帝国志   作:kita1751

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■三章西発王ホール■西発義王

1296年)。

最帝サンはついに西辺征伐を決断した。

みずからの直臣たる三将、すなわち――

黃竜将軍(こうりゅうしょうぐん)

 

 

草竜将軍(そうりゅうしょうぐん)

 

 

トーソン将軍

 

 

この三名を総大将として任じ、十万の大軍を編成させたのである。「三将の戦い」と後世呼ばれる決戦が幕を開けたのである。

 

大軍は旌旗を連ね、まるで流砂のごとく西へと進軍した。黄河を渡り、嶺を越え、黒煙を上げながら元国西辺に迫る。民はこれを「十万の黄竜雲」と呼び、逃げ惑ったと伝わる。

これに対抗し得るは、ただ西辺に駐屯するホール・カンと平馬将軍の五万のみであった。

兵力は半ばに満たず。されど、彼らは精鋭にして百戦練磨。ホールは若き英雄、平馬は智勇兼備の老将。その結束は、十万の軍に劣るものではなかった。

軍議において、平馬はまず言った。

「三将は名将と謳われ、兵も勇猛。正面よりこれを防がんとすれば、我らはたちまち呑まれよう。地形を活かし、戦場を狭め、少数の利をもって当たるほかはない」

ホールは槍を握りしめ、深く頷いた。

「我ら五万は、義の軍なり。天道は必ず義を助く。退くことなく、正しく迎え撃たん」

 

 軍議の空気は重苦しく、諸将は十万の最軍を前にして言葉を失っていた。

その時、ホールは静かに立ち上がり、卓上の地図を指で押さえた。

「諸将、恐るるに足らず。十万といえども、一枚岩にはあらず。

その腹を裂き、足を挫けば、万の兵も砂の城と同じこと」

将たちがざわめく中、ホールは落ち着いた口調で続けた。

「平馬殿が城を固く守り、敵を正面に釘付けとされよ。

その間に我が別働隊は山道を抜け、敵の糧道を断つ。

三日もすれば兵糧は尽き、十万とて戦わずして瓦解しよう」

老将の一人が声を荒げた。

「されど、敵は兵多く道も堅し! 別働隊は討ち取られ、無に帰すやもしれぬぞ!」

ホールは微笑み、槍の石突を地に軽く打った。

「無謀と見るか、好機と見るかは心次第。

だが、我は知っている――十万の軍とて、腹を空かせば戦えぬ。

そしてその刃を敵の背に突き立てるのは、このホール・カンの役目だ」

その言葉に軍議の空気は一変し、将たちは顔を見合わせた。

やがて平馬が静かにうなずき、口を開いた。

「よかろう。我は城を枕に死す覚悟で敵を受け止める。

ホールよ、汝は必ずや敵の腹を断ち切れ。我らが勝敗は、その槍先に懸かっておる」

二人の若き将の策と決意に、軍議の場は次第に熱を帯びていった。

 

軍議が散じた後、別室で地図を前にしていたホールのもとに、若き副将ウィルが進み出た。

彼は眉をひそめ、声をひそめて問う。

「しかし殿……敵の兵糧は厳重に護られております。

糧秣庫は大軍の中央に置かれ、周囲は柵と歩哨で固められているとか。

いかに殿の槍であろうとも、そこを突くは容易ならざること……」

ホールは口元にわずかに笑みを浮かべ、地図の一点を指で叩いた。

 ホールは地図の上に指を滑らせ、曲がりくねった山道の一点で止めた。

「ここだ。両岸は断崖、道幅はわずかに二人並ぶほど。荷駄は必ず一列となり、進むしかない」

 その瞳は獲物を狙う鷹のごとく鋭く光った。

「我が兵を潜ませ、上から岩を落とす。先と後ろを断てば、荷駄は孤立する。――その時、我が精鋭が奇襲を仕掛けるのだ」

 部下たちがざわめいた。荷駄は軍の命脈。そこを断たれれば、大軍とて飢えに屈する。

 ホールはさらに地図の端を指し示した。

「加えて、抜け道がある。古き獣道ゆえ大軍は通れぬが、五百の兵ならば難なく越えられる。そこから回り込み、敵の退路を断つ」

 静まり返った軍議の間で、ホールの声だけが凛と響いた。

「この一戦にて敵を飢えさせ、戦わずして勝つ。

我らは数に劣るが、地を知り、智をもって勝つのだ。――勝敗は、すでにここで決している!」

 平馬は深くうなずき、言葉を添えた。

「ホールの策、実に妙。まことに『五万が十万に勝つ』とはこういうことよ」

 その言葉に将兵は膝を打ち、鬨の声をあげた。

10日後、最軍三将

 最軍十万の攻勢は、昼夜の別なく続けられた。

 城壁には絶えず矢が降り注ぎ、南門には攻城槌が打ちつけられ、東では土山が日に日に高く築かれていった。

 だが、平馬は怯まず、城兵を叱咤して守りを固めた。

 「恐るるな! 矢の雨は嵐のごとし。されど嵐は過ぎ去るものぞ!」

 その声は戦鼓にも勝って響き、疲弊した兵たちの心を再び奮い立たせる。

 南門に迫る黄竜の兵を前に、平馬は自ら槍を執り、城門楼より長柄の槍を突き下ろして敵を薙ぎ払った。

 また、火矢が北の城壁を焦がせば、すかさず水桶を担ぎ自ら兵の先に立って消火した。

 「城は民の命なり! 我が命に代えても守り抜け!」

 将自ら城楼を駆け回り、時に槍を振るい、時に桶を運ぶその姿は、兵にとってまさしく楯であり旗であった。

 最軍は攻めても攻めても崩せぬ堅守に苛立ち、ついには草竜が兵を集めて大矢を放たせ、城壁の一角を穿たんとした。

 しかしそのたび、平馬は鉄壁のごとき備えで穴を塞ぎ、兵の動揺を鎮めた。

 こうして数日にわたり、十万の猛攻を小城にて防ぎきったのである。

 幾日も続いた総攻撃は、ついに最軍をして疲弊せしめた。

 十万の兵は矢を放ち、槌を打ち、炎を浴びせたが、なお小城は屹立として崩れず。

 平馬の奮戦と堅守は、まさに鉄石のごとく敵を退けた。

 草竜は舌打ちして幕僚に言う。

 「小城一つに、かくも日を費やすとは……」

 黄竜もまた嘆息して応じた。

 「攻めるたびに我らの兵が死に、敵はなお粘る。ここは一度、無理攻めを止め、包囲して兵糧を尽きさせるがよかろう」

 トーソンも首肯し、軍議の決はすぐになされた。

 かくして最軍は大攻勢を控え、城を遠巻きにして包囲し、兵糧の道を断つことに専念した。

 昼夜にわたって柵を築き、見張りを置き、まるで鉄環のごとき陣を敷いて、城を閉ざしたのである。

 城内では矢も糧も日に日に乏しくなり、兵も民も顔色を失っていった。

 

 その頃、城を包囲する最軍の背後――。

 山深き道を、ホールの別働隊五千は忍ぶように進んでいた。

 鬱蒼たる樹々の下、馬を曳き、声を殺し、ひと息ごとに険しい斜面を登る。

 ウィルが額の汗を拭いながら言った。

 「殿……。この道を進むはまことに険しく、兵も疲れ切っておりますぞ」

 ホールは険しい眼差しを崖下に向けた。そこには糧を積んだ荷車の列が、延々と続いていた。

 牛に曳かせた荷車は百、二百。兵糧と矢を満載し、最軍十万を養う血脈である。

 「見よ、あれを。あれこそ敵の命脈よ」

 ホールの声は低く、しかし熱を帯びていた。

 彼は手を上げ、静かに号令した。

 「岩を切り落とせ。矢をつがえよ。敵が谷間に入りきった時が合図だ」

 兵たちは無言で頷き、すでに縄を掛けていた巨岩に手をかける。

 風は山を渡り、荷車の軋む音と牛の呻きが谷に響く。

 やがて長い列が谷底に入りきった瞬間――ホールの槍が天を突いた。

 「今だ――!」

 轟音とともに巨岩が崩れ落ち、土砂と共に荷車の列を押し潰す。

 悲鳴が山野にこだまし、乱れたところへホールの兵が一斉に飛び降りた。

 矢が雨のごとく降り注ぎ、槍の穂先が乱れ走る。

 「糧道を断て! 一つも残すな!」

 ホールの叫びに応え、兵は怒涛のごとく敵を蹂躙した。

 突如、山の陰より疾風のごとき騎兵隊が現れた。

 その先頭に立つのは、槍を構えた男――ホール・カン。

 整然と進んでいた糧車の列はたちまち乱れ、護衛兵たちが騒然とする。

 「な、なんだ……?」

 草竜は目を見開いた。

 敵の行動は常ならず、予想もし得ぬ速さで迫っていたのだ。

 次の瞬間、ホールは馬上から一閃。

 槍は空を裂き、草竜の声を遮った。

 「――!」

 有無を言わせぬ一太刀。

 草竜の巨体は血飛沫とともに地へ崩れ落ちた。

 ホールはただ無言のまま槍を引き抜き、次なる敵へと歩を進めた。

 その沈黙こそ、彼の冷徹な決意を物語っていた。

 炎と土煙の渦中、最軍はもはや隊伍を保てなかった。

 その中で将軍トーソンは必死に兵をまとめんと奮戦したが、炎に追い立てられた馬の蹄に踏み倒され、乱戦の中で命を落とした。

 彼の首が晒されることはなく、火の中に呑まれたと伝えられる。

 一方、黄竜はわずかな近習を連れて戦場を脱し、必死に北へ退いた。

 だが十万の兵は散り散りに潰走し、飢えと疲労、追撃により次々と命を落とす。

 最の国境にまで辿り着いた者は、ついに一万にも満たなかった。

 こうして「西征の十万」と謳われた最軍は壊滅し、諸国は元国の健在を改めて知ることとなった。

 そしてこの大戦を導いた功の第一は、糧道を断ち、火計を仕掛けたホールにあり、次いで城を守り抜いた平馬の奮戦にあると記された。

 大勝の報は、たちまち元都に届いた。

 十万の最軍を破り、トーソンを討ち、黄竜を退けたとの報せに、元帝は大いに悦び、すぐさま勅使を遣わして二将を都へ召還した。

 都に帰還したホールと平馬は、凱旋の礼をもって迎えられた。

 元帝は自ら朝堂に出御し、群臣を前にこう宣した。

 「西より迫る十万の敵軍を破ったのは、ひとえに平馬とホールの忠義と武勇による。

 この勲功は、千秋に伝うべし。」

 こののち平馬には「征西大車将軍」の号が与えられ、西辺の防衛を一任された。

 一方ホールには、攻勢を主導した功をもって「征南大車将軍」と「西発王国王」の封を賜い、さらに今回奪還した南方の地をその領土として与えられた。

 この栄達は、単なる戦功を超えて、ホールが一国を治めるに足る器と認められたことを意味していた。

 こうしてホールは名実ともに元国を支える大将軍となり、その名声は都の貴族や民衆の間に鳴り響いたのである。

 さて、この頃、すでに大将軍・西発王国王となったホールの素性について、諸書に記録が残されている。

 その中で広く流布したのは、彼がかつての「植王」の第五息子の後裔である、という説であった。植王が国を失い、相へと亡命した折、その一族の一人が密かに生き延び、数世代を経てホールに至ったというのである。

 もしこれが真実であれば、ホールはただの将軍ではなく、旧王統の血を引く者ということになる。

 だが、この系譜は後世の史家から「疑わしい」とも評された。なぜなら、当時の記録にそのような亡命王族の存在は乏しく、むしろ後にホールの名声が高まるにつれて、彼を王家の末裔と仰ぎたい者たちによって作られた伝承にすぎぬとも考えられるからである。

 一方で、別の記録には、ホールは西辺の小豪族の出であり、父祖は世代を重ねて辺境の守将を務めていたとするものもある。こちらは史料的裏付けも多く、実際にはこの説がもっとも信憑性が高いとされる。

 いずれにせよ、ホールの異例の昇進と領土封与が、単なる戦功によるものか、それとも「王家の血筋」を仄めかすことで権威を高めようとする政治的演出であったのか――この点は後世の歴史家たちの議論を呼び続けている。

 ホールが西発王国の王位に就くや、まず手を差し伸べたのは戦の犠牲者であった。

 戦死した将兵の未亡人や孤児に対しては、みずから城下に出向いて慰撫の言葉をかけ、家ごとに米・塩を分け与えたという。人々は「王たる者がまず我らを顧みた」と涙を流し、その仁政を讃えた。

 ついでホールは治安の回復に着手した。戦乱の後、西方の山野には盗賊が群れをなし、村々を襲うこともしばしばであった。

 ホールは厳正に軍を率いてこれを討伐し、捕えた者には法に照らして刑を科した。ただし、飢えや寒さに追われて盗みに及んだ者については、まずその境遇を調べ、飢民には粟や麦を与えて再起の道を許したという。

 こうして王国は短期間のうちに秩序を取り戻し、民は安堵した。人々は口々に「王はただ武勇に優れるのみならず、仁義をも兼ね備える」と語り、やがてその徳は遠国にも伝わっていったのである。

 

1299年 聖地決戦

 この年、最国のサン帝はついに天下統一の野望を遂げんとし、諸国より兵を徴し、総勢百五十万と号する大軍を起こした。これをもって元国を根絶やしにせんとしたのである。

 この「百五十万」との数は後世の誇張とも伝わるが、いずれにせよ大軍であったことは確かであり、聖地をめぐる最後の戦と目された。

 これに対し、元帝は諸将を分遣し、征南大車将軍ホールには五万を与えて聖地を守らせた。さらに、最よりの攻将としては湖公ニルが同じく五万を率いて差し向けられた。

 ホールはかねて弟の来襲を予期しており、城壁を固め、周囲の兵を糾合して備えた。記録には「発兵二千を集め、聖地に籠る」と見え、数において大きく劣ったが、士気は高く、兵は精強であった。

 

ニルは、なおも戦端を広げることを憂え、まずは兄ホールに降伏を促した。

 彼は使者を遣わして言わせた。

 「西発王殿。いまや天下は最帝の御旗の下に一統せんとしている。貴殿もまた降りて膝を屈せば、大陸統一の功臣として列侯の座を保ち、民を安んじること叶わん。血を流すことなく、共に大業に加わられよ」

 この言葉は、兄弟の情を忘れぬニルの苦心であったとも伝えられる。

 だが、城内にて使者の言葉を受けたホールは、毅然として首を振った。

 「伝えよ。――我は主君と民とに誓いを立て、この聖地を守護する身なり。いかに弟の勧めといえども、義を曲げて降ることはできぬ。天下の大勢はいかにあろうと、我が志は変わらぬ。ここにおいて正々堂々、勝負を決せん」

 この返答により、もはや和議の望みは絶たれた。

 かくて両軍は再び鬨の声を挙げ、血戦は夜を徹して続き、ついに兄弟が聖地にて最終の決戦を挑むこととなったのである。

 

 

 しかし、ニルはただ勇に任せたのではなく、奇襲の策をも用いた。

 彼は正面より堂々と攻めかかるかに見せ、別働をもって険しき山道を越え、守備の手薄を衝いて城壁に取りついた。やがて夜半、鬨の声とともに城門を破ると、五万の最兵が雪崩れ込み、城内はたちまち修羅場と化した。

 発兵二千と最兵五万が入り乱れ、火は城中を焦がし、矢は雨のごとく降り注いだ。街路は戦馬の嘶きと人々の悲鳴に満ち、城砦はもはや聖地ではなく、血と炎の海と化したのである。

 

 ホールは聖地の城に急報を受け、即座に兵を集結させた。兵はわずか二千、しかも多くは疲弊していたが、彼は槍を掲げて鼓舞した。

 「ここは聖地、我らが退けば民も信仰も尽き果てる! 一歩たりとも退くな!」

 将兵の士気は高まり、城壁は固く守られるかに見えた。

 だが――。

 ニルは別働の兵を巧みに山道へと導き、守りの手薄を突いて城壁を突破した。怒涛のごとき最兵五万は城内へ雪崩れ込み、たちまち発兵二千と入り乱れる乱戦へと変じた。

 火花は四方に散り、城郭は悲鳴と鬨の声に満ちた。

 その混乱の只中、槍を構えるホールの前に、一騎駆けてきた男がいた。

 「兄上!」

 鋭い声と共に剣を掲げたのは、ほかならぬニルであった。

 ホールはその姿を見据え、わずかに目を細めた。

 「おう……弟よ」

 

火煙の渦巻く城内。瓦礫と屍が散らばる只中で、ホールとニルはついに相まみえた。

 ニルは剣を高く掲げ、声を張り上げた。

 「ここであったのも運命です、兄上! この刃にて、父の無念を晴らし、天下の道を開かせていただきます。お相手を願おう!」

 その眼差しは怒りに燃えながらも、どこか哀しみを帯びていた。

 ホールは静かに槍を構え、応じる。

 「よかろう……弟よ。これもまた天命というならば、避けること叶わぬ。されど――我が槍は、ただ主と民のために振るうもの。覚悟せよ!」

 二人の声が戦場を震わせた刹那、

 鋼と鋼が交わる烈しい音が城郭に響き渡った。

 その一撃は、ただ兄弟の情を断ち切るのみならず、両国の命運をも決する一太刀の始まりであった。

烈火のごとき乱戦のただ中、ホールとニルは激しく斬り結んだ。

 槍と剣とが幾度も火花を散らし、刃音は鼓のように戦場を震わせる。

 両雄の戦いは周囲の兵の視線を一気に奪った。

 誰もが息を呑み、その一挙手一投足に運命を賭けるかのごとく見守る。

 やがて、戦場は次第に二つの輪に分かれていった。

 一方は「湖公ニル」を囲み声を上げる最兵。

 もう一方は「西発王ホール」を守らんと奮戦する発兵。

 「主君を守れ!」

 「湖公に続け!」

 叫びは渦となり、兄弟の刃がぶつかるたび、味方の士気もまた大きく揺れ動いた。

 ホールが優勢と見れば発兵が猛り、ニルが押し返せば最兵が吠える。

 両雄の一騎打ちは、ただの兄弟の決着ではなく、十万の兵を左右する「戦局の鼓動」となっていたのである。

 やがて兵たちは悟った。

 ――この戦い、兄弟いずれかが倒れる時こそ、勝敗の決する時なり。

 双方の兵は皆勇敢。誰一人として逃げるものはない。

 皆、己が主君のために勇気を振るい、一歩も退かずに戦った。

 一人、また一人と血に倒れてゆく。

 倒れた兵の上を踏み越えて、次の兵が刃を振り下ろす。

 槍が折れれば刀を取り、刀が砕ければ拳で殴りかかる。

 矢が尽きれば石を掴み、声が枯れれば歯を食いしばり――誰ひとりとして命惜しむ者はいなかった。

 「主のために!」

 その叫びは烈火のごとく戦場を覆い、血潮と汗にまみれた戦士たちの魂を震わせる。

 剣戟の音は絶え間なく響き、地は屍で埋まり、城の石壁は赤黒く染まった。

 戦場はもはや地獄そのものであったが、そこに立つ者すべては確信していた。

 「我らが今ここで退けば、主君の夢も国の誇りも潰える」と。

 こうして兵たちは、死をも恐れぬ忠義を燃やし、互いに斃れてはなお戦を続けたのである。

 

 その時であった。

 黄昏の戦場に、一筋の矢が飛来した。

 ひゅるる――と風を裂く音。

 矢は最兵の一人が放ったものであった。主君ニルを助けんがために、必死に弓を引き絞ったのである。

 矢は真っ直ぐにホールの背を射抜いた。

 鎧を貫き、赤き血が奔流のごとく噴き出す。

 「兄上!」

 ニルの目が見開かれた。

 

 

夕暮れの戦場、矢が空を裂き、ひと筋の影がホールの肩口を貫いた。

「ぐっ……!」

巨体がよろめく。

その刹那を、ニルは逃さなかった。

踏み込み、剣を真っ直ぐ突き出す。

鋼の刃は甲冑を穿ち、深々とホールの胸へと沈んだ。

火花のごとき痛烈な衝撃が走り、ホールは大槍を取り落とす。

「……見事だ、弟よ」

血に濡れた口から、わずかに言葉がこぼれる。

その瞳には怒りも怨みもなく、ただ弟への慈しみが残されていた。

ニルの手は震え、剣を抜くこともできぬまま固まっていた。

「西発王……いや……兄上……」

声は嗚咽に途切れ、戦場の喧騒さえ遠く霞む。

こうして、兄弟の宿命の決戦は、血と涙のうちに終わりを告げた――。

その時。

ウィルの矢が戦場の騒乱を切り裂き、瞬く間にニルの背を貫いた。

ニルは剣を握る手を硬直させ、前のめりに崩れ落ちる。

血が砂塵を赤く染め、戦場の熱気に溶け込んでいった。

ホールは苦痛に顔を歪めながらも、倒れる弟の姿を静かに見つめた。

――心の奥で、ホールは計算していた。

自らの手で弟を討つことはできない。

だがこの局面で「仇を討たせる」ことこそ、戦局を決する唯一の手段であった。

「……俺がニルを殺せるわけがないだろう」

その声は静かに、しかし確かな意志を帯びて戦場に響く。

策を巡らせた瞳は、弟の苦悩と兵の動きを一瞬で読み取り、戦の帰趨を掌握していたのであった。

――これはホールの策であった。

彼は最初からウィルに耳打ちし、こう命じていたのである。

「ニルは我を討つとき、必ず動揺する。その刹那を射よ」と。

ウィルはその命を聞いたとき、戦慄した。

兄弟の絆を誰よりも理解している主君が、己の手で断ち切れぬことを悟り、あえて忠臣にその役を委ねたのだ。

それは忠義を試すのではなく、己の弱さを告白するに等しい重き命であった。

兄弟の情を断ち切れぬ己を知るがゆえに、ホールは冷酷な策を選ばざるを得なかった。

そしてその策は、血と涙にまみれた戦場で現実となった。

矢が放たれ、弟は崩れ落ち、兄はなおも苦悶の息を漏らす。

――かくして兄弟決戦は、義と情と策謀の交錯の末に終焉を迎えたのである。

 

この戦いは後に「虎義伝」「忠義西発王」などの史劇に描かれ、聖地の民に語り継がれた。

あるものは、この決戦を「兄弟が義を貫いた悲劇」と歌い、またあるものは「主君を思い、己の情をも捨てた忠義の王」としてホールを称えた。

聖地の老いた語り部たちは、黄昏の火を囲んで子らにこう語ったという。

「兄は弟を討てず、弟もまた兄を討ちきれなかった。だが忠臣の矢が、二人の運命を断ち切ったのだ」と。

やがてこの物語は、武勇と忠義を重んずる士たちの模範とされ、舞台や詩文に繰り返し演じられた。

血と涙にまみれた一戦は、単なる戦史を超え、聖地の精神を映す「義の象徴」として永遠に語り継がれることとなった。

 

ホールという男は、生涯ただ「義」に生きた。

義を愛し、義を尊び、そして己の出自である旧植人のため全力を尽くした。

それは植が滅びても変わらず、元に屈することはなかった。

その屈強な精神は、やがて単なる一武将の美談を超え、後世の士大夫・武人たちの規範となった。

「義を知らずして王たり得ず」と言われるのは、まさに彼を指してのことである。

彼の死後、聖地の民はその魂を慰めるために祠を建て、香を焚き、義の神として祀った。

やがて歴代の王もまた彼を敬い、霊廟を造営し、祭祀を国の大典とした。

その祭は代を重ねるごとに盛大となり、軍人は出征の前にホールの霊前に拝し、農民は収穫を前にその義魂へ感謝を捧げた。

こうしてホールは「西発義王」と尊称され、やがて神格化された。

彼の名は忠義の象徴として大陸全土に広まり、時を経てもなお、義を説く者の口に上らぬことはなかったのである。

 

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