元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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八話

 施しとは、与える側の自己満足を満たすための神聖な儀式である。ならば、それを受け取る側、すなわち今の私のような存在は、施す者の魂を救済するための『生ける祭壇』に他ならない。

 そう。神学的に言えば、今この瞬間、アグネスは私に奉仕することで徳を積み、私はその奉仕を甘んじて受け入れることで、彼女の魂をより高みへと導いているのである。なんと美しき相互扶助の関係であろうか!

 神が用意した『聖女』という茨の道は、あまりに一方的な自己犠牲を強いる、実にバランスの悪い欠陥商品であった。それに比べ、この「善意への寄生」という名の神聖互助システムは、双方に利益をもたらす完璧な完成品だ。神よ、あなたの設計思想の誤りを、この私が訂正して差し上げました。

 

 隣では、我が寄生先にして現世における守護天使、アグネスが「マリア、寒くありませんか?」「喉は渇いていませんか?」と、母親もかくやという献身ぶりで私の世話を焼いている。その純粋な善意が、かつて私を聖女という名の断頭台へ送り込んだ元凶であることは、この際忘れておく。今はただこの無償の奉仕をありがたく享受させていただくのみである。

 

 アグネスがうっとりと窓の外を眺めて言う。

「なんと静かで美しい森なのでしょう」

 

 それに対し、御者台から振り返った護衛リーダー、バルガスなる男が、わずかに眉をひそめた。

「お嬢様。ええ、しかし静かすぎますな。まるでこの森の獣たちが何かに恐れて、息を潜めているかのようだ」

 

 ほう、ガタイが良いばかりと思われた筋肉だるまだにも、なかなか詩的な物言いができるではないか。ただ面倒事の予兆というのはいただけない。さっさと通り過ぎていただきたいものだ。

 

 それにしても、このバルガス。歴戦の戦士という触れ込みだったが、その歴戦の眼は信仰心ではなく、もっと分かりやすいものに釘付けになっている。彼がアグネスに何か報告するたび、その視線が磁石のように彼女の胸元――ティツィアーノが描いた聖母画もかくやという、あの豊満なる曲線美――へと吸い寄せられ、そこに数秒間、実に無礼な滞在時間を経てから、ようやく彼女の顔へと戻っていくのだ。

 

 俗物め。ティツィアーノが描く聖母の豊満さは、あくまで神の気前の良さと豊穣(ほうじょう)のメタファーであって、決して俗世の男の欲望を掻き立てるためのものではないのだ。この男は聖画と春画の違いもわからないらしい。実に救いがたい。だが、まあいい。彼の魂が地獄のどの階層に落ちようが、私の護衛という聖なる任務を遂行する限りにおいては、私の知ったことではない。

 

 ──そう、どうでもよかったはずなのだ。この先に待ち受ける、想像を絶するほど愚かしい茶番劇の幕が上がる、その瞬間までは。

 

 我々が昼食の休憩をとるために馬車を停めた途端、街道の木々の間から、いかにもな面構えの男たちが姿を現した。汗と鉄と、おそらくは長年風呂に入っていないであろう者の体臭が混じり合った、実に不愉快な空気が風に乗って届く。盗賊である。

 

「ヒヒヒ。積荷と、そこのなかなかの女を置いていきな」

 

 ザンギと名乗ったか、その頭領らしき大男が、錆びついた戦斧を肩に担いで下卑た笑みを浮かべる。即座にバルガス隊が臨戦態勢をとる。その切り替えの見事さは、さすがプロといったところか。盗賊たちとでは明らかに練度が違う。私は温めたばかりの昼食のスープを脇に置いて、静かに行く末を見守ることにした。決着がつくのにそう時間はかからないだろう。

 

 ところが、である。

 

「お待ちください!」

 

 我が守護天使は、私の予想を遥かに超えた行動的な善意の持ち主であった。バルガスの制止を振り切り、馬車から飛び出すと、なんと武装した盗賊団と屈強な冒険者たちの間に、その身一つで立ちはだかったのだ。

 

「あなたがたも、神に作られし愛し子のはずです!」

 

 その瞬間、世界の時間が止まった。バルガスも、ザンギも、その部下たちも、全員がアグネスの神々しい姿――主に、説得力の根源たる()()()――に釘付けになり、完全に動きを止めたのである。

 

「お、おう……神の……イトシゴ……だと……?」

 頭領のザンギが、うわごとのように呟く。アグネスは「言葉が通じている!」と確信したらしい。さらに熱心に、その豊満なティツィアーノを揺らしながら言葉を続ける。

「そうです! 奪うのではなく、分かち合うことの素晴らしさを知るべきです!」

「ワカチアウ……」

 ザンギはうっとりとした表情で、巨大な戦斧を地面に突き立てると、誇らしげに力こぶを作って見せた。

「いい言葉だ……。俺のこの鍛え上げられた筋肉も、お前のその豊満な……それも、いわば神が与えたワカチアウべきもの……そうだろう?」

 

 その光景を見て、我に返ったのはバルガスだった。しかし彼の行動は、護衛としての責務からではなく、もっと原始的で、そして輪をかけて愚かしい動機に基づいているようだ。

 

「お嬢様、このような下品な男の言葉に耳を貸してはいけません!」

 ザンギへの嫉妬の炎を燃やし、バルガスが前に出る。

「我々のような、あなた様をお守りする騎士の言葉こそが真実!」

 言うや否や、彼もまた無駄に胸をそらし、鍛え上げた大胸筋をアピールし始めた。

 

 両者の敵意の矛先は、もはや「盗賊対護衛」ではない。「恋敵」である。

 

「てめえ、どこ見てやがる!」

「それはこっちのセリフだ、下衆が!」

 

 二人の頭目は、アグネスの目の前で、互いに大見得を切るような、実に滑稽な構えで睨み合う。取り残された部下たちは、剣を構えたまま「(かしら)、いったいどうしちまったんだ……?」「うちのリーダー、何やってんの……?」と困惑の表情で顔を見合わせている。

 そんなもの、答えは分かりきっている。彼らは求愛ディスプレイ行動をとっているのだ。それは一匹の雌をめぐって、二匹の雄がひたすらポージングを重ねる牧歌的かつ原始的な行為。なお、ヒトではなくニワトリやカンガルーのとる行動である。アグネスという豊満な善意にあてられて、知能レベルが鳥にまで退行してしまったらしい。

 

 この愚行を、我が慈悲深き守護天使は勘違いしたまま、さらに混ぜっ返す。

 

「まあ、いけませんわ! 暴力は何も生みません!」

 

 彼女は、自分を巡って争っているとは露知らず、二人の間に再び割って入る。その慈愛に満ちた姿と、至近距離で見る説得力の塊に、バルガスもザンギも戦闘を忘れ、再びうっとりと釘付けになった。

 

「フン、俺の上腕二頭筋はゴブリンの棍棒すら跳ね返すぞ!」

 ザンギが吠える。

「笑わせるな! 俺の広背筋はグリフォンの鉤爪をも弾き返す!」

 バルガスが応える。

「まあ、なんてたくましいお二人でしょう! きっとその力は、弱き者を守るために神がお与えになったのですよ!」

 アグネスがキラキラした瞳で混ぜっ返す。

 

「俺の方が!」「いや、俺こそが!」

 二人の闘争心はさらに燃え上がり、睨み合う。部下たちは天を仰いだ。私の弁当のスープが、少し冷めた。

 

「筋肉とは量ではない、質だ! この俺の腹斜筋を見ろ! ワイバーンの尻尾攻撃を体捌きだけで受け流せる!」

「素人め! 全ての筋肉は連動してこそ意味をなす! 俺のこの完璧なフォームから繰り出される剣の一撃は、鉄のゴーレムすら砕くのだ!」

「素晴らしいですわ! お二人のお話、とても勉強になります!」

「そうだろ!」「当然だ!」

 互いにドヤ顔で見せつけ合う。部下たちはもう武器を下ろし始めている。スープはぬるくなったに違いない。

 

「やはり、バルクアップには鶏胸肉の常食が一番だ」

「何を言う。トレーニング後のゴールデンタイムにチーズと牛乳を摂取するのがセオリーであろうが」

「まあ! お食事にも気を遣われているのですね! 自己管理ができる方こそ、真に強い方ですわ!」

「お嬢様は分かっておられる!」「その通りだ!」

 もはや二人の間には友情めいたものすら芽生え始めている。部下たちは座り込んでカードゲームでも始める勢いだ。そして私のスープは、もはや冷製スープと呼ぶべきものに成り果てた。

 

 私は馬車の窓からその無限円舞曲を眺め、こめかみの細動を感じながら静かに目を閉じる。

 

 もういい。わかった。私が間違っていた。これについては議論の余地もない。この世の全ての雄は、例外なく馬鹿である。今ここに結論づけた。

 そして何より、せっかく温めたスープが刻一刻と冷めていく。この馬鹿共のせいで。これ以上の時間への冒涜が許されてたまるか!

 

 私は誰にも気づかれぬよう、そっと馬車の陰に隠れた。そして、この終わらない円舞曲を踊り続ける愚か者たち全員への最大限の軽蔑と、我が昼食への冒涜に対する正当なる怒りを込めて、聖句を囁く。

 

「Maledicte!(いい加減にしろ、このクソッタレ共が!)」

 

 両の手で中指を立てた瞬間、バルガスとザンギのちょうど中間の地面に、天罰のごとき雷が突き刺さった。凄まじい轟音と衝撃。男たちは全員腰を抜かし、愚かしいループは強制的に断ち切られた。アグネスだけが「神よ! 争いはよしなさい、というお告げなのですね!」と、どこまでも的外れな解釈で涙ぐんでいる。

 盗賊たちは恐慌をきたして森の奥へと逃げ去り、バルガスたちは今度こそ本物の畏怖の念をアグネスに向けていた。

 

 物理的な介入こそ、あらゆる議論を終わらせる最も雄弁な言葉だ。これでようやく夕食にありつける。一人満足げに頷き、馬車に戻ろうとした、その時であった。

 

 森の全ての音が、ぴたりと止んだ。鳥の声、虫の音、風の音さえもが消え、まるで世界が息を止めたかのような、不気味な沈黙が支配する。

 

 遠くから、地響きが聞こえ始めた。それは徐々に大きくなり、地面がビリビリと震え始める。

 

 バルガスの顔から、完全に俗物的な色が消えていた。プロの冒険者の険しい表情がそこにある。彼は震える声で叫んだ。

「嘘だろ……この森にドラゴンがいたなんて話、聞いてねえぞ!」

 

 森の奥深くから、それまでとは比較にならないほどの巨大な咆哮が響き渡った。天を震わせ、魂を直接揺さぶるような、圧倒的存在感。

 

 非常にまずい。どうやら私は、ネズミ共を追い払うために、眠れる獅子どころか、神話級の化け物を叩き起こしてしまったらしい。

 

 自分の安易な選択が、比較にならないほどの「面倒事」を呼び覚ましてしまったことを悟り、私は静かに天を仰いだ。暴風を巻き起こしながら、何度も行ったり来たりする巨大な影が目に入る。実に面倒なことになった。

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