元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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七話

 決して言い訳ではないのだが、そもそも「自由」という言葉の定義が、神と私の間では根本的に異なっているように思う。私が求めた「自由」とは、責務からの解放であり、精神的平穏を享受する権利であった。しかるに、神が私に与えたもうたこの現状は、辞書的に言えば「放置」であり、神学的に言えば「見捨てられ」であり、生物学的に言えば「餓死寸前」と表記するのが最も正確であろう。言葉の厳密性を欠いた対話は常に悲劇的な誤解を生む。

 つまり神よ、私はあなたの悪辣(あくらつ)な舞台で踊るのは御免こうむるが、天の恵みを受けることについてはやぶさかではないのです。そこを履き違えないでいただきたい。

 

 目の前の泥水に映るのは、薄汚れた服をまとい、見る影もなくやつれた金髪の美幼女。私である。子供好きな前教皇がもしこの光景を目にしたら、あまりの痛ましさに卒倒するか、あるいは「神よ、この哀れな子羊に救いを」などと全ての公務を投げ打って祈りを捧げたに違いない。

 

 ああ、そう考えるとあの人の()い爺様が恋しくてたまらない。聖下は、私の知るあの暗黒経営者たる神よりも、よほど神であらせられた。なぜあれほどの聖人が、私より先に逝かねばならなかったのか。言わずもがな、過労である。神の定めたもうた過酷な労働基準法の犠牲者なのだ。

 

 とにかく、今の私は祈りよりもまず温かいスープと、できれば外側がパリッとしていて中がふんわりと柔らかい、上質な小麦で作られたパンを要求したい。

 

 お腹いっぱい食べたい→神への批判→聖下が恋しい→お腹いっぱい食べたい。

 低血糖が誘う無益な思考のループに頭を振り払いながら、足だけは前に出し続けた。

 

 *

 

 数日にわたる野宿の末、ようやくたどり着いたのは、潮の香りがする巨大な港町であった。その名は商業都市アジェンタム。かつて私がいた聖都ルクスが信仰という名の精神的搾取の総本山とすれば、ここアジェンタムは欲望という名の物理的搾取の坩堝《るつぼ》である。どちらも俗っぽいことに変わりはないが、少なくともこちらには正直さがある。

 

 巨大な港にはひっきりなしに船が行き交い、人、モノ、カネ、そして情報が、まるで街そのものが呼吸しているかのように絶えず出入りしている。その活気はテラルヴァ王国の経済の中心地というにふさわしい。

 

 しかし、これほど活気がありながら、この七歳児という致命的にか弱い肉体のせいで、日雇いの仕事にすらありつけず、なけなしの金もとうに底をついていた。この手にある石のように硬くなったパンは、果物屋の気のいい店主に対し、我が人生における最大級の演技力をもって「お腹が空いて動けないのです……」と涙ながらに訴え、ようやく手に入れた戦利品である。涙を溜めてひと(かじ)りするごとに、屈辱の塩味が効いてくる。

 

「どちらがマシな地獄だったか、再考の余地があるな……」

 そんな弱気な考えが頭をよぎった瞬間、腹の虫がぐぅ、と実に間の抜けた音を立てて抗議した。いかんいかん。思考は多量のエネルギーを消費する。今はただ、この脆弱(ぜいじゃく)な肉体を維持するための燃料を確保せねば。

 

 かくして私は最後の望みをかけ、この自由都市で唯一、身分を問わず仕事が得られるという最後の砦――すなわち、筋肉自慢の労働者階級の巣窟(そうくつ)、「冒険者ギルド」の戸を叩くことにしたのである。

 

 *

 

 ギルドの内部は、私の繊細(せんさい)な嗅覚を破壊するには十分すぎるほどの、汗と安酒と鉄の匂いで充ち満ちていた。屈強な男たちが怒号や下品な笑い声をあげ、取っ組み合いのケンカをおっ始める。まるで文明の介入を拒む蛮族の集落のようだ。私は異文化交流を望む勇敢な宣教師などではないので、できるだけ彼らの縄張り意識を刺激せぬよう、壁際をそっと伝い歩きする。ああ、書斎が恋しい。あの静寂と古書のインクの香りこそが我が魂の故郷なのだ。

 

 そんな感傷はさておき、私は人混みをかき分け、依頼が張り出された掲示板へたどり着いた。危険な猛獣の討伐依頼が並ぶ中、隅の方に「薬草()み」「町長の探し猫」といった、実に牧歌的で私好みな依頼が残っているのを発見した。これだ、これしかない。私が手を伸ばそうとした瞬間、目の前で同じような身なりの少年がひょいひょいと全てを剥ぎ取り、受付へと駆けて行ってしまった。

 

 終わった。

 私は掲示板の前で呆然と立ち尽くす。周囲の冒険者たちから、「どこの迷子だ」「親はどうした」という、(あわ)れみと好奇の視線が突き刺さる。やめていただきたい。私は見世物ではない。この私を誰だと……いや、今はただの腹を空かせた美幼女である。なんたる屈辱。

 

 空腹と絶望で、その場に崩れ落ちそうになった、その時であった。

 

 ギルドの喧騒が、まるで潮が引くようにすっと静まった。全ての視線が入り口に注がれている。そこに立っていたのは、この薄汚れた空間には場違いなほど、清らかで高貴な雰囲気をまとった一人の乙女。亜麻色の髪、太陽のような笑顔、そして何より、その身にまとう純度百万パーセントの善意のオーラ。ティツィアーノが描いた聖母画からそのまま抜け出してきたかのような、圧倒的なまでの豊満な曲線美。

 

 げえっ。アグネス。

 

 ジャーンジャーン、という破滅を告げる銅鑼(どら)()が、私の脳内で鳴り響く。我が天敵。私の計画をことごとく善意の偃月刀で粉砕してきた、歩く自然災害。なぜお前がこんな場所にいる。聖都にいるはずではないのか。どんな早馬に乗ってきた。

 

 とりとめのない思考を持て余したまま、私の身体は本能的に(きびす)を返した。とにかく逃げよう。あれに関われば、私の平穏は再び木っ端微塵に砕け散る。

 

 しかし、私の意志とは裏腹に、身体はとうに限界を超えていた。数週間もまともな栄養を摂れていない我が足は無様にもつれる。私は派手な音を立てて床に転がったのである。

 

 そして、私の目の前に、純白のブーツがそっと止まった。

「まあ……! 大丈夫ですか?」

 

 顔を上げると、そこには天上の聖母のごとき慈愛に満ちた瞳で、私を見下ろすアグネスがいた。彼女は私の前に(ひざまず)くと、涙を浮かべながら、その温かい手で私の泥だらけの手を優しく包み込んだ。

 

「こんなにか細い手で、どれほどの苦労を……! あなたのような方が、なぜこのような場所に?」

 

 終わった。聖都へ強制送還か。

 

 絶望が私の脳髄を駆け巡る。だがすぐに思い直す。私は彼女の言葉の裏に、ある決定的な事実が欠けていることに気づいた。彼女の瞳にあるのは、驚きや非難ではない。ただ目の前の薄汚れた孤児に対する、混じり気なしの同情と庇護欲。

 

 彼女は、私の正体に気づいていないのだ。 神の追手などではない、ただの純粋なお人好しということである。

 

 我が脳内で、絶望という名の鉛は、打算という名の黄金へと錬成される。生き延びるのだ。利用できるものは、たとえそれが歩く天災であろうと利用せよ。

 

 持てる全ての演技力を総動員し、目に涙をいっぱいに溜めて、アグネスを見上げる。枢機卿としてのプライド? そんなもの今この瞬間の空腹の前では、絵に描いた餅ほどの価値もない。

 私は天啓を受けた預言者のごとく厳かに、しかし救いを求める罪人のごとく切々と、我が運命の全てを賭けたその聖句を、絶妙の間で天上の主――否、目の前のアグネスに捧げた。

 

「──おなかが、すきました」

 

 この健気(けなげ)な一言に、アグネスは頬を赤く染め上げ、ちょっと心配になるくらいに全身を震わせた。

 

「まあ……! なんということでしょう! 神は私を、あなたに引き合わせるために、この街へとお導きになったに違いありません! さあ、私と一緒に行きましょう。もう何も心配ありませんよ!」

 

 *

 

 ギルドに併設された食堂で、私は数週間ぶりの温かいスープをすすっていた。身体の隅々まで染み渡る滋味に、思わず魂が天に召されそうになる。目の前では、アグネスがうっとりとした表情でその光景を眺めている。

 

 実に素晴らしい。

 彼女の純粋さは、最高の隠れ(みの)であり、最高級の食券だ。教会もまさか、聖女候補筆頭が、もう一人の聖女候補を、それとは知らずに(かくま)っているとは思うまい。

 アグネス、かつての我が死神よ。今は我が救世主かな。お前が私を「救うべき可哀想な子羊」と信じて疑わない限り、私はお前のその底なしの善意に寄生し、前世の分まで平穏を(むさぼ)ってやろう。

 

「さあ、これからは私がついています! 遠慮せず、何でも言ってくださいね!」

 

 慈愛に満ちた彼女の言葉に、私は完璧なまでに無垢(むく)な天使の笑顔を貼り付けて、こくりと頷いた。

 

「はい、お姉さま!」

 

 かつての天敵に寄生する美幼女という、奇妙かつどこかきな臭い二人旅が、いま幕を開けたのである。

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