帝国志   作:kita1751

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■三章西発王ホール■祖国に裏切られる

日が傾き、夕暮れが森と村を柔らかく染める頃、ホールは一旦、廃墟となった村へと戻った。

炭となった家屋の隙間から冷たい風が吹き抜け、灰の匂いが鼻を突く。だが、ホールは足を止めず、狩りの成果を手に森を抜け、かろうじて残った広場へと歩を進めた。

そこには幼馴染のウィルが待っていた。二人の目に互いの無事を確かめる短い会話が交わされると、沈黙の中、簡素な夕飯の準備に取り掛かる。焼いた鹿肉を火にかけ、森で採った木の実や草を添える。炊煙はわずかだが、空腹を癒すには十分だった。

ホールは黙々と食事を口に運ぶ。ウィルも静かに並ぶ。言葉は少なく、だがその沈黙には、互いの信頼と覚悟が詰まっていた。

 

焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、二人の顔を赤く照らしていた。

沈黙の後、ホールが低く呟く。

「……恐らく、もうサエズ川を越えている。あの川の流れは速い。子供たちは、もう湖国の地に着いているだろう。」

その言葉に、ウィルは唇を噛んだ。焦りを抑えきれず、拳を膝の上で握りしめる。だがすぐに顔を上げ、炎を映す瞳でホールを見据えた。

「どうだろう? 明日、植の武将――分卓様に相談してはどうだ? あの方なら軍の動きを知っているはずだし、我らだけで追うより、何か策があるかもしれぬ。」

ホールはしばし黙し、焼け跡に吹く風の音を聞いていた。

やがて、冷静な眼差しをウィルに向ける。

「……分卓様か。確かに、あの御仁なら情報を持っているだろう。だが、軍も疲弊している。大軍相手に、我らの願いがどこまで通るか……」

炎が揺れ、二人の影は大地に長く伸びた。

復讐と救出の決意を胸に、彼らはその夜を静かに越えるのであった。

 

こうしてホールとウィルは焼け跡を後にした。湖王の侵攻を受け、各地から軍勢が集結しているという。二人が向かったのは最も近い軍の陣所であった。

そこには、分卓(ぶんたく)という将軍が陣を敷いていた。植王室に連なる名門の出であり、将軍の座に上り詰めた男である。湖王軍の進撃を迎え撃つため、彼は今まさに兵を徴し、軍を整えていた。

広い陣幕の前に立つや、ホールとウィルは深々と頭を下げた。

「お願いでございます。私の弟が湖兵に拐われました。どうか……どうか取り返してくださいませ!」

声は切実であった。だが、返ってきたのは冷酷な叱責である。

「無礼者!」

陣幕の内から響いた声は、鋭く空気を裂いた。

分卓将軍は豪奢な甲冑を身にまとい、冷ややかな目で二人を睨み据えていた。

「我ら高官が、貴様らの私事に構っていられるものか! 湖王の侵攻は国を揺るがす一大事。子供の一人や二人など、戦の流れの前では塵芥にすぎぬ!」

ウィルは悔しさに顔を歪め、一歩踏み出した。

「しかし! 子供たちは奴らに攫われ、近衛兵として使われるのです! 見過ごせば、敵の力となり……」

「黙れ!」

分卓は手を振り払い、ウィルの言葉を遮った。

「民草は王国のために生き、王国のために死ぬ。それが定めだ。泣き喚く前に、まず兵として働け! それが貴様らの務めであろう!」

陣の空気は重く凍りつき、兵たちも冷たい視線で二人を見やった。

 

 

二人は分卓の陣から無情にも追い出された。

それも当然のことだった。なぜなら、この頃の植王朝においては、すでに湖王に奪われた領土の放棄が密かに決定されていたからである。

湖王の宰相オルトは巧みに金銀をばらまき、植の将軍たちを骨抜きにしていた。分卓もそのひとりであり、戦う気を失った将軍たちは、最初から消極的に構えていたのである。

しかし、これは単なる買収の問題にとどまらなかった。そもそも植という国自体が、かつての大国・相から分かれて建った国であり、その正統性はきわめて脆弱であった。王室は自らを正統な継承者と称してはいたが、根拠は乏しく、実際には蛮族の系譜に連なるもので、その風俗も粗野であった。

流れてきたのは、旧相王朝に失望して亡命した貴族や、機会をうかがう私利私欲の徒であった。彼らは忠義ではなく利益のために集い、植王室はそれを承知のうえで気前よく分け前を与え、家臣団を繋ぎ止めていた。分卓のように才覚に乏しくとも、、こうして将軍にまで成り上がることができたのである。

 

 

さらに今回の戦は「防衛戦」であった。

防衛によって得られるものはない。新たな領地はなく、戦後の分け前も期待できぬ。しかも奪われているのは将軍たち自身の領土ではなく、平民の土地。これでは兵の士気が上がるはずもなかった。

加えて、もうひとつ戦意を削ぐ事情があった。

それは「聖地の維持」という大義である。たしかに中央神会の本部が置かれていたが、その価値は当時まだ十分に認識されてはいなかった。なぜなら、森羅万象の創造主を唯一の神と仰ぐアデム教には、特定の土地を崇拝する風習がそもそも存在しなかったからである。

ゆえに領土を奪われても、それを「取り返す意義」を真に感じていたのはごく一部の信徒にすぎなかった。将軍たちの胸中に去来していたのは、大義ではなく、ただ損得勘定のみであった。

 

「……そなたらの言葉、虚言とは思えぬ。しかし、同時に偽兵でないと断言もできぬ。」

平連は目を細め、しばし考え込むと重々しく言った。

「ならばこうしよう。近く行われる植攻めにおいて、先鋒に立ち、功を挙げよ。そうすれば帰順を認めてやる。」

ホールは一瞬もためらわず、静かに答えた。

「お断りいたします。」

「……何だと?」平連の眉間に怒気が寄る。

「帰順を望んで来たのではないのか!」

しかしホールは真っ直ぐに平連を見返し、揺るぎない声で言った。

「私は植に生まれ、植に育ちました。植にて儀礼を学び、学問を授かり、その治世の下に生活してきました。植王家の庇護のもとに日々を送り、その恩恵を受けてきたのです。その恩を裏切ることは、私にはできません。」

「……恩だと?」平連は訝しむように声を低めた。

「そなたはただの猟師にすぎぬ。官職に就いたわけでもなく、特別な地位を与えられたわけでもあるまい。それほどの恩を感じる道理があるのか?」

ホールは静かに首を振った。

「官職に就かずとも、恩はありました。徴兵で戦地に駆り出されることもなく、労役で重労働を強いられることもありませんでした。課された税は軽く、兄弟ともに自由に暮らすことができた。それは私にとって何よりも深い恩であり、決して裏切ることはできません。」

その言葉に、平連はしばし沈黙した。頑強な武人であったが、ホールのまっすぐな眼差しに押され、言葉を失ったのである。

やがて、重く息を吐き、平連は二人を伴って歩き出した。

「……ならば、司令官に委ねよう。ロワン将軍のお裁きを仰ぐがよい。」

こうしてホールとウィルは、元の司令官ロワン将軍のもとへと導かれていった。

 

「わしはロワンと申す。」

低く朗々とした声が広間に響いた。目の前に現れたのは、堂々たる体躯を持つ老人であった。白髪混じりの長い髭を胸に垂らし、その眼光は年を重ねてもなお鋭く、若き将兵を圧する威を湛えていた。

「……相の言葉を解するのですか?」ホールが問いかけると、老人はゆるりと口元をほころばせた。

「わしは物知りでな。各地を転戦し、多くを学んだ。異国の言葉くらい、たしなみよ。」

そして、椅子に腰を下ろしながらロワンは続けた。

「さて――お主の考えを聞かせてみよ。」

ホールは躊躇わず、先ほど平連の前で語った忠義の理を述べた。己が受けた恩を忘れず、たとえ異国にあっても裏切りはせぬという信念を、静かに、しかし揺るぎなく語ったのである。

ロワンは長く目を閉じていたが、やがて重々しく頷いた。

「ふむ……直接の恩ではなくとも、その恩を恩と認め、背かぬと申すか。面白い男だ。その忠義、気に入ったぞ。」

そして大声で笑い、杖を床に突き立てた。

「よかろう! しばらく、わしの侍従兵となれ。」

その場にいた将兵の一人が、思わず声を荒げた。

「将軍! 植人をお側に置くなど、あまりに危険です!」

だがロワンはたしなめるように手を振った。

「危険か……ふん。ホールは植人ではあるが、植を害してはおらぬ。恩を語る者を、何ゆえに殺さねばならんのだ。危ういのは、己が狭量ゆえに忠義の士を失うことよ。」

ホールは深く頭を垂れ、やがて声を絞り出した。

「将軍……私は弟を取り戻したいのです。侍従兵となっている暇など、本当はございません。」

「落ち着け。」

ロワンは片手を軽く上げ、ホールの言葉を制した。その声音は低く太く、広間の空気を静める力を持っていた。

「湖が子供を集めているのは、一朝一夕で殺すためではない。必ずや何らかの用途がある。ならば、すぐに命を失うことはあるまい。」

 

ロワンの言う通り、湖国が子供を集めるのには、冷酷だが明白な理由があった。

長き戦乱と重税、さらに疫病によって湖国の人口は減少し続けていた。成人の労働力や兵力が足りず、国の基盤そのものが揺らいでいたのだ。

彼らはそれを補うために、周辺の村々から子供を奪い去り、強制的に育て上げる。

幼き者は抵抗も少なく、湖の掟を叩き込めば容易に従順な兵士や労働者に変えられる。大人を支配するよりもはるかに効率がよく、将来の兵力を確保できるという算段である。

つまり、子供の略奪は湖国にとって生き残りをかけた政策であった。

だがその残酷な「合理」は、村人にとっては家族を引き裂く暴虐でしかなく、ホールの胸中に煮え立つ怒りをいや増しに募らせるものだった。

「それに――」ロワンは低い声で言葉を継いだ。

「わしのもとにおれば、湖国の情報も入りやすい。子供を集めている理由や、その行き先も、いずれ掴めよう。独りで動けば敵地でただの獲物になるだけだが、軍の傘下にあれば調べられる筋も広がる。」

彼の言葉は力強くも理にかなっていた。

湖国がなぜ子供を集めるのか、その背後には国を揺るがす事情がある。無闇に斬り込むより、まずは敵を知ることが肝要――そう説く老将の眼差しは、戦場を幾度も渡り歩いた者の重みを帯びていた。

ホールは拳を握りしめた。焦りと怒りが渦巻く胸の奥で、理性が冷たい声をあげる。弟を取り戻すためにも、今は堪え、力と情報を蓄えるべきだ――と。

 

ホールは静かに目を伏せ、深く息を吐いた。

「……将軍のもとで、しばし力を尽くさせていただきます。」

その声音は低く落ち着いていたが、内には鋼のような決意が宿っていた。

ロワンは満足げに頷き、笑みを浮かべた。

「よい心掛けだ。焦るな、若き狩人よ。湖を討つには、まず森の奥深くに踏み込むよりも、その獣の足跡を辿ることが肝要じゃ。」

ロワンは単なる武勇に秀でた武将ではなかった。その知識は広く深かった。草原の戦術や騎馬戦の技法に長けるのはもちろん、敵国の風俗、宗教、言語にも通じており、異国の習慣や情報を瞬時に理解し、作戦に活かすことができた。

戦場のみならず、補給路の確保や地形利用、敵の心理を読む術、部下の士気管理――ありとあらゆる知恵を有していた。テムジンの下で磨かれたその洞察力は、戦の勝敗を決する微細な要素までも見逃さず、老いてなお将兵を圧倒する理由となっていた。

そしてロワンは、戦場での武勲のみならず、王から治世を任されることもあった。戦略の立案や国の行政に関する助言を行い、領地の統治や民政の安定、外交の駆け引きに至るまで、幅広く信頼されていたのである。

その豊富な経験と知識は、単なる老将としての枠を超え、国の行く末を左右する重責を担うものだった。ホールにとっても、戦場だけでなく国を動かす知恵を学ぶ、稀有な師となったのである。

ホールはロワンのもとで、数え切れぬほどのことを学んだ。

とりわけ軍略においては、敵軍の布陣を読み、戦場の地形を活かす術を徹底的に叩き込まれた。ロワンはただ戦術を授けるのではなく、「なぜその策が有効か」を一つひとつ理路整然と説き、ホールの頭に染み込ませていった。

また、各地の情報を収集する方法も教えられた。兵士や農民からさりげなく噂を引き出す術、交易商や旅人の話を体系的に整理する術――それは狩人が獲物の足跡を読み解くように、細かな断片から全体像を見抜く技であった。

さらに騎馬民族の中に身を置くことで、ホールは彼ら独自の騎乗能力を身につけた。馬を単なる移動の足ではなく、戦場で己の四肢の延長として操る技術。疾駆しながら動く訓練、馬上での槍術、さらには隊列の中で互いに呼吸を合わせ、集団として動く術。これらは農耕民族の戦士には到底習得できぬ、遊牧の民ならではの戦闘様式であった。

ホールはそれらを飲み込み、磨き上げ、自らの狩人としての感覚と融合させていった。やがて彼は、静かにして鋭く、機を逃さぬ戦士へと鍛えられていくのであった。

一方で、ホールには明らかな弱点もあった。

それは弓術である。

もとより狩人として獣を仕留めてきた彼であったが、それは近距離での槍や罠を用いた猟が主であり、遠距離から矢を放つ技は不得手であった。騎馬民族の若者たちが馬上から矢を雨のごとく放ち、走る兎すら射抜いてみせるのに対し、ホールの矢はしばしば標的を外し、地に突き刺さった。

しかし、そのときロワンは豪快に笑い飛ばした。

「うむ、人には得手、不得手があるものだ。お主は弓を苦手としても、剣や槍の扱いは見事であり、判断力と胆力においては誰にも劣らぬ。すべてを極める必要はない。己の強みを伸ばせばよいのだ。」

その言葉にホールは救われた。彼は己を恥じるのではなく、むしろ「自分にしかできぬこと」を磨くことに努めた。弓術を補うために、敵に一気に間合いを詰める騎乗技を習得し、また地形を利用して接近戦に持ち込む戦法を得意とするようになった。

こうしてホールは、「狩人の眼で敵を追い詰め、近距離で仕留める」という独自の戦い方を築き上げていったのである。

 

湖国の植遠征は、しばしの間休止された。

表向きは補給線の整理と軍の再編成のためとされたが、実際には兵糧不足と疫病の流行が軍を苦しめていた。無理に進軍すれば兵が先に倒れる――湖王はそう判断せざるを得なかったのである。

しかし、戦の火が消えたわけではない。湖国は密かに偵察を続け、植の動きを探っていた。

夜陰に紛れて村々を襲い、情報を奪う。山野に潜む間者は、軍の進発を待ち構えていた。

元の陣営もまた、湖の遠征休止を好機と見て、戦の備えを進めていた。

だが、ただ湖国を相手取るだけでは済まないのが当時の情勢である。北東には前湾国が、北には発国があり、いずれも虎視眈々と元の動きをうかがっていた。

前湾国は古来より北海の交易を握り、富を蓄えていた。彼らは湖国とも密かに通じており、元が湖との戦に深入りすれば、その隙を突こうと目論んでいたのである。

一方、発国は中原との関わりが深く、儒を奉じて己こそ正統と称していた。

彼らにとって、元の拡大は文明を脅かす蛮族の伸長に他ならなかった。湖国と直接結ぶことはなかったが、元の動きを抑えるためなら共闘も辞さぬ姿勢を見せていた。

そのため、ロワンをはじめとする元の将軍たちは、単に湖との戦に備えるのではなく、二国の牽制策を練らねばならなかった。軍を一方に集中させれば、もう一方から背を衝かれる危険がある――それが元の悩みであった。

 

一年が過ぎ、1286年湖王アールは再び軍を動かした。

補給線を立て直し、兵を練り直した湖国は、前回の敗退を取り戻さんとするかのように大軍を押し出してきたのである。これに応じ、元もまた出兵した。各地の諸部族が呼び集められ、草原に大軍が集結した。

 

 

 

「先鋒にあれ――」

 

その声とともに、ホールはしばしば突撃の先陣を任されるようになった。若き兵たちは尊敬と憧れを込め、その背を追った。

その日、ホールは三十騎ほどの精鋭を率いて、密やかに森林へと進んでいた。

狭い獣道を縫い、落ち葉を踏みしめる音さえ抑え込む。森を抜ければ、そこは湖軍の側背――まさに敵の心臓部である。

「今こそ機だ。」

ホールは馬上で静かに槍を構えた。長大な槍を扱う姿は、かつて狩りに弓を引いた若者ではなく、もはや百戦を重ねた戦士のそれだった。

夜明けの靄が森を漂うなか、三十騎が一斉に馬腹を蹴った。

突如として林の奥から飛び出す騎兵たち。湖軍の背後を衝く奇襲に、陣中は瞬く間に混乱した。叫声が上がり、兵は散り、指揮は乱れる。

その混乱のただ中――

黒馬にまたがる巨躯がただ一騎、悠然と進み出た。

「余は湖国の将軍・草良なり!」

雷鳴のごとき声が戦場を震わせる。長槍を天に掲げ、まっすぐホールを指し示した。

「我が命を奪わんとする者、正面よりかかってこい!」

矢も槍も交えず、ただ真っ向から挑めというその気迫。

精鋭三十騎の勢いさえ、巨岩の前に砕け散る波のように思わせた。

ホールは深く息を吸い、愛馬の首筋を撫でた。

――狩人の理。獲物を仕留めるには、まず習性を読む。正面からの挑発もまた、罠であろう。しかし、ここで退けば兵の心は折れる。

彼は栗毛の馬腹を蹴り、前へ出た。

「湖の将よ……その挑戦、受けよう!」

こうして、狩人将ホールと湖国の猛将・草良の一騎打ちが、幾万の兵が見守る中で始まった。

 

 

栗毛の馬が草原を疾走する。ホールは馬上で体を低くし、槍を握る手に力を込める。草良は槍を高く掲げ、振るたびに鋭い風切り音を響かせる。両者の馬蹄が大地を蹴り、土煙が立ち上る。

最初の突進で、草良の槍が胸元をかすめる。ホールは馬をわずかに傾け、無駄のない動きで受け流す。

互いの突進と受け流しが続く中、ホールは、槍を手に取った。狩人が矢を放つ前に獲物を突き伏せるがごとく、一瞬の隙を狙って草良へと繰り出す。槍先が一直線に閃き、草良の胸板を狙う。

その時、暗雲が空を覆い、ざあっと大粒の雨が草原を打った。視界を奪う雨滴が兜を叩き、馬の鬣を濡らす。兵たちがざわめく中、二騎は雨の帳に包まれた。

草良は豪雨をものともせず槍を振るい、ホールは水煙を裂くように突きを繰り出す。雨が刃を鈍らせるかのように動きは重くなるが、獲物を決して見失わない。

 

ホールは馬を低く滑らせ、雨を切って一気に踏み込んだ。

「はっ!」

槍先が草良の鎧の下腹を突き破り、深々とめり込む。雨に混じって鮮血が飛び散り、兵たちのどよめきが雷鳴にかき消された。

「ぐ……ぬう!」

草良は呻きながらも槍を振るい、最後の力でホールを討たんとする。だが力はもはや尽きかけており、穂先は虚しく空を裂くだけだった。

巨躯の猛将は、馬上に数瞬踏みとどまったのち、ついに泥濘の草原へと崩れ落ちる。雨がその体を容赦なく叩き、血を薄めて流していった。

ホールは槍を引き抜き、泥に濡れた草良を見下ろす。

 

 

その姿に、元軍の兵は歓声を上げ、湖軍の兵は悲鳴をあげて退いた。

雨の草原に刻まれた一騎打ち――それは、若き将ホールの名を一層高める戦となったのである。

叫声が戦場に響くが、もはや遅い。湖軍の先鋒は指揮を失い、次々に崩れていった。

やがて、元軍本隊が押し寄せると、混乱は決定的となった。湖軍は戦列を立て直すこともできず、ついに総退却を余儀なくされた。

勝鬨が上がる中、ホールは槍を掲げ、まだ荒い息を整えていた。鎧には敵兵の血と泥が飛び散り、栗毛の馬も白い息を吐いている。

そこへ将・ロワンが駆け寄り、朗々と声を放った。

「見事、ホール! おぬしの槍は天下無双!槍一本なり」その言葉に兵たちの歓声が湧き上がる。

ホールの名は、この日の勝利とともに大陸中へと広まり、若き武将として一躍知られることとなった。

 

この戦いは白十山の戦いと呼ばれた。

敗れた湖軍は、誇るべき先鋒を壊滅させられた痛手に耐えきれず、兵を引いて本国へ撤退していった。

戦の趨勢は、もはや明らかであった。

 

 

しかし、その名声は遠く離れた植王の耳にも届いていた。

初代植王・流備の治世とは違い、二代目の流禅は気性が荒く、冷酷な統治者であった。帰順者や植に忠義を誓った者でも、些細な裏切りの疑いがあれば容赦なく処刑することで知られている。

流禅はすぐさま命令を下した。ホールの親族を探し出し、一族郎党すべてを皆殺しにする――その冷徹な報復である。小さな村々に火が放たれ、家々は灰と化し、残された者はほとんどいなかった。

その報告を受けたホールの胸には、複雑な思いが渦巻いた。

「自分は植を攻めたわけではない……しかし、元の軍に加わり、戦を手助けしたことは事実だ……」

血塗られた報せを前に、戦場での名誉も虚しく、胸に重くのしかかる。

かつての故郷と、今戦うべき軍との間に引き裂かれ、ホールは初めて、自分の立場がいかに危ういものかを痛感した。

元軍での活躍がいかに賞賛されようとも、植王の目には、彼は売国奴――裏切り者として映るのだ。

複雑な感情の中、ホールは馬上で拳を握り、風にかすかな息を吐いた。

戦いの名誉と家族の喪失――その狭間で、彼の心は静かに、しかし深く揺れていた。

 

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