【完結】俺は死んだはずだよな?   作:破れ綴じ

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耐え難きトラウマと薬家にいた人

「あー……どうすっかなー……」

 

 喉の奥で転がした声が、自分の耳にもだるく響く。石の部屋の冷えが背骨に沿って沁みてきて、肩の力だけが抜けきらない。声に出したらマシだと思ったが、憂鬱な気持ちが次に進もうとする足を掴んで離さないままだった。

 リアンのおかげで酒造りを自由に実験できる環境は準備できた。物好きな若手の職人たちが集まってくれたおかげで弱い酒程度なら問題なく飲めるようにできた。そこにマドリーの薬の力も加わって、今じゃ目標の度の酒だって味を損なわず意識も奪わず、安定して飲めるようにできた。

 あいつらの段取りで、喉の通し方も、足が浮いた時の戻し方も、どうにか形になった。進んだところは進んだんだよ。

 

 ──なのに、バレク家の銘柄だけは別だ。

 視線の端に赤い封蝋の肩が見える。実験用としてリアンに準備してもらった瓶一本。なんとかあの思い出を克服するためにコイツを部屋に置いてるが、存在するだけで妙な圧を感じて正面に置けなくなってる。もう癖だ。

 封を見るだけならまだ平気、香りだって特に問題は無い。仮にも一か月以上ずっとこの家に住んでるわけだから、この二つはどうやったって避けられないし、俺にとっても初めから障害じゃなかった。でも、飲んだ瞬間、なんならあの味を思い浮かべただけでも、頭が勝手にあの夜のことを思い出して、舌の裏に針が仕込まれてるみたいに体が反応しちまう。

 

 あの夜は、忘れようとしても勝手に浮いてくる。ベラの部屋、淡い灯りの色。最初の一口は普通だった。口に含んだ最初の印象は、澄んだ甘みと、穀の厚みと、喉を素直に撫でていく温度の馴らし方。俺はその場で「今まででいちばん旨い」って言った覚えがある。ベラはおかしそうに笑ってたが、マジでそうだった。舌も喉も、あの時点では何一つ拒否してなかった。

 そこからだ。数時間経った頃、あの中毒症状がやって来て。舌の裏がじわっと重くなり、喉が乾いて、胸の火が急に弱って。指の先が冷えて、音が遠のいていった。胃がきゅっと縮んでせり上がり、堪えきれず口の端に温い鉄の味を感じた。血の味だ。床に赤い筋が垂れて、手が遠くなって、息が浅くなって、視界の縁が灰に寄っていった。

 ──思い出しただけでこれだ。あんまり流されたままだと本当に吐いちまうから手前で押さえなきゃいけないが……そうか、まだ治ってなかったか。

 

「あー畜生……」

 

 喉が擦れて熱を覚える。気取った吐き場なんてただの部屋には置いてないし、置く予定だってない。頬の内側を噛んで、唾であの感覚をごまかして、腹の石ころみたいな異物感を底へ沈め直す。息を長く吐いたところで、胸の奥のざらざらは消えないままだが。

 

 外の方じゃ噂で持ちきりだ。俺が自分から聞きに行ったわけじゃないが、陰口がよく聞こえてたこの家じゃ噂だってよく聞こえる。

 やれ「若が新しい酒を造る気らしい」だとか、やれ「見直すべきだ、支えてやるべきだ」だとか、やれ「あれなら次の当主でも文句はない」だとか。俺の目的は自分があの酒を飲みたいがためであって、この家のためとかじゃないんだが。

 風みたいな言葉の癖に、それが背中に貼られてると思うと妙に重たく感じてしまう。今更俺が責任感なんざ感じてるのか? いやいやそんなんじゃない。ただ俺はいよいよ話が本腰に乗り始めて、あの酒を飲まなきゃいけない状況になるのが怖いだけだ。あんなに飲みたいと思ってたくせに、そのために色々やってたくせに、進展がないことを自分でも焦ってたくせに、いざ本番になれば過去の記憶が邪魔をして飲むのが怖いだなんて、矛盾してるよな。

 

 度が強いからなんて話は意味がない。同じ度の酒で上手くいった事例が既にあるんだ、それは言い訳にならない。

 ただの息子が家に関わるような大きな案件を動かしていいのかって考えもあったんだが、噂が届いたのか、遠方で療養中の親父からは「そろそろ当主になるんだし、良い経験になるだろう」「それで失敗してもうちに大きな影響はない」「ぶっちゃけ俺もそれ飲んでみたい」とか書かれた手紙が飛んできた。絶対最後のが本音だろこの親父。

 ただ幸いにも、酒家と薬家の対立が激しいせいで実際の話し合い自体はまだ進んでない。一応どっちにも「やってみよう」の声だけ宙に浮いてるが、釜も火も動いちゃいないし、誰が札を切るかも決まってない。正直、これには相当助かってる。何故だか知らない両家の確執が唯一、大々的な新製品開発へと進まない大きな要因になってる。

 だがそれもいつまで持つか。こういう噂が広まってる以上、いくら薬家憎しと言えど、いずれ妥協する風潮が現れ始めるだろう。そうなりゃ案件は完全に止まる術を失う。

 

 そうなる前に、なんとしても俺はこの過去を克服しなきゃならねえ。

 

「さて、と」

 

 独り言は軽く吐き捨てるだけ。さっきまでの吐き気は引いたが、舌の裏に痺れの名残が薄く残っているのが気色悪い。唾に混じる鉄っぽさも消えない。

 まあ、こんなこと一人でうだうだ考えててもしょうがないな。それっぽい本でも探しに行くか、それか他人に相談でもしてみるか。少なくとも酒家の人間に「うちの酒が実は飲めないんだ、気持ち悪くて吐いちまう」なんて聞けばとんでもない解釈の仕方をされかねないし。相手は選ばなくちゃいけねえが。

 

 あークソ、寝て起きたら大丈夫になってたりしねえかな。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「悪い思い出?」

 

「おう。こりゃ俺のダチの話なんだがな、困ってるみたいでよ。なんとかして克服する方法とか知らねえか?」

 

「克服か……酒だな! 俺はそこまで飲んでねーが、うちの若いのは全員飲んだら忘れるって言ってるし! 兄貴もその友達に一杯ひっかけてやればいいんだよ!」

 

「そうか、助かる。ありがとな」

 

「おうよ! その友達にうち勧めといてくれよ!」

 

 リアンはダメだな。まるで参考にならん。

 ていうか酒家全体がこんな感じだ。やっぱ酔っ払いどもに人生相談なんざ時間の無駄だったか。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

 若干粉っぽい匂いが鼻に刺さる廊下を歩き、趣のある少し年季の入った客間に通された。少ししてから、いつもの会合のときより気持ち大人しめのドレスに身を包んだマドリーがやってくる。これが普段着なんだろうか。

 

「お待たせ。急だったから、何も準備できてなくてごめんなさいね?」

 

「こっちこそ悪かった。むしろ急だったのに時間とってくれてありがとよ」

 

「ふふふ、構わないわよ。『会いたい、そっち行っていいか』なんて手紙を寄越すんですもの。情熱的ね、何をお望みなのかしら?」

 

「手紙の書き方が分からなかっただけだ。ただ相談がしたくてな」

 

「あら、そう……そんなことある?」

 

 マドリーが入ってきていくつか言葉を交わした後、侍女が「私は扉の前で待機しております」と席を外した。礼儀正しい侍女だ。うちには少なくともあんな奴いねえ。「若! どっかうろついてきますね! 時間になったら戻ります!」とかばっかりだ。これで力関係が平等ってマジに言ってんのか? 親父が誇張してるんじゃねえか? 

 

「にしても、門にも家の中にもあんまり人がいなかったな。もしかして仕事中だったか?」

 

「ああ、いえ。お父様が皆を下がらせてるだけよ。うちの敷地に酒家の人間が来るってなっただけで機嫌を悪くする人が少なくないから」

 

「へえ」

 

「私も酒家は嫌いだけれど、貴方はきちんと予約を取り付けた大切なお客様なのだから。こちらとしても礼儀には応えないといけないでしょう?」

 

 なんでも聞いてみたところ、薬家の中にはかなり神経質な人間が所属していることもあり、酒家だと見るや否や最悪手を上げようとする奴までいるらしい。うちは意外とそういう奴少ないんだが、まあいないこともない。

 ただ、そこまでになると薬家としても面倒は見切れないらしい。この前も一人追放した奴がいたそうだ。何がどうしてそこまで憎悪を駆り立てるんだ。酒瓶で殴られた経験でもあるのか。

 ちなみに、薬家の現当主は俺のことを気に入ってるとのこと。酒の有用性を承知な上、なんとか仕込んだものの良好な関係を築けてなかった俺たちの婚姻を、最近になってなんとか俺が軌道に乗せたため、随分機嫌が良いんだと。

 

「あ、あとせっかく来たのだから。これ、お土産。元々次の会合で渡すつもりだったのだけれど」

 

「──これは?」

 

 マドリーが液体の入った小瓶を渡してきた。色はうちでよく見る酒に似てるが、少し違う。

 

「これ、前回の実験で造った薬を貴方の家のお酒用に改良して混ぜ込んだものよ。持ち帰って確認してくれる?」

 

「!?」

 

 ──えっ、と。マジ……かよ。

 瓶の口がこっちを向いただけで、指が汗を噴いてきて、ガラスが滑る。なんとか時間が稼げると思ってたのに、コイツ、もう……? 

 

「味見自体は私だけでもできるし、効果は前回の実験で実証済みだから。勝手にまたあの部屋を借りて造ってきたわ。まだ予備があるから、必要あれば持ってくるわよ?」

 

「い、いや、いい! 今はいい。その、驚いちまった、まさかこんな早く作れるなんて」

 

「ふふふ、貴方を驚かせようと思って。その反応だと成功したみたいね」

 

「あ、ああ……」

 

 目の前のマドリーは自慢げだ、コイツ思ってたよりずっとすげえぞ。おかげで、これまでずっとずっとずっと欲しがってた「俺でも飲めるバレク家の酒」が今この瞬間にあっさり手に入っちまった。あっさりすぎて実感があんまり湧いてないってぐらいには……。

 待ってくれよ。体質的には完璧でも、精神面で俺はまだコイツを飲める段階にはねえってのに……。助けを求めに来たはずが、余計に焦る結果を突き出されちまった。クソ、どうする……? 

 

「──それで、相談というのは?」

 

 そうだ……相談だ。俺はリアン相手に無理だったからこっちに来たんだ。薬を造ってるってことはマドリーは人間の体の仕組みにも詳しいんじゃねえかと思って、俺は少しだけ、いや結構期待していた。

 そうだ、今ここで解決策が手に入ればなんとかなる。そうすれば俺は過去を克服できるし、この酒だって飲めて、目的を果たすことができる。

 指が震える。緊張か? いや違う、ここで首を横に振られれば俺はもう下がることができないぐらいに追い詰められるからだ。できるだけ悟られないようにしたつもりだが、若干声に焦りが乗ってしまいそうだった。

 

「……ああ。その、なんだ。昔の記憶を、上手い感じに消してくれる薬が無いか、探してる。ダチに嫌な経験を持ってるやつがいて、かなり困ってたんだ。それで」

 

「……なるほど」

 

 マドリーは一度だけ瞬きをして、指先でドレスの裾を整えた。客間の空気は落ち着いているのに、俺の胸だけがざわついている。椅子の肘を握る手に汗が滲む。

 

「それは所謂トラウマというものね。結論から言うけれど、薬で物事を忘れさせることはできないわ」

 

「──っっ……!」

 

 ああ……! 

 マドリーは先に釘を刺してきた。声は柔らかいのに、逃げ道を許さない調子だ。

 

「……っ、トラウマ」

 

「そう。やろうとすれば、判断力や思考能力の方が落ちるようになる。あまり割のいい交換とは言えない、でしょう?」

 

「なら、一時だけでもって話は?」

 

「一時でも駄目。後で大きな反動が来る。そもそも薬は精神状態まで変えるために使うものではないのよ」

 

 舌の裏がきゅっと縮んだ。そうか、ダメだったか。

 確かに頭の中を弄りまわす薬なら後にも影響が残るのは当たり前、か。いくら克服できるからって、それで旨いと感じる頭まで潰されたら意味がねえしな。

 

「薬に頼らなくても。トラウマなら、単純にそれを回避し続けるか、記憶と現実を分ける訓練をするか、安全な環境で再体験するか……。そういった風に対処できると思うわ」

 

「対処……か」

 

 ……回避はダメだ。俺だって飲まずに俺の求める酒を造れるならそれでいい。ただ、同じトラウマを持ってる奴に無理やり飲ませて実験するのは間違ってる。

 記憶と現実を分ける訓練ってのは現実的だが、それにどれだけ時間がかかるか分からねえ。もしすぐに結果が出ないのなら、できるだけ急ぎたい俺にとっちゃあまり意味がない。

 安全な環境での再体験ってのも、毒が入ってないと分かり切った俺が未だあの酒を飲めてないことが、無理だって何よりの証拠だ。

 ……詰んだな。

 

「その、気を落とさないで」

 

 マドリーもなんとなく俺の求めてる答えじゃないことが分かってるらしい。俯いて言葉尻を濁す俺に対し、言葉を探しているような気配がした。

 でも、なんとなく他に手が無いことは見当がついてる。すぐに答えが出てこないってことは、そういうことじゃねえか。

 途端の手の中の小瓶が憎たらしい存在に思えてきた。味が一緒ってことはトラウマは変わらず起こるってことだし、味が変わっちまったらそれは俺の飲みたかった奴じゃない。マドリーがこれだけ手をかけてくれたのに、俺は結局コイツを飲めねえんだ。

 

「役に立てるかは分からないけれど、少し前に、似たような症状を持つ患者様が来たの」

 

 するとマドリーは背筋を正し、テーブルの端に指をそろえて言った。

 

「その人は体内を非常に強力な毒物で蝕まれていて、その治療のために遠路からはるばるうちを訪ねたそうなのだけれど。同じように『トラウマ』を抱えていて、治療のついでにそれの相談を受けたわ」

 

 胸の奥がひやりとした。言い返す前に喉がひとつ鳴り、視線が勝手にテーブルの木目へ逃げた。

 

「ソイツ、今は?」

 

「今はここにいるわ。もう肉体は回復に向かってて、落ち着いてるところ」

 

「……ここに」

 

「本当に強力な毒物だったから、長期の療養が必要だったの。だから、処方した薬を飲みながら、診察の合間は客用の診察室で休んでいるのよ。完全じゃないけど、話せるし、歩ける」

 

 頬の内側を軽く噛んで、喉に溜まった熱を崩す。目の前のドレスの布が、灯りを弾いて小さく波打って見えた。「会わせろ、とは言わないのね」とマドリーが薄く笑う。

 

「『どうしようか』って顔、分かるわ。でも、身体が記憶に引っ張られる人の話は、私が話す薬の話より役に立つかもしれないわよ?」

 

「ありがとう、助かる」

 

 本当に助かった。これが解決策になるかどうかは分からないが、完全に途絶えた希望の光がもう一度差してきたような気がした。

 

「その、診察室の場所を教えてもらっていいか」

 

「客間を出て右。廊下を突き当たりまで行って、狭い階段を一階だけ上がる。突き当たりの扉に白い布を掛けてある部屋が見えるでしょう。侍女に声をかけてくれれば案内するわ。いまは日が傾く前で静かだから、向こうも話す余裕があるはずよ」

 

「ありがとう、本当にありがとう」

 

「いいえ。その『お友達』にもよろしくね?」

 

 マドリーは小さな紙片を取って、簡単な見取り図を書いた。墨の線が乾く前に、指で紙を押さえ、ふっと息をかけてから差し出してくる。

 俺は紙片を懐へ入れた。椅子を引く音が客間に転がって、侍女の動く気配が近づく。マドリーは扉のほうへ向かい、ドレスの裾が床を払う。

 最後の期待に、手の中で小瓶を握る力が少しだけ強まるようだった。

 

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 

「こちらでございます」

 

 侍女は俺が酒家の人間だって嫌悪感もまるで見せない素振りで案内をしてくれた。

 扉が吸い込むみたいに軽く開いて、薬草の苦い匂いが鼻に乗る。窓は白布で薄く覆われて、光が床の節だけ拾っている。寝台は低く、側に口の細い三つの瓶が卓の上で静かに列を作っていて、水の器と乾いた布も。椅子は窓際で、背もたれには薄い上着が。

 木の床は靴底の重みを吸ってほとんど鳴らず、薬草の苦みが喉の奥へ薄く張りついたせいで口の中が乾く。白布をかけた窓からやわい光が落ちて、辺りを薄く照らしていた。

 

 窓辺の椅子に、背をこちらへ向けた影。細い肩が布の下で尖っていて、摘んだ毛布の端を長い指がしならせる。節でいったん止まってから滑る、その手つきはどこかで見たことがあった。

 ──そうだ、あれは紙の束を数えてきた人間の癖だ。そう思った瞬間、気配を感じたのか、影がゆっくりこちらへ向き直る。

 

 灰がかった色の目で、冷たくはないのに輪郭がやけにくっきりしている。目の下には落ちきらない隈が濃く沈み、頬は若干削れて光の当たる角度で骨の出っぱりが微かに見えた。上唇は薄く、口角は力を抜いたまま下がり気味。首筋は細く、鎖骨の線が白い肌の上で一本浮いて、髪は乱れたまま耳の上で留まっている。背は座った姿勢のまま少し前に折れて、肩の尖りがその分だけ目立つ。

 

「──ああ、申し訳ない。気づかなかった。薬の時間だろうか?」

 

 俺を見てそうつぶやく目の前の女。

 視線がぶつかった瞬間、胸が一段沈み、足が半歩だけ止まった。唾にうすい鉄の気配が混じる。

 

「ベラ……か?」




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