帝国志   作:kita1751

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■二章湖王アール■湖勃興

――ヌルハチ没す。国、揺らぐ。

亜琉は深く案じていた。

偉大なる創造主ヌルハチを失えば、国が大きく動揺する――その恐れが胸を離れなかった。

やがて新王タイジより召し出され、言葉を交わす。

その英明さに、亜琉は舌を巻く。

タイジは相人の家庭教師を抱え、書物に親しみ、アデム族の歴史や政道までも貪欲に学んでいた。

(……ただのお坊ちゃんではない)

亜琉は心中でそう呟く。

タイジは言う。

「これからも『相国』として余を助けよ」

亜琉は静かにこれを受けた。

ヌルハチの遺志を守り、タイジは国を安んじ、国力充実に尽くす。

商人を使い貨幣を鋳造、銅銭を発行し、通貨発行権をもって東方との貿易を推し進めた。

銀や絹織物、工芸品を買い入れ、国庫を満たす。

一方で、亜族には辮髪を強制したが、それ以外は寛容に遇した。

――五年の歳月が過ぎる。

銀国は急速に衰えていた。

曹操、病に伏す。その原因、毒と疑い、親族や妻、その一族を次々と処刑。

諫言した家臣すらも斬り、有能な者は去り、おべっか使いばかりが残った。

国の統制は崩れ、1241年、曹操はついに病死。

後を継いだのは長男・曹丕であった。

タイジはこれを好機と見て、兵を挙げる。

亜琉も軍を率いて参戦。彼はサラスの町の首長であり、千の兵を徴発した。

その兵には、貿易で得た良き武具を与えた。

最軍の猛攻に銀軍は耐えられず、退却。

中でも亜琉の戦いぶりは凄まじく、井拓の戦いで古弦将軍を斬り、半里の戦いでは陽毛・陽平兄弟を討ち取った。

1242年には首都を陥とし、翌年には聖地を奪還。こうして銀国は滅びた。

この功により、亜琉は銀西部の地を賜り、「湖国」の王となる。

――十年ぶりに銀の旧都に戻った亜琉。

彼の眼に映ったのは、アール軍に卑屈に媚びる民の姿であった。

中には妻や娘を献上する者までいる。

「国王が死に、国が滅びたというのに、涙もなく、我にすり寄るか。不愉快な……」

亜琉は他人に厳しく、自らにも厳しい。

だがこのとき、銀国民の態度に激怒し、土地を没収。

十五歳以上の男子をすべて処刑し、女は奴隷として売った。財もすべて取り上げた。

重税を課し、治安を悪化させ、侮辱した者は即日死罪。

亜琉は幼き頃より宮廷に育ち、清廉さとは縁遠い環境にあった。

真時代には復讐という目的が、その闇を抑えていた。

しかし今、目的は果たされ、ヌルハチという抑えも失われ、悪意は増長していく。

日々のように、「反逆者」として無実の民が斬られた――。

 

 

 

――聖地守護者・湖王亜琉

聖地を保護していたのは湖王亜琉であった。

彼はタイジから銀の西部の土地を賜り、国王となる。亜琉は聖地保護を条件に、タイジの帝位を承認し、さらに中央神会から正式に「聖地守護」の任を受けた。

1242年1月、タイジは聖地へ行幸し、牛・羊・宝刀をシルルク神に捧げ、シルルク民族による世界統一を誓った。

そして中央神会より「聖四位神我守」の称号を授かる。「神我」とは聖地を含む一帯を指す言葉であり、その守護とは、諸君主の中で最上位の権威を意味する。

これにより、タイジは大陸第一の帝として認められた。

また、亜琉も「守護四位中路守」の位を与えられた。

 

――元軍、聖地を衝く

この絶頂期の最国に、元が攻め込む。

テムジンは五十万の大軍を率い、聖地へ進軍した。

しかし、到着したテムジンの目に映ったのは、草原では見たこともない堅固な城壁であった。高さ十メートル、深い堀と杭に囲まれ、その建築技術はモンゴル高原のものではなかった。

テムジンは焦り、城壁を破ろうと試みたが、警備兵に発見され矢を浴びせられ、やむなく退却し、本国へ引き返した。

 

 

――流備、南相国の志士

この時、シンガ地方に一人の若者がいた。名を流備という。

流備は、かつての相皇第五代・趙勝を祖先に持つ皇族の末裔であった。父は曹操に命を狙われ、幼い流備を他家に養子として託している。

成長するにつれ、流備のもとには多くの若者や豪族が集まり、皆、相皇朝の復活を願った。養子先で流備は学問に励み、武芸を身につけ、いつの日か南相国を復活させることを夢見るようになる。

流備はシルルク教徒であった。シンガ地方はもともとシルルク神とアデム神の双方を祀る地であり、ソカメンの援助によりシルルク僧が各地へ派遣されていた。この頃の流備は、あらゆる学問や情報に渇望し、派遣僧たちから新たな思想を受け取ると大いに感銘を受け、積極的に吸収していった。そして、次第に聖地への憧れを強めていった。

やがて流備は、南相国の英雄・雷蘇将軍に見出され、その配下として仕えることとなった。将軍からは深く信頼され、厚遇を受ける日々が続いた。

しかし、曹操の侵略が始まると、雷蘇将軍は激戦の末に討ち死にする。流備は将軍の仇を討つため従軍し、曹操軍の侵攻を撃退した。戦の後、流備は故郷へ戻り、雷家の娘と結婚して一児をもうけた。

だが、流備の奮戦も虚しく、南相はついに滅びた。故国を失った流備は、流浪の将軍として大陸を彷徨うこととなる。

その後、流備は着実に実力を増し、植公として名を知られるようになっていった。

1242年、アールは銀都において大虐殺を行った。この残虐な行為に激怒した流備は、同盟国「号」と手を結び、赤壁の戦いにてアール軍を撃退することに成功した。

 

 

――号国の内乱

だがその直後、号国では国王孫権が病没し、遺詔で子の孫周を後継とした。だが弟の孫亮がこれに反対し、兄弟間の後継争いが勃発する。

国は二つに割れ、内乱となった。豪族や海賊もこれに乗じ、国土は荒廃、盗賊と難民が溢れた。各地で反乱や略奪が頻発し、民は苦しみにあえいだ。

 

――最国、南征

この機を好機と見た最のタイジは、十万の大軍を率いて号国へ侵攻した。

号の首都は要塞化されていたため、兵糧攻めが選ばれた。

だが最軍の包囲にもかかわらず、民は元軍に食糧を差し出した。

すでに号王への民心は失われ、最軍についた方が得策と考えられていたのである。

こうして元軍は民の協力を得て兵糧を確保し、ついに一ヶ月後、号を陥落させた。

これにより、最国の領土は大きく拡大した。

 

 

 

 

 

――最国、ドルゴンの治世

その頃、最国では帝タイジが病没し、わずか六歳のフリンが第三代皇帝に即位した。摂政には叔父のドルゴンが就き、国政を掌握する。

ドルゴンは優れた政治手腕を発揮し、征服地の民族を厚遇する一方で、辮髪や服制など「最」の文化を強制した。また、農政では小作人の自立支援、農具の改良、二毛作の普及を推進し、経済面でも駅伝制を強化して商業を発展させた。こうして最国の国力は急速に高まった。

しかし一方で、ドルゴンは政敵を容赦なく粛清した。大臣ヨエン、叔父タージとラウエン、県令シーエンらを次々と葬り去った。中でも、真族ではないアデム族のアール湖王は、最も目障りな存在だった。

 

――アーミの悲劇と内乱の勃発

ドルゴンは奸計を巡らせ、アール湖王の一人娘アーミを皇帝フリンの側室とするよう画策した。アール湖王は、正室ではなく側室という条件に難色を示したが、ドルゴンの圧力に屈し、1247年にアーミは入内した。

その後、ドルゴンは部下に命じ、アーミへ極上の桃を献上させた。アーミはその美味を喜び、自然と夫であるフリン帝にも差し出した。当時の社会理念では、妻が夫より良い物を先に口にすることはあり得なかった。

フリンは桃を口にしようとしたが、念のため宦官に毒見をさせた。すると、桃には密かに仕込まれた毒があり、毒見役は即死した。

これを口実に、ドルゴンは「帝暗殺を企てた」としてアーミを処刑し、アール湖王討伐の詔を発した。

娘を殺されたアール湖王は激怒し、一族とともに挙兵する。こうして最国は内乱の渦へと突入した。

 

 

 

 

 

――アール王の乱と「植」の建国

アール湖王の乱が勃発し、最軍の支配力は大きく揺らいだ。

この機を捉え、流備は挙兵し、最国領であるシンガ地方西部へ進軍した。同地の守備兵は少なく、流備軍は瞬く間に制圧した。

流備は成都を首都と定め、国号を「植」と称した。

その間、「植」は国力拡大に努め、河川の整備、特産物の奨励、港湾施設の充実などを進めた。特に海運貿易においては、滅亡した「号」国から流れた海賊を雇い入れ、海外との交易を活発化させた。

1249年、十分な国力を蓄えた流備は北征を開始し、芽・魯など周辺諸国を次々と制圧した。さらに湖軍を撃破し、ついにシルルク教の聖地へ到達。ここで「守護者の儀」を執り行った。

守護者の儀とは、かつて曹操が始めたもので、牛・羊と宝剣をシルルク神に奉じる神聖な儀式である。

この結果、聖地は「植」の支配下となり、中央神会は流備に「聖四位」と「王位」を授けた。これにより流備は十年間、聖地を保護する権を得、以後、大陸において奇跡とも言える十年の平和が訪れた。

この頃、シンガ地方ではシルルク教が急速に広まりつつあった。

シルルク教では、人が死ぬと魂はシルルクのもとへ赴くとされ、死後の世界が信じられていた。また、死者の霊魂を慰めるための霊祭が各地で行われていた。

大陸には二大宗派があり、一つはシルルクを主神とする派、もう一つはアデムを主神とする派であった。両派の争いは激しく、各地で紛争が絶えなかったが、戦乱の時代にあってシルルク教の布教は大きな意味を持っていた。

なぜなら、シルルク教はアデム教の亜流であり、根本的な教義は共通していたからである。そのため両派の混血も増え、加えてシルルク教は寛容で異教徒も受け入れたことから、大陸全土へと広がっていった。

勝利の後、流備はシルルク教徒の聖地奪還を呼びかけ、諸侯に協力を要請した。各地を巡って兵を募り、湖討伐の軍を起こす。また、シルルク教の伝道師を各地に派遣し、信徒の結束を固めた。

流備はこのシルルク教を受容し、さらに積極的に広めた。教義の普及だけでなく、教育にも力を注ぎ、シルルク教の学校を建てて学問を教えた。やがて自らも司祭の資格を得ると、息子にも教えを説き、信仰を受け継がせた。

この功績により、流備はシルルク教の守護者として、ソカメンと並び称される存在となった。今日に至るまで、彼はシルルク教徒から聖人の一人として崇められている。

 

 

 

 

――フリン帝崩御とサン帝の即位

やがて時は流れ、フリン帝は熱病に倒れ、二十七歳で崩御した。後継者はわずか七歳の皇子サンであった。群臣は皆、その幼さを憂慮したが、やがて彼こそ大陸史上最大の名君、太陽康熙帝となることを知る者はなかった。

即位後、サン帝はまず幼帝を軽んじてきた摂政ドルゴンらを一掃せんと図った。相撲に熱中するふりをして油断させ、ついに毒殺に成功する。さらに親族のタージ、ラウエンらを隠居させ、権力基盤を固めた。

しかし、ドルゴンの子ホアンが反乱を起こし、続いてアデム族の向然、呉広も挙兵した。サン帝はこれを意に介さず、軍を派遣しつつ、三つの乱が互いに連携しないよう巧みに外交を操った。

その結果、1250年、ホアンは討たれ、反乱はすべて鎮圧された。

 

――文化・内政の隆盛

反乱平定の後、サン帝は「四史文庫」の編纂に着手し、文化事業に尽力した。この書は後世まで伝わり、大陸史に大きな影響を与える名典となった。

内政では治水工事、道路整備を推進し、先代フリン・タイジが行った農業政策を継承したことで人口は増加。宗教政策においてはシルルク教を弾圧せず、むしろ保護を行い、信者は大きく増加した。

 

――アール王との和解

1253年、サン帝は最大の懸案であった湖王アールとの和解に乗り出す。

まず、奪われた領地を返還し、官職と官位を復旧。さらに「湖」による聖地奪還を行うと約束した。これによりアールは和睦に応じた。

同年六月、アールは宮廷に参じ、再びサン帝に臣下の礼を取った。

サン帝は「ドルゴン公によって殺されたアーミ妃のこと、深く謝罪する。アーミ妃を我が母として立派な陵墓を築き、そこに葬ろう」と宣言した。

この誠意にアールは深く感謝し、孫娘をサン帝の側室として献上した。

ソカメン亡き後の大陸は、群雄割拠と諸国の独立宣言によって激しく揺れ動いた。しかし、その中で聖地は不思議な安定を保ち、三人の指導者の手によって守られた。この時代は後に「三守時代」と呼ばれることになる。

まず曹操、次にアール、流備。この三者の手によって、混乱期の大陸にあっても聖地は奇跡的に守られた。曹操の合理的統治、アールの軍事的抑制、流備の宗教的保護――三者それぞれの役割が重なり合うことで、戦火が聖地を完全に荒廃させることはなかったのである。

後世の歴史家は、この時代を「三守時代」と名付け、混乱期の中で聖地が守られたことを特筆している。混乱と戦乱の波にあっても、三人の守護によって信仰と文化の灯火は消えることなく、大陸の歴史に一筋の安定をもたらした時代であった。

 

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