元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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四話

 天才という言葉は、いわば責任の押し付けである。「いくら努力しても天才には敵わない。ならばもう努力などせず、すべて天才に任せてしまおう」と、思考する努力すら放棄して、聞こえのいい言葉でたった一人に全責任を押し付ける。

 現在、私の身に起きている(おぞ)ましい状況のことである。

 構造的に偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)にも当てはまる。彼女らは『天才マリア』という都合の良い偶像を祭り上げることで、『自ら思考する』という、人間にとって最もコストのかかる責務を放棄しているのである。実に安上がりな信仰形態ではないか。私がかつて舌鋒(ぜっぽう)鋭く批判してきた堕落の極みが、今まさに私の目の前で、私自身を本尊として繰り広げられているのである。おお、神よ。あなたは皮肉の天才か。

 

 翌朝からというもの、私の周囲の空気は一変した。廊下ですれ違う候補生たちは、以前のような品定めする視線ではなく、私の後ろに(そび)え立つ聖なる幻影に対して畏敬(いけい)眼差(まなざ)しを私に向けるのである。彼女らは私の前で(うやうや)しく道を譲り、ひそひそと「あの方がマリア様」「あの幼き身体に百万の知性が」などと(ささや)き合う。やめていただきたい。ここにいる私は聖母でも歩く神学大全でもない。本当のマリアを見て。

 本当のマリアはただの怠惰な人間なの。その証拠に、今朝も寝台から這い出すのに十分間も費やしたんだから。この寝ぐせが目に入らないの? みんな、私はここにいるよ!

 

 そして、私の精神均衡を最も乱す存在、すなわち天敵アグネスは、この集団的白痴化の震源地として、その純粋さを遺憾なく発揮しておられた。

 

「マリア様! 昨日の問答、実に素晴らしかったですわ! 私、感動で胸が震えました!」

 

 朝食の席で彼女は両手を組み、実際に豊満なバストを震わせながらそう(のたも)うた。うむ。あの曲線美は、まごうことなきティツィアーノ派の筆致だ。豊穣と慈愛の象徴として描かれる聖母がごとく、神の気前の良さを余すことなく体現している。あれを前にすれば、いかなる敬虔な信徒も、神の創造物の完璧さにひれ伏し、信仰心を新たにするに違いない。しかし、である。神学的に考察するならば、あれは同時に、作り手の悪趣味さの現れとも言える。あの質量を支えるために、彼女の脊椎は日々どれほどの重労働を強いられていることか。重力という神が定めたもうた普遍の法則に抗うための、涙ぐましいまでのエネルギーの浪費。実に非効率的で、見ていて肩が凝る。神はなぜ、かくも美しく、そしてかくも面倒なものをお創りになったのか。実に解釈の難しい神学的問題へと発展する。

 

「あの、マリア様?」

 

 ふと我に返り視線を戻すと、純粋を煮詰めたかのような双眸(そうぼう)が私を捉えている。

 彼女の瞳の輝きは、もはや恒星のそれであった。これ以上直視していれば私の腐った魂など一瞬で蒸発させられてしまうに違いない。私は再び彼女の豊満なティツィアーノに視線を落とし聖女候補生の仮面を貼り付け、「アグネス様も、お見事でございましたよ」と当たり(さわ)りのない返答をしたが、心の内では「お前の百点満点の模範解答こそが、私の異端演説を際立たせた最大の功労者なのだが」と、実に複雑な心境で毒づいていたのである。

 

 ここからでは、もはや小手先のサボタージュも通用しない。私が居眠りをすれば「深き瞑想」と解釈され、清掃をサボれば「神への絶対的信頼の現れ」と絶賛される。私のあらゆる堕落した行為は、アグネスという名の巨大な善意の洗濯機に放り込まれ、ことごとく真っ白に洗い上げられてしまうのだ。

 

 かくして、私は最後の計画を立案するに至った。私が『落ちる』のが不可能ならば、発想を転換し、私以外を『持ち上げ』ればよい。つまり私を(かす)ませるほどの圧倒的な聖女像を、小憎たらしいアグネスめに押し付けてやるのだ。名付けて、『聖なるクソッタレ作戦』である。

 

 なぜ『クソッタレ』が聖なるなのか? 簡単なことだ。神への最も率直にして誠実な対話の言葉だからである。美辞麗句で飾られた敬虔な祈りなど、天上の神にとっては日々大量に送られてくる退屈なスパムメールのようなものだろう。だが、この魂の叫びとも言うべき一言は、あらゆるフィルタを突き抜け、ダイレクトに神の座へと届くのだ。前の世界では『聖なるクソ(Holy shit)』なる祝詞が横行していたせいで、恐らく迷惑フォルダに直行していただろうが。この異世界においては、数秒で神の顔を真っ赤に染め上げる聖なる祝詞なのである。

 

 決勝『奇跡の儀』。それは候補者が祭壇に立ち、祈りを捧げて「奇跡」を顕現(けんげん)させるというもの。交互に祈りを捧げ、儀式は実際に奇跡が起きるまで続く。実に分かりやすく、それゆえに実に悪質な最終試験であった。

 

 私の計画はこうだ。まず私の番では、あからさまにバレバレな手品でも披露して、「この娘に奇跡を起こす能力はない」と満場に知らしめる。そしてアグネスの番。耐久戦にするつもりは毛頭ない。彼女が祈りを捧げた瞬間に、私がこっそり天に向かって「クソッタレ!」を唱え、お馴染み天罰の雷を落とす。これを「アグネスが起こした奇跡」として誤認させ、私は歴史の闇に消えるのだ。完璧な計画だ。実にエレガントではないか。

 

 決勝当日、大聖堂は尋常ならざる熱気に包まれていた。いかめしい顔つきの審査員たち、固唾(かたず)をのむ観衆、そして何より、私に期待を寄せる候補生たちの視線が痛い。失礼、これからあなた方を盛大にガッカリさせることになるのだが、よろしいか。

 

「マリア様ならできますわ。あなたこそ、真の聖女ですもの」

 

 アグネスは私の手を握り、そう言って微笑んだ。私は「任せてくれ、今回こそはお前の素晴らしい前座を務めよう」と口には出さず、天使の笑みで応えた。

 

 やがて、私の番が来た。

 満場の期待を一身に浴びながら、私は厳粛(げんしゅく)な面持ちで祭壇へと進み出た。そしておもむろに袖の中から、昨晩シーツを裂いて作った粗末な造花を取り出す。

 

「ご照覧(しょうらん)あれ」

 私はそれを高々と掲げ、もう片方の手でそれにハンカチを被せた。

「この花が、神の祝福を受け……消えます!」

 宣言と共にハンカチを取る。だが花はそこにある。

 私は「おっかしいですね~!」と首を傾げ、もう一度ハンカチを被せる。

「消えますっ!」

 ハンカチを取る。もちろん花はまだそこにある。

 

 会場が微妙な沈黙と困惑に包まれていくのが、肌で感じられた。よし、いいぞ。もっと私に幻滅するがいい。心の内で快哉(かいさい)を叫んだ、その時であった。

 

「おおっ……!」 

 例の顔色の悪い審査委員長が、感涙にむせびながら席を立った。

 

「なんと……! なんという深遠なる問いかけか! 彼女は『安易な奇跡に意味はあるのか?』と、その身をもって我々に問いかけておられるのだ! これは、奇跡の儀式そのものへの、高度にして神学的なアンチテーゼであるぞ!」

 

 オイ。チクショウ。黙れ、逆張り野郎。これはただの、致命的にヘタクソな手品である。私の計画は、またしてもこのイカれた神学オタクの暴走によって、あらぬ方向へと捻じ曲げられようとしていた。お前の居場所はここではない。お前は神聖な神の家に居てはいけない。雀荘か競馬場がお似合いだ。

 

 もはや(さい)は投げられた。残る望みは、アグネスの奇跡だけだ。

 彼女は私の「深遠なる問いかけ」にいたく感銘を受けた様子で、決意を秘めた瞳で祭壇に立った。そして、清らかな声で祈りを捧げ始める。

 

「──聖なる光よ!」

 今だ!

 

 私は祈るふりをしながら口元を(おお)い、誰にも聞こえぬよう、しかしはっきりと、天にまします我が主へダイレクトメールを飛ばすがごとく、聖なる言葉を(ささや)いた。

 

「Maledicte!(クソッタレ!)」

 

 中指を立てた瞬間、室内の明かりがふっと掻き消え、大聖堂の尖塔に、天を引き裂くほどの轟音が突き刺さった。建物全体がビリビリと震え、ステンドグラスが不協和音を奏でる。それは祝福の光などという生易しいものではなく、神の怒りそのものを思わせる、圧倒的な破壊と畏怖の顕現であった。

 

 会場はパニック寸前の悲鳴とどよめきに満ちている。私は「やりすぎたか!?」と内心焦ったが、まあよかろう。これほどの天変地異が起きてなお、誰一人怪我をしていない。これこそが聖女の奇跡と解釈するがよろしい。

 

 だが、私はこの世界の住人の純粋さを、そして何よりアグネスという人型決戦兵器の破壊力を、完全に見誤っていた。

 

 彼女は震えながら立ち上がり、涙ながらに叫んだのである。

「お待ちください! この御業(みわざ)は、未熟な私に起こせるものではありません!」

 

 静まり返る会場。アグネスは、まっすぐに私を指さした。

「天の雷すら動かすこの偉大な奇跡は、マリア様が起こされたものです! 彼女は、ご自身の番ではあえて茶番を演じて私を立て、そしてこの私を聖女にするために、その大いなる御力をお使いになったのです!」

 

 そして、彼女はとどめを刺した。

「この、自らを(かえり)みない自己犠牲の精神こそ、真の聖女の証ではありませんか!」

 

 その純度百万パーセントの涙と、キラキラと輝く尊敬の眼差しは、もはや物理的な質量を伴った砲弾であった。アグネス砲は私の長年築き上げてきた詭弁の城壁をいとも容易く貫通し、私の怠惰なる魂のど真ん中に、取り返しのつかない風穴を開けたのである。

 

 審査委員長が泣き崩れながら宣言する。

「高度な知性! 究極の自己犠牲! そして神の怒りすら代行する偉大な御力! 千年に一人の完璧な聖女の誕生である!」

 

「聖女マリア!」という割れんばかりのコールが、私の意識を白く塗りつぶしていく。思考停止した私は、満面の笑みのアグネスに手を引かれるまま、熱狂する群衆の前に立たされていた。

 

 天に向かって放ったはずの唾は、回り回って天上の冠となり、私の頭上に降り注いだのだ。

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