創立以来、農耕民族たる相王朝は、地方豪族の専横に常に悩まされてきた。経済力を蓄えた豪族らは、己が一族を官僚として中央へ送り込み、さらに娘を皇帝の后として入内させ、外戚の地位を得ては勢威を誇った。
加えて、飢饉や天災が相次ぎ、相皇はその救済に日夜苦心を重ねた。やがて皇は、援助を引き出すため、皇子を豪族のもとへ婿入りさせる策を講じる。これは経済の安定と豪族の懐柔を兼ねた一石二鳥の妙案であった。豪族たちは皇子を一族に迎え入れ、その血筋を正統と称して蜂起する。
この叛乱に激怒した子覚帝は鎮静軍を差し向けたが、ことごとく敗北を喫し、ついには屈辱的な講和条約を余儀なくされた。その負担は、シルルク系真族をはじめとする棄民に重くのしかかる。
シルルク系真族は弾圧され、抑圧され、差別され続けた。やがてその怨嗟は、一人の男のもとに集うこととなる。
その名、ソカメン・ラスコ。もとはしがない豪農の下僕にすぎなかったが、反旗を翻し、周囲の豪農や商人の支援、さらには徴兵帰りの兵らを糾合して、連戦連勝を重ね、ついに国を興したのである。英雄の出現は、やがて大陸史上最大の乱世の幕開けとなった。
第一章 ソカメン
相代十四皇子覚は、大陸の歴史にその名を刻む悪君である。
趙協皇の第四皇子として生まれた子覚は、他の兄たちより十歳以上も歳が離れていた。ゆえに皇帝も皇后も溺愛し、勉学や武芸といった修養を怠らせるままにした。
「兄君方を見習い、勉学に励まれませ」――そう諫めた家庭教師は、ある日、謀反の嫌疑を着せられ、命を奪われた。
このような幼少期を過ごして、まともな青年に育つはずもない。長じた子覚は、貴族の子弟や外戚の者らと連れ立って都に繰り出し、花街を遊び歩いた。記録によれば、彼らは街中で暴力を振るい、悪事を働いたという。城兵もまた、王子の所業とあれば見て見ぬふりをした。
売淫、殺人、阿片、虐待、拷問――悪行の噂は尽きなかったが、そのたびにもみ消された。
悪は悪を呼ぶ。やがて、この悪王子のもとに、一人の侠客が近づいた。
名は厳向。中路の生まれで、商人の家に育ったが、殺人を犯して逃亡した身であった。口達者で講談を得意とし、昼は町で与太話を語って日銭を稼ぎ、夜は盗賊まがいのことをして暮らしていた。
この厳向と子覚が出会う。
「お前、面白い話をするな」
「はい。もっと奇なる話を存じております」
厳向は、西域、北陸、東部の見聞を並べ立てた。いま聞けば眉唾ものだが、「砂漠には石を食う民がいる」「目玉が三つある一族がいる」など、奇想天外な話ばかりであった。
「面白いのう。そんな国を訪ねてみたい」――このとき、子覚の胸に冒険心という火が灯った。
以後、厳向は子覚の側近に取り立てられる。
1199年、趙協皇が病に倒れた。後継者は長兄・趙円と定められていたが、皇族一同が集う直前、厳向は子覚の耳元で囁いた。
「今ここで兄上方を討ち果たせば、皇位は貴方のものです」
「なんと、そのようなことが……」
「シルルク教の教えに、『アデムはシルルクを討ち、その地位を継ぎ王となった』という話があります。つまり、力ある者こそが天命を得るのです」
「なるほど」
子覚は刺客を放ち、会合に集まった兄たちを皆殺しにした。そして廷臣らに向かい、こう宣言する。
「兄たちは父を殺そうと医師を買収し、毒を盛った。その大罪を、我が手で討ったのだ」
捕らえられた医師は拷問の末、罪を認めさせられた。かくして、第十二代皇・趙子覚が誕生する。子覚は厳向を宰相に据え、悪政と暴政をほしいままにした。
暗君にもいくつかの類がある。己が野望のために民に苦役を課す者、あるいは無能ゆえに国を滅ぼす者。しかし、暗君が必ずしも無能であるとは限らぬ――子覚はその典型であった。
聖人ソカメン
ソカメンは相国の李の街に生まれた。李の街は南北交通の要衝に位置し、人々の往来絶えず活気に満ちていた。気候は温暖で、川の氾濫も少なく、民の暮らしに適していた。とりわけ石炭の産出に長け、陶器の生産も盛んであった。その繁栄の中で、甲氏は街の有力者として長老会を束ね、座の運営を担っていた。
ソカメンは、この甲家の商家に下人として仕えた。甲家は出来上がった商品を市や首都に運び、その折、ソカメンは用心棒として護衛にあたった。
「ソカメン、お前は武芸を習え」――甲氏はそう命じた。
当時、治安は最悪であった。暴君・子覚の悪政により重税が課され、払えぬ者は罪人として処刑された。土地を捨て逃げた農民は盗賊と化し、諸道に群れた。商人たちは身を守るため傭兵を雇うのが常であったが、甲氏は「下人を鍛えて兵士とした方がよい」と考え、武芸の訓練を施した。
ソカメンはこのとき天賦の才を示した。中でも騎射と馬術は群を抜き、彼の右に出る者はいなかった。年老いた母と、幼い弟オルトを養うため、彼はよく働き、甲氏もまた彼を重んじた。
母は折に触れてこう言い聞かせた。
「お前はシルルク王の末子イズクの末裔。王侯の誇りを忘れてはなりません」
そして、イズクの名を古語で刻んだ銅鐸を授けた。
ソカメンはその銅鐸を天にかざし、誓った。
「ご先祖様、この銅鐸を納める立派な宗廟を建てるほどの男になってみせます」
その後、同じシルルク民族のエッセ族より、青夫人を妻に迎える。史書には「エッセ一族はソカメンの容貌と人柄に惹かれ、青夫人を娶らせた」とあるが、実際には甲氏が仲立ちして成った縁談であったとも伝わる。一説には、甲氏はすでにシルルク民族の台頭を予見していたともいう。
なお、シルルク民族とアデム民族の区別は必ずしも明確ではなかった。もとよりアデム民族が大陸を統一し、これをシルルク民族が打倒し、さらにバキャクが継承した。史書には、その後シルルク民族が迫害されたとの記録はない。
諸説あるが、一つは、アデムからシルルク、そしてバキャクへの代替わりまで三百年以上を経る間に、北や西の異民族、東の倭族などが台頭し、アデムとシルルクの多くは混血し、もはや迫害の対象を特定することが不可能になったというもの。もう一つは、バキャクがシルルクを敬い、神たるアデムの殺害も曖昧にされたため、民族間の憎悪が表立たなかったというものである。
ただし、シルルク民族は等(とう)と相(そう)の二度にわたり、国外追放の憂き目にあっている。
ソカメンは、多くのシルルク教の僧たちの語る教えに耳を傾けた。僧たちの口から紡がれる神話や歴史、戒律や道理の一端は、幼き彼の心に鮮やかに刻まれていった。ソカメンの瞳は輝き、学びの吸収は驚くべき速さであった。人々の間では、すでに彼の才を神童と称する声もあったほどである。
加えて、彼は甲氏の命に従い、武芸の修練にも励んだ。日の出とともに馬に跨り、疾風のごとく駆け、矢を放つ。剣の稽古においては、師の教えを飲み込み、ひとつの型を会得するや、さらに応用を試みる。やがてその剣筋は、まるで水の流れのごとく滑らかで、見る者の目を欺くほどの巧妙さを帯びた。
学びと修練の両輪により、ソカメンの姿は少年の面影を残しつつも、日ごとに精悍さを増していった。僧たちもまた、彼の成長を喜び、時には教えを惜しむことなく授けた。こうしてソカメンは、知恵と剣を兼ね備えた、後の世に名を残すべき若き俊英へと育っていったのである。
ソカメンにまつわる不思議な逸話が、いまも語り継がれている。
ある日のこと、彼は弟オルトとともに野原を歩いていた。夕陽はすでに西の空を朱に染め、あたりの草は風にそよぎ、遠くには群鳥の影が帰巣を急いでいた。その折、不意に彼の目に映じたのは、ひと叢の茨であった。茨は烈火に包まれ、炎は轟々と燃えさかっている。だが奇怪なことに、その枝葉は焼け落ちることなく、炎の中にあってなお青々と繁っていた。
ソカメンは息を呑み、思わず跪いた。耳の奥に、雷鳴にも似た声が響いたからである。
――汝、ソカメンよ。シルルクの血を受け継ぐ者よ。汝に使命を授けん。民を導き、正義を立てよ。
茨の炎の中から、一本の杖が現れた。彼がそれを手に取ると、たちまち杖はしなやかに身をくねらせ、一条の大蛇となって地を這った。オルトは恐れをなして後ずさったが、ソカメンは一歩も退かず、その蛇を見据えた。やがて蛇は再び杖の姿へと戻り、ソカメンの掌に収まった。
この杖は「神杖(しんじょう)」と呼ばれ、以後、彼の象徴とされた。人々はそれを「天与の神器」と畏れ敬い、ソカメンの運命を定める啓示であったと伝えられている。
それからというもの、ソカメンは折に触れてシルルクの民に神の教えを説いた。野に集まる人々を前に、彼は杖を掲げ、燃える茨から賜った啓示を語った。
「我らはただ衣食を追い、日々を凌ぐだけの民ではない。天は我らに誇りを与え、正義を求めておられる。弱き者を顧み、強き者を律し、互いに助け合うことこそ、神意にかなう道である」
最初、人々は半信半疑であった。荒んだ世の中で「神の教え」など口にすれば、夢想家と笑われるのが常であったからだ。だがソカメンの言葉は、剣と同じく鋭く、人の心を射抜いた。何よりも彼自身が汗を流し、民と共に畑を耕し、飢えた子に食を分ける姿を見て、やがて人々の胸に火が灯った。
やがて、一族の中でも頑なに信を持たなかった者たちが、静かに彼の側に歩み寄った。祭祀の折、青夫人と並んで祈りを捧げるソカメンの姿を目にしたとき、多くは悟ったのである――「この男こそ、神に選ばれし導き手」と。
ある日のこと、ソカメンは一人の旅人と出会った。彼はその旅人を手厚くもてなし、食と寝所を与えた。旅人は感謝し、多くのことをソカメンに語った。
ここでアデム教について触れておかねばならぬ。アデム教とは、もともと原始的な土着信仰に端を発し、巨石や巨木を神体とする自然崇拝の宗教である。神アデムが創造した世界、その天命を受けた皇が民を統べる正統性を示すため、歴代の皇はこの宗教を保護してきた。思想の核心は「調和」にあり、すなわち人はみな神の子であり、互いに争うことなかれ――という教えであった。
もっとも、この教えは農耕を基盤とする民族には合致したが、狩猟を生業とするシルルク系諸族には、さほど浸透することはなかった。彼らは新たなる教義を求めていたのである。
その折に聞いた旅人の言葉は、ソカメンにとってあまりに魅力的であった。
「……あなたの話を、もっと聞きたい」
ソカメンは夜を徹して旅人と語り合った。だが翌朝、目を覚ますと、旅人の姿は忽然と消えていた。町の誰ひとりとして、その行方を知る者はいなかった。やがてソカメンとその一族は、この不思議な出来事を語り伝え、旅人を「神の化身」と崇めるようになったのである。
史家の一説を付け加えるならば、ソカメンがシルルク教を大成させる以前より、すでに土着のシルルク信仰は存在していた。アデム族の中にもこれを信じる者はおり、皇も特段の規制を加えることはなかった。おそらく、この旅人もまたシルルク信仰者の一人であり、諸国を遍歴する中で僧侶や賢者と交わり、独自の思想を培った人物であったのだろう。
相国には古くから多くのシルルク民族が出稼ぎに訪れ、商家や職人たちは彼らを安き賃金で雇い入れた。その過程において、アデム族の中にも次第にシルルクの文化や風習を受け入れる者が現れ、やがてシルルク教を信奉する者も少なからず見受けられるようになった。
甲氏は、そうした時代の流れと異民族の台頭を敏く見抜き、「いっそシルルク民族に政権を握らせるも一策」とまで考えるに至った。甲氏はまさしく生粋の商人である。生涯に幾度も大きな博打を打ち、時に失敗に沈み、時に成功を収めては財を築き上げてきたのであった。
もう一人、ソカメンの支持者がいた。名は耕善。名将・耕無の嫡子である。
耕無は慈悲深き将として知られ、常に民の安寧を願い、軍役や兵役をできるかぎり軽減しようと努めた。部下に対しても厚く、戦死した者の遺族には自ら慰撫の言葉をかけ、財を与えて支えた。ゆえに官職にありながらも、平家の財は決して潤沢ではなかった。
だがある折、暴君・子覚に諫言したことで逆鱗に触れ、耕無は自害を命じられる。耕善は父を深く敬慕していたため、その死をきっかけに子覚への怨恨を胸に刻み込んだ。やがて耕善自身も命を狙われるが、甲氏の庇護によって辛うじて難を逃れたのである。
耕善とソカメンが初めて相まみえたのは、相国の祭礼の折であった。見事な手際で祭事を采配し、人々を導くソカメンの姿を目の当たりにし、耕善は心を動かされた。その後、彼を自らの酒席へと招いた。
その席上、ソカメンはシルルクの来歴について語り始めた。
「すると……シルルクは罪ではないというのか?」と、耕善が問う。
「はい。シルルクは邪気たるアデムを討ち、真のアデムを継いだのです」
「だが、それならば、シルルクもまた討たれる時が来るのではないか」
「その通りです。ゆえに君主は絶えず精進し、学び、己を鍛えねばなりません」
この問答を境に、二人は深き契りを交わした。義兄弟の契りである。以後、耕善とソカメンは生涯にわたる友として、苦楽を共にすることとなった。
しかし、十三代皇・子覚は、度重なる戦争と重税によって政の行き詰まりを悟ると、その矛先をそらすべく、シルルク教徒とシルルク系移民への弾圧を始めた。捕らえた者を奴隷とし、その労働と売買によって国庫の赤字を補おうとしたのである。九百余名が中路へと移送され、南部の街「亀」に宿営することとなった。この時、ソカメンは組頭として一団を束ねる顔役を務めていた。
だが、折悪しく大雨により川が氾濫し、進軍が不可能となった。移送には期限が設けられており、それを破れば斬首は免れぬ定めである。
そこでソカメンは同志たちを集め、声を張った。
「いまここで無為に斬られるも、反旗を翻して斃れるも、死に変わりはない。同じ死ならば、大義を掲げ、名を後世に残すべきではないか!」
さらに言葉を重ねた。
「相王は久しく天下を苦しめてきた。伝え聞くところによれば、子覚は末子にして、己の兄たちを殺めて王位を奪った僭主である。これでは天下が治まるはずもない。思い起こせ、かつての平無将軍を。あの方は心優しく、シルルク民族を保護した。だが、その徳を妬んだ相王によって殺されたのだ。平無将軍と、子覚に討たれた兄たちの仇を掲げれば、相人もシルルクの民も立ち上がろう。我らの行いは、決して徒労に終わらぬはずだ!」
その後、ソカメンは民家より酒を分け受け、監督役の役人に勧めた。役人が酔い伏したところを見計らい、同志とともにこれを討ち取った。
その刹那、ソカメンは天を仰ぎ、声高に叫んだ。
「王侯いずくんぞ!」
その言葉を合図に、九百の群れは鎖を断ち、夜陰に紛れて脱走した。ここに、ソカメンを首領とする反乱が始まったのである。
ソカメンは一度進軍を止め、反転して中路東部を攻めた。当時、中路の町々には兵の数が少なく、周辺国との国境地帯へ兵力が割かれていたことも幸いした。こうして県長を捕らえ、その首を刎ねたうえで、捕虜となった兵たちに向かい訴えた。
「この暴政はすべて子覚の所業である。子覚さえ討てば、汝らの命は助けよう」
この宣言に心を打たれた相兵たちは、ソカメンに従うことを決意した。
まずソカメンは使者を各町に送り、長老たちへ援助を求めさせた。
「我は師留久の末子、神の啓示を受けたり。天誅、子覚。」
使者の言葉は各地で議論を呼び、やがて長老たちは金や兵糧を差し出し、さらに村の若者たちを派遣した。ソカメンはこれら人材を吸収し、軍を膨らませつつ次々と町を攻略していった。
やがて故郷・李の町に帰還したソカメンは、町庁に入り、まず県長を誅した。そして町の実力者たちを集め、助言を乞うた。その席には、弟のオルト、甲氏、そして平無将軍の遺児・耕善の姿があった。
「私はシルルクの末裔なれど、その技量は未だ乏しい。どなたか他の実力者に代わっていただきたい」
するとオルトが真っ先に答えた。
「兄貴、他にその任を担える人間などおりません。率いてください」
甲氏もまた、かしこまって口を開いた。
「ソカメン様のほかには、あり得ませぬ」
ソカメンはなお渋った。
「だが、我には肩書も官職もない」
これにオルトが提案した。
「兄上、ここはひとまず“李公”を名乗られてはいかがでしょう」
“公”とは、実力者の顔役や富豪、地主に贈られる敬称である。特に李県長が“公”の称号を得ていたため、自然と継承されたものとオルトは解釈した。オルトは学者として知られる高戸の門下生であり、歴史は繰り返すものだと学んでいた。
李――それは先代皇朝の姓であり、李の町に生まれた李氏が、その名を町と共に伝えたものであった。その縁もあって、李の地には歴代皇の墓所が築かれていたのである。
この“李”の名を掲げることで、ソカメンは李氏の後継者であることを世に示し、趙氏に対抗する大義名分を得た。相人たちの心も、ここに大きく傾き始めたのである。
李の町においてソカメン軍は兵を整え、その数はついに一万に及んだ。時を同じくして、政府の役人たちはすでに町を逃げ去っていた。
そして1201年七月。ついにソカメンは首都・中都にたどり着き、城を包囲した。兵たちは疲れを知らぬかのように攻城戦に臨み、城壁を取り巻く鬨の声は天地を震わせた。
やがて城内の兵の一部が内応し、城門を開いた。人々はすでに王に失望し、心は離れていたのである。便所に身を潜めていた子覚をついに見つけ出すと、その場で処刑に処した。
ソカメンはまず、相を支持してきた豪族や趙一族の遠縁を城中に集め、堂々と宣言した。
「朕は力を失った相王に代わり、宗廟を守るために立った。決して相人を敵とする者ではない」
この言葉に諸侯は胸を打たれ、次々と忠誠を誓った。かくてソカメンは神官を呼び寄せ、相王の王印を受け継ぎ、「前真王(ぜんしんおう)」を名乗った。――かくして、大陸史上初めて、シルルク民族とシルルク教を基盤とする国家が興ったのである。
もっとも、ソカメンが「王」を称したことは、諸侯の総意を得たものではなかった。むしろ旧王朝に連なる多くの国々からは朝敵と見なされ、討伐の檄文が飛び交った。
ソカメンは困難を前にして、一族の知恵を求めた。弟オルト、従兄弟たちが口を揃えて進言する。
「各国において、シルルク民族は迫害と差別を受けております。いまこそ“差別からの解放”を掲げ、各地の同胞を蜂起させるべきです。また、北方の狩猟民族とも同盟を結ぶべきにございましょう」
ソカメンはその策を容れた。北部の狩猟民族はソカメンと同じシルルクの系譜に連なり、騎馬と弓をもってならす高い軍事力を誇っていた。さらに葉琉(ようりゅう)族や偉他(いた)族とも盟を結び、調略を駆使して危機をしのいでいった。
やがて、同族の仇討ちを名目に、植国や周国が兵を挙げた。いずれも相の庇護を受けて存立してきた国々であり、異姓ながらも趙一族と血縁を有していた。
植王は言った。
「僭主とはいえ、同族は同族なり。その同族を討つこと、道義に背く」
一方、周王も。
「蛮族の異教徒を容認することこそ道を誤る。討伐あるのみ」
かくして両国は連合し、合わせて三万の兵を派遣した。
これに対し、ソカメンは耕善とともにみずから軍を率い、迎撃に向かった。史書『最史』には「苦戦の末、破竹の勢いをもって勝利す」と記される。だが実際にはそこまでの苦戦ではなかったと伝わる。
そもそも周・植両国の国力をもってすれば、三万の兵はあまりに少なく、むしろ威力偵察の色が濃かったというのが通説である。
もう一つの勝因は、各地におけるシルルク民族の蜂起であった。オルトはそのために二万金という、当時の国庫の一割に匹敵する巨額を工作資金として投じたのである。
シンガ地方ではウース・コイス兄弟が、オロス地方ではバッツェルが、さらに東欧地方ではイェスゲイがそれぞれ反乱を起こした。
ソカメン王はまた、各地より僧侶や学者を招き、シルルク教の教義を統一せんと努め、『教本』を編纂した。そこにはこう記されている。
「シルルクがアデムを討ったように、万物は常に移り変わるものなり。春来たりて夏となり、秋過ぎれば冬となる。草は萌え、鹿はこれを食らい、人はまた鹿を獲る。これすなわち自然の摂理なり。」
この教えは民衆の心を強くとらえた。停滞と腐敗に沈むアデム王朝に失望していた者たち、そして差別に苦しむシルルク民族にとって、この思想はまさに新鮮な風であった。
さらにソカメンは、国家の根幹たる経済と農業の振興を重んじた。飢饉と貧困に喘ぐ民に対しては、徳政令を発して借財を帳消しとし、二期作や二毛作を奨励して農業生産を飛躍的に向上させた。商人たちにも自由に商工業を営ませ、国家はこれを手厚く保護した。
1206年1月、真王ソカメンは西方への大遠征を決意する。目的は、シルルク教の聖地奪還と中央教会の保護にあった。
当時、中央教会は千年を超えるアデム教の総本山として権威を保っていたが、実情は老齢の司祭たちが牛耳る鈍重な組織であり、献金も減少し、民心も離れつつあった。中にはカイソン将軍やクェラン将軍のように「アデムの巣窟など滅ぼしてしまえ」と豪語する強硬派も少なくなかった。
されどソカメンは教会を単なる敵と見なさず、古き権威と手を結び、自らとシルルク民族の地位を高める策を巡らせていたのである。
この動きを阻まんと、周王は大軍を発した。総大将には空雄(くうゆう)将軍を任じ、真軍三十万に対して周軍は百万人を擁し、両軍は可原にて対峙した――これ、可原の戦いなり。
序盤、真軍は劣勢に立たされた。されどソカメン自ら先陣に立ち、果敢なる突撃を繰り返すことで、徐々に戦局を押し返していく。対する周軍は、無理やり徴兵された農民兵が多く、戦意は低く、空雄将軍も実戦経験に乏しく、半ば飾りに過ぎぬ存在であった。いや、飾り以下とも評される。
ソカメンの猛攻に恐れをなし、空雄は前線の兵を何度も後退させ、自らも逃走を繰り返す。これにより兵の士気は削がれ、周軍は総崩れとなった。
敗走して周都に戻った空雄将軍は必死に弁明したが、誰一人耳を貸さず、臆病者として非難され、ついには周王の命により斬られたのである。
同年五月、ソカメン軍はついに聖地へ到達した。かつて栄華を誇った聖地は、この時すでに小都市の規模にまで衰え、荒廃していた。ソカメンはシルルクの墓を保護し、再建を命じた。以来、この地は今日に至るまで巡礼の地として多くの信徒を集めることとなる。かくして、聖地奪還は成ったのである。
次なる標的は中央教会であった。ソカメンは参内し、第百三十九代聖皇に拝謁する。
「シルルクとアデムは同祖なり。我らは同じ祖を持つ同胞である。それにもかかわらず、我らの祖を迫害し、虐げてきた。されど我らは報復も復讐も望まぬ。ただ、認めてほしいのだ」
この言葉に、各地の司教たちは深く動揺した。
聖地滞在中、ソカメンは街道を整備し、農地を開き、治水を行い、修道院には食糧と衣服を送り、巡礼宿も整えた。その利用はシルルク教徒のみならず、アデム教徒にも開放された。彼は再三にわたり、シルルク教の布教と公認を求めたのである。
第百三十九代聖皇の退位後、第百四十代聖皇はついにこれを認め、シルルクを神とし、シルルク教を公認するとともに、宗教の自由を宣言した。こうして中央教会はアデム教とシルルク教を併せ持つ宗教勢力となり、その権威は一層高まったのである。
ソカメンは大陸各地に使者を送り、宗教の自由化と改宗を推し進めた。アデム民族の諸侯や貴族の中にも、シルルク教に帰依する者が現れた。さらに各地に学校を建て、読み書きや学問を教え、シルルク人を知識階層へと押し上げた。文化の面でも、彼らは大いに栄えることとなった。
こうして二年のあいだ聖地に滞在したソカメンは、すでに六十歳を越えていた。やがて病に伏し、その生涯を閉じたのである。
後日談として、第二代真王にはヘルメンが即位した。しかし彼は暗愚にして、土地の強制接収や悪貨鋳造により財政を傾け、さらにアデム民族への迫害を再開したため、民心を失った。ついには反乱により王宮は陥落し、彼は自刃する。前真国は、わずか十年の間に滅び去ったのである。
されど、ソカメンの遺したシルルク民族の文化は、その後も大陸に息づき続けた。