帝国志   作:kita1751

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■四章大越帝皇シルク■越誕生

1286年、世に名高き白十山の戦いが勃発した。

将軍ホールは宿敵・草良を討ち、その首級を挙げたことで反乱の大勢は決した。

このとき、主力軍はすでに聖地方面への侵攻を開始しており、山中に残る敗残兵の掃討はシルクに委ねられた。

彼はわずかな兵を率い、断崖と谷を縫って逃れる草良軍の残党を追い立て、幾度もの伏兵を退けながらも、一人として取り逃さなかった。

「若将シルクの追撃、疾風のごとし」と兵たちは語り、

その果敢な立ち回りによって、白十山の戦果は完全なる勝利へと繋がったのである。

この追撃戦を通じ、シルクはただの勇猛さだけでなく、冷静な判断力と地の利を生かす戦術眼を世に知らしめることとなった。

 

 

 

白十山の戦いにおけるシルクの追撃戦は、主将ホールの大功に次ぐものと評された。

敗残兵をことごとく掃討し、乱世の芽を摘んだその功績は軽んずるべからずと、元帝ビライも自ら賞賛の勅を下した。

かくしてシルクは、**「戦功第二」**の栄誉を受け、南州将軍と南湖太守の号を賜った。

これは単なる武名に留まらず、諸州の兵を統べる実権を意味し、若き将としての地位を盤石たらしめた。

 

聖地を奪回したのち、元王はみずから巡礼の道に臨んだ。

玉座を離れ、質素なる装束に身を包み、聖なる城門を徒歩でくぐる。その姿は兵のみならず民の心をも震わせた。

やがて大殿に至ると、王は三日三夜の祈祷を行い、古の神々へ誓約した。

「この地を護り、再び異国に穢させぬ」

続いて厳かに聖地守護の儀が執り行われる。

群臣・将兵・聖職者が見守る中、王は宝剣と聖典に手を置き、天地に誓いを立てた。

この時、中央神会の聖皇が進み出て宣言した。

「この偉業を成したるは天命に背かぬ証。ここに、元王を『元帝』と称すべし」

その瞬間、堂内はどよめきに包まれた。

帝国の正統を示す称号――元帝。

宗教と軍事、天と地の双方から権威を授かったことで、元の威信は空前の高みに達した。

シルクもまた拝礼の列に加わり、その光景を目に焼き付けた。

敗北から立ち上がり、聖地奪回の功臣として立ち会うことができたことは、若き将の心に深い刻印を残したのである。

 

この殊勲により、シルクは「中路西州太守」に任ぜられた。

 

 

赴任したシルクは、ただ軍政のみに安んじることを潔しとしなかった。

彼がまず手をつけたのは、領内最大の港湾であった。

長年荒れ果て、半ば廃れていた波止場を大規模に整備し、石造りの防波堤を築き、木造の桟橋を幾重にも伸ばす。さらに倉庫を並べ、船渠を掘って遠国の大船をも泊められるように改修した。

「兵を養うは民の力、民を富ますは商の力なり」――これが若き太守の信念であった。

彼は港へと集まる商人を保護し、課税は定めつつも過度に搾ることなく、交易を大いに奨励した。

その施策はすぐに実を結んだ。

諸国より商船が次々と寄港し、波止場には異国の言葉が飛び交い、香辛料・絹布・金銀・陶器といった品々が山と積まれた。各国の商館が立ち並び、街路には各地の衣装をまとう人々が肩を触れ合い、東西の文物が交差する光景が広がった。

やがてその地は「港都」と呼ばれるに至り、後世に残る大都市の礎となったのである。

戦場での勇将シルクは、ここでまた一人の治世家として歴史に名を刻み始めたのであった。

 

1295年、ついに北方より最軍が大挙して侵攻した。

その数十万、まさに黒雲のごとく押し寄せる敵勢を前に、シルクはわずか数万の兵を率いて対峙せねばならなかった。

開戦早々、敵の勢いは凄烈であった。

砂塵を巻き上げ、鉄騎が雷のように突進してくる。

若き日のシルクならば、無謀を承知で正面からこれを押し返そうとしたであろう。

しかし、この時の彼はすでに「雷原の敗北」を胸に刻んでいた。

彼は即座に全軍を三分し、中央は堅く守り、両翼を緩やかに退かせて敵を誘導した。

押し寄せる最軍に押し潰されぬよう、兵を小隊ごとに分散し、合図によって後退と集結を繰り返す。

まるで波が引いては寄せるがごとく、戦線を保ちながら少しずつ後方へと退いていったのである。

数日の戦いの末、ついに劣勢を覆すことはできず、全軍は退却を余儀なくされた。

だが、その退却は秩序正しく、兵たちは瓦解することなく陣を整えて帰還した。

討たれた者は多くとも、その大軍にしてなお半ば以上を保ち得たのである。

大都にて敗戦の報を受けたビライ帝は、群臣の非難を退けて言った。

「敗るることは恥ならず。全軍を保ち帰り、再戦の力を留めたは功である」

その冷静なる用兵はむしろ賞され、シルクは罪を問われるどころか再び任を受けた。

やがて彼はクロー地方東部の「九路太守」に着任し、辺境の要衝を託されることとなったのである。

 

 

 

 

 

 

クロー地方には古来よりアデム民族が多く住み、彼らは山岳に砦を築き、独自の言語と祭礼を守り続けていた。元帝国の支配に対しては、たびたび蜂起し、税を拒み、辺境を騒がせてきた歴史を持つ。

赴任したシルクは、彼らをただ弓矢と鉄騎によって押さえ込むのではなく、むしろその心を掴もうとした。年ごとの大祭に自ら列席し、伝統の舞踏を讃え、民の前で「法の下での平等」を高らかに宣言したのである。アデムの長老たちは驚き、次第にその言葉に信を置くようになった。

「力で従わせれば一時。信で結べば万代」

この信条を胸に、彼は人種差別の撤廃を強く推し進め、アデムのみならず諸民族を同じ法に照らして裁いた。やがて市にはアデムと漢人、突厥人とペルシア人が肩を並べて商う姿が見られ、戦の折には同じ軍旗の下で武器を取るようになった。

その政策の下で編成された兵は「越軍」と呼ばれた。彼らは山岳で鍛えた強靭な足腰と、厳格な訓練によって精鋭中の精鋭と化し、諸戦場でその名を轟かせる。敵将の間で「越軍あり」と聞けば、ただちに戦意を挫かれるほどであった。

さらにシルクは時勢を読み取り、内陸の覇権だけでなく海の力の必要を説いた。クローの港を拡張し、大規模な造船所を築き、武装船を次々と進水させたのである。これにより沿岸は堅固に守られ、同時に遠方の海路も安全となり、交易はかつてない繁栄を見せた。

かくしてクローは軍事の要衝にして商業の中心地へと変貌し、後世「シルクの治世、辺境に黄金の世紀をもたらす」と謳われることになる。

クロー地方には古来よりアデム民族が多く住み、彼らは山岳に砦を築き、独自の言語と祭礼を守り続けていた。元帝国の支配に対しては、たびたび蜂起し、税を拒み、辺境を騒がせてきた歴史を持つ。

赴任したシルクは、彼らをただ弓矢と鉄騎によって押さえ込むのではなく、むしろその心を掴もうとした。年ごとの大祭に自ら列席し、伝統の舞踏を讃え、民の前で「法の下での平等」を高らかに宣言したのである。アデム族の長老たちは驚き、次第にその言葉に信を置くようになった。

「力で従わせれば一時。信で結べば万代」

この信条を胸に、彼は人種差別の撤廃を強く推し進め、アデム族のみならず諸民族を同じ法に照らして裁いた。やがて市にはアデムと相人、突人と琶人が肩を並べて商う姿が見られ、戦の折には同じ軍旗の下で武器を取るようになった。

その政策の下で編成された兵は「越軍」と呼ばれた。彼らは山岳で鍛えた強靭な足腰と、厳格な訓練によって精鋭中の精鋭と化し、諸戦場でその名を轟かせる。敵将の間で「越軍あり」と聞けば、ただちに戦意を挫かれるほどであった。

さらにシルクは時勢を読み取り、内陸の覇権だけでなく海の力の必要を説いた。クローの港を拡張し、大規模な造船所を築き、武装船を次々と進水させたのである。これにより沿岸は堅固に守られ、同時に遠方の海路も安全となり、交易はかつてない繁栄を見せた。

かくしてクローは軍事の要衝にして商業の中心地へと変貌し、後世「シルクの治世、辺境に黄金の世紀をもたらす」と謳われることになる。

 

1296年 三将の戦い

1296年、最(さい)帝国はついに西辺征伐を決断した。

帝サンはみずからの直臣たる三将――

黃竜将軍(こうりゅうしょうぐん)

 

 

草竜将軍(そうりゅうしょうぐん)

 

 

トーソン将軍

 

 

この三名を総大将に任じ、十万の大軍を編成して要衝へと進撃させた。

その布陣は山岳と平原を結び、まるで大地を覆う鉄の壁のごとく本隊の進路を塞いだ。後世、この戦を「三将の戦い」と呼ぶのはこの時より始まる。

これに対し、元帝はわずか五万をもって応戦を命じた。

その将は、名高きホール・カンと、老練の平馬将軍である。両将は地形を巧みに利用し、敢えて敵の中央を誘い込み、逆撃を加えてこれを粉砕した。大軍を誇った三将軍は意外にも足並み揃わず、やがて大混乱に陥ったという。

一方、その背後で重要な任を担ったのがシルクであった。

彼は自らの提唱によって整備した武装船団を率い、海上からの援護を請け負ったのである。

港を発った艦隊は、荒波を突き抜け沿岸に陣取る敵の補給路を断ち切った。さらに火矢と投石器を用いて海辺の砦を焼き払い、その黒煙は遠く戦場の丘からも望まれ、陸上の味方に大いなる勇気を与えた。

「海もまた我らの戦場なり!」

シルクは艦上で叫び、太鼓を打ち鳴らして陸軍に合図を送った。船団は浜辺に殺到する敵兵を矢で討ち払い、やがて潮の満ち引きを計算して精鋭を上陸させる。ホール・カンの本隊と呼応し、陸と海からの挟撃を成したのである。

かくして三将の軍勢はついに崩壊した。敗残兵は山へと散り、十万を号した大軍は瓦解する。

元史は記す――

「この役において、三将軍の威は地に落ち、元軍の勝ちは大地を覆う。シルク、初めて海を用いし将として天下に名を知らる」

この戦いにより、ホール・カンの武勇と平馬将軍の老練は帝国全土に轟き、またシルクは「海を制する最初の将」として新たな評価を受けることとなった。

 

三将の戦いの大勝の後、帝国の廷臣らは功績を論じ合った。

海を制し、敵の補給を断ち、砦を焼いたシルクの働きについては、群臣の口々に称えるところとなった。

「もし海軍の挟撃なくば、この戦の勝ちはなかったであろう」

「シルクはもはや一将にあらず。一国を任ずべき器なり」

やがて元帝ビライは勅命を下した。

「シルクよ、汝は若き日に敗れ、それを糧として己を鍛え、ついには数々の戦を勝ち抜いた。

いまや陸と海を兼ねる、将の中の将である。よってクロー地方を割き、独立の領を与える。これを『越(えつ)』と号すべし」

この勅命により、シルクはクルン地方・カラホト・バラムドの三地域を下賜され、元帝国より正式に独立を許された。こうして旗を掲げた新しき藩国――「越」が誕生したのである。

シルクは「越王」として封ぜられ、初めて自らの国を持った。

越国はクローの地を中心に、港町と商館を根幹とする交易国家として姿を整え、諸民族が共に暮らす和融の地となった。兵は「越軍」と称され、海と陸を兼ね備えた精鋭軍団として諸戦場に名を轟かすこととなる。

 

 

シルクが越王に封ぜられるや、まず行ったのは城や宮殿の造営ではなく、民の解放であった。

「国を立つるにあたり、血にまみれた剣よりも、人を得ることこそ肝要なり」

そう言って彼は詔を下し、長らく戦乱で捕らえられ、奴卑として使役されていた人々をことごとく解放したのである。

「今日より、汝らは越の民なり。耕すもよし、商うもよし。男は兵に志あれば槍を執れ。女もまた市を立て、国を支えよ」

この思いも寄らぬ大恩に、人々は涙を流して頭を垂れた。やがて彼らは解放の恩に報いようと、率先して徴兵に応じ、また商業や農耕にも励んだ。

こうして越国の人口は急速に回復し、短き年月で田野に人影が戻り、港には市が立ち、街道には荷車が行き交うようになった。

そして後の国難において徴兵が行われた際、人々はこぞって恩義を胸に槍を取り、越の軍旗の下に集ったのである。

 

奴卑の解放は、単に情けによるものではなかった。

シルクは彼らを「越の民」として受け入れると同時に、国土の再建に従事させたのである。

荒れ果てた平野には屯田が開かれ、元奴隷であった人々が鍬を手に稲や麦を植えた。屯田兵として組織された彼らは、平時は農を営み、戦時には槍を執って国を守る。

「民を飢えさせず、兵を絶やさぬ」――この仕組みは越の国力を底から支え、数年も経たぬうちに穀倉は満ち、兵站は安定した。

かつて枷に繋がれていた人々が、今や自由を得て土地を耕し、その収穫をもって自らの家族を養い、また国を富ませる。越の民は皆、解放の恩義を胸に刻み、「王とともに生き、王とともに戦う」と誓ったのである。

 

1297年 西最征討

1297年、シルクはついに西最への攻撃に踏み切った。

その軍勢は、一年近くの歳月をかけて鍛え上げた「越軍」の精鋭である。

彼らは単なる兵士ではなかった。アデム民族をはじめとする諸民族が互いの壁を越えて結束し、同じ旗印のもとで戦う者たちであった。長き演習と幾度の戦場で培った規律は揺るぎなく、しかも海と陸の双方で作戦行動が可能な、稀に見る軍団に仕上がっていた。

シルクはまた、港湾都市で発展させた海運を軍事に応用し、兵站を完璧に整えた。物資は港から港へと運ばれ、潮流と風を読み切った船団が前線を絶えず潤した。西最軍は補給路を断とうと幾度も試みたが、海と陸の双方から支えられる越軍の進軍を止めることはできなかった。

決戦の日、シルクは奇策を用いた。正面から猛攻を仕掛け、敵主力を引きずり出す。その裏で、機動力に優れた越軍の海陸混成部隊が大きく迂回し、敵の背後を突いたのである。

包囲網が閉じるや、西最軍の戦列は瞬く間に崩壊した。わずか三日にして西最の要衝は陥落し、越国の軍略と威勢は帝国全土に鳴り響いた。

 

 

 

シルクが奪い取った西最の要衝は、戦功によって得たものであった。

しかし、その地は本来、元帝国の版図に属する土地である。

だが都からは遥かに隔たれ、補給の道も細く長い。加えて最の攻勢は止むことなく、国境の山岳からは幾度となく大軍が雪崩れ込み、占領地を脅かした。

元帝ビライは深く思案し、やむなく勅を下した。

「この地を直ちに越の領とすることは、未だ早し。ゆえに越軍は駐屯を許し、守護を任ずる。ただし名目はあくまで帝国直轄の地とす」

こうしてシルクは、占領地の実質的な支配と防衛を担いながらも、名目上は「駐屯軍司」としてその地を治めることとなった。

無論、これは本来ならば元国の直轄領であり、地方軍司ごときが勝手に税を徴し、資源を押さえるなど許されぬことであった。

だがシルクはあくまで「駐屯の維持」という名目を掲げた。

「兵を養うため、最低限の徴収を行ったにすぎぬ。都よりの糧秣は遠く、補給線も細いゆえ、地元の収穫に依らねば十万の軍を支えられませぬ」

彼はこう上奏し、巧みに法をすり抜けた。

こうして「駐屯の維持」の名の下に、シルクは実質的な統治を進めていったのである。

帝都の廷臣らもその報告を受けて眉をひそめたが、遠隔の地にまで権威を及ぼす術はなく、また何より――彼のやり方によって軍が保たれ、最の侵攻を防ぎ得ていることも事実であった。

「シルクは危うき者よ。だが彼なくして西辺は保てぬ」

やがて廷臣たちはそう囁き合うようになり、彼の存在は帝国にとって不可欠かつ、同時に制御しがたいものとなっていった。

この西最領の実効支配について、後世の史家の記録は大きく分かれる。

反越の思想を持つ史家の中には、この出来事をこう評する者もある。

「偶然というには運が良すぎた。あれは偶然ではなく、シルクが周到に用意した野心の発露である」と。

彼らは、シルクが元帝国の命を受けずに独断で租税を徴し、兵を募り、実質的な自治を開始した事実を指摘する。そして、それを「忠義に厚い将の苦衷」とは見ず、「いずれ帝国から独立するための布石」と断じるのである。

確かに、この時のシルクの行動は、形式の上では越が元国直轄領に干渉するものであり、大陸統一の事業へとつながる先駆的な一歩であったとも言える。

ゆえに反越史観に立つ者は「その時点ですでに覇業を視野に入れていた」と推測し、逆に越史の立場からは「単なる忠義と民の救済が後に覇業へとつながったにすぎぬ」と解釈される

すなわち、この行為をもって彼の忠義厚き人格を否定し、後世の「越の自立」はこの時点から始まっていたと断じるのである。

一方、越国の正史たる『越史』は全く異なる筆致を取る。そこでは、シルクはあくまで「代官としての責務」を果たしたとされる。

「西辺は遠隔にして帝都の手は及ばず。地元の代官ら、糧秣と守備を託し来たり。シルクこれを引き受け、越軍を屯田にあて、民を安んじたり」

すなわち、越史は彼の行動を「代官から請われ、やむなく行った」ものと位置づけ、むしろ民を保護し最の侵攻から守った仁政として描いているのである。

こうして同一の事実も、記す者の立場によって正反対の評価を与えられることとなった。

 

 

 

 

しかし、この批判は大きく歪曲されている。

西最の地に駐屯していた元兵は、実際には千にも満たぬわずかな兵にすぎなかった。対して、そこに暮らす住民は十万を数え、しかも度重なる最の侵攻に脅かされる不安定な情勢に置かれていたのである。

もし元帝国が中央からの命令に固執し、駐屯軍にのみ防衛を任せたならば、民は保護されず、土地は荒廃し、やがて最の版図に呑み込まれていたであろう。

この現実を前に、シルクはやむなく独自の施策をとった。租税の徴収も、資源の確保も、あくまで駐屯軍と現地民双方を養い、領を守るためであった。彼は軍を屯田に従事させ、また民衆を徴発するのではなく保護することで、西最の土地を維持し続けたのである。

 

この現実を前に、西最に派遣された元国官吏から非公式に依頼がなされている。

「元代官、ひそかに将軍に委ねて曰く――民を救い、地を守るはただ汝にあり、と。将軍これを受けて政を行い、兵も民も共に飢えず」

 

この記録が公的史料に残されなかったのは、決してシルクの罪悪感によるものではない。

むしろ、それは元国への忠義を守るためであった。

もしこの出来事を正確に記録に残せば、越が元国直轄領に無断で干渉したという不忠の汚名が、シルクと越のみならず、黙認した元国官吏にまで及ぶことになる。ひいては、辺境統治の不備が中央に露呈し、元帝の権威そのものを揺るがしかねなかった。

ゆえに、史官たちはあえて筆を鈍らせ、記録を曖昧にしたのである。

しかし一方で、越の正史や民間伝承には「元代官の密命を受け、民を救った」という物語として濃密に残され、人々の記憶に刻まれていった。

結果として、この「沈黙」と「伝承」の落差こそが、後世の歴史家たちに論争を呼び起こす要因となったのである。

 

 

 

 

 

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