元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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二章
六話


 そもそも、である。

 死というものは、神が人類に与えたもうた唯一にして最大の福利厚生ではなかったか。あらゆる労働、あらゆる責任、あらゆる面倒事から解放される、絶対不可侵の終業の鐘。しかるに私の二度目の人生は、その崇高なるサボタージュが神という名の悪徳経営者によって無慈悲に却下され、再び俗世の責務へと引き戻されるという、悪夢のような形で幕を開けたのである。

 

 意識が浮上すると、鼻腔を突いたのは使い古した聖書の革表紙と、香油の混じった匂い。もはや郷愁すら覚える、あの選挙の香りであった。しかし、その奥に幻のごとく混じり込む、かの聖女マリアの頭頂部にこれでもかと垂らされた聖油の、しつこく甘ったるい匂い。天敵アグネス嬢が善意で淹れては盛大にぶちまけてくれたハーブティーの香り。そして、私の華奢なる頸椎を粉砕せんとした、あの忌まわしき冠の、ひやりとした感触まで。

 

 思わず我が首筋に触れてみれば、そこは長年の美食によって育まれた、実に頼もしい脂肪で堅牢に守られている。

 

「……悪夢、だったのか?」

 

 机に突っ伏した状態から顔を上げれば、そこはシスティーナ礼拝堂。目の前には教皇選出の投票用紙が置かれている。礼拝堂は神聖なる沈黙に支配され、聞こえるのは誰かが投票用紙を折りたたむ乾いた音と、時折漏れる咳払いばかり。全てがあの忌まわしき耐久コンクラーベの光景そのままであった。

 

 そうか、私は疲れているのだ。この馬鹿馬鹿しいほどに長引いている会議のせいで。私の健全なる精神が、この宗教的拷問から逃避するため、聖女マリアとして書類の山に埋もれ、アグネスという死神天使に精神を削られ、過労の果てに心臓がストライキを実行するという、壮大かつ荒唐無稽な物語を紡ぎ出したのだろう。実に殊勝な自己防衛本能ではないか。

 

 終わったらさっさと書斎に帰り、ピザとダイエットコーラでこの忌まわしい記憶を洗い流し、深遠なるネットサーフィンに興じるとしよう。そうしよう。

 

 しかし、投票が進むにつれ、私の希望的観測は木っ端微塵に打ち砕かれた。

 有力候補たちが互いを牽制しあい自滅していく様は、記憶の中の喜劇と寸分違わぬ脚本通り。そして、まるで淀んだ水が低い場所へと吸い寄せられるように、「無欲で高潔な私」に票が集まり始めたのである。

 

 一票、また一票と己の名が読み上げられるたびに、私の網膜の裏では羊皮紙の雪崩が発生し、耳の奥ではアグネス嬢の「マリア様!」という天真爛漫(てんしんらんまん)な破壊の呪文が木霊するのである。

 

 まずい、このままではまずい。前回とは比較にならぬ恐怖が、私の脊髄を駆け上がっていた。以前は「面倒事」という漠然(ばくぜん)とした敵からの逃避であったが、今回は違う。「凄まじい精神的拷問の末に過労死する」という、一度聖女として体験済みの、実に解像度の高い最悪の未来が、すぐそこで手招きしているのがわかる。

 

 私は席を蹴るように立ち上がると、これまでの人生で培った弁論術の全てを駆使し、必死の自己弾劾演説(セルフ・ディスリスペクト)を開始したのである。

 

「諸君、正気か? 私のような怠惰の極みにある男を教会の頂点に据えるなど、神への冒涜に等しいとは思わないのかね! よしわかった、告白しよう。私は聖典を読む時間より、インターネットの海で猫の動画を漁る時間の方が遥かに長い! 祈りの言葉より、ピザのデリバリーを催促する呪文を多く唱えてきた! 人々の悩みを聞くよりも、ソファの沈黙に耳を傾けている日がほとんどだ! 怠惰が法衣を(まと)っているだけの高等遊民なのだぞ!」

 

 この魂の叫びが、どうして通じないのか。

 私の熱弁は、他の枢機卿たちの濁ったマナコには「権力を欲せぬ、類稀なる謙虚さの表れ」「(みずか)らを(おとし)めることで、真の敬虔さを示そうとする高等な神学問答」としか映らないらしい。「おお、己の弱さを認められる者こそ、真の指導者だ」などという(ささや)きが、悪意なき悪意となって私を断頭台へと押し上げていく。もはやこれは神学などではなく、集団的な認知バイアスの問題である。長すぎるコンクラーベにより、彼らは耄碌(もうろく)してしまったのだ!

 

 そして、運命の票が三分の二に達しようかという、その刹那。

 

 聖女マリアとしての最期の光景が、脳裏に鮮烈にフラッシュバックした。山積みの書類、インクの匂い、そして自らの意思で鼓動を止めた、あの忠実なる心臓の感触。

 

「またあれを味わうというのか。あの忙殺の果てを」

 

 その絶望が、私の精神の許容量を完全に破壊した。

 素直かつ実直な我が心臓が、「これ以上の労働には断固反対する!」とストライキに突入する。

 薄れゆく意識の中、どこかで聞いた声が木霊する。

 

『まったく軟弱な心臓だな。さらに鍛え上げてくれよう』

 

 この声は。幼女マリアを死に至らしめた諸悪の根源!

 一言いってやらねば……! 今こそ奴に(のろ)いの言葉を!

 

 私は薄れゆく意識の中、システィーナ礼拝堂の天井を舞う神話たちに向けて、最大級の聖なる罵倒を、声にならぬ声でひたすらに叫び続けた。

 

「Maledicte……! Maledicte……!」

 

 その聖なる言葉が音になる前に、枢機卿としての二度目の人生は、実に締まらない形で幕を閉じたのである。

 

 *

 

「Maledicte!(クソッタレ!)」

 

 次に目覚めた瞬間、意識はまだコンクラーベでの死の寸前と混濁(こんだく)していた。神への怒りと反抗心が頂点に達したまま、魂に刻まれた言葉が、生まれたばかりの赤子の口から、産声のごとく、無意識にほとばしっていたのである。

 

 その場にいた両親は、我が子の不吉な第一声に唖然とする。その直後、雲一つない快晴であったはずの空に、突如として暗雲が立ち込め、近くの枯れ木に轟音(ごうおん)と共に雷が突き刺さった。

 

 しまった! と赤ん坊の言葉で叫んだが、時すでに遅し。

 目の前の両親の目が、恐怖から一転、まるで場末(ばすえ)の質屋が年代物の壺でも発見したかのような、実に俗っぽい輝きを宿すのを、私は赤子の無力な身体で見つめるしかなかった。

 

 ああ、神よ。あなたの脚本は、役者のアドリブすらも筋書きに取り込むというのか。なんと強引な筆致であろうか。

 

 かくして私は、自らの意図とは全く逆に、産声と共に聖女候補の烙印を押されるという、前代未聞の記録を打ち立ててしまったのである。この「うっかり」による最悪のスタートを受け、私は今度こそ、神の脚本から完全に逸脱することを固く決意したのだった。

 

 *

 

 時は流れ、七歳の誕生日を迎える前夜。

 迎えの馬車が明日来ることを、私は知っている。この七年間、私は周到に準備を進めてきた。言葉を覚えるふりをしながら街道の情報を集め、両親の目を盗んでわずかな保存食を隠し、来るべき逃亡劇に備えてきたのだ。前回の知識という圧倒的有利を、今ここで使わせていただく。

 

 夜の闇に紛れて、私は小さな袋を背負った。両親の寝室に「かみさまのおつげです。たびにでます」という彼らへの最大限の皮肉と、後腐れを残さないための最小限の配慮を込めた書き置きを残す。出荷予定の子羊がいなくなっていることに悲しみはするだろうが、知ったことではない。可愛いマリアちゃんの人身売買など、神が許しても私が許すものか。

 

 家を出て、街灯に明るく照らされた聖都への道に背を向ける。私は躊躇(ちゅうちょ)なく、薄暗い森に続く暗い道へと、たった一人で足を踏み出した。

 

 神よ。あなたの描く悪趣味な脚本は、これにて破り捨てさせていただく。

 

 この一歩こそは矮小(わいしょう)なる人間による、神への最も高尚なる反逆。さあ、観客席から指でも(くわ)えて見ているがいい。ここから始まるのは、私の、私による、私のための平穏奪還闘争である。

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