第1話 憧れの背中
鳴り止まない歓声。ボールパーク一杯に詰めかけた観客の地鳴りのような声が響いている。
彼が父親の雄姿を初めてみたのは、日本から遠く離れた異国の地だった。
野球。ベースボール。内野―――
その中心を指す言葉はマウンド。そこにいるのは自分の父親。背番号18を背負い、打席に立つ屈強な男たちを次々と手玉に取っていく。
それを彼は、26人連続で成し遂げた。Hのランプは未だつかず、Eのランプさえつかない。
彼の許した四死球もない。
それが5歳の頃の記憶。あのマウンドで投げ続ける父の姿に、憧れた。
「………」
その息子は、その最期の打者を相手に淡々と投げ続けている父の動きの一つ一つに注視する。彼の母親は言う。
「こんな日はめったにないわ。だからこそ、その目に焼き付けておいてね」
ひどく興奮した顔で、彼にそう説明する母親。VIP席にて、彼ら二人は父の活躍を見ているのだ。
その後ろには、まだ幼い彼の弟たち。見ることに疲れたのか、途中で寝てしまっている。
後に彼女は、その日偉業を成し遂げた彼の予感を感じ取っていたという。何かを成し遂げるオーラが漂っていたという。
『とんでもない記録が生まれようとしています!!! 渡米3年目にして、初の完全試合まであとアウト一つ!! 日本のエース大塚が、とてつもない記録を打ち立てようとしています!!』
『野手ではイチロー君が頑張っていますが、ここにきて大塚君も殿堂入りの大きな足掛かりをつかみそうですね。それに、今日は圧巻といっていいでしょう』
最後の打者への初球。
ドゴォォォォンッッッ!!!
「ストライクっ!!!」
バッターは手が出ない。制球された剛速球がアウトコースに決まったのだ。
その球速は98マイル。158キロ。その一球に観客の声援も大きくなる。
続く二球目。
ククッ、ギュインッッ!!
「!?」
打者の手元で鋭く、大きく沈む、彼の伝家の宝刀。
『落ちたッ!! 空振り!!! これでツーストライクと追い込んだ大塚!! 完全試合達成まで、後一球!!!』
しかし三球目は、
「ボ、ボール!!!!」
インコースの際どい所に投げ込んだストレートではなく―――右打者の内角をえぐるカットボール、通称カッターがボールゾーンへとはずれる。打者はこの150キロ前後の動く球に、思いっきり仰け反ってしまう。
審判も、カッターの軌道が鋭すぎて、判定を間違えるほどだった。いや、もしかすればストライクゾーンを掠った可能性もあったかもしれないと。
余裕をなくしつつある打者。外角ストレートに手を出さず、二球目のSFF。内角のカッター。完全にペースを握られている。
――――カズッ!! 後アウト一つだ!!!
捕手も、大塚のラストボールを期待する。その偉大な記録に立ち会えると、信じて疑わない。日本語は彼に教えてもらった。だからこそ、日常会話ぐらいははっきりと、
野球に関して言えば、それ以上に。
そして捕手のサインに首を振る大塚。
―――どうしたんだ、カズッ? ストレートじゃないのか?
そして彼にカズと呼ばれた男―――日本のエース大塚和正は、マッケローのサインに首を振る。
―――ならSFFか?
だがそれにも首を振る。
――――ここでこいつを使うのか?
その変化球のサインに対し、大塚は首を縦に振る。打者は絶対的な決め球でもある大塚のSFFが来ると判断していた。
『さぁカウントワンボールツーストライクからの4球目!!!』
大塚が最後の球を投げる。観客の手拍子が大きくなる。ボールパーク最大の興奮の瞬間が訪れようとしている。
「!!!!」
ククッ、フワッ!!
最期のボールは、打者の目測よりもかなり遅かった。いや、打者から見れば、ストレートの軌道から、急激に減速し、縦へと大きく沈むボール。
メジャーの名投手が投げていたボール。チェンジアップの中でも最高峰の球種の一つ。
パラシュートチェンジ。
バッターのスイングを打ち崩し、そのワンバウンドのボールに手が出てしまった。
「ストラックアウトっ!! ゲームセットっ!!!」
審判のコールが響いた瞬間、一斉に爆音のような歓声がボールパークを飲み込んだ。
「凄い………」
彼はその姿に憧れた。
三振を奪った瞬間、ひじを曲げ、拳を突き上げて見せた父の雄姿は、彼にとって色褪せない記憶の一つとなるだろう。
『大塚やりました!!! 初の完全試合達成!!! この敵地ヤンキーススタジアムで、日米通算自身2度目の完全試合!! 奪った三振は12個。もちろん四死球もエラーもありません!!!』
オークランドナインからの手荒い祝福。そして敵地であるにもかかわらず、アウェーファンからの惜しみない拍手と声援。
この瞬間は、大塚のためにあった。
――――こんな風に、偉業を前にして敵味方関係なく祝福する――――
これが野球なのかと、ベースボールなのかと、感じ入った彼は決意する。
――――どのポジションも面白いと思った。どこでも野球のだいご味は味わえると思っていた・・・・けど俺は―――
あのマウンドにいる父親の姿と自分を重ねた。
――――俺は、投手がやりたい!!!
それからだ。彼が投手を志したのは。幼かった自分にはわからない日本の野球。彼はメジャーの野球しか知らない。
だからこそ、彼はアメリカの野球には染まっていった。父親も、背は186cmとアメリカのメジャーリーグの中では大きい方ではない。だが、それでもあの屈強な男達相手に、ナイスピッチを続けていた。自分も技と力の両方で、打者を抑えたい。
いつしかそれが、彼の目標であり、投手としての在り方だと思うようになった。
最初に覚えたのは、父親が最後に投げたあのボール――チェンジアップ。しかし、コーチからはあのチェンジアップは特別だと言われ、彼のチェンジアップはそれには程遠いと言われ、少しショックを受けた彼は、その後もこの球種を磨き続けた。
そして動くボール。日本とは覚えさせる変化球の順番が違う。故に、彼は独自に握りを調べ、ある時は父親に教えて貰ったりと、色々な曲げる球を習得していった。
「父さん顔負けだよ。ここまで変化球を覚えるのが速いなんてね・・・」
現役メジャーリーガーの父は、息子の成長速度に舌を巻く。
両サイドの動く球種。カッターとツーシーム。後にシンキングファストへと変わり、チェンジアップを二種類投げるようになった。
ストレートもアメリカの食事であったためか、少しずつ体格も逞しくなっていった。太っているわけではない、急激に縦へと体が伸び始めたのだ。
だがオフシーズンのある日、息子はこんなことを言ったのだ。
「……父さんのもう一つの決め球を教えてほしい。」
和正は、その問いに対し、困り果てた。SFFを投げる投手は少ない。大塚と、その後、入れ違いでメジャーにやってきた楽天の大投手が広めたとはいえ、まだこのSFFの怪我のリスクが高い風潮は、消し切れていない。そして大塚も、この球種ではなく、パラシュートチェンジの方が多い。
SFFは強打者への決め球。故に本来は動く球と縦横の変化球、緩急で打ち取っている。SFFは主に超一流と呼ばれる打者にしかあまり投げない。
「…まだ早い。それは…うーん…日本に帰ったあとぐらいになるかな?」
父親としても、SFFはあまりお勧めはしたくない。フォークほど負担はないとはいえ、大塚のSFFはやはりキレも落差も段違い。
「…メジャーで活躍する父さんは見たいけど…ハァ、仕方ないね……」
息子も彼の言い分は納得した様で、SFFの習得を諦める。
「けどさ!! スロースライダーは教えてよ!! あとスライダーも!!」
「スライダーならいいけど……まあ、今はそんなに変化球を覚えなくていいんだけどね…」
しかしわずか数週間でスロースライダーを会得した息子の呑み込みの早さには、さすがの大塚も舌を巻いた。
「俺は半年かかったんだけど……制球力込みでここまで投げるの……」
その後、時を経て――――
緩急と縦横の変化球を覚えた息子は、すぐにチームの中心人物になった。ストレートも12歳で120キロ台を記録し、もうすぐ130キロに迫る勢いである。
そしてそのフォームは、父親に僅かに似ていた。
故に、アメリカのクラブでも彼の事を大塚二世と呼ぶ者もおり、それは決して親の七光りではないことを実力で証明してみせた。
「ヘイ、エイジッ!! 今日も凄い投球だったぜ!!」
「ナイスボール!! エイジっ!!」
「ありがとう! けど、後ろは心強かったよ!」
英語も、チームメイトと話すために自然と身についた。英語はあまり得意ではなかったが、野球があったから身につけることが出来た。
ただ、下二人は英語に慣れ過ぎて、日本語が少し下手。2ヶ国語を話せる栄治が異常なだけである。
「そういや、今年は戻ることが確定なんだってな・・・」
チームメイトの一人が、エイジ――――大塚栄治に父が日本復帰する可能性が高いことを言う。
「……うん。メジャーでは粗方やったから。今度は日本に戻って野球をしたいんだって。」
「サイヤング賞複数。連続での最多勝以外のタイトル。俺達は忘れないぜ、お前の父親の活躍も、お前の努力も」
父親と比較されがちだったエイジだが、それでも彼はそれを光栄だと言った。偉大な父親に追いつきたい野球少年はどこにでもいる。だからこそ、はっきりと自分は彼に憧れていると口に出来た。
「お前はいつかこっちで野球をすると確信している!! 今度会うのはメジャーのボールパークだ!!!」
そして最終戦。父親の最終登板。ワールドシリーズ第6戦。ここで勝てば、優勝の大一番で、大塚和正は―――
ズバァァァンッッッ!!
「ストラックアウトっ!!!」
『試合終了~~~!!! 大塚、アメリカでの最後の登板を!! 完封で締めくくりました!!!! オークランドアスレチックス優勝~~~!!! これで2連覇達成!!!』
マウンドでは、ラスト登板を終えた大塚が少し涙ぐんでいるのが見えた。これがおそらく人生最後となるメジャーでの登板。その節目で最高の投球が出来た。
37歳にして、未だ堂々たる投球。
『ナイスゲームでした。メジャー最後の登板がワールドシリーズ! そしてその大一番で完封試合。今の心境はどうですか?』
「そうですね。本当に自分に信じられないですね……防御率も2点台後半まで下がってしまって、いろいろチームに迷惑をかけてしまったし、第1戦の悔しさを少しは晴らせたかなと思います。」
『第1戦は7回1失点で敗戦投手。しかしこの第6戦で9回無失点!! 5度目のワールドシリーズMVP!! 誇っていいと思いますよ!!』
「はい……本当に、最高のメジャー人生でした……最後の最後に、家族にも、チームメイトにも、応援してくださっているファンにも、最後の最後で恩返しが出来たと思います!」
『来年は日本復帰という事ですが、それについて何か一言お願いします』
「そうですね……また古巣に戻ろうかと思います。やっぱりあのチームから僕は始まったので。」
『大塚和正選手でした!! 放送席どうぞ!!』
そしてこのオフ、大塚和正は日本球界へと12年ぶりに復帰し、オークランドにワールドチャンピオンという最高の置き土産を置いて、アメリカを去っていった。
そしてその翌年、
「ええっと、アメリカの日本人学校、その後は現地の普通の学校にいました、大塚栄治です!! 好きなスポーツは野球、ポジションは勿論投手!! 初めての日本の学校ですけど、3年間よろしくお願いします!!」
神奈川在住、大塚和正の息子、大塚栄治の物語は、横浜から始まっていく。
セイルさんご指摘ありがとうございます。本当に、中途半端に野球知識があると痛い目にあいますね。
スポーツはファンタジーよりもデリケートだし、これは感覚が戻るか?