1299年、サン帝はついに決戦を期し、150万を数えると伝わる大軍をもって元国へ侵攻した。
報が都へ届くや、シルク王は一刻の猶予もなく軍を率い、越国もまた元帝国防衛のため立ち上がった。
鋭く鍛えられた越軍は、山岳と河川を巧みに利用して堅牢な防衛線を築き上げる。峡谷には柵を組み、河口には杭を打ち、進撃してくる最軍を幾重にも阻んだ。
空を覆う矢雨が敵陣を打ち、城壁の上では大太鼓と角笛が轟き、兵たちは声を枯らして鬨(とき)を上げた。
「越王に続け!」――この叫びは戦場の隅々まで響き渡り、兵の士気を極限まで高めたという。
越軍はサン帝の大軍に包囲され、シルク王は峡谷の砦に立てこもっていた。攻め寄せる敵の兵数は圧倒的で、前線の指揮に追われる彼の目には、遠方で進む別働軍の動きなど映らなかった。
英武が率いる三十万の軍勢が印都を攻略しようと動き出していることを、シルクは知らなかったのである。情報の遅れは彼にとって危険であり、陣中の将兵たちもまた緊張を隠せず、敵の包囲を破る方法を思案していた。
「我らはここで耐えるのみ……」
シルクは短く呟き、砦の防御線に視線を巡らせる。包囲されて動きが取れない状況は、精神的にも肉体的にも兵を疲弊させる。しかし、シルクの冷静さは失われず、
しかし、シルクの冷静さは失われず、彼は低い声で鼓舞した。
「騒ぐな、皆の者。敵は数こそ多けれど、我らの士気と地の利には及ぶまい。恐れず戦え、盾を固め、弓を引き、槍を構えよ!」
その声は砦の隅々まで届き、疲れ切った兵たちに新たな力を与えた。太鼓の音が砦の壁を震わせ、角笛の合図が陣中に鳴り響く。兵たちは声を合わせて鬨(とき)を上げ、眼前の敵に立ち向かう覚悟を示した。
シルクは次々と指揮を出し、防御線を微調整しながら、敵の突入点を予測して部隊を配置した。敵の大軍に圧されながらも、砦の中には秩序が保たれ、士気は揺るがなかった。
印都には十万の守備兵が配されていた。指揮を執るのは元帝ビライである。サン帝の三十万の大軍が迫る中、城壁には緊張が張りつめ、守兵たちは弓矢を構え、砦の防衛を固めていた。
ビライ帝は高台から全体を見渡し、遠方の敵の動きと城内の士気を慎重に見極めている。彼の冷静な指揮により、兵たちは恐れを抱きながらも秩序を保ち、守備線を維持していた。
この守備態勢により、印都は容易には陥落せず、サン帝の進軍は思わぬ阻害を受けることとなる。
英武はついに決断した。
「この城は正面から攻めては落ちぬ。だが、炎には勝てまい」
彼は精鋭の中から百人の勇敢なる兵を募り、決死隊とした。夜陰に紛れ、彼らは城の背後にそびえる急峻な岩壁をよじ登る。足場はわずかで、滑れば谷底へ真っ逆さま。それでも百の影は息を殺し、一歩一歩を血で刻むように進んだ。
やがて城壁の上に辿り着くと、彼らは松明に火を点じ、一斉に矢とともに放った。乾いた板屋根や糧秣庫は瞬く間に炎を噴き上げ、城内に火の手が広がる。夜空を赤々と焦がし、警鐘が乱打される中、城兵は混乱に陥った。
炎と悲鳴が渦巻く中、英武は全軍に号令する。
「いまだ! 城を討つはこの時ぞ!」
総勢三十万の軍が動いた。鬨(とき)の声が山谷を震わせ、無数の松明が闇を裂き、火に揺らぐ印都を四方から取り囲む。
「突撃せよ! 火と剣をもってこの都を奪え!」
地鳴りのごとき行軍が始まり、攻城塔やはしごが次々と押し出される。火に気を取られ混乱する城兵は、必死に矢を放ち、油を注いで抵抗する。だが城内の炎は広がるばかりで、その士気を削いでいった。
城門へ迫る攻城槌が轟音とともに叩きつけられる。壁際では梯子をよじ登る兵と、防ごうとする兵が入り乱れ、剣戟と絶叫が交錯した。
しかし英武は冷静に全軍を統制し、城の北と西に大兵を集め、炎に揺さぶられる守備を一気に崩そうとした。
その大軍の圧力の前に、ついに印都の守りは揺らぎ始めたのである。
この二十年あまり、元国の戦は、かつてのように草原の勇士によってではなく、むしろ外から流れ来た者たちに担われていた。
たとえばホールやシルクといった亡命の将は、遠国から流れ着きながらも、その才覚と武勇で戦局を支えた。
また、ロワンのように白髪を交えた老将が、若き頃の戦経験をもってなお最前線に立ち、若き兵を導いた。
だが、このこと自体が、元本来の兵士たちが衰えた証左であった。
かつては一人ひとりが弓馬の道に生き、己の力で帝国を広げたはずの民が、今や歌や劇に心を奪われ、狩りにも出ず、柔らかな絹衣に満足していた。
勇猛な戦士の代わりに、亡命者や老将が帝国を支えざるを得なかったという事実は、繁栄の陰にひそむ衰退の兆しを物語っていたのである。
また、シルクやホールといった将があまりに優秀であったことも、元国の弱体化を加速させた。
彼らが常に辺境の戦場を支え、侵攻してくる異民族を防ぎ続けたため、戦火が帝都や印都に及ぶことはほとんどなかったのである。
その結果、都の人々は長き平穏に慣れ、戦の厳しさを忘れてしまった。兵は鍛錬を怠り、貴族や廷臣らは狩りや武芸ではなく、歌や劇を楽しみ、絹の衣に身を包んで安逸を貪る。
こうして「平和ボケ」した帝都の兵は、かつて草原を馳せた勇敢な戦士の姿を失い、いざ大戦が迫った時には、辺境で鍛え上げられた越軍に頼らざるを得ないほどに衰えていたのである。
最軍の猛攻に、ついに印都はなすすべもなく崩れ落ちた。
城壁は炎に包まれ、門は破られ、街路を埋め尽くす敵兵の鬨(とき)の声が夜空を震わせる。
宮城も炎上し、瓦解の兆しが迫るなか、ビライ帝はわずかな近衛を連れて脱出を試みた。だが城門を出るよりも早く、待ち伏せていた英武の部下の一隊に襲われる。
逃走の途上で矢雨を浴び、馬から投げ出された帝は、最後は槍に貫かれ、その場に果てた。
かくして、元帝国の君主ビライは都と運命を共にし、その壮大な治世もここに幕を下ろすこととなったのである。
最軍の猛攻に、ついに印都はなすすべもなく崩れ落ちた。
城壁は炎に包まれ、門は破られ、街路を埋め尽くす敵兵の鬨(とき)の声が夜空を震わせる。
宮城も炎上し、瓦解の兆しが迫るなか、ビライ帝はわずかな近衛を連れて脱出を試みた。だが城門を出るよりも早く、待ち伏せていた英武の部下の一隊に襲われる。
逃走の途上で矢雨を浴び、馬から投げ出された帝は、最後は槍に貫かれ、その場に果てた。
かくして、元帝国の君主ビライは都と運命を共にし、その壮大な治世もここに幕を下ろすこととなったのである。
さて、シルクである。
彼はいま、峡谷の砦にてサン帝の大軍と睨み合い、日ごとに繰り返される攻防を冷静に指揮していた。敵もまた容易には攻めきれず、戦線は膠着していた。
その折であった。
城内に駆け込んだ伝令が、泥にまみれ、血に染まった衣のままひざまずいた。
「――急報! 印都、炎に包まれ……英武軍の手に落ちました! ビライ帝、御落命にて候!」
砦の空気は凍りついた。兵らは耳を疑い、声を失う。
シルクはただ一人、深く瞑目し、長く息を吐いた。
眼前にはサン帝、背後には都の喪報。
いまや彼は、越のみならず、大陸に残された最後の秩序を背負う存在となったのである。
シルクは驚愕のまま、使者の肩を強く掴んだ。
「なに……! 帝が、討たれたと申すか!」
使者は震える声でうなずく。
「まことにございます。炎に呑まれた印都にて……陛下は脱出を図られましたが、英武の手勢に討たれ……」
言葉の続きを聞くまでもなく、砦の広間はざわめきに包まれた。誰もが帝国の崩壊を悟り、恐怖と絶望の影が兵の顔を覆う。
「どうするべきじゃ……」
「印都に戻り元帝の仇を討つべきじゃ」
「だが、それではサン帝と英武の両軍に挟み撃ちにされるぞ」
「一旦、越に帰国すべきでは……」
兵たちの声が重なり、混乱が広がる中、シルクは静かに肩の力を抜き、眼をぐっと閉じて深く息をついた。
その時、口を開いたのは文官の九張である。
「はい。まずは開城して、あたかも撤退に動くよう装うのです。サン帝の軍は勝利を疑わず油断しております。必ず追撃に兵を割くでしょう。その隙に精鋭をもって峡谷を抜け、英武の陣を急襲するのです」
場の将兵たちはどよめいた。
「開城だと?」「自ら門を開けるとは正気か!」
「サン帝は非常に叡明で智謀に長けております。果たしてそのような虚計に乗るものか……」
九張は首を振り、静かに言葉を返した。
「そこが目的です。叡智であればあるほど、攻城戦で開門するなど常識外と疑うはず。サン帝は“何か企みがある”と考え、すぐには突撃できぬでしょう。兵を止め、様子を窺わせればよいのです」
将の一人が眉をひそめた。
「……だが、もし失敗すればどうなる。敵が一気に攻め入り、我らは全滅ぞ」
九張は鋭く言い放った。
「このままでも全滅です。挟み撃ちを受ければ、もはや逃げ場はありません。ならば危地を打開するほかない。生き残るには、ただ一つ――奇策あるのみ」
重苦しい沈黙が広間を覆った。
誰もが言葉を失い、やがて全ての視線がシルクに集まる。
シルクはしばし黙して考えたのち、ゆっくりと口を開いた。
シルクはしばし黙して考えたのち、ゆっくりと口を開いた。
「……よかろう。門を開け。精鋭三万を我が率い、峡谷を抜けて英武を討つ
シルクは立ち上がり、広間を見渡した。
「聞け! これは生き残るための決戦である。もはや退路はない。すべての命、余とともに賭けよ!」
将兵たちは地を揺るがすような鬨の声を上げた。
その声は、絶望に沈みかけた砦に再び炎を灯したのであった
そして、そのまま一刻――すなわち昼を過ぎるほどの時間が経っても、砦の中からは一兵も姿を現さなかった。
サン帝軍の兵たちはざわめき、やがて焦燥の色を隠せなくなる。
「やはり逃げたのではないか……?」
「罠にしては長すぎる。すでに山を越えたかもしれぬ」
「ならば我らが追わねば!」
将校たちの進言が相次ぐが、サン帝は腕を組んで動かない。
「……いや、待て。越王は智将。無駄に我らを惑わすことはせぬ。何かが動いているはずだ」
その冷静さに従い、大軍はなおも陣を解かず、城門を見据え続けた。
そして、そのまま半刻――。
時間だけが過ぎ、砦の門は開かれたまま沈黙を続けていた。
「やはり捨てて逃げたのでは……?」
「いま追撃すれば、一兵たりとも逃さぬぞ!」
焦燥を隠せぬ将たちの進言が相次ぐ。兵たちも鬨の声を上げる寸前で、しかしサン帝は眉間に深い皺を刻み、なお腕を組んで動かない。
「……越王シルク、ただ者ではない。門を開けたまま放置するなど、あまりに不自然だ」
その時すでに――砦の背後。
岩陰を縫う道を、シルク率いる三万の精鋭が、風のように駆け抜けていた。軍旗を伏せ、馬に口布をかけ、峡谷を一気に突破する。
やがて、丘の上に待機していた斥候が慌てふためいて駆け戻る。
「し、知らせにございます! 越軍、三万! 峡谷を抜け、英武軍の背後へ……!」
「なっ……なに!?」
最軍の陣に激震が走った。
将校たちは口々に叫ぶが、誰ひとり即座に追撃の軍を動かすことができない。砦の門は依然開かれたまま――もし今、兵を割けば、潜んでいた越軍が突如飛び出し、背後を衝くかもしれぬ。
サン帝は歯噛みし、低く吠えた。
「……お、追え! だが無闇に進むな! 本隊を乱すなよ!」
しかし、その逡巡の間にも、シルク軍は谷を抜けきり、印都まで走った。
シルク軍は驚くべき速さで印都に到着した。
本来なら、峡谷の砦から印都まで三日はかかる険路である。だが、彼らはわずか一日で駆け抜けてみせた。
これはただの強行軍ではなかった。
シルクは事前に兵糧を軽装に整え、馬を交代で走らせ、歩兵には道中で現地の村から舟を徴して河を渡らせた。さらに隊伍を小さな縦列に分けて進ませ、狭い峡谷を渋滞なく突破する。兵は疲労困憊しながらも、主将の声に従い一歩も乱れなかった。
「速さこそ命。英武の背に、雷となって落ちるのだ!」
その檄が軍勢の胸を燃やした。
疲れ切った兵でさえ、もはや己が脚で歩いているのではなく、ただ王の気迫に引きずられるようであった。
こうして、誰も想像しえぬ一日という疾駆を成し遂げたのである。
また、この時、傷病者も非常に多かった。攻城戦で受けた矢傷や刀傷、火計の煙で肺を焼かれ咳き込み続ける者、瓦礫に押し潰されて脚を失った者――彼らは城内の広場や仮設の小屋にうずくまり、呻き声を上げていた。
しかし、三十万の大軍とはいえ、戦える兵は日ごとに減り、兵站は逼迫し、医療や看護に回せる余裕もない。仲間を助けることもできず、ただその場で放置される傷病者の姿は、兵たちの士気を著しく削った。
捕虜の監視、傷病者の世話、火災で焼け落ちた城の後始末――すべてが兵士たちの負担となり、三十万の軍勢は膨大な数でありながら、もはや巨体に病が広がった獣のように鈍重で、弱体化していたのである。
「あれは……なんだ?」
城門の外を見張っていた兵の叫びに、疲れ切った英武軍の兵らが顔を上げた。
立ち昇る砂煙――。最初は風に舞う砂嵐と思われたが、やがてその中から無数の旗が翻り、槍の穂先が朝日を反射してきらめくのが見えた。
「敵……軍勢だ! 旗は……越だ!」
瞬間、城内の空気は凍りついた。
捕虜の監視に追われ、傷病者の呻きに囲まれ、ただでさえ消耗しきった兵たちにとって、その報は雷鳴のごとく響いた。
「ば、馬鹿な……ここまで一日で……!?」
「峡谷の砦を抜けたのか? いや、あり得ぬ……!」
三十万を誇る大軍の将兵が、ただ三万の軍勢の姿を見ただけで声を失った。
それほどまでに彼らは疲弊しており、またシルクの名は既に「智勇兼備の名将」として恐れられていた。
やがて砂煙の中から整然とした軍列が姿を現す。
甲冑に朝露を受け、槍盾はまるで一枚の壁のごとく揃い、堂々と進軍するその様は、疲れ果てた英武軍にはまるで天罰のごとき威容に映った。
そのため、シルク軍とは、ついに野戦での対決となった。
城を守る力を失った印都では、もはや籠城は不可能。英武は疲弊した兵を再び鼓舞し、必死に軍を野に展開させた。
「ここで退けば、三十万の軍は瓦解する! 我らが敗れれば、帝国の未来は尽きるのだ!」
その声は枯れ、唇はひび割れていたが、なお将としての威を失わぬ気迫を宿していた。
しかし兵らの足取りは重く、盾を構える手は震え、馬すらも飢えと疲労で痩せ細っていた。
一方で、シルク軍三万は精鋭であった。峡谷を駆け抜けた疲れを見せず、陣形は整然とし、まるで一つの鋼鉄の塊のように進軍してくる。
その旗は翻り、鼓は鳴り響き、兵の顔には勝利を確信する静かな光が宿っていた。
英武は必死に将校たちへ命じ、部隊を左右に広げて包囲の形を作ろうとした。
だが、混乱と疲弊のために命令はうまく伝わらず、列は乱れ、兵同士が押し合い、戦の形を成す前に不安の声が漏れ出す。
「……崩れるな、持ちこたえろ!」
英武は声を張り上げたが、その背後には、シルク軍の鋭い突撃が迫っていた。
越兵は怒涛の勢いで突き進み、英武軍を次々と討ち取った。
退路を失った英武軍は散り散りになり、誰も隊列を保つことができない。
その混乱のただ中、越将軍・子衛が先鋒を率いて突き進んだ。
「英武を逃がすな! 首を挙げよ!」
鋭い声が戦場に轟く。
やがて、乱戦の中にあってもひときわ大きな旗と豪奢な甲冑をまとった武将の姿が目に映った。
英武――三十万を率いた大将、その人である。
「討ち取れ!」
子衛の馬が火のごとく駆け、槍が閃いた。
英武もまた、最後の意地を見せるべく剣を振るい、左右に敵兵を斬り伏せる。血煙を浴び、その眼はなお猛獣のごとき光を宿していた。
「まだだ! 我は負けぬ! 退くな!」
怒声は戦場を震わせたが、もはや誰も応じる兵はいない。
子衛が槍を繰り出すと、英武は剣で受け止め火花が散った。幾度か鋭い打ち合いが交わされ、最後には子衛の槍が深々と英武の胸を貫いた。
「ぐ……!」
血を吐きながら、英武は馬上で天を仰いだ。
その豪胆な瞳は、最期まで決して屈することなく燃え続けていた。
やがてその巨体は馬から崩れ落ち、土煙の中に沈んだ。
「英武、討ち取ったり!」
子衛の声が高らかに響き渡り、越兵の鬨の声が大地を揺るがせた。
三十万を率いた大軍の猛将、英武。
その死とともに戦の帰趨は決し、印都の地は越軍の勝利を告げる赤い旗で覆われていった。
若き頃より辺境の戦に身を投じ、何度も死地を乗り越えた歴戦の将であったが、近年は老齢ゆえに前線から退き、この砦の守備を任されていた。
砦は幾度となくサン帝軍の挑発を受けたが、武鳴は決して門を開かず、兵を乱戦に晒すこともなかった。老将の采配は一見消極的であったが、実際には堅牢無比、堂々たる防衛によって砦を守り通したのである。
しかしシルクは、砦に直接入ることを避けた。
「サン帝は智謀の人。砦に私が戻ったと知られれば、必ず策を弄して包囲を強めてくるだろう」
そう言って彼は一部の兵を率い、あえて砦の背後にそびえる山中に潜んだ。険しい岩場の洞窟や谷を拠点とし、兵を隠し置き、焚き火すら最小限にしてその存在を消す。
シルクは山中に身を潜めると、すぐに信頼する間者を呼び寄せた。
「武鳴将軍に伝えよ。――我は砦には入らず、山中にて軍を隠す。敵が砦を攻めれば持ちこたえよ。もし敵が引けば、我が奇襲をもって追撃する」
間者は深くうなずき、闇に紛れて砦へと走った。
険しい崖を越え、夜霧の谷を抜け、やがて砦の内へ忍び込むと、武鳴のもとに密書を届けた。
老将武鳴は書を開き、深く頷いた。
「なるほど……越王は砦に入らぬか。さすれば砦は囮、山は刃というわけか」
彼の皺深い顔に、老いてなお鋭い光が宿る。
「よかろう。余の役目はただ一つ、この老骨もろとも砦を守り抜くことじゃ」
武鳴はすぐに守備の諸将を集めた。
「敵が来ても、決して軽々しく打って出るな。門を固め、兵を休ませよ。越王が必ず後ろから打つ。砦は餌に過ぎぬのだ」
将兵たちはその言葉に従い、士気を取り戻した。
サン帝は長い沈黙ののち、ついに軍議の場で声を放った。
「砦は老将の守りに過ぎぬ。。ここで砦を打ち破り、越王の退路を断つのだ! 全軍、総攻撃を仕掛けよ!」
その号令一下、百万人に及ぶ大軍が一斉に動き出した。
陣太鼓が轟き、矢旗が翻る。大地は震え、峡谷は轟音に包まれる。
サン帝軍の波濤が砦に押し寄せたその時――。
突如、背後の山々から火の手が上がった。
風に煽られた炎は、兵糧庫と幕舎を一気に呑み込み、黒煙が空を覆った。
「敵襲! 背後から火計!」
「なんだと!? 砦ではなく後方か!」
混乱の叫びがサン帝軍の後方から沸き起こる。
その火煙の中、疾風のごとく姿を現したのは――シルク率いる三万の精鋭であった。
「かかれッ!」
怒号とともに、越兵が炎を背に突撃する。
疲労なく秩序正しいその軍は、百万人の大軍の背を衝き、陣を乱した。
サン帝は驚愕しながらもすぐに采配を振るった。
「動揺するな! 数は我らが圧倒的! 背を衝かれても、押し潰せばよい!」
だが、炎と混乱の中で兵の伝令は滞り、号令は伝わらない。
数は百万あれど、広大な陣が逆に災いし、指揮が行き届かぬ。
シルクは火と煙に紛れ、まるで獣のように駆け抜けた。
その眼にはただ一つ――サン帝の首を狙う光が宿っていた。
百万の軍勢は圧倒的な厚みを誇り、単純に隊列を組むだけでも数キロに及んだ。その前線は勇敢なサン帝の指揮のもと、しっかりと維持されていた。しかし、その厚さゆえ、後方に奇襲が仕掛けられれば、急な対応は容易ではない。兵士の移動には時間がかかり、命令伝達も遅れる。異なる言語や文化を持つ民も混ざるため、統率はなおさら脆弱である。
その隙を突くかのように、シルクは背後の山間に精鋭を潜ませ、奇襲の準備を整えていた。火計や突入隊が襲いかかれば、百万の大軍でさえ混乱に陥るのは時間の問題であった。
山間の奇襲隊が火を放つと、サン帝軍の後方はたちまち騒然となった。乾いた草や糧秣庫が炎に包まれ、煙が立ちこめる。兵たちは突然の火災に狼狽し、混乱が瞬く間に広がった。指揮系統は乱れ、前線への命令も滞る。
「失火だ! 偶然の火災に過ぎぬ!」
「何もせぬ、ただの事故だ!」
疲労と疑心暗鬼に沈む兵たちは、炎の原因を深く考える余裕もなく、指揮官の号令にすぐには応えられなかった。混乱の中で、火災の煙が視界を覆い、味方同士の誤射や接触が相次ぐ。後方での小さな騒動が、あたかも全軍の危機であるかのように伝わり、前線でも動揺が広がった。
炎と煙で混乱する後方を突破したシルク軍と、砦の門を開いた武鳴の兵たちに挟まれ、最軍はたちまち窮地に陥った。前方ではサン帝の旗のもと整然とした隊列を保とうと必死に指揮が執られるが、後方からの火計と奇襲による圧力に兵士たちは動揺を隠せない。
「な、何が起こった……!」
兵たちの叫びが空気を震わせる。炎で視界を奪われ、後方から突如として敵が押し寄せる。数キロに及ぶ隊列の後方は指揮が届かず、混乱は瞬く間に前線へも波及する。
シルクは冷静に状況を見極め、指揮官に号令を送る。
「後方を押さえよ! これこそ敵を挟み撃つ好機だ!」
武鳴もまた砦の門から精鋭を送り出し、後方から圧力をかける。百万の大軍であっても、前後からの挟撃に耐えることは困難であり、最軍の士気は急速に削がれていった。
まさに、前後をシルクと武鳴に挟まれた最軍は、かつてない窮地に立たされていた。
この戦いは苛烈を極めた。
サン帝軍は百万という大軍を擁していたが、後方からの火計と間者の撹乱、さらに正面からの武鳴の突撃、そして側面を突いたシルクの奇襲により、大混乱に陥った。重厚な軍勢は一度乱れれば逆に立て直しが難しく、各所で潰走と孤立が生じた。
結果、サン帝軍は およそ十万の戦死者 を出すという甚大な損害を被った。焼かれた糧秣庫や混乱の最中に倒れた者も多く、その犠牲は計り知れない。
一方、越軍は果敢に戦ったものの、あくまで精鋭三万と砦守備の兵を合わせた規模であり、正面からの激突で 一万近くの犠牲 を払った。だが、犠牲に見合う大戦果を挙げたことは疑いようがない。
戦後、戦場には無数の屍が横たわり、血煙と焦土の匂いが漂った。この一戦は「峡谷の挟撃戦」と呼ばれ、後に語り草となるのである。