聖王都動乱、あるいはミニス・マーンの人生設計について 作:ひらつー
◇
ゼラムの外壁近くにある一般住宅街。その路地でひっそりと営業している蕎麦処『あかなべ』のカウンター席で。
ミニスは湯飲みに注がれた茶色のお茶を少しずつ飲んでいた。また一口啜り、口をへの字に曲げる。
「……やっぱり酷い味ね、このお茶」
「漢方茶ですからねえ。でも、体には良いんですよ?」
と、カウンターの向こうから応えてきたのは柔和な笑みを浮かべる年齢不詳の男だった。
シオン。この店の店主にして、サイジェントでは薬屋を営み、しかしてその正体はシルターンから召喚された凄腕の戦士――シノビである。
5年前の傀儡戦争の時、ミニスと共に悪魔と戦った仲間の一人だ。とても頼りになるが、しかし――母に雇われているとなれば、手放しで信用するわけにもいかない。
「――で、お母様は何を企んでいるわけ?」
湯飲みを卓上に叩き付けるように置きながら詰問する。
ミニスがここにいることに関して、ファミィの関与があったのは明らかだ。シオンがそれに協力しているのも。
ファナンを出る際、ミニスは後発の馬車に回された。本家へいくのだからドレスだろうとよそ行きの服を選んだのだが、ファミィから「途中で汚れたらいけないから、動きやすい格好にしていらっしゃい。ドレスには向こうで着替えれば良いから」と言われたのだ。そうして着替えてきたら、ファミィは既に出発しており、別の馬車が用意されていた。
不可解に思いながらもひとりゼラムに向かい、そして降ろされたのが、この『あかなべ』の前だったのである。
歩いて本家に向かおうとしたが、どうにもシオンが引き留めてくるので、こうして店内に場所を移し、差し向かいで話しているのだった。
ちなみにミニスが馬車を降りた時、シオンは御者席に座っていた。ファナンで乗降を手伝ってくれた御者は、明らかにシオンとは違う顔の中年男性だったのだが。変装していたのか、それとも途中でミニスに気づかれず入れ替わったのか。どちらもあり得ると納得させてしまうのが、このシオンという人間の超然としたところではあった。
睨み付けるように尖った視線を飛ばすミニスに対し、シオンは飄々と肩を竦めて見せた。
「さあて、私はミニスさんにお蕎麦をごちそうしてあげて欲しいと頼まれただけですので」
「明らかに嘘でしょ。っていうかそれなら屋敷に出張して作って貰うわよ」
「おやおや、ミニスさんも貴族らしさが板についてきましたねえ」
「なにそれ、嫌味?」
「とんでもありませんよ。さて、何を差し上げましょうか?」
にこにことした笑顔を崩さないシオンに対し、ミニスの方が根負けした。ため息をひとつ溢し、注文をする。
「……かけ。小で」
「おや、それだけでよろしいんで?」
「本邸の方で用意されてるかも分からないしね」
「なるほど。であれば、喜んで」
シオンが準備を始めた。何とはなしにその様子を眺めていると、手際の良さに驚かされる。前に来た時は、カウンターの向こうを覗けるほど背が高くなかったのだ。
「シオンはこれが本業じゃないんでしょ? サイジェントに戻らないの?」
「向こうの薬屋は不肖の弟子に任せていますので。報告がてら、年に何度かは戻っていますが。一所にシノビが集まっているよりも、別のところで情報を集めている方が役に立ちますから」
「生粋の諜報員よねぇ」
ミニスもある程度、裏側についての知識は蓄えていた。スパイとは長期間潜入させておくものだし、怪しくないように定職にも就く。まさにこのシオンがやっていることだ。
「最近、トリスは来てる?」
知り合いの名を口にする。5年前、ミニスに夜食の味を教えたのは彼女だった。
3年前までは聖なる大樹の側から片時も離れることがなかったが、大樹からアメルが戻ってきてからは森を離れ、忙しくしているらしい。前回会ったのは武闘大会の時だ。そういえば、その時もここで蕎麦を食べた。
ミニスは基本的にファナンを中心に活動しているため、ゼラムを拠点にしている彼女とは会う機会が少ない。
「ちょうど10日くらい前にいらっしゃいましたね。新しい遺跡が見つかったとかで、もう発っているかと」
「じゃあ入れ違いかぁ。今回は会えなそうね」
傀儡戦争の後、四界侵攻の時代の遺跡・遺物の危険性が見直され、その捜索・調査が両派閥により継続的に行われている。
トリスは積極的にその仕事を引き受けているようだ。ネスティとアメル、護衛獣であるバルレルも一緒だろう。
彼女は貴族ではないので、国葬が開かれても大急ぎで帰ってくる必要はない。
「はい、お待ちどお」
物思いに耽っていたミニスの前に小ぶりの椀が置かれる。
黒く透き通ったツユに、均一の太さに揃えられた麺が浮かんでいる。シルターンの調味料である醤油の匂いが、出汁と合わさって優しくミニスの鼻腔をくすぐった。
ようやく使い方がさまになり始めた箸で蕎麦を啜る。出汁とかえし、そして蕎麦の香りが渾然一体となり、熱と共に胃袋に落ちていくのをミニスは楽しんだ。
「やっぱりこの香りよねー……」
「ミニスさんも一端の蕎麦食いですねえ」
器具を片付けながらシオンが目を細める。
だが、すぐにその目つきが鋭くなった。ミニスも振り向く。二人は同時に、同じ方角を向いていた――マーン家の本家がある方角を。
ミニスが振り向いた理由は単純だ。強大な魔力の波動を感じたからである。それも、よく見知ったものを。
「お母様……?」
「……やれやれ、こうなってしまいましたか」
手早くエプロンを外しながら呟くシオンに、ミニスは視線を鋭くした。
「白状する気になったの?」
「そう睨まないでください。あなたの御母堂さまから、何事もなければ事情を知らせずにいて欲しいと、そう頼まれていたんですよ」
「じゃあもう話してくれるわけね。あの魔力量、ただごとじゃないわよ。お母様、完全に屋敷を吹っ飛ばすつもりだったわ」
召喚師の屋敷にはある程度魔力の流出を抑える結界があるというのに、この距離で感じられたのだ。ファミィが全力で召喚術を行使しようとした証拠である。
ただし、それにしては爆発音や振動の類いが一切なかったのは妙だが――
「あれは交渉が決裂したという報せです。その場合、あなたをハルシェ湖までお連れするようにと」
「交渉? お爺様と?」
ミニスにとって、想定内といえば想定内だ。自分を除け者にしてレイブンと話す理由など、自分絡みの何かについて決着をつけておこうとしたくらいしか考えつかない。
ただし、精々が自分の嫁ぎ先だとか、その程度のことだと思っていたのだが――召喚術まで持ち出すというのは洒落になっていない。
「交渉の内容は?」
「分かりません――いえ、誤魔化しなどではないですよ」
竈の火を落とすと、シオンはがらりと引き戸を開けた。ここに着いた時点で日は傾いていたが、いまや完全に落ちている。周囲の住宅から漏れる僅かな明かりが、ぼんやりと石畳の道を照らしていた。
「御母堂さまも、具体的なことまでは掴んでおられないようでして。女の勘という奴でしょうかね。そもそもこんな物騒なことになる確信があるのなら、ミニスさんをゼラムに入れさせないでしょうから」
「……確かに本家からの手紙が昨日来て、ゼラムに着いたのが今日のことだものね」
その短い時間でシオンと連絡を取り、こうして協力を取り付けているだけでも大したものだった。
「目的地までは距離があります。焦らずゆっくりと進みましょう」
「いざというときの為に、体力は温存しておけってことよね……」
杖の感触を確かめながら、ミニス。
シオンの先導で、夜の暗がりの中を二人歩く。一般住宅街のひとけはまばらだ。ゼラムの主産業である観光業に従事する者はこれからが稼ぎ時だし、そうでないものは既に帰宅している。そんな時間である。
「ところで、なんでハルシェ湖に?」
「船が用意してあるそうです。交渉が"どの程度"決裂したかによって、その後の対応は変わりますが」
改めてファミィが接触してくるならよし。もしもファミィが連絡を寄越せない状態であれば、海路でファナンまで撤退することも視野に入る。
「お爺様がお母様を監禁するってこと? 理由が私絡みなら……やっぱり私のお父様が無色の派閥の大幹部だったりしたのかしら。口封じ?」
「御母堂さまは人を見る目がおありですから、そのような方と懇意になることはないと思いますが」
「どうかしら。お母様、若い時はかなりやんちゃしてたみたいだし」
それこそ一時期は、冒険者の真似事をしているようなこともあったという。
「お爺様の狙いが私だと仮定して、そうなると追っ手の召喚獣くらい放つわよね……」
本家の影響力はかなり減じたが、レイブン・マーンという個人が持つ召喚術の力は健在だろう。このような保険を掛けていたということは、ファミィ・マーンが自身の敗北を予想していたということだ。
「都市内で召喚術を使うこと自体は禁止されていないけれど、さすがに建物の破壊や人の殺傷は罪になるから……干渉力の小さな低級霊を散蒔くのがセオリーかしら」
天使は目立ちすぎるし、悪魔は人を傷つけかねない。レイブンほどの達人でも、大勢の悪魔を完全に縛ることは出来ない筈だ。
低級霊は避けるのも潰すのも難しいが、代わりにこちらの邪魔にもならない。発見の後に別の追っ手を寄越す形なら、それまではあまり気を張っていなくても大丈夫だろう。
そんな風に予測を立てて、僅かに力を抜いていたミニスだが――
「どうやら、そうそう甘くはないようですよ」
「え?」
シオンが立ち止まり、ミニスに警戒を促す。
二人は一般住宅街と、再開発地区の境目ほどにさしかかっていた。周囲に人気はない。足を止めれば、痛いほどの静寂が襲ってくる――だが、その静けさにノイズが混じっていた。
ジャリッ、ジャリッと、何か硬質のものが石畳を削る音。一定のリズムで刻まれるそれが、暗闇の向こうからだんだんと近づいてくる。
「――ガアア!」
低い唸り声と共に、暗闇から飛び出してきたのは四足歩行する獣だった。外観は犬に似ているが、その眼球はまるでデメキンのように飛び出ており、さらに白目のない黒一色。思わず生理的な嫌悪感を抱く異形である。
(メイトルパの魔獣!?)
ミニスの胸中が驚愕で満ちる。何故、その驚愕が生まれたのか気づく前に、魔獣はミニスに飛びかかってきた。凄まじい俊敏性だ。杖を構える暇すらない。
だが次の瞬間、躍りかかってきた魔獣が、その方向を変じた。正確には、カウンターの形で蹴りを打ち込まれたのだ。
血の滲むような修練によって、木版程度なら容易く撃ち抜く爪先の一撃。それを繰り出したシオンは、地面に打ち付けられた魔獣が再び立ち上がる前に、寸鉄を投じていた。一見ただの鉄の棒にしか見えないただの鉄の棒だが、シノビの技で撃ち出されたそれは容易く頭蓋を砕き、魔獣へ致命傷を与える。
「ふう……ミニスさん、お怪我はありませんか?」
「あ、ありがとう……」
礼を言う声に震えが混じる。あの魔獣が召喚師からどのような命令を受けていたのかは分からないが、ミニス一人だけだったら為す術はなかっただろう。
同じ人間でも、シルターンのシノビやサムライは身体能力からして別物だ。
「いえいえ、仕事ですから。しかし、想定より見つかるのが早いですね。私の店まで、尾行はされていなかった筈ですが」
息も絶え絶えの異形から寸鉄を回収しながら、いぶかしげにシオンが呟く。
その疑問の解を得るために、ミニスはシオンの横に立った。横たわり、急速にその呼吸を小さくしていく魔獣を観察する。
「魔獣はサプレスの悪魔がメイトルパを侵攻した時に生まれた、悪魔の魔力に汚染された獣……」
これまでに得た知識と、目の前の個体。そこから考察を広げていく。
「メイトルパで生まれて、メイトルパで運用された悪魔の手先。悪魔は、私たちみたいに誓約で彼ら縛っていた訳じゃない。侵攻の尖兵にするには、まだ汚染されていないメイトルパの獣を優先的に狙うような性質にしなければいけなかった筈……」
ミニスは服の内側から、首に提げているペンダントを取り出した。シルヴァーナを呼ぶペンダント。かつてこれを拾ってくれたユエル曰く、このペンダントからは幻獣界の気配がするらしい。
瞬間、死にかけの魔物が反応した。ペンダントを睨むように眦を裂き、低い攻撃的な唸り声を上げる。
「……やっぱり。より純粋なメイトルパの魔力を嗅ぎ分けているのね」
「お見事です。これで種は割れましたか」
「ええ。それはそうだけど――」
ようやく心臓が落ち着いてきて、ミニスはいらだつように杖を地面に打ち付けた。事態が思っていたよりも深刻であることに気づいたのだ。
「これがお爺様の差し金だったなら、お爺様に協力している人がいるってことじゃない!」
マーン家はサプレスの系統だ。ミニスがサプレスの術を使えないように、レイブンはメイトルパの術を使えない。ならばこの魔獣を呼び出したのは、他の召喚師と言うことになる。
「ミニスさんのご実家は聖王国でも名家中の名家なのでしょう? そんなにおかしいことですか?」
「本家にはもう何の影響力も無いはずなのよ。少なくとも、お母様を敵に回してまで得たい利益なんて――」
単純に、レイブンがマーン家の為にファミィとミニスを口封じしようとしているだけというのならまだ有り得た。だがそこに他人を関わらせては意味が無い。第三者の協力を得ている時点で、単なる口封じという線は無くなった。
祖父は自分を捕まえようとしている。それに協力している召喚師がいる。自分を捕まえるなり始末するなりで得られる利益は、金の派閥の議長であるファミィ・マーンを敵に回すリスクにすら釣り合うもので――
「失礼、ミニスさん。暴れないでくださいよ」
「へっ? きゃあ!?」
思考は視界と体勢が急変したことで、強制的に打ち切られた。シオンがミニスを抱きかかえると、凄まじい勢いで跳躍したのだ。
ミニスが硬直している内に、シオンは二度、三度と跳躍を重ねた。その度にミニスの視界が高くなっていく。道ばたに積んであった樽の上、それが寄りかかっていた塀の上、2階建ての屋根の上――
サルトビの術と呼ばれるシノビの跳躍術だ。ミニスを抱えていなければ、一跳びでここまで到達できただろう。
屋根の上から、シオンは先ほどまで自分たちがいた路地を見下ろす。そこには先ほどと同種の、光を反射しない漆黒の目を持った怪物が何匹か集まっていた。
「どうやら一匹では無かったようで。さすがにあの数だと、私一人では守り切れません」
「そ、そう……ありがとう。でも、こんど跳ぶ時は事前に『跳びます』って教えてね……」
「おや、いつも飛竜に乗って飛び回っているのでは?」
「目立っちゃうから滅多にやらないわよ。シルヴァーナの姿を見た人全員に『はぐれじゃありません』なんて説明できないもの」
何年か前、それで金の派閥に『はぐれかも知れない白銀の飛竜』の目撃情報が大量に持ち込まれ、ミニスはファミィから文字通り雷を落とされることになったのだ。地上から見れば、空飛ぶ飛竜の背に人が乗っているかなど分からない。分かったところで、召喚師によるこれ見よがしな力の誇示だと受け取られれば反感を買う。
おまけにシルヴァーナには手綱も鞍もついていないので、普通に危ない。よほどの緊急の時でなければ乗せて貰おうとは思わなかった。
それは大変ですが……と、シオン。
「いまがその"よほど"の時だと思いますよ」
「屋根伝いに行けない?」
「行けるでしょうが、連中を振り切れません。敵の手札があれだけという可能性は低いでしょうから、どのみち苦しくなるかと」
「前に使ってた"霧"は?」
「劇場通り付近は人が多すぎます。大混乱になりかねません」
「下手したらテロリスト扱いよね……それはシルヴァーナを呼んでも同じだけど」
ここからハルシェ湖へ向かうとなれば、どうしても王城のすぐ側を横切る形になる。空を飛べる上破裂する火球を吐き出すワイバーンなど飛ばせば、王城はすぐさま厳戒態勢に突入するだろう。
「大きく外回りすれば……大丈夫かしら」
「そう願うしかないでしょう。私は追っ手に対処を。黒幕を聞き出せれば良いのですがね」
シオン単独なら召喚獣の群れも突破できるだろう。破壊力のある術を自由に使えない現状、ミニスは足手まといにしかならない。
「じゃあ、ハルシェ湖で合流ね」
ミニスは立ち上がると、屋根の上から隣の敷地を見下ろした。上手い具合に広い空き地になっている。
ペンダントを額に押しつけ、送った念にシルヴァーナはすぐさま応じた。一瞬よりも早くに打ち合わせを終えると、ミニスは屋根から隣の敷地に向かって飛び降りる。
地面に叩き付けられるまでの猶予は数秒。さらに数秒後には再び敵の魔獣が殺到して、ミニスを制圧するだろう。
だがミニスの卓越した召喚術の腕前は、それらの可能性を全て払拭した。跳躍の浮遊感が落下に変わるよりも早く、ペンダントが緑色の光を発する。
「シルヴァーナ!」
呼びかけに応じ、ミニスの落ち行く先――再開発予定のまま忘れられているような敷地に、巨大な異界への門が構築された。そこから天へ向かうように、シルヴァーナが垂直に飛び出してくる。
シルヴァーナは飛び上がる角度を調節して、落下してくる少女をその背に受け止めた。軽い衝撃がミニスを襲うも、耐えられる範疇である。二人の息が完全に合っていた為、跳躍力と重力が釣り合う瞬間に回収できたからだ。
「ありがとう……大丈夫。心配しないでってば」
ミニスは飛竜の背にしがみつきながら、礼を述べた。状況を理解しているシルヴァーナは、唸り声も上げなかったが。それでも厄介ごとに巻き込まれたミニスを慮るような気を発している。
そんな優しい友人の背を撫でながら、ミニスはその向こうに広がる地上の景色を確認した。既に王都全体を一望できるほどの高度にまで上昇している。メインストリートの煌びやかな光が、まるで鏡映しになった夜空の星々のように輝いていた。
高空を飛べば騒ぎになる可能性は下がるが、問題は高度を下げざるを得ない着陸の際だ。王城は市街と比べればひときわ高い地形に絶っている。物見からはシルヴァーナを捕捉される可能性が高い。
やはり東側から大きく回り込んで湖畔を目指すしかないだろう。敵意がないと分かってくれれば幸い。ダメでも言い訳くらいには……なるとよいのだが。
事後処理に頭痛を覚え始める友人に、再び心配の念を送りながら、シルヴァーナは進路を大きく東に取った。
◇
「くそっ、間に合わなかったか」
白銀の飛竜が飛び去って行くのを、その男は再開発地区にある空き地のひとつから確認していた。
男はファミィを尾行していた馬車に乗っていた男のひとりだった。いつも着ている高級な服飾は脱ぎ捨てて、そこらの平民と変わらないような格好をしている。
だがその手には平民が持つはずもない、誓約済みサモナイト石が握られていた。メイトルパに通じる碧色の魔石。
男は宮廷召喚師と呼ばれる役職に就く一人だ。いまはレイブンからの指示によって、標的を捜索、確保するために動いている。
だが、その任務はあわや失敗かと思われた。男の使役する魔獣は、早々に標的を見つけ出していたが、男自身が追いつく前に飛竜を召喚されてしまったのだ。
(まさかこんな街中でワイバーンを呼び出すとはな……)
手持ちの中に、ワイバーンに追いつけるような召喚獣は存在しない。
しかし、まだ幸運は尽きていないらしい。飛竜は一度王都から出たものの、大きく回り込みながら再びこちらへ戻ってくる。目的地はハルシェ湖か、あるいはその先の王城か。
すでに、ディミニエ王女は死んだ。
少なくとも、計画通りに行けば死んでいることになっている。ミニス・マーンは、現在聖王国で唯一エルゴの王の血を引く王権の継承者だ。逃がすわけにはいかない。
男は近くに待機させていた馬車へ向かった。駆け寄りながら、御者へ向かって指示を飛ばす。
「ハルシェ湖方面だ。全速力で飛ばせ――」
だが、その命令が果たされることは無かった。
御者席から人影が飛び降りる。男は命令に反する行動を叱責しようとしたが、すぐに思いとどまった。夜の暗さで分からなかったが、ある程度近づけば分かる。そこにいたのは御者ではない――シルターン風の衣装を身につけた別人だ。
男は慌ててサモナイト石を取り出そうとしたが、シルターン衣装の男――シオンの方が何倍も早かった。投じられた寸鉄が男の右肩を撃ち抜き、サモナイト石を取りこぼしてしまう。
「ぐぅっ!?」
肩に走った激痛に、男はその場にへたり込んだ。落とした石を拾おうとするも、目の前でそれを蹴り飛ばされてしまう。10メートルは離れていた距離を、シオンは一瞬で詰めたのだ。石は固い音を立てて、暗闇の中に消えていった。
「大人しくしてください。質問に答えてくれさえすれば、命までは取りません」
声は男の背後から。首筋に金属の冷たさを感じ、男はそろそろと両手を挙げた。
「ど、どうしてこんなに早く……いや、それよりも護衛だと? くそっ、情報にはそんなこと一言も……」
「襲ってきた犬の痕跡を辿ってきただけですよ。さて、貴方はどこの所属ですか?」
「答えると――」
拒絶の言葉を吐こうとした男は、次の瞬間には悲鳴を上げていた。シオンは事もなげに質問を続ける。
「無事な指はまだ9本残っています。残っている内に吐いた方がよろしいかと」
「ぐ、うううう……」
「答えやすくなるように候補を絞って差し上げましょうか。外道召喚師ではない。同時に複数の召喚獣を制御下におけるのは、正規の訓練を受けた召喚師のみ。かといって蒼や金の派閥でもない。そちらの動きがあれば事前に掴めますのでね。残るは無色ですが――」
「……くっ、くくく」
「……?」
突然に自嘲染みた笑いで喉を震わせた男に、シオンは疑問符を浮かべる。
「そうか……候補にもあがらんか……我ら宮廷召喚師は、やはり……」
(宮廷召喚師?)
シオンはその名称を胸中で復唱する。ほとんど聞いたことがない名前だ。だが、全く聞き覚えがないわけではない。あれは、そう、5年前の傀儡戦争において――
シオンの思考を中断させたのは、背後で砂利が弾ける音だった。
さきほどと同型の魔獣だ。全て始末したと思っていたが、まだ残っていたらしい。男が密かに呼び寄せていたのだろう。シオンは舌打ちをひとつ残し、その場から跳躍する。
10メートルを一跳びで退くと、宮廷召喚師の男が肩を庇いながらゆっくりと立ち上がるところだった。魔獣はそれを庇うように立ち塞がり、唸り声を上げている。
「そうさ、我ら宮廷召喚師は名前だけの、何の力もない弱卒の集まりさ。だがな、弱者とて栄光を得たいのだよ……シルターンのシノビ風情にはわからんか」
シオンは男の言葉を無視して、彼我の戦力差を鑑みる。
ミニスと共に街中を行くつもりだったため、シオンの武装は寸鉄が残りひとつだけ。本気で投じれば男の額を貫くことも可能だが、それでは背後の情報が絞れない。
対して目の前の男は召喚師だ。既に魔獣を呼び出している。召喚獣としては最低位だが、寸鉄ひとつで相手をするのはなかなか骨が折れる相手だ。魔獣の相手をしている間に、男がさらに召喚術を行使する可能性もある。
(やはり……厄介ですね、召喚師というのは)
魔力があり、詠唱ができる限り、召喚師は召喚術を行使し得る。生け捕りにする難易度が高い。おまけに外道召喚師が使うような簡易の術でさえ、容易く人を殺傷できる。
シオンは即座に生け捕りを諦めた。
寸鉄を男の額に向けて投擲する。同時、魔獣が男を庇うように跳ねた。寸鉄の軌道上に身を躍らせ、主の代わりにその一撃を受ける。
想定内だ。投擲と同時、シオンもまた投具を追うように駆けだしていた。すれ違いざま、負傷して動きが鈍くなった魔獣の首を瞬時にへし折る。先ほど別の個体を始末した際、その頸椎の構造を把握していたのだ。
同時、シオンの耳が呪文の詠唱を捉えた。
「古き盟約を偽り、その名を虚にて塗り潰さん……」
見れば宮廷召喚師の男が新たなサモナイト石を取り出し、魔力を注ぎ込んでいる。
彼我の距離はおよそ5mほど。おそらく、発動自体は向こうが早い。だが召喚術には基本的に、呼び出された召喚獣がこちらの状況を把握し、命令を受けて行動し始めるまでに一定のタイムラグがある。
すでに男の手に持つサモナイト石には十分な魔力が注がれていた。血のように赤い石が、辺りを照らし始めて――
(……赤色?)
僅かにシオンの脳裏に疑念が過る。
この召喚師は確かにメイトルパの術を使っていた。だが赤いサモナイト石は、鬼妖界シルターンへ通じるものだ。
無論、複数の魔力適性を持つ者もいる。だがかなり希少な存在だ。あの宮廷召喚師に、そのような人材が所属しているとは――
……考えても無駄だ。そして、その時間も無い。
シオンは最後の一歩を踏み込み、男の首に手を掛けた。同時、男が呪文の末尾を結ぶが、やはりこちらの方が一手早い。召喚獣による攻撃の前に、男の首をへし折ることが――
◇
突如、部屋に入ってきた男に口元を押さえられたディミニエは、しかしいま、いぶかしげに目の前の剣に見入っていた。
一刀のもとに、侍女を切り伏せた剣――切り伏せたと思っていた剣。
だが、それにしては血も脂も付着していない。
「……?」
ディミニエが首を傾げていると、男が口を開いた。
「乱暴にして悪い。けど、騒ぎになると不味かったもんでな」
目を見開く。その声には聞き覚えがあった――それも、いま最も聞きたいと願っていた声。
手を伸ばし、男の顔を隠すフードをあげる。そこにあったのは数年前にみたきりの顔だった。年を経て、父の面影がより深くなっている。
男はばつの悪そうな笑顔を浮かべながら、実の妹の口元を覆っていた手をはなした。
「よう、ディミニエ。元気そうで何よりだ」
「お兄様! どうしてここに……いえ、それよりも――」
壁に叩き付けられて倒れ伏す侍女を見つめる。その視線を追って、兄――フォルディエンド、いまではフォルテと名乗っているらしいが、とにかく彼が安心させるように肩を抱いてくる。
「安心しろ、斬っちゃいねえし、死んでもいねえよ。しばらくは身動きできないだろうがな」
「何故、侍女相手にこのようなことを?」
「へえ、最近の侍女ってのはこんなもんを持ってんのかい?」
と、フォルテが伸びている侍女の腕を掴むと、その袖口から短剣がこぼれ落ちた。
ディミニエは息を呑んだ。侍女とはいえ、王族の住む区画に入る際は身体検査を受ける。本来なら、刃どころか針一本すら持ち込むことは禁じられていた。ましてや王女の私室になど!
「これは、どういう……?」
「詳しく説明してやりたいところだが、時間がねえ」
剣を鞘に納めながら、兄は申し訳なさそうな顔をして、ディミニエに頭を下げた。
「何もかも放り出していった馬鹿な兄貴だ。いまさら信じてくれとは口が裂けても言えねえが……頼む。今だけは、何も聞かずに着いてきてくれねえか?」
「……そんな辛そうな顔をしないでください」
ディミニエは、頭を下げる兄の頬に手を添えて正面を向かせた。
自分とて馬鹿ではない。見覚えのない侍女が、短剣を持って部屋に入ってきた――それが何を意味するかくらいは分かるつもりだ。
「お兄様はきっと、私を助けに来てくださったのでしょう? ならばこのディミニエ、どこまでもついて行きますわ」