元枢機卿のTS聖女は怠けたい。   作:匿名

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九話

 物事には相応というものがある。この異世界においても例外ではない。盗賊の相手は、屈強な傭兵の仕事。雨漏りの修理は、熟練の屋根葺(やねふ)き職人の仕事だ。(しか)るべき専門家が、然るべき対価をもって対処する。実に合理的で、美しい分業体制ではないか。

 では問おう。いま私の目の前に降り立った、この巨大な神話の断片とでも呼ぶべき厄災の対処は、いったい誰の仕事なのか? 少なくとも私の仕事ではない。断じてだ。私はただ、冷めゆくスープを前にして、この茶番が終わるのを待っていただけの、しがない七歳児なのである。

 

 森の木々を矮小(わいしょう)な雑草のように見下ろす巨体、一枚一枚が槍のごとき硬度を誇るであろう鱗、そして、吐息ひとつで空気を震わせる圧倒的な存在感。バルガスをはじめとした歴戦の勇士たちが、もはや祈ることしかできぬと顔面に書いてあるような表情で立ち尽くしている。無理もない。あれを前にして戦意を維持できるのは、よほどの馬鹿か、あるいは猛者だ勇者だと煽てられて育ってきた馬鹿に限られるだろう。

 

 そんな絶望的な盤面を前に、私の思考は極めてシンプルな結論に達していた。「面倒くさい」である。

 

 この茶番を一刻も早く終わらせ、冷め切ってしまったであろう我が昼食の席へと戻りたい。そのためには、最も手っ取り早く、そして最も効果的な手段を講じる他にあるまい。

 

 私は迷わず天を仰ぎ、右の中指をすっと立てた。バルガスたちの「マリアちゃん、竜を挑発しちゃダメ……!」と息を飲む気配がしたが、知ったことか。

 

 もうたくさんだった。盗賊だのドラゴンだの、いちいち私の平穏を脅かさないでいただきたい。

 

 聖なる罵倒の言葉が、今にも喉からほとばしろうとする。まさに、その刹那であった。

 

「この子に……手出しはさせません!」

 

 アグネスが、私の前に立ちはだかったのだ。彼女は私を背にかばい、やわな身体を震わせながらも、自らが盾となるべくドラゴンに向き直る。その瞳に宿るのは、奇跡への期待ではない。純粋な善意と、悲壮なまでの自己犠牲の覚悟であった。

 

「私は聖女候補アグネス! 神に仕えるこの身、ここで弱き者を守るために捧げられるのなら、悔いはありません! だからマリア、あなたは、逃げて……!」

 

 私は完全に虚を突かれ、動きを止めた。

 なんのつもりだ。飛び回るドラゴン相手に何の意味がある。逃げられるわけがなかろう。

 思考が停止したのも束の間、私の老獪(ろうかい)な頭脳が、この新たな盤面を驚異的な速度で分析し始める。

 

 もし、私がここでいつものように「クソッタレ」を放ち、この巨大なトカゲを天罰の雷で黒焦げにしたらどうなるだろうか?

 

 アグネスのこの自己犠牲的な言動はまずい。集団ヒステリーに(おちい)った人間たちの思考回路は手に取るようにわかる。世間はこう言うだろう。「聖女候補アグネスの(とうと)き祈りに天が(こた)え、聖女マリアが奇跡を起こした!」と。新聞の見出しならこうだ。『聖女アグネスの祈り、天に通ず! 聖女マリア、神の雷を代行す!』。ああ、目に浮かぶようだ。号外を手に住民が波となって押し寄せてくるさまが。さらには羊皮紙の雪崩と終わらない謁見、そして過労で息絶える聖女マリアちゃんの姿がありありと浮かぶではないか。

 

 ここに新たな神学論争が勃発する。『竜の炎で肉体を焼かれることと、聖女の名のもと行われる過労の炎に魂を焼かれること、いずれがより救済に近いか』。実に興味深いテーマだが、残念ながら実地研究に付き合っている暇はない。それに私の答えは決まっている。どちらも究極的に面倒くさいことになる!

 

 私は立てかけた中指を痙攣(けいれん)させながら、目の前の神話生物を改めて冷静に観察する。この巨大なトカゲ、先ほどから威嚇(いかく)こそすれ、決定的な一撃を放ってこない。巨体の割に動きもどこか芝居がかっている。まるで「厄介払いはしたいが、大事にはしたくない」とでも言いたげではないか。教皇庁でふんぞり返るだけの老獪な聖職者たちと、どこか似た空気を感じる。つまり、威厳は保ちたいが面倒事は起こしたくない、という高度な社会性の現れなのだ。それを怠惰と切り捨てる者もいるが、私はいつだって怠惰の味方である。

 

 我が思考の迷宮に、絶望の行き止まりは存在しない。それは常に、打算という隠し扉へと続いているのだ。思考を重ね、勝ち筋を見出し、広げていく。

 

 先ほど導き出したように、この竜を物理的に排除するのは愚策中の愚策であろう。ならば、言葉で穏便に帰ってもらうのが、最小の労力で最大の平穏を得る唯一の道ではないか。その一点において、私と彼は共通しているのではないか。

 

 私は、悲劇の引き金にかかっていた中指をゆっくりと下ろした。神よ、見ていますか。あなたの用意した安易な解決策(デウスエクスマキナ)を、この矮小(わいしょう)なる人間が自らの意志で拒絶するこの瞬間を。あなたのつまらない脚本に最高のアドリブを書き加える権利くらい、私にもあるはずだ。

 

 ふぅ、と一つ深いため息が漏れる。そして、自分を(かば)おうとするアグネスの腕を掴むと、ぐいと引き寄せ、彼女の隣に並び立った。

「アグネス。少し黙っていてください。聖女の仕事は、犬死にすることではありません。むしろ、いかに犬死にを回避し、最大の平穏を享受するか。そこにこそ神学の真髄(しんずい)があるというものです」

 

 凛とした我が声に、アグネスは「え……?」と困惑の表情を浮かべた。

 私は彼女の反応など意にも介さず、神話そのものであるドラゴンと、真正面から対峙する。恐ろしい巨体を前に、我が脳内ではドーパミンがとめどなく生成されている。運命の()からズレていく確かな手ごたえに、高揚感を覚えていた。

 

「――偉大なる竜よ。あなたのそのお仕事、さぞ骨が折れることでしょうな?」

 

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