雨ははたしていつ止むか?   作:川に揺蕩う論理の箱

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プロローグ 調査の下準備と探偵と元相棒

 はじめの犠牲者はジョーリン、という名の女性であった。種族は人。職業は会社員。発見日20XX年11月3日。

 

 彼女の日常はいつだって変わらなかった。朝早くから起きて、朝ごはんを食べる。職場へ行き、働く。時折、友達や上司と飲み会で話す。疲れた体に鞭を打ちながら、風呂や家事などをする。そして、すこし暇を潰して、寝る。

 

 職場の人間関係も悪くなかった。相談ができる良き友を持ち、いい上司にも恵まれた。彼女は気さくな性格で愛想は良く、職場で人気の女性社員のひとりであった。彼女は恋愛関係においても良かった。ボーイフレンドもいたし、その彼氏とも関係が良かったのだという。

 

 しかし、ある日、彼女は突然、職場に来なくなった。1週間すぎても、彼女は職場へ戻ることはなかった。これを怪しんだ友達は彼女の家を訪ねたが、返事はなかった。友達はそのとき、大家に頼んでその家を開けてもらったところ、その家には誰もいなかった。ただ彼女がいたということを示す生活用品の数々が埃をかぶっていただけだった。

 

 つまるところ、彼女は行方不明になったのだ。そのときの秋の訪れを知らす枯葉に埋め尽くされた地面はまるでこれからの不幸を知らせるようであった。

 

 ジョーリンが壺に入って、彼女たちのもとに戻ってきたのは、実に彼女が消息不明になって、1ヶ月が過ぎたときであった。発見者はホロウ調査員であった。発見された場所はホロウ内部。死因は射殺だった。顔に至近距離にショットガンを撃ち込まれたようだった。即死であった。そして彼女はエーテル結晶に磔にされていた。手と足には釘が打ち込まれており、首は締まって真っ青になっていた。

 

 二人目の犠牲者が出るまでそこまで時間はかからなかった。名前はジョン。性別は男性。既婚者。種族は熊のシリオン。職業は土工。彼も同様に殺人手段が取られて、殺人犯は同一人物だと分かった。ジョンもジョーリンと同様にいい人生を送っていた。家族と仲が良く、休日に息子と遊ぶことを楽しみにしていた。

 

 三人目の犠牲者もすぐに起きた。今度は学生であった。そしていよいよ新エリー都の市民は不安に襲われた。学校は部活を停止し、放課後居残ることを禁止した。サラリーマンの多くも夜道を歩くことはなくなり、夜どこか行く際は必ずタクシーや友を連れて行くようにしていた。あれほど活気に満ちていた商業街はどこか人気はなく、人々の顔も笑いを浮かべるものが少なくなっていた。

 

 彼らはホロウ災害や暴力団が起こす事件については慣れていたが、正体不明の誰かがこの新エリー都の市民を殺していたという事実、それは厳然たる実体を持ち、彼らを恐怖させていた。夜の街は眠りにつき、互いは隠し事があるようにこそこそと生活するようになったのだ。そしてどういうことか殺人事件はしばらく起きなかった。市民たちは少しだけ安心した。

 

 ───が、昨日、次の事件が起きた。今度は一家惨殺事件であった。今回はホロウ内部ではない。街の中で起きた。夜中の、自転車が静かに漕ぐ音、自動車が通る音、飲み会帰りで楽しそうなサラリーマンの歌い声、………その音に六発の銃声が混じった。

 

 すぐさま治安官は派遣された。が、そこにはすでに誰もいなかった。荒らされた形跡も、侵入の痕跡もなかった。ただあるのは、生臭い鉄と甘い香りが混じったあの血の匂い、飛び散った血や脳髄、それに十字架に磔にされた家族の死体だけであった。証拠は、一切なかった。

 

 ───このことはさらに状況を悪化させた。隣人は恐怖で自宅に引きこもり、職場を辞めたという。毎日のように、パトカーのサイレンが響き、市民は苛立ちを隠せなかった。隣の相手に猜疑の目を向けるようになった。それに動じて、夕刊紙で治安局の動きは動き出すのか、また、なぜまだ犯人は捕まっていないのか、現在の調査状況の説明を望んだ。それに対し治安局は沈黙を貫いた。彼らはただ犯人を捕まえるために尽力する。それ以外やることはなかったのだ。

 

 

 ──────────

 

 12月3日の夕方、朱鳶は仕事をしているところに、一本の電話がかかってきた。朱鳶は電話に出た。

 

「はい、こちら、朱鳶班長です」

 

 話を聞く。はい、と相槌を打ち、頷く。

 

 わかりました、といい、電話を切った。そして朱鳶はため息をつき、目を閉じ、両目の間の鼻筋をつまんだ。

 

「どうしたのだ、朱鳶よ、……よもや、あの事件についてではなかろうか?」青衣は向かい側のデスクに座り、白湯をゆったりと飲みながら、いう。

 

「ええ、そのまさかです、ジェーンからの連絡でした。なにか事件解決のための有力な情報を得られるかと思いましたが、………どうやら、駄目のようです」

 

「なある、それにしても、今回の事件は複雑怪奇極まるものだ。これほど派手に事件を起こしているの関わらず、物的証拠はおろか、目撃情報もあらぬとは。───まるで、魑魅魍魎が起こしたようではないか、朱鳶よ」

 

「ええ、本当に、幽霊とか亡霊とか、そんな存在が犯人ではないか、と思うほどに……」

 

「……もしや、本当に幽霊の仕事かも知れぬぞ」

 

 返事はなかった。朱鳶は顎に手を当て、目の前に仕事に取り組むことなく、今回の事件についてしばらく考えた。

 

 青衣も白湯を飲み干し、もう一杯白湯を入れながら、あることを考えていた。

 

 沈黙が貫いた。

 

 すると、オフィスのドアが開く音が聞こえた。セス巡査であった。彼は真っ白な髪の後ろ頭を乱雑にかき、

 

「お疲れ様です、青衣先輩、朱鳶班長」と、いった。

 

「これはセス坊ではないか、……そっちも察するに、良い結果とは言えぬようだな」

 

「はい、全然です。目星をつけた場所、すべて調査しましたが、もぬけの殻でした……すいません!」

 

「そんな、謝らなくてもいいんですよ、セス君、それに今回の作戦も、もとから失敗するのが前提でしたので、気にすることはありません」

 

「え? そうだったんですか? ならなんで、わざわざそんな失敗をするのをわかっていて、こんな大掛かりの作戦を───」

 

「セス坊」青衣は指を一本ぴんと立て、「いいか、よく聞け、セス坊。ぬしはどうにも素直がすぎる。むろん、それはぬしの良いところではあるが、その裏表のなさは逆に開かれた道を閉ざし、隘路へ進むことになることがあるのだ」

 

「はぁ」セスは考えて「つまり、その、なんですか? つまり、今回の作戦になんか裏があるということですか?」

 

「ええ、ですが、その裏というのは事件解決の布石というかは、どちらかというと……」

 

「朱鳶よ、『雨垂れ石を穿つ』、というだろう。我らはただ捜査をするぐらいしかないのだ」そういうと青衣は立ち上がって、「さて、我は用事があるゆえ、これにて失敬、朱鳶、セス坊、今日ははやく帰るといい。このままでは埒があかぬ。白湯を飲んで、落ち着かせるといい」

 

 そのあと、オフィスにのこされたのは、朱鳶ひとりになった。セスは一仕事を終え、帰宅していた。朱鳶は仕事を終わらせていたが、彼女は椅子に体重を預け、そっくり返り、白い天井をじっとみつめていた。時間をちらりとみた。19時23分。外は暗かった。道路は人気がなかった。

 

 彼女はもう家に帰ろう、と思った。そして家に帰った。

 

 彼女はシャワーを浴び、私服に着替えた。

 

 彼女は夕飯の準備に取り掛かった。鍋に水をはり、塩を定量入れて、火を点けた。ベランダに育てたミニトマトを大量に取り、全てのトマトのヘタを取った。スパゲティの乾麺を一人前の量を取った。水が沸騰する。そこにスパゲティを入れた。茹で上がるまでに、彼女はミニトマトで作るソースを作った。次に茹で上がったパスタを入れ、ソースと絡ませて、かくしてトマトパスタができあがった。

 

 夕飯を食べ終え、皿を洗った。ソファに座り、スマホを確認する。青衣からの連絡が来ていた。青衣の連絡を確認した。週末、一緒に来てほしい、とのことだった。彼女は最初は渋ったが、仕事のことなら1日ぐらい休んだって、変わらない。また、彼女の部下は優秀なのだから、彼女なしでも仕事は回るということを青衣はいい、最後に会わせたい人がいるから、という言葉に朱鳶は折れ、了承した。

 

 疲れていて、夜風に当たりたかった。数々の表彰が飾られた壁を通り過ぎ、ベランダに出た。

 

 夜の街はあの事件以来眠っている。夜の静けさに混じる話し声や隣人が奏ていたギターの音も聞こえなくなった。自動車が通る音と家の光がぱっと消えるさま。それだけがこの街が生きている証拠であった。したがって、眼下の光景は通行人の姿はなく、アスファルトの真っ黒な道とそれを照らす街灯しかないはずである。

 

 が、今宵は違った。アスファルトの道をひとり、ダッフルコートを着た成人男性が片手をポケットに手を突っ込み、もう片方の手は煙草を持ち、吸いながら歩いていた。何かの用事? と彼女は思うが、その男性は、用事はなく、ただ夜道を徘徊しているだけであった。

 

「いまは夜道を歩かない方がいいですよ」と、朱鳶は声をかけた。これは彼女の使命でもあった。夜道を用事もなく出歩く人たちに注意をかける、これが治安官に言い渡された命令である。治安官は夜はパトロールすることになっていた。

 

 その男は振り返った。年齢は30代前ぐらいだった。そして彼女の顔を仔細にみて、微笑んで、「ありがとう、そうするよ」と言い、タバコを一吸い。彼女に手を振って、奥へ消えていった。

 

 日曜日になった。予報では午後に雪が降ることになっていた。集合時間は午前の10時半であった。集合場所はルミナスクエアであった。彼女は集合時間よりも早くついた。

 

 これから雪が降るだろうに、日差しは強かった。陽光は海を照らして、海を青く見せていた。汐の匂いが風とともに運ぶのを感じた。彼女はベンチに座り、時間がくるまで通行人をみて、怪しいものがいないかをついでに探した。彼女の職業病である。

 

 デートをするカップル、買い物にいく家族たち、音楽を聴きながら街を歩く若者、……ふと、その中にふたりの男女がいることに気づいた。六分街のビデオ屋の店主及び伝説のプロキシ『パエトーン』、アキラとリンだった。新しい映画の入荷だったらしく、ビデオテープが入った箱を両手で抱えていた。アキラはリンに呆れたように話しかけていて、リンは負けじとなにか言い返していた。おそらく、どの映画のジャンルを入荷するのかで争っていたのだろう。

 

 平行線だったようで、話は一旦終わった。そのとき、リンは彼女と目があい、手を大きく振った。

 

「朱鳶さん!」と、言いながら近づいた。「久しぶり! 元気?」

 

「リンちゃん、それにアキラくん。映画の入荷ですか?」

 

 アキラも後ろから手を振りながらやってきて、「やあ、朱鳶さん、……見ての通り、新しく映画の入荷をしようとしたところだったんだ」

 

「聞いてよ、朱鳶さん! お兄ちゃん、ドキュメンタリー系の映画しかとらなくて、絶対、冬なら恋愛系のやつがいいのに」

 

「どうだろうね、───こういう、落ち着いた映画こそ、今の時期にこそ必要じゃないか?」

 

「もう、お兄ちゃんの分からず屋! そうだ、朱鳶さんに決めてもらおう!」リンは彼女に近づき、「ね、朱鳶さん、今の時期、どっちがいいと思う?」

 

「ほう?」と、アキラはいたずらげに笑みを浮かべ、「いいじゃないか、さあ朱鳶さん、どっちがいいか決めてくれ!」

 

「ええぇ、わ、わたし、その」朱鳶は、両手を軽く振りながら、目を泳がせた。

 

「ははは」アキラは笑い、「……さてと、冗談はこれほどにしておこう。ところで、朱鳶さん、今日はなんの用事でここに来ているのかい? ……まさか」そこで、アキラは彼女の服装をみて「秘密の任務かい?」と、小声で言った。

 

「え? いえ、私はここで先輩を待っていて、仕事には一切関係ないんです、今日は休みなんです」

 

「なるほど、それでそんな格好のわけだ、朱鳶さんのことだから、てっきり仕事なんだと思ったよ」

 

「もう、アキラくんは私のことをなんだと思っているんですか」

 

「なんだと思っているのかってそりゃね」リンはじっと見つめた。

 

「ちょっと、その犯罪者をみる目をやめてください」朱鳶は慌てていい、「私だって休みは取りますよ」

 

「これは、失敬。だけど、朱鳶さんが休んでいると知って安心したよ、最近、忙しいだろうから、朱鳶さん休んでないだろうと思ったよ」

 

「それは───」

 

「我が休めさせた」ちょうどそのとき、青衣がきた。「班長どのはどうやらまだ仕事を続ける予定らしくな、これはいかん、と我がそこで一手打ったのだ」

 

「先輩!」彼女は時計をみて、「どこにいたんですか、10分も遅刻して、速やかな報告をお願いします」

 

「すまぬな、朱鳶よ、言っただろう、会わせたい人がいると。我はその者と連絡をとっていたゆえ、遅刻してしまった。しかし、安心しとくいてくれ、その者とどこに集合するのか取り付けたのだ、これは僥倖というべきであろう」

 

「会わせたい人? 失礼ながら、それは誰なのかと聞いてもいいのかい?」

 

「ふむ、問題ないだろう、この際だ、そのものと会ってみるいい機会であろう。しかし、注意してほしいことがある。その者はどうにも気難しい性格をしているがゆえ、どうか、くれぐれ発言には気をつけておくれ」

 

「わかったよ、それでどこに集合する予定なんだい?」

 

「案ずることはない、ぬしらが最も慣れ親しんだ場所のひとつだろう、重い荷物を抱えているぬしらの都合にとってもいいであろう。その名もコーヒーカフェ」

 

「わかった、リンもそれでいいかい?」

 

「うん! そうと決まるば、早くいこう! さ、朱鳶さん、青衣さん、あたしたちの車に乗っておいてでよ」

 

 そういって、彼女たちは車に乗った。

 

 

 

 高く登った太陽は雲に隠され、その縁を乳色に照らしていたが、やがて分厚い灰色の雲がきて、太陽を隠した。あたりは薄暗くなった。吹く風は寒かった。その雲の様子をみたカフェの客の一部は引き上げ、その寒さから中に入るものがいた。そんな中、カフェの外で男がひとりだけ、影に覆われた中、コーヒーを飲んでいた。

 

 その男はダッフルコートを身に纏っていた。彼はこの街の通行人を眺め、ポケットからタバコを一本とった。火をつけた。一服した。約束時間までまだ間があった。男は店員を呼び、サンドウッチとコーヒーのおかわりを頼んだ。待つ間、男は本を読むことにした。サンドウィッチが来た。

 

 彼はたまごサンドを手に取り、それを口に運んだ。コーヒーも飲んだ。それにタバコを吸った。気分は上々だった。古き友はまだ来ていなかった。

 

「どうやら、早く来すぎたようだな」

 

 サンドウィッチを食っていると、彼の向かい席にサングラスをかけた金髪の女性が座った。その女性は深いスリットが入ったスカートを着ており、その隙間から黒いストキングをつけた足がのぞいていた。上には内側が赤いレザー風のジャケットを着ていた。男はそれに目を向けなかった。彼女はコーヒーを一杯頼んだ。

 

「ずいぶん久しぶりだな」サンドウィッチを口に運びながら男は言った。「もう死んだと思ったよ、たしか、今の名前は──」

 

「イヴリンだ」

 

「ふうん、イヴリンか。いい名前だな。あの歌姫の護衛をしているんだって?」

 

「ああ」

 

「それで、なんのようだ」

 

「依頼をしにきた」

 

「いいぜ、内容と報酬次第で考えてやる。ただし手短に頼む。なにしろ、会いにくるやつがいるんで」

 

「わかっている、それにすぐに終わることだ」そういうとイヴリンは一枚の写真を取り出して、それを男にみせた。

 

 それはひとりの老人がベンチに座り、鳩に餌をやっていた写真だった。男はその写真に手に取り、眺めた。「この男の情報を知りたいなら、俺以外のほうがいい、この街だったら、簡単に見つかる」

 

「いや、この男を探してほしいんだ」

 

「猫探しの次は人探しか、歌姫の護衛はどうにも忙しいとみえる」

 

「そうだ、私は忙しいのでね。代わりにその代役を務めてほしいと言ったが、どうやら探偵殿は自信がないようにみえる」

 

 男はタバコを一服吸った。「……報酬は」

 

 彼女は肩をすくめた。「悪くはない、とだけ言っておこう」

 

 男は頬杖をし、紫煙を吐く。そっくり返る。考える。

 

 沈黙。ジジとタバコが燃える音が響く。

 

 数分して、男は口を開いた。「ダメだ、いまは無理だ、保留だ」

 

 イヴリンは微笑んだ。サングラスから透けてみえる氷のように青く鋭い目は和らいだ。「いいだろう、それを聞けただけでもありがたい。───さてと、約束時間まで、あと何分ある」

 

 時計をみた。そして男は短くなったタバコを灰皿に押しつけて、新しいタバコに火をつけた。「時間はたっぷりとある。少なくとも、このタバコの火がきえるまで」

 

 雪が、降り始めた。男は横に視線をむけた。傘を差し始める通行人。静寂。雪にはしゃぐ子どもたち。濡れ黒くなった地面にたまった水面は通行人が踏みこむたびに、揺らいだ。

 

 イヴリンは、というと、男をみつめていた。男の口の端にソースがついていた。彼女は椅子から立ち上がり、ハンカチを取り出した。そして男にむけて手を伸ばした。男はその行動に気づいていたが、抵抗はしなかった。頬に触れた。優しく、口の端を拭った。薄荷が混じったタバコの匂い。彼女はその匂いが嫌いではなかった。

 

「もっと、いい男を探せ、と何度も言っているだろう」男はいった。目を合わせることなく。

 

「そうだったか?」イヴリンは笑う。「どうやら、私は忘れっぽいようでね、どうもその言葉を忘れていたようだ」

 

 男の返事はなかった。男はタバコを吸った。吐いた煙が白いのは、タバコのせいか寒さのせいかわからなかった。

 

 どうも、こいつといると調子が狂う、と男は思った。男は灰皿にタバコをトントンと叩き、灰を落とした。雪が積もりはじめていた。男はタバコの先をみつめた。まだ長い。

 

「懐かしいな」イヴリンは言った。「あのときも、こんなふうに雪が降っていた」

 

 男は顔を上げた。イヴリンと目があった。そして彼女は男を真似るように頬杖をついた。「そうだろう?」イヴリンは訊いた。

 

「……ああ、そうだな、たしかにあの日、雪が降っていた。寒かったのを覚えている」

 

「そう、寒かった。一面は白で覆いつくされていて、足跡なんてすぐに消えていった。私から流れ出た血が雪を赤く染めて、その温かさで雪は溶けていたのをよく覚えている。……最悪の日だった。痛くてたまらなかったし、寒く眠かった。いっそこのまま眠ったのならとそのとき、何度も思っただろう。……だが、私は眠らなくて、よかったと思う。それに最悪の日と言ったが、同時にその日は大事な日だった。なぜだろうな?」

 

「……生き残れて、お前は教訓を学んだからだ。その教訓はこうだ、何があっても生き残れ、さすれば、道は開かれるとな」

 

 イヴリンは笑った。「そうかもな、……ああ、そうかもしれない」

 

「……要するに、あのときは、気が向いただけだ。誰だってそのような時があるだろう、子どもだってそうさ。ひどい雨の中みつけた、捨てられたペットや傷ついた鳥を助けたくなるときが」

 

「君がそう思うなら、そう思って構わない。……先ほど、君は私がなぜここにきたのかを訊いただろう。ひとつは依頼だが、実はもうひとつ、私は君に伝えたいことがあった」

 

 男は黙っていた。タバコの先はだいぶ短くなった。

 

「私の今の名前、イヴリン。これは私の本当の名前だ。どうか覚えてほしい」

 

 男は時計をみた。───時刻だった。男はタバコを灰皿に押しつけた。「それだけか?」

 

「ああ、それだけだ」イヴリンは立ち上がった。そして彼女はポケットからメモ用紙を取り出し、そこにペンで文字を書いた。そしてそのページを破った。その切れ端を男の前に置いて、「それでは、また会おう」と、いい駅のほうへ歩き出した。

 

 男は紙を手に取り、頭を撫でた。そこには彼女の住所と電話番号、そして彼女の本名が書かれていた。

 

 イヴリン・シェヴァリエ。

 

 彼女の毅然とした姿勢と対照的な丸い文字だった。

 

 男はそれを眺め、それをポケットに乱雑にしまった。

 

 どうも、あいつといると調子が狂う。

 

 男はそう思い、その紙を破るばいいのに、ポケットにしまってしまった自分にため息をついた。

 




トマトパスタ、というと、やれやれ、が口癖の登場人物をよく出す某作家を思い浮かべてしまう。
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