本来、探偵と治安官は水と油の関係だ。あるいは光と影の関係というべきか。これが、一般的な探偵と治安官が区別される境界線であり、その境界線というものを朱鳶は意識していた。
探偵は、治安官が進むことができない、闇に包まれた道を自由に歩き、その中で、正しいものと正しくないものを、自身の信念に基づき、見極め、解決していく。
一方、治安官は、正道をいき、その道が照らす光を規定を持って照らし、あるいは密かな光を闇に潜め、我々が想定する正義に基づき、解決していく。
むろん、治安官には、汚れた手を使うことがあるが、彼らはあくまで正道をいく。これこそが探偵と治安官の違いである。
ゆえに、彼らは交じり合うことはない。というのも、往々として、探偵の信念と治安局の信念というのが相反するものであるからだ。
朱鳶は車を運転しながら、助手席で眠るヴィセントのことを考える。
黒い髪にクマができた黒い眼。そこそこ日焼けした肌。ヴィセントはこの新エリー都で屈指の名探偵と言われるが、その容姿から、鴉のようだ、と馬鹿にされることがある。鴉のように賢いが、同時に屍体を啄み、そこから金をむしり取る汚れた存在。
彼の評価は、大きく二分されている。その腕を褒め称え、彼こそがこの街のダークヒーローだとするもの。所詮は、人が死なないと成り立たない下劣な仕事をしているもの。インターノットでもいまだに彼について議論されることが見掛けられる。
朱鳶は鴉を思い浮かべた。が、そのイメージがヴィセントをどういう人物だと断言するにはあまりにも関わりがなかった。今、彼女が必要なのは、なぜ探偵と警察が組むのかという疑問への回答ではなく、この事件に限り相棒となる彼ともにこの事件を解決することだった。それが全てなのだ。彼女は首を振り、運転を集中した。
一家惨殺事件が起きた家の玄関には、まだ黄色いテープが貼っていた。そして門番として雪を被った狛犬以外に治安官が立っていた。彼の体格が大きく、豊かな口髭を生やしていた。顔つきは泣いている子供をあやかすには不向きだった。むしろ、裏の世界を渡り歩くものと話すときに役が立ちそうだった。
朱鳶は、調査のために入っていいか、と訊く。
治安官は彼女におだやかな目を合わせ、「もちろん、朱鳶班長なら構いません。しかし、そのうしろにいる───」タバコをくゆらせるヴィセントに鋭い目つきをやり、「男性はできかねません。ここは関係者以外立ち入り禁止です」
「いいえ、モーガン巡査、彼は関係者です。ここに入る権利はあります」
「え? しかし、彼は───」
ヴィセントはIDカードをみせ「これを見せればいいか? さて、わかったのだろう。捜査のご協力願おうか?」
モーガンは口を歪めさせ、IDカードを荒々しく取り、仔細に眺めた。「……たしかにこれは本物です。わかりました、それではお入りください」
ヴィセントが玄関の扉を開けて、押さえ、朱鳶を入らせた。彼女は彼をみたが、何も言わず、廊下へ進んだ。そして扉を閉じる前に、モーガンをもう一度見た。彼もまたヴィセントをみていた。目は細め、彼はウォッチングユーのジェスチャーをし、親指で首を掻っ切る動作をした。ヴィセントは何も言わないでタバコの火を消して、扉を閉じた。
先を行く朱鳶をついていきながら、ヴィセントは白い手袋をはめて、ポケットから薄荷の飴玉を取り出して、口に入れた。
彼女は一度黙祷を捧げ、「ここが事故現場です。私は一度、捜査を進めましたが、もう一度見落としがないか調べたいと思います」
「あいよ」
現場は1週間前から変わっていなかった。ないのは、死体と銃弾、そして血であった。カビ臭いリビングには、ショットガンで引き裂かれたクリーム色のソファー、その横にガラスのテーブル、壊れたテレビがあった。リビングに繋がった台所には、水につけてある重ねた皿があり、その水は赤く、食べ物のカスが浮いていた。そしてすっかり冷めてしまったコーヒーが入ったサーバーがあった。しかし、時計だけ動いていた。時刻を刻む音がよく響いた。
ヴィセントは、家族写真と萎びれた百合の花が入ったガラス瓶が置いてある棚で立ち止まった。家族写真は何ひとつ欠点はなかった。三人家族で、父と母、娘は嬉しそうに笑っている写真。父も母もとても敵をつくるようにはみえなかった。彼は目を一瞬つぶり、家族写真をしずかに倒した。そして彼はそれぞれの部屋に入っていった。
朱鳶は、窓やドアなどの侵入可能の出口に異常がないか探した。やはり、異常は見つからない。侵入経路は不明であった。治安官は一度、宅配便として装って入った線を考えたことはあり、インターホンのカメラを調べたことがある。が、死亡時刻と宅配便が来た時刻はあっていなかった。
朱鳶は家族が死んだ場所、すなわちリビングにむかった。リビングの壁には小さな銃穴がポツポツとできている。現場検証の行なった結果、血が染み込んだワタが飛び出ているソファでまず一人目。二人目は逃げ、テレビの前を通ったとき。三人目は、音で駆けつけてあろうかソファの後ろで。
つまり、こう言うことなのだろう、と朱鳶は考える。家族は夕飯を食べ終え、めいめいが好きなところをしていたところであった。夫婦はテレビでドラマやらをみていて、子供は自身の部屋で遊んでいた。そこに、殺人鬼がきて、夫婦を射殺し、あとから来た子供を殺す。その後、───朱鳶は銃穴よりも広い穴ができたところに視線をむけて───あそこに磔をした………
朱鳶は怒りを抱き、唇を噛んだが、すぐに息を吐き、冷静さを取り戻した。怒りではこの事件を解決することはできないからだ。朱鳶は庭をみた。雪に覆われていた。洗濯棒が地面に突き刺さっていた。そこで乾かす服は二度来ない。その主人が来ることも、二度と。
そこで、ヴィセントが帰ってきた。ノートを片手に持って。ヴィセントは顎をゆっくりと撫でいていた。
「それを一体どこで……?」
「なに、小さな謎解きだ。どうやら、この家主はパズル好きみたいでな、抽斗に仕掛けをしていたんだ。ま、そんな大層な機構はしていなかった。ありふれたものだ。だが、これは出た。おそらく日記だろうよ」
「そんなものが、それで内容はどうなっていましたか?」
すると、ヴィセントは口をへの文字にし、「いや、意味不明だ、怪談話を聞いているような感じさ。……まあ、読んだ方が早いだろうよ」朱鳶にノートを渡した。
彼女はノートを開き、読んだ。
私はドッペルゲンガーをみた。
この日記はそのような一文で始まっていた。
───家を出ると、そこにモーガン巡査にもうひとり治安官が彼に話していた。黄銅色の短髪で、目は鋭かった。細いまつ毛や眉といい、整った顔つきだろうが、その眉は不愉快げに寄せてあった。その治安官は、朱鳶たちを見て、ヴィセントがいるとわかると、ニヤリと笑った。
「これは、これは」治安官は手を擦りながら、近づいた。「これは、これは」
「ベル班長、なぜここにいるのですか?」朱鳶はいう。
「なぜかって? それはこっちのセリフだよ、朱鳶班長。私はこの事件の担当に任じられていてね。今日は、不届き者が現場を汚さないように見張っていたところだったんだよ、そう、その横にいる、どこぞの屍体喰いのようなものをな。………朱鳶班長、私は説明をもとめよう、なぜこんな下衆な男がこの家にいるのかね?」
「事件を担当? いえ、ありえません。今回の事件は私たちが担当しているはずです、あなたは別の事件を追っているはずだったでしょう」
「質問を質問で返さないで欲しいものだ……しかし、君なら許そう、そうとも、私はギャングを追っている途中だ、ところが、だ、事件を調査をしているうちに、この家が関係しているのではないか、という疑いが出てね、私はこの事件を担当することになったのだよ」
黙っていたヴィセントがおかしげに口を開いた。「────ギャングが十字架に磔とは。熱心な教徒じゃないか? え? ベル班長どの? 彼らは聖書を読むのか? 教会に行き、祝福をもらっているのか? まあ、いるかもしれないが、そんな熱心な教徒が殺人鬼なんて、ははは、笑えるじゃないか。しかし、良かったじゃないか、お前も神を信じているのだろう? イエスさまに祈っておくか? 新エリー都を震撼させた連続殺人犯と同じ神様を信じられることに感謝します、アーメンとな。……お前みたいなやつに祈られる神も気の毒だ」
ベル班長は目をぴくりと痙攣した。が、すぐに治り、微笑んだ。「くそカラスがよく喋るじゃないか。屍体から食べる飯は美味いかね? やれやれ、お前のそのお得意の皮肉も屁理屈も、結局は死んだ人間にぶら下がってるだけだといつ気づくのかね」
「ベル班長! これ以上、そのような失言をするなら、治安官としてあるまじき態度として、上に報告しますよ、私たちは正式な許可を得て、この家に来てますし、彼も同じです。あなたが好き勝手にいう資格はありません」
「なに? 正式な許可? それは本当かね、モーガン」
モーガンはベルとヴィセントを交互にみて「え、ええ、彼はたしかにIDカードを持ってました」
「ほう? おい、カラス。見せてみろ」
「まるで鐘の音みたいにガンガン響くな、え? ベル」と、いいヴィセントはIDカードを渡した。
「ふん」と、鼻で笑い、ベルは受け取った。そしてIDカードをみつめた。それが、本物だとわかると舌打ちをし、「上層部は頭が狂ったのか?」
「ベル班長!」
「おっと、すまないね、仕方がない。上層部がそういうなら、許さそうではないか。……とんだ邪魔が入った。私は暇ではないのでね。それでは失礼する」
そう言ったが、ベルは数歩で止まった。そして振り返り、「これは忠告だがね、朱鳶班長。その男は一緒にいないほうがいい、いますぐその男とは手を切ることだ」
帰りになるとすっかり外は暗くなりはじめた。夕闇に包まれた道路を朱鳶たちは走っていた。空は赤くなりはじめ、血のように赤い楕円形の雲がそこにとどまっていた。車内はしずかだった。二人とも喋らず、進んでいく。街灯が急に灯りはじめ、車のライトもつき始めた。それらの光は暗くなりはじめた道路を照らしていた。車と何度もすれ違った。
朱鳶たちはその後、隣人に話を訊いたみたが、無駄だった。ひとりの隣人は、どんなにインターホンをかけても、物音ひとつしなかった。あとに聞くに、彼はすぐに引っ越したらしい。彼らは、昼職を食べるともう一軒訪れることにした。そのときは、成功し、話を聞くことができた。が、やはり誰がその家の前にいたということはなく、家主の最近の様子を訊いても、何も問題はなかった、と隣人はいった。
沈み出した太陽によって赤銅いろに染まったヴィセントは、車の窓を開け、頬杖をついて外の光景を眺めていた。彼の黒い髪は、吹く風に揺れていた。
「あの日記ですが」
「ああ」
「あれは誰か他の人が書いたという可能性があるのでしょうか?」
「ないな」
「それはなぜですか?」
「冷蔵庫」
「え?」
「冷蔵庫にメモ用紙があっただろう」
「ええ、……そうですね、ありました」
「あそこに書いてある書体が一緒だった」
「真似したとかは?」
「それもないな、する理由がない」
「なるほど、では、結局、わからないのままですか」
「そうだな、推測するにも、材料が少なすぎる」
「証拠を残さないで犯罪なんて本当にできるのでしょうか?」
「できないだろうな、普通は」
「………彼が言っていたドッペルゲンガー、もし存在するなら、彼が今回の犯人とはなりませんか」
「仏になったやつがそこらへんをうろちょろしていたなら流石に気づくだろう」
「そうですよね、忘れてください」
沈黙が続いた。彼女の脳裏にちらりついていたのは、ヴィセントとベルの言い合いだった。ヴィセントはバイロン長官の部下で、命令違反で退職し、その後、探偵として活躍した。それしか彼女は知らなかった。彼女は訊きたいことがたくさんあったが、彼女は黙って運転した。この事件が解決した後、彼らは二度とこのようになることはない。ペアとして相棒として組むことはないだろう。しかし、それでも彼女の琴線に触れるものがあった。それだけは確かだった。
───────────
ヴィセントは朱鳶と別れ、家に帰ろうとした。が、彼の家の前に車が止まっていることに気づき、彼は隠れた。その中にひとりの男がいた。それが依頼をしてきた弁護士だった。その弁護士は、自身が起こした汚職についての証拠隠滅の手伝いをしてほしい、と巧に言葉をうまく使って、何度も頼んできていた。ボイスレコードしようにも、その言葉はどうとも取れるので証拠にならなかった。その弁護士はうまく、厄介だった。彼は足を伸ばし、席を倒して、待っていた。
ヴィセントは疲れていたので、その弁護士と言い合いたくなかった。ヴィセントはタバコをくゆらせ、考えを巡らせた。「要するに、これは気持ちの問題なんだ」と、彼は独言た。
ヴィセントは踵を返した。夜に包まれた道へ。
とはいっても、行くべき場所もなく、彼は街を歩き回った。ルミナススクエにいき、帰っていく船を夜が深まるまで眺めると人足がだんだんと少なくなってきていた。電車もだんだんと減り、夜道で鳴く犬の声や猫の声が聞こえなくなった。
やることがなくなった彼は駅に行き、六分街にいった。六分街に着くとそこのラーメン屋でアキラとリンがいたので、挨拶をした。
彼らは、この間の件を謝ったが、もう気にしていないから大丈夫だといった。優しい、と言われたが、それは無視し、今度ビデオを借りにいくよ、と言った。ラブロマンス映画でも見ようと思う、と言うと、ツチノコでもあったような表情をしたので、ヴィセントは笑った。慌てて、謝る様子はおかしく、彼は、あんたらはいいひとだ、と言った。
「それじゃあ、俺はもういくよ、ありがとうな、面白かった」と、ヴィセントはいう。
「あ、待ってよ、ヴィセントさん」リンは言った。「ここのラーメン屋でも食べていかない? ここのラーメンす〜ごく美味しいから」
ヴィセントは大将を見ると、彼は一対の腕を組み、竹のアームでヒゲを撫でていた。「いっぱいどうだい?」と、言った。
アキラも席をすすめた。
ヴィセントは苦笑いをし、「腹は減ってないからいいんだが、そうだな、ひとつ相談事と行こうか」
「へぇ、名探偵が相談事なんて、これは名誉なことだ」
ヴィセントは席に座った。「まあ、そんな大したことではないさ。そう、例えばの話だ。もし、あんたたちが諸事情で家にいきたくないとき、あんたたちはどうする? 一時間とかじゃなくて、明日まで過ごしたい、って感じだな」
「ふむ、なるほど。そうだね、僕なら、どこか家に泊まるだろうね。たとえば、友達の家とか。安心できるところで僕はいくだろうね」
「うん、あたしも同意見。やっぱり、ホテルもいいんだけど、誰かがそばにいると安心するもん」
「ふうん。───ありがとうな、こんな変なこと言っちまって、それじゃあ。今度こそ、俺はいくよ、今度一緒にラーメンでも食べにいこう」
バイバイ、と彼らは手を振って、ヴィセントも手に振った。
ヴィセントは駅にいった。誰もいない駅で向かうべき場所はもう決まっていた。
ヴィセントはスマホを取り出し、番号を入力した。そして、しばらく考えた。
「ここしかなさそうだな」と、つぶやき彼は電話をした。
数コールで相手は出た。
「こちら、イヴリンだ。依頼を受ける決心はついたか?」
「そうだな、その話もある。とにかく、話はお前の家でしよう」
彼女の家はTOPSが経営するタワービルだった。ビルの正面の歩道には均等と並べられた石床で、それは街灯の光を浴び、白く輝いていた。周囲には並木が植えてあり、花壇にはさまざまな色とりどりの花々が植えてあった。歩道の真ん中に噴水があり、そこにひとつオブジェが置かれていた。それは丸い球を惑星の輪のように囲っていた。そこにイヴリンはいた。彼女は仕事服だった。内側が赤いレザー風のジャケットを羽織り、スーツを着ていた。
ヴィセントはタクシーに降りて、歩き出した。イヴリンは彼に気づいたようで、彼に目をむけた。噴水につくとイヴリンは、
「まさか、君からかけてくるとはな」と、言った。その目は凪いだ海のようだった。
「そうだな、俺自身も驚いているよ」
彼女は軽く笑った。「いいことだ、───そうだな、依頼の話は家の中でしよう。それではいこうか」
「わかった。……それにしても、まさかお前はここで住んでいるとはな」
「どうした? 君はこんなところ嫌になるほど歩いてきているから慣れているだろう?」
「ああ、まあ、そうだが、歌姫の護衛というのはそんな儲かるものだと思ってなくな」
「いや、正確にいうとあそこはお嬢様の住宅だ。わたしはあくまで護衛としてそこに同居しているだけだ」
「護衛? ちょっと待って、つまり、あの女帝として有名な歌姫があそこにいるということか?」
「ああ」
ヴィセントはため息をつき、「まったく、頭が痛くなる。俺はお嬢さまというのが苦手なんだ」
「安心してくれていい、君がどんなゲスなお嬢さまにあったかしらないが、お嬢さまはとても良い方だ。女帝やら孤高やらはあくまでビジネスとしての顔だ」
「………まあ、イヴリンがそこまで言うなら、そうなんだろう」
彼女は笑った。「そうか、もう君にイヴリンという名を教えたのだったな」
「ああ、いやか」
「いや、悪くないな」
「そうか」
「ああ」
ヴィセントはタバコを吸いたくなり、ポケットに手を突っ込み「ここは禁煙か?」と、訊いた。
「そうだ、吸ったら、すぐさま警備員が来て、警棒で君を殴るだろうな」
「それは怖い」と、ヴィセントはポケットから手を出した。「なら、飴玉でも舐めるかね」
「ほう? 君は昔はよく禁煙なところではニコチン入りガムを噛んでいたが、どうやらやめたようだな」
飴玉の袋を切り、口に入れ、「そうだが、俺に依頼してくる奴らは大体、一癖あるやつが多くてな、どうやらガムを食っているやつを見るとイライラするらしい。だから、まだマシな飴玉にすることにした」
「ふむ、その飴玉、私にもくれないか」
「別にいいが、どうして」
「何、気になっただけだ」
「ふうん、いいぜ、ほら」ヴィセントは彼女に一個飴玉を投げた。
彼女はそれを掴み、口に運んだ。
「安い薄荷の飴玉だ、口に合うか」
彼女はそれをしばらく味わって、「悪くないな」
「悪くないな、か。お前の口癖か?」
「そうだろうか、言われてみれば、お嬢さまにもそのことを言及されるな。だが、そうだな、私はこの口癖は治すつもりはないな」
「そうか」
「なぜかって聞かないのか?」
「いや、いいさ」
イヴリンは笑みを浮かべた。「そうだな、おまえは昔からそんなやつだった」
ヴィセントたちはホテルにつき、エレベーターに上がった。金色の屏風が両際に置かれ、アンモニアの化石を模したもの、花瓶などの調度品が置かれた長い廊下を歩き、部屋についた。ドアは艶やかな黒革のカバーがついており、中央には銅の取手が二つ並んでいた。彼女はカードを差し込み、鍵を開け、ドアを開けた。
玄関ホールの奥にはガラス張りとなった部屋があり、そこから新エリー都の夜景色がみることができた。リビングルームには心地が良さそうなソファーがあり、木製のテーブルと椅子が置かれていた。さらに奥には 銅色の格子状の仕切りがあり、その向こうには果物が置かれた大きな皿と広い大理石の台所があった。
玄関ホールの東には、黒木材のドアがあった。寝室であろう。ヴィセントはそれを見ているとシャワーを浴びる音が聞こえた。西をみるとすこし奥に風呂場につながると思わしきドアがあり、そこからその音が聞こえた。時おり、歌声が聞こえた。その声を聞き、歌姫と言われる所以はそれだけでわかった。天使が死にゆくものにかける歌声はこのように優しく、美しいのだろう、とヴィセントは思った。
「腹が減っただろう」イヴリンはカードをテーブルに置き、台所へいきながら、いった。「そこのテーブルに座って待ってくれ」
「それではお言葉に甘えて」彼は椅子に座った。心地よい椅子だと思った。
「きみはたしか、嫌いものは生トマトだったな、それ以外は食べられると」
「ああ、そうだ。どうも、あれだけは好きになれん」
「わかった、すこしだけ時間をくれ、───ああ、それと別にここのどこでも行ってもいいさ、お嬢さまの邪魔をしなければ、な。もちろん、君はそんなことをしないだろうが」
「わかっているさ、俺もTOPS相手とおまえに相手取るのは流石に骨が折れる」そういい、ヴィセントは椅子を立った。
ヴィセントはテレビでニュースを見ていると横にイヴリンが座った。アイロンをかけたシャツの布地の匂いに蜂蜜のような柔らかな甘みがかすかに漂った。ニュースは、まだ連続殺人犯が捕まっていないことを報道するものだった。
「いいのか?」
「大丈夫だ」
「和食か?」
「ああ」
「そうか」
イヴリンは酒が入ったコップを渡した。ヴィセントはそれを受け取り、飲んだ。スコッチ。上等のものだ。
「依頼は受ける気になったか」
「なった、というより、それしか手段はないというべきか」
「それは君が追っている事件が手詰まりということに関係するのか?」
ヴィセントは彼女を横目で見たが、とくに驚くことはなかった。彼女は元々、推理力は高かった。「そうだな、どうにも手がかりがないんだ」
「つまり、思わないことがつながることを君は期待しているのか」
「そうかもしれない。だが、そうとも言い切れない」
「わかった、あとで情報をまとめたデータを送ろう」
「ありがとう」
「それにしても、君はどうやってあの事件を調査をしているのだ。君は名が知れた探偵だが、それでも一般市民だ。そう易々とこの事件を調べることはできないだろう。情報屋に聞いているのか」
「いや、今は一時的に治安局に属する形だ」ヴィセントはIDカードを取り出し、それをみせた。
「なるほど、そういうことか、そういえば、君は昔は治安官だったな」
「ああ、条件としてペアを組むことになったが」
「ペア?」それは彼女にとって面白くない言葉だった。彼女はグラスに目を向け、ゆったりと回転させた。カランという氷がぶつかる音。
「ああ、所属している班長と組むことになった」
「……すまない、聞きたいのだが、その班長というのは男性か、女性か」
「女性だ」ヴィセントは彼女が思っていることを気づいていた。が、彼はそれを気づかないふりをした。
「なるほど、……すまない、変な話をして」イヴリンは酒を多めに飲み、立ち上がった。
ヴィセントはタバコを吸いたくなったが、それはしなかった。彼はスコッチを一気に飲んだ。腹に熱が溜まっていく。
すると、ドアが開き、美しい声が聞こえた。
「イヴ、おかえり。何を作ってるの?」アストラ・ヤオがシャワーから出たのだ。