仕事は良い。心が洗われるようだ。
久しぶりの仕事だったからだろうか、随分と張り切ってしまった。
「管理人さん。ここに置いておきますね」
「ありがとうございます。明さんが居ると仕事が早くて助かります」
「洗濯物を取り込むのは速度が大事ですからね。いかに早く取り込み、たたむ。これが一番大事だと俺は思います」
俺は洗濯物を外し、管理人さんにパスする。
振り向けば既にたたまれた洗濯物が山となっていた。
いったいどんな早さでたたんでいるのだろうか。不思議だ。
俺は最後の洗濯物を管理人さんに手渡すと同時に胸の携帯が震えているのを感じた。
今週で何度目だろうか。
流石に面倒になってきた。
「はい。もしもし?」
『もしもし? お兄ちゃん?』
「ひかり、か? どうした?」
俺は管理人さんに手で合図をしながら少し離れた場所で通話を続ける。
まだ春だが、日差しが少し強い。
俺は桜の木の陰に隠れながら電話の声に集中する。
『お兄ちゃん、会社辞めたって聞いたけど。本当なの?』
「あぁ、その件か。まぁそうだね」
そう、止めたのだ。働く事。神宮寺の家で居場所を作り続ける事。
生きていく理由を求め続ける事を。
その代償は昼夜問わず鳴り響く電話と、面倒な対応だった訳だが。
光からも電話がくるとなると、神宮寺はまだ諦めていないみたいだな。
『もう帰らないの?』
「そう、なるかな」
『私、この4年間ずっと我慢してきたよ。お兄ちゃんがアイツに連れてかれてから、いつかきっとお兄ちゃんは帰ってくるって、信じて頑張ってきたよ。なのに酷いよ……』
電話の向こうで光が泣いているのが分かる。
伊達に何年も兄弟をやってきたワケではないのだ。
だがしかし、俺はもう帰ることは出来ない。あの家に戻ることは今までの生活に戻ることになる。
生きる目標を求め、暗闇の中を歩き続ける生活に。
「悪い。別に光を悲しませたかったワケじゃないんだ」
『良いよ。帰ってきてくれたら許してあげる』
「……すまないが、それは出来ない」
そう、それは出来ないのだ。
ここは、〝そよかぜのいえ〟は俺が初めて自分で選んだ場所だから。
先輩や管理人さん、葵ちゃんが……俺の家族が居る場所。
そして何よりも杏ちゃんが居る。
他の誰よりも俺が離れたくないのだ。この場所から。
『私よりも大事なの……?』
「比べる事は出来ないよ。ただ、今はここに居たいんだ。自分の人生って奴を考えてみたい」
『いつ帰るの?』
「今はまだ、分からない」
いつかそんな日が来るのだろうか。あの神宮寺での日々が思い出になる日が。
あの家に帰る日が。……いつか来るのだろうか。
『……そう、分かった』
光は少しの沈黙の後、静かにそれだけ告げると電話を切ってしまった。
なんとも言いがたい。後味のあまり良い終わり方ではなかった。
「おにーちゃん、お電話?」
「あぁ、杏ちゃんおかえり。まぁそうね、電話だね」
俺が既に切れた携帯電話をジッと見つめながら考え込んでいると背中から杏ちゃんが話しかけてきた。
どうやら学校から帰ってきたらしい。もうそんな時間になっていたのか。
俺は懐に携帯をしまうと何事もなかったかの様に振舞おうとした。
しかし、そんな俺の考えを見通す様に杏ちゃんは、無垢な瞳で俺をジッと見つめてくる。
俺は思わずその瞳から逃れる様に視線をそらしてしまった。
別に何か隠し事があるワケでも無いのだが。
「別に問い詰めようとは思わないよ。良い女は聞かなくて良い事は聞かない女だって先生が言っていたし」
「そっか」
その言ってた先生の性別によって色々意味が変わりそうだな。
しかし何にせよ。色々と問い詰められなくて良かった。
って、何で良かったんだ?
「でも、でもでも。気になるから、誰からの電話か聞きたいな」
杏ちゃんは手を組みながら上目遣いにこちらを見てくる。
悩んだのだろう。しかし、頬を朱に染めながら涙目で聞いてくるのは少々卑怯だと思うワケで。
「まぁ妹からの電話かな」
しかし、俺はその可愛さに負けて喋ってしまうわけで。
でも別に後悔は無いな。うん。
話してしまえばなんて事は無い話だったが、杏ちゃんは少々違ったようだ。
先ほどまでこちらを見ていた顔は今は地面を見つめながら瞳を揺らしている。
「おにーちゃん、ここを出て行くの?」
杏ちゃんはようやく顔を上げたと思ったら、突然そんな事を言ってきた。
「出て行かないよ。少なくともみんなが出て行くまでは、ね」
「そっか」
杏ちゃんはそんな俺の言葉に安心したのか、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「なら、私はずっとこの家に居る! そうしたらおにーちゃんもずっとこの家に居られるんでしょ?」
「そうなるね。それも良いかもしれない」
俺は何十年後もこの場所でみんなと過ごしている未来を想像して心が暖かくなった。
そんな未来はあり得ないのだろう。でも、それでもそんな未来が来れば良いと願ってしまう。
それはきっと悪い事では無いのだろう。
俺は杏ちゃんと手を繋ぎながら、縁側でお茶とお菓子を用意していた管理人さんのところへと向かった。
世界には美味しいものがどれだけあるのだろう。
俺は縁側で管理人さんの淹れてくれたお茶を飲みながらお茶菓子を1つ口に入れる。
甘い。
しかし、ただ甘いだけというワケではなく適度な柔らかさを保った餡が舌の上で少しずつ溶けながら甘さを口いっぱいに広げていく。
決してしつこくなく、さりとてさっぱりもしすぎていない。
「おかーさん。これすっごいおいしい!」
そう、どんな綺麗な言葉や難しい言葉など必要としない。ただうまい。
流石は杏ちゃんだな。物事の本質をちゃんと分かっている。
「本当に美味しいですね。これ。随分と高いんじゃないですか?」
「古い知り合いからのもらい物なので、ちょっとお値段は分かりませんが。多分有名な店の商品だと思いますよ」
それを聞いて俺は思わず腕を組みながら考え込む。
仕事で何度か高いものや良いものは食べたけれど。これ程のものはなかなか出会えなかった。
少なくとも市場で大量に出回っているモノではなく、どこかの老舗の商品か?
「ふーん。じゃあ味わって食べないともったいないね」
「ふふ。そうね。ゆっくり食べなさい。でも夕飯の前だからあまりいっぱい食べちゃ駄目よ」
「むー! 杏、もう大人だから分かってるもん!」
微笑ましい杏ちゃんと管理人さんのやり取りと見ながらお茶を一口飲む。
無粋な事は必要ない。美味しいモノはただ美味しい。それだけで良い。
もっと自然体にならなければなぁ。
「うぇあぁ、朝は、だるい。眠い」
部屋の奥から自然体代表選手が入場してきた。
代表選手こと先輩はもう夕方だというのに寝癖のまま寝ぼけ眼で無理やり体を動かしている感じだ。
こんなにも自然体になれるだなんて先輩は凄い。が、こうはなりたくないと感じている自分も居た。
「もう夕方ですよ、先輩」
「うるさい! 大体朝なんだよ。だいたい!」
「いや、流石に無理がありますよ」
俺がお茶を一口飲みながら先輩に意見すると先輩は腕を組みながら少し考える仕草をした。
そして数刻後。
「AM8時は朝だな?」
「まぁそうですね。誰も疑うことのないほど朝ですね」
「AM8時1分は?」
「言うまでもないですね。朝です」
なんだ? 何が始まったんだ?
「AM8時2分は?」
「文句のないほどに朝です」
「AM8時3分」
「圧倒的に朝です」
先輩は何が言いたいのだろうか。少し思考を先読みしようとするが、何を考えているか分からないほど深い瞳だ。
まるで死んだ魚の様な目をしている。
「まぁあまり続けても仕方ないが、朝とは誰も定義出来ない程曖昧な存在だ。そして今の問いかけから分かる様に1分に差はない。つまりそれがどれだけ積み重なろうとも朝という定義は1分という差の積み重ねの上に成り立っている以上変わらないという事だ。つまり今は朝だ」
「は? いや、理屈は分かりますが、さっぱり分かりませんよ」
ようするにAM8時から1分ずつ足す作業を480回ほどこなせば今という時間は朝になり、今は朝だと。いや落ち着いてください。
確かに24時間という時間の中では1分は大した時間ではない、ないが、その理屈はおかしい。
「ま、いいや。明、お前最近「大変たいへんタイヘンダー!?」あん?」
「今の声は葵ちゃんですね」
先輩の声を遮るように響き渡った葵ちゃんらしき人物の声にその場にいた皆がいっせいにその声のした方。
つまりは玄関の方へと視線を向けた。
そしてそちらから駆けて来る葵ちゃんの姿。
何をそんなに慌てているのか制服を乱しながら、一心不乱に走っていた。
やはりというべきか、葵ちゃんは自らの足に引っかかり床へと倒れこんでいく。
机の上から落ちたリンゴの様に、あらゆるモノを平等に縛る重力という名前の楔。
しかし葵ちゃんの体は床に吸い込まれるよりも早く前に踏み出した俺に抱きかかえられ、なんとか床と友達になる事は回避した。
「あ、ききき、あきらにぃ!? 何をしているのでしょうか!?」
「……? 葵ちゃんを抱きとめているのだけれど」
俺は顔を赤くした葵ちゃんを抱きしめた体勢のまま何でもないことの様に言った。
そこからいつもの何でもない日常を始めようと俺は口を開こうした。しかし。
「ところで葵ちゃん。さっきの声はいったい「汚い家」」
俺の声を遮るように聞こえたその声はどうやら庭の方からしているようだった。
勝手に人の家の庭に入り込むなど客とは言いがたい。
さらにこの場所を〝汚い〟などと言う人間だ。俺は少しの苛立ちを感じつつ庭を見た。
そこに立っていたのは1人の少女だった。
いや、少女という形容詞は正しくない。何故なら俺はその子のことをこの場の誰よりも知っているのだから。
〝そよかぜのいえ〟の誰よりも、そして少女の背後に立つ屈強な男達よりも。
「ひかり……」
「久しぶりお兄ちゃん。迎えに来たよ?」
そう言って少女は笑顔で俺の方へと手を差し出した。
少女の名前は神宮寺光。神宮寺の正統な血の繋がった娘。そして俺とは義理の兄妹だ。
確か今は葵ちゃんと同じ年だったはずだが、最後に会った4年前と殆ど変わっていないその姿は俺の思い出から抜け出してきたかのようだった。
そして4年前と何も変わらない幼い顔立ちのまま、キラキラと太陽に反射する母譲りの金色の髪を風に靡かせ、透き通るような白く細い手をこちらに差し出したまま動かない。
光の中では俺がその手をとらないなどという選択肢はないのだろう。
しかし、俺は宣言したはずだ。この場所にいる。と。
「お兄ちゃんの言いたい事は分かってるよ。だから光も無理強いをするつもりはないの。お兄ちゃんがこの家に居たいなら光はそれが良いと思う。でも光は昔みたいにまたお兄ちゃんと一緒に生活したいの」
光は潤んだ瞳を揺らしながら俺を見つめていた。
そんな光を見て胸が痛まないワケではない。でも俺は……。
「ふぅ。やっぱりお兄ちゃんは電話で言ったとおり、ここに居たいんだね。この汚い家に」
「何よ! 人の家に汚いだなんて失礼ね!」
光の汚い家という発言に怒った葵ちゃんが光に食って掛かる。
そんな葵ちゃんを光は何も言わず静かに睨みつけた。
「あんた、「何よ! 怖くなんてないんだからね!」」
光の言葉を遮りながら涙目で叫ぶ葵ちゃん。
あまりにも早すぎる展開についていけていないのだろう。
俺の服を掴んでいる手が震えていた。
「あんた、お兄ちゃんから離れなさいよ。関係ないでしょ? さっさと消えなさいよ」
「か、関係なくない! 「関係ないのよ! あんたなんて他人で」家族だもん!」
「へぇ家族。お笑いだね。ただ一緒の家に暮らしているだけじゃない。それで家族とか「光」なぁに? お兄ちゃん「何か俺に言いたいことがあるのだろう?」うん。光ね。この汚い家を買う事にしたの。お兄ちゃんには悪いけど、買ったら潰しちゃうね」
楽しいおもちゃで遊んでいる子供の様に無邪気に笑う光。
しかし言っている言葉は随分と酷い言葉だ。
昔から人の気持ちとかよりも自分の事を優先する子供だったから、今度も宣言している以上実行するのだろう。
俺はすぐ後ろに居るであろう先輩に目線を向けた。
先輩は無言で頷き、すぐ背後まで来ると小さく呟いた。
「4時間」
「了解」
俺は誰にも聞こえない様な小さな声で先輩に返した。
そしてそれから大きく息を吐くと葵ちゃんをしっかりと立たせ、庭に置いてあった靴をしっかりと履く。
「俺が神宮寺に戻れば満足するか? 光」
「そうね。私は別にこんな汚い家は要らないもの」
「じゃあ行こうか」
俺がそう言うと光は本当に嬉しそうに俺の胸に飛び込んできた。
そんな光を受け止めて、抱き上げたまま俺は庭を越え、玄関先にいる車へと向かう。
そして先に光を中に入れると、俺も乗り込んだ。そしてドアを閉めようとしたが、それよりも早く誰かがドアを押さえ込んだ。
少し驚いて顔を上げればそこには少し怒っている葵ちゃんの姿が。
葵ちゃんは驚いている俺をよそに中に入り込み、俺の横に座った。
「何故あなたまで乗り込んでくるのよ!?」
「家族だもん!」
「どんな家族よ! 他人が!」
「あ、あああ明にぃとは結婚の約束をした恋人だもん! 家族だもん!」
そうか、知らない間にそんな事になっていたのか。
葵ちゃんは顔を真っ赤にして自分の制服のスカートを握りしめている。
あまり強く握りすぎるとしわになるから……。と注意するような状況でもないし。どうするかな。
「ホントにそうだって言うんなら、良いわ。ウチに招待してあげる。神宮寺の本家にね」
そう光は言い放つと、ドアを使用人に閉めさせ車を神宮寺家へ向かわせた。
道中、車内でもまた光と葵ちゃんの衝突があったりしたのだが、ここでは割愛する。
そして神宮寺の本家へと着いた。
「じゃあ、お母様を呼んでくるからお兄ちゃんと、自称恋人はお兄ちゃんの部屋で待っててね」
そう言われ久しぶりに入った俺の部屋は何も変わらない殺風景な部屋だった。
まぁここに帰っても寝る事以外に何もしていないのだから当たり前だが。
「なんか寂しい部屋。今の明にぃの部屋とは全然違うね」
俺は葵ちゃんの頭を撫でながら何か答えようとしたが、何も喋る事が出来なかった。
どうしてだろう。いつもなら取り繕う言葉などいくらでも出るというのに。それだけが不思議だった。
そして2人で何とも言えない沈黙の中で固まっていると、ドアが小さくノックされた。
「良いかしら」
「はい。開いていますよ。奥様」
部屋に入ってきた妙齢の女性はすぐ近くの椅子に腰掛けると、こちらも座るように促した。
奥様は使用人に持ってこさせたお茶を一口飲み、俺を鋭い目で睨み付けた。
「明、私たちを裏切り、朝霧の家に渡ったそうね」
「別に裏切ったワケでは「言い訳なんて見苦しいわよ、明」すいません」
「いいこと? あの家は我が神宮寺とは対立する家。あなたは神宮寺の為に命を使うのではなかったの? ならばどうするべきか分かるわね」
「はい」
「よろしい。話は以上です。私たちは貴方が戻ってきてくれるならそれで十分だわ。例えどこの馬の骨とも知れない子を恋人だと言って連れて帰ってきてもね。最終的にはこちらの選んだ女性と結婚してもらいますが」
「分かっております」
俺の返事を聞くと奥様は満足したのか部屋を出ていき、部屋は俺と葵ちゃんの2人きりになった。
葵ちゃんは状況に全く付いていけないのだろう。椅子に座ってぼんやりとしている。
さて4時間。どうしようか。特にやることは無いが。
俺は窓の外を見ながらどうするかを考え、葵ちゃんは椅子に座って紅茶をずっと見つめている様だった。
それからしばらく沈黙が流れていたが、葵ちゃんが控えめに口を開いた。
「……ずっとそっちの方が幸せだと思ってた」
「え?」
葵ちゃんは既に冷めているであろう紅茶の入ったコップを握りしめ、俯きながら蚊の鳴くような声で呟いた。
「だって明にぃが笑った所見たこと無かったから!」
すぐ背後にある窓から外に広がる世界はだんだんと夜の闇に包まれていく。
部屋もそろそろ電気を付けなくては何も見えなくなるだろう。
しかし、何故だろう。俺はそんな気にはなれなくて。
「何をしていても、いつも、なんだか一緒にいないみたいで」
葵ちゃんは椅子から立ち上がり、俺から一定の距離を保ったまま泣いていた。
泣きながら喋っているせいで声は聞き取りにくいのに、何故か言葉は俺の耳で綺麗に聞こえていた。
「でもいつも私や杏の事を心配して! なんで!? 明にぃが分からないよ! 私たちは何も明にぃに返せない! だったら……」
「よし、帰ろうか」
俺は4時間はここに居るつもりだったが、もう帰る事に決めた。
そして先輩に連絡を取り、戻る事を告げる。
どうやら神宮寺からの圧力を逃がすのにもうそんなに時間は掛からないらしい。流石は先輩だ。
「じゃあ俺はもう帰るんで」
呆然としている奥様と光にそれだけ宣言すると、葵ちゃんの手を引きさっさと神宮寺家を後にした。
そして追っ手が来ない内にさっさと電車に乗り込む。
流石都会だけあって電車はすぐに来たが、家に帰る為には乗り換えなくてはいけない。
そしてどうやらその電車は次が来るまで20分もある。
暇だな。
俺は俺と葵ちゃん以外誰もいない寂れたホームで深くベンチに座り込む。
足を投げだし、コートのポケットに両手を突っ込んだ。
横で葵ちゃんが相変わらずの急展開に付いていけずどうしたらいいのか困っている様子だった。
「迷惑だよなぁ」
「え?」
「いつもこっちの事情なんか知らずにあれこれ押しつけてくるんだ。今回はそれで葵ちゃんにも迷惑を掛けちゃった」
神宮寺の家の人間は強引な人間が多いらしい。
あの家の人間と16年以上付き合ってきて、嫌という程それを思い知らされた。
「俺はさ。小さい頃に両親を亡くしたんだ。とは言っても記憶はないんだけど」
話ながらポケットで携帯が揺れるのを感じ、メールを開く。
先輩からのメールだ。
『今夜、テレビで往年の名作映画が放映するんだが。レコーダーの容量が足りない! どうすれば良い!?』
どうでも良いメールだった。
『中に入ってるデータを消せば良いでしょ』
俺はメールを送り、携帯を閉じた。
「悪いね。それから遠縁のお爺さんに引き取られたんだ。でもその人はとある名家の凄い偉い人だった」
話ながら携帯を開き先輩からのメールを確認する。
『消せるワケないだろうぎゃ! 全て大切なデータですよ?』
知りません。
『なら外付けHD買ってくれば良いのでは?』
「でもその人も俺が引き取ってからそんなにしないで亡くなってしまってね。今度はさっきの神宮寺家の前当主に引き取られたんだ」
横で葵ちゃんは静かに聞いていた。
まっすぐに俺を見ながら。
『お届け日が明日の夜だって書いてある』
通販かい。
『ならおとなしく近くの電気屋で新しいレコーダーを買ってくるのが正解ですね』
「でも当主は俺を引き取った年に亡くなってしまってね。お葬式の時は随分と色々言われたよ。俺が来たせいで神宮寺はダメになる。アイツは疫病神だって」
俺は当時の事を思い出し、少し嫌な気持ちになった。
『じゃあ明は何時頃帰ってくるん?』
俺に買って帰らせる気か。
『後1時間くらい先に駅に着きますよ』
「それから俺は奥様の指示の下働き始めた。まだ出来る事など殆ど無かったが、ただ働く事でしか自分はあの家で存在出来ないと思っていたから」
『それじゃ間に合わなくなるぞ』
『知りませんよ』
今まで静かに聞いていた葵ちゃんは苦しそうな顔をしている。
そんな葵ちゃんの頭を撫でながら俺はまた過去を思い出す。
「そして俺は成長し、ある日とある青年実業家に会ったんだ。彼の名前は〝朝霧司〟と言った」
『リアルタイムで見なきゃ楽しさ半減だろうが!』
『そうなんですか?』
「彼は今の俺にもっとも必要な物を渡したいと言い、とある小さな町に俺を連れていった。灰色だった雲からはいつの間にか白い結晶が舞い降りていて。酷く寒い日だった」
話をしながら目の前に止まった人の乗っていない電車に乗り込む。
「思えば誕生日だったんだな。でもそれそらも俺は覚えていなかった。ただ命をすり減らしながら仕事をして、そして気が付いたら何も無くなっていた」
さっきまでと同じように座り、そして変わらず話を続ける。
「そんな時、あの場所で俺はようやく見つけたんだ。ずっと探してたものを。それからの日常は俺にはまるで夢の世界の様で。だからなのかな。どう接したら良いか分からなくて。うまく笑う事も出来ていなかったのかもしれない」
「明にぃ」
「でも、俺にとってはあの場所が宝物で君たちが夢なんだ。だからみんなが笑っていてくれる事が俺は一番嬉しい事なんだ。だから、ありがとう。今までも、これからも」
ボロボロと涙を溢れさせている葵ちゃんをそっと抱きしめる。
背中を撫でながら、俺も涙が少し目尻に浮かぶ。
電車が駅に止まり、乗ってきた乗客がこちらを見て、そのまま笑顔で電車を降りていった。
なんか悪い事をしたな。
そして、葵ちゃんが泣き止むと同時に俺たちは目的の駅に着いた。
まだグズっている葵ちゃんと共に駅に降り立つ。
たった何時間だけ離れていただけだというのに妙に懐かしい。
ゆっくりと改札へ向かい歩いていく俺たちのすぐ横を電車が発車し、風で服が暴れ回る。
もう既に夜になって、改札の周囲にだけ人が居る様だった。
「あ、おにーちゃん帰ってきたー!」
そしてその改札からよく聞きなれた声が聞こえてきた。
もう夜も遅いというのに、杏ちゃんは遠目からでもよく見える可愛らしいコートを着て、何度もこちらに手を振っていた。
横には管理人さんや先輩も居て。
葵ちゃんはみんなに気づいたのか俺の背中に隠れて涙を拭っていた。
「ただいま。帰りました」
「おかえりなさい」
俺たちは改札を通り、皆に挨拶して帰路についた。
今日あったことをみんなで話しながら帰ろう。
ケーキでも買って、家に帰って先輩の言っていた映画を見よう。
「明、よく覚えておけ。名作映画っていうのは家族で見るから面白いんだ」
そして星の広がる帰り道をゆっくりと帰る。
俺の家族達と一緒に。