もはや私が口を挟む体力は残っていない。

 

 アグネスは震える手で、ついにその借用書を受け取った。普段は絶対に見せない、憎しみが込められた目でその紙を見つめる。

 

「こんなもの……こんなもの……っ!」

 

 ぶつぶつと呟きながら、彼女はその借用書をくしゃくしゃに丸めると、自らの口の中へと放り込み、残っていた地獄のスープで一気に飲み干してしまったのである。

 

「うそでしょ……バカな子ね」

 

 ヴィオレッタが初めて不服そうに顔をゆがませた。狂気と熱気で満たされ始めたこの場において、理性への訴えかけはもう意味をなさないのである。

 

 *

 

 十二巡目。

 もはや誰もが己の限界と戦っており、口を開く者はいなくなった。一人を除いて。

 

「せっかくなので、この料理の紹介をしようかしら」

 プリマは楽しそうに、鍋の中の黒い塊を指さした。

「この具、美味しいでしょう? 何の肉だと思いますか?」

 

 その問いは、現在スープの辛さに顔をしかめているリンドに向けられた。リンドは首を振り、かろうじて声を絞り出す。

 

「わからない……辛すぎて、元のにおいが何も……」

「竜の心■です」

 

 リンドの顔が真っ青になった。

 

「う……おぇ……っ」

「吐き出さないように。友の■を無駄にしてはいけません」

 

 老婆がぴしゃりと言い放つと、リンドは顔を青くしたまま、口を押さえてごくりと喉を鳴らす。

 

「竜の心■を食せば滋■強壮はもちろん、■在的な生■■を大きく■き上げるといわれています。本■なら、皆さんはとっくにこの■さでやられていることでしょう。引き■き、■■ってくださいね」

 

 どうやら私も限界が近い。

 老婆の紡ぐ言葉が、いったん耳には入るが、その意味をせいかくに理解できないのだ。脳へとどくまえに、目から、鼻から、口から、外のせかいに溶け出していく。きづけば、今までいた部屋は形をかえている。

 

 わたしはいま

 座っているのか。

 立っているのか。

 

 ■巡目。

 

 煮え滾る赤い湖のほとりで、釣りをしている。水面にうつる私は狂った骸骨である。隣の骸骨が黒い魚を釣り上げて、けたけた笑いながらバケツの水ごと平らげる。私も同じように黒い魚を平らげる。順番である。

 深い霧のせいで対面の骸骨は見えないが、おそらく同じように釣りをしている。

 ひどく喉が渇いて、笑いがこみあげてくる。赤い水を飲むたび骨の体は赤熱し、水分は肋骨の隙間からこぼれ落ちる。これでは、いくらやっても渇きは増すばかりである。それがおかしくて笑うほかなかった。

 やがて隣の骸骨が私をじっと見つめて「大丈夫ですか。ずいぶんと顔色が悪く見える」と言った。骸骨の私に対して、顔色が悪いとは。

 あまりにもおかしくて笑い続けていると、その骸骨が立ち上がり、私の方へ近づいた。「潮時ですね」彼が顔を近づけると、懐かしい香油のにおいがした。「──聖下?」忘れようもない、教皇聖下のものだ。彼は私を抱きかかえると、そのまま走り出した。

 霧の中に扉が現れると「受け身、とってくださいね」とそのノブに手をかける。抗いがたい気流が生まれ、霧も、私も、骸骨も、扉の向こうに投げ出された。

 

 *

 

 ひんやりとした空気が、夢現(ゆめうつつ)から私の意識を呼び起こした。

 大の字に伸びていた私は跳ねるように体を起こすと、首をまわして現状を確認する。投票の途中だったはずだ。いったい、どうなったというのか。

 

「ここは──」

 

 ひんやりと心地よい空気。白銀の雪。テーブルに置かれた湯気の立ち上るティーポッド。ここは、雪原の部屋だ。

 

「ご無事ですか、マリア様!」

 

 隣で寝ていたアグネスが、私と同時に起き上がった。

 

「無事も何も……投票はどうなった!?」

 

 この部屋にいるということは、脱落したのだ。頭では分かっていながらも、質問せずにはいられなかった。

 

「これ以上は限界だと思って、マリア様が気を失われる寸前に、私が抱えて離脱いたしました……!」

 

 アグネスが投票部屋に視線を投げかけたのを見て、私も慌ててその窓に取り付いた。

 灼熱の部屋の中には、まだ三つの人影が鍋を囲っている。アベル、リンド、そしてプリマだ。

 ……あの女は?

 

「おめでとう……あなたたちの勝ちよ」

 

 こんもりと盛り上がった雪山から、ヴィオレッタがひょっこりと顔を覗かせた。彼女の部下たちが、スコップを手に額に汗を浮かべている。熱冷ましに雪風呂とは、優雅なことだ。いや、今はそんな事はどうでもいい。

 

「ということは、ようやく聖女が決まったと」

「あの……それが」

 

 何か言いづらそうにしているアグネスの視線の先で、プリマが投票箱を手に取った。我々にも分かるように、蓋が開けられる。

 掲げられた二枚の投票用紙。その結果に我が目を疑った。

 

 アグネス 1票。

 マ(・)リ(・)ア(・)  1票。

 

「……は?」

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