光のない夜と鋭いメイド
俺は死んだはずだよな?
……何回目だ、これ。五回目か?
視界がぼんやりと輪郭を取り戻す。天井が見える。白くて、綺麗……ってことは屋内か。
体を起こそうとして、布の感触が肌に触れた。背中に柔らかい感触──ベッドだ。しかもかなり上等な、これまでの人生でも見たことねえぐらいの高級品。羽毛か何かが詰まってて、寝返りを打つたびに沈むような、盗賊の頃には一生縁がないと思ってた代物。森の地面じゃない、ちゃんとしたベッド。
「──ここ、は……」
声が出た。喉が渇いてない。喉が、渇いてない?
驚いて自分の手を見たが、指が五本ある。あの森で切り落とした指も、ちゃんと繋がってる。爪も割れてない。歯を舌で確かめる──欠けてない。全部ある。
──生きてる。
「っ……はは、マジか……!」
心臓が跳ねて、笑いが漏れた。全身の力が一気に抜ける。
おかしくて笑ってんのか、安堵して笑ってんのか、自分でもよく分からねえ。ただ、張り詰めてた糸が、ぷつんと切れた感じ。
持たなかったはずだ。あの森で、水もなく、食い物もなく、俺は確かに死んだ。ノエリスの声が最後に聞こえて、意識が途切れて──
なのに、今、俺は生きてる。
「なんだ、関係なかったじゃねえか……はは……!」
思わず声に出して言っちまった。誰もいない部屋で、一人で。
三週間。あれは、条件じゃなかったんだ。ただの思い込みだった、慎重になりすぎてた。森で死んだ俺は、三週間に届かなかった。結局、本当の条件は何なのか、それともそもそも条件なんてものがあるのか──でも今はただ安心した。こうして、また別の体で生きられてる。
「良かった……クソ、マジで良かった……」
拳を握れば、力が入る。筋肉が動くし、関節が軋まない。立ち上がれば、足がちゃんと動く。膝が抜けない。ふらつかない。
森での飢えが嘘みたいだ。腹も減ってない。喉も渇いてない。体は軽い。
服は……寝間着ってやつか、これ? 素材は絹だ、多分。肌触りが良すぎて逆に落ち着かない。袖口には刺繍まで入ってやがる。こんな上等なもん、文官の頃だって着たことねえぞ。
床に立った瞬間、足裏に柔らかい感触が。絨毯だ。厚みのある、上等な奴……ってことは、今回の俺は相当な身分ってことか? それとも、ただの金持ちの使用人?
「……すげえな、おい」
部屋を見回せば無駄に広い。寝台だけでも盗賊の頃の寝床より広いのに、他に家具がいくつもある。窓際には重厚な机。革張りの椅子。本棚には背表紙の揃った書物が並んでる。壁には絵画。暖炉まである。
……これ、使用人の部屋じゃねえよな?
鏡、鏡はどこだ。ああ、あった。壁に掛かってた。近づいて覗き込んで──知らない顔だ、当たり前だが。
三十代手前、くらいか? ちゃんと、してる顔だな。身なりに気を遣ってんだなってのが見て取れる。真面目そう、というか。きっちりしてそう、というか。
「……てことは、また『真面目なアシェル君』か?」
盗賊の俺以外、全員真面目だった。兵士も、文官も、酒家も、探検家も。
今回も、多分そうなんだろう。
まあ、いいさ。
真面目だろうがなんだろうが、どうせすぐ抜け出すんだ。今回は森みたいに出口が分からないなんてこともねえだろうし。
胸の奥で、また別の何かが動く。焦りじゃない。飢えでもない。渇きでもない。
リアン、マドリー、ベラ、ソラナ、タリエ、ルシア。全員、無事なのか。元気にしてるのか。俺が死んだ後、どうしてるのか。
「……よし」
拳をもう一度握る。
今回は、すぐに動くぞ。よっぽどの事情が無い限り、さっさと抜け出す算段をつけて、速攻で会いに行く。こんな豪華な部屋で、のんびりしてる場合じゃねえ。
生きてる。また、生きてる。五回目の成り代わり、六回目の人生だ。
「じゃあ、まずは──」
ここがどこで、俺が誰なのか。
それを確かめねえとな。
*
机の上に、紙の束を並べた。
この一時間で、片っ端から引き出しを開けて、書類を引っ張り出して、読み漁って。そして今、俺の目の前には、俺がどれだけヤバい立場にいるかを証明する証拠の山が積み上がってる。
「……冗談きついぞ」
一冊目。屋敷全体の管理帳簿。「倉庫・補修費」「警備・月給」「厨房・食材費」。使用人の数は数十人、規模がデケえな。
二冊目。人員配置表。門番、厨房、庭師。ここにあるってことは、全員俺が管理してるってこと。
まあ、ここまではいい。
三冊目。明らかに裏帳簿。「利息回収」「口止め料」「賄賂」。金額の横に、注釈。「二週間猶予」「処分済み」「担当官・継続」。
四冊目。債務者らしきリスト。「逃亡中」「家族を担保」「利息のみ回収」「処分検討中」。
五冊目。ヤバそうな依頼の記録。「暗殺依頼」「脅迫材料」「偽証工作」。ターゲット、方法、報酬、進捗状況。全部書いてある。
そして、最後の一冊。革表紙が黒い奴。最初のページに、金文字で名前が刻まれてた。
『ガルトン邸・執事長・アシェル』
「ガルトン、だと……!?」
種類に限らず、大体の人生で聞いた覚えがある。「また被害者が出た、ガルトンの詐欺だ」「証拠が出ないんだよ、いつも」「利息がえげつないらしい」「でも誰も訴えねえ、怖いんだと」。
王都で悪名高い、最近大成した大富豪。表向きは商人だが、裏では詐欺をしてるって話で──今この瞬間に恐喝、賄賂、暗殺までやってやがるのが判明した。
愛人はいるって聞いてるが、明確な家族は存在しちゃいない。主人のガルトン本人による完全な一枚岩で形成された、権力集中型の大富豪。
そして、その右腕が、執事長の俺。
「……マジかよ」
思わず頭を抱えちまった。
だって、今までで一番マズい立場じゃねえか。盗賊の頃より酷い。
盗賊はただの末端だった。捕まっても、せいぜい俺が首を落とされるだけだ。
でも今回は違う。犯罪組織の中枢、しかも管理職。裏の仕事を全部知ってるし、証拠も握ってる。
こんな奴が急に抜け出したら──殺される。間違いなく、口封じのために。ガルトンみたいな奴が、裏の仕事を知ってる執事長をただで逃がすわけがない。
「……そもそも会いに行けるのか?」
仮に抜け出せたとして、この顔で? この事実が知られてるかどうかは不明だが、今の俺は捕まってないだけで極悪とされているガルトンとこの執事長なんだ。警戒は避けられねえ。
ルシアは兵士だ。もしかすると俺の顔を知ってるかもしれない。もし元の体のアシェルがやってた悪事を知れば、その場で剣を抜いて制圧するだろう。
タリエとソラナは文官だ。ガルトンの噂は絶対知ってる。俺がそこの執事長だって分かれば、まともに会話できなくなるのは目に見えてる。
リアンにマドリーは、王都から離れてるからまだ──いや、あっちには療養中のベラがいるんだ。俺のことを知ってる可能性がある。様子を見にはいけねえ。
それだけじゃない。
「……俺が会いに行くことで、アイツらに危険が及ぶかもしれねえ」
ガルトンとこの執事長が、兵士や文官に接触した、または様子を確認しに行った。その情報が漏れたら?
ガルトンは、アイツらを「口封じの対象」と見なすかもしれない。または、うちの執事長が直接確認する必要があるほどの「警戒対象」になる可能性もある。俺が会いに行くことで、アイツらを巻き込んじまう。
……詰んだな。
ため息が勝手に出た。抜け出すのは不可能に近く、会いに行くのも危険。何もできねえ。
せめて、この立場を利用するぐらいか。執事長なら、外出の自由はある程度あるはずだ。仕事の名目さえあれば、街にすら出られないってことはねえだろう。
ただ、そうなるとさらに別の問題がある。
「……いつも通りだが、服の着方も、仕事のやり方も、全部知らねえぞ俺は」
兵士の頃は、周りを見て真似した。文官の頃は、タリエとソラナに教わった。酒家の頃は、リアンが助けてくれた。探検家の頃は、ウィスプが誘導してくれた。
おうおう周りに恵まれてんな。今の俺を見てみろよ。ここは犯罪組織、信用できる奴なんていない。下手に頼れば、それが疑いのタネになること間違いなし。
むしろこの場所で「昨日までできてた仕事を急にしなくなりました」なんて即殺しかもしれねえ。まあ、この資料を見る限り、そこまですぐ殺せるほど安い駒では無さそうだが。
じゃあ、どうする?
俺の行動や発言が大きな影響を及ぼさず、自由度はある程度保証されたまま、仕事内容を忘れていても周囲は違和感を持たない、かつ俺を殺す正当性もない。そんな方法。
「……記憶喪失、とかか?」
記憶喪失になったことにすれば、裏の仕事を忘れたことになる。服の着方も、仕事のやり方も、全部「忘れた」で通る。
見た限り元の俺は相当重宝されてた。ガルトンもすぐには始末できない、はず。まずは様子を見て、回復するのを待つだろう。それで初めのうちは誤魔化せる。
ただ、屋敷全体を管理してる、裏の仕事も知ってる執事長。そんな奴が、急に記憶喪失になった。
問題はガルトンがそれを「信じるか?」「疑わないか?」ってとこだ。最悪、「裏切るつもりだ」と思われて、その場で始末されるかもしれねえ。
「……リスクはあるな」
でも、他に方法が思いつかない。
このまま何もしなければ、いずれ「仕事」の時間になる。やるしかねえ。
目の前に暖炉の角が見えた。腹くくれよ、俺。
少なくとも疑われないように、マジで記憶が飛ぶ勢いで、血も出る勢いで、疑いようもないぐらいに……!
あっやべやらかした。先に出したもん片付けねえと──
*
部屋ん中色々片付けた次の瞬間に人が入ってきた時は流石に焦ったが、部屋の違和感よりも俺が頭から血を流してるって状況のおかげで、深く追及されないのは助かった。
額に巻かれた包帯の下で、鈍い痛みが脈打ってる。自分でぶつけた傷だが、思ったより派手にやっちまったらしい。これが演技じゃないって証明にはなるが、正直やりすぎたかもしれねえ。
今の場所は書斎。診察が終わって医者が丁度出ていったとこ。
部屋には、主人のガルトンと、メイド長のレミが残ってる。俺は額に巻かれた包帯に手を当てたまま、椅子に座って二人を見上げてる形だ。
へえ、コイツが噂のガルトンか。がっしりした体格で、顔には深い皺。目は鋭くて、笑ってない。服は上質で、指には指輪が三つ、高そうだ。
というか、かの大富豪ガルトンに、こんなにあっさり会えちまうもんなんだな。それだけ今の俺の立場がこの家で上ってことなんだろうが。
「本当に、何も覚えていないのか?」
「……すまな──あ、いや、すみません。自分の名前も、ここがどこかも、何も、はい」
俺は額に巻かれた包帯に手を当てたまま、小さく頷いた。声を弱々しく、視線は下げたまま。
「医師の話では、強く頭を打ったことで一時的に記憶が失われているとのことです。時間が経てば戻る可能性もありますが」
隣でメイド長のレミが補足を入れる。悪いがその医者はヤブだぞ、頭を打つ前から俺にはここの記憶が無いからな。前の記憶までぶっ飛ばずに済んだのは運が良かったよ。
対してガルトンの表情は読めない。怒ってるのか、疑ってるのか、心配してるのか。
「お前は俺の執事長だ。この屋敷の多くを管理している。それが……いやはや、困ったな」
言葉を切る。ため息をつく。困ったな、か。俺も困ってるぞ、お揃いだな。
で、今すぐにも殺そうとはしてないみたいだな。よし。
「とりあえず、しばらくは休め。無理に仕事をする必要はない、まずは回復を優先しろ。レミ、お前が代わりに、アシェルの職務を引き継げ」
「承知致しました」
短い命令。語気は荒くねえが、有無を言わさねえ感じ。
対してレミは低い、感情の薄い声。抑揚がねえ。
そのまま扉が開いて、閉まった。ガルトンとお付きの足音だけが遠ざかっていって、残されたのは俺とレミだけ。
レミは、二十代半ばくらいか。黒いメイド服と、白いエプロンに身を包んでる。短めの青みがかった黒髪で、顔は無表情、目は冷たい。まさに仕事人って感じのメイド──そして、この女も裏帳簿に「処分担当」として名前があった。
つまり、この女は暗殺要員として元の俺と仕事をしていたことになる。戦闘力があるってのはよくない、おかげでコイツこそが一番に警戒すべき危険人物だ。
「執事長」
レミが口を開いた。ただ、事務的な報告って感じの口調。それでも無意識に体が跳ねる。
俺はコイツとの元々の関係性を知らない。もし、レミが俺に敵対的な感情を抱いていたらここで締め落とされる可能性もゼロじゃない。警戒するに越したことはない。
「これから私が、執事長の職務を引き継ぐことになりました」
「……ああ」
「それに続き、重要な仕事の説明、加えて情報のすり合わせも行わなくてはいけません。記憶を失われた今、改めて整理しておく必要があるかと」
そりゃ……裏の仕事、ってことか。
「旦那様がおられる場ではお話ししにくい内容もございます。差し支えなければ、この後すぐ、二人きりでお話しできればと」
「……分かった」
レミの目が、じっと俺を見てる。瞬きをしない。月明かりが背中から差し込んで、顔の表情が読みづらい。
そして俺には他に選択肢はない。断る理由もねえし、断ったら余計怪しまれる。頷くしかねえ。
「では、部屋に移動しましょう。執事長」
*
応接室の扉が閉まって、二人が向かい合って、どれくらい経ったんだろうか。
そこまで時間が経った訳じゃねえ。ただ、これで自然な流れで仕事を教えてもらえると思ってた俺の期待と裏腹に、部屋に入ってからレミは一言も喋り出そうとしない。ずっとこっちを見てる姿が早々不気味ですらある。何を考えてやがるんだコイツ。
額の包帯に手を当てたまま、レミの顔に視線を向ける。目がじっと、こっちを見たまま瞬きをしねえ。まるで、獲物を狙う猫みたいな目だ。値踏みされてるような、試されてるような。
「執事長」
ん? ああ、やっと会話がはじま──
「記憶喪失、というのは嘘ですね」
……は?
顔の筋肉が強張る。心臓が跳ねる。何言ってやがる、コイツ。
「な、何を」
「惚けても無駄です。執事長の部屋で、裏帳簿を開けた痕跡がありました」
う、裏帳簿? 何、を……?
レミは淡々と続ける。感情の読めねえ声。でも、俺の心臓はバクバクうるさく叩いてる。
確かに、裏帳簿は読んだぞ。だが、きちんと片付けたし、痕跡っつったって、変に汚しちゃいないはず──
「裏帳簿のある執事長の机の最下段に血がついていましたよ」
あっ。
いや、確かにそうだ。書類は汚さないようとにかく気を付けたが、あの時の俺は頭から血を流してたんだ。そのままの状態で急いで片付けしてたんだ。頭を打った瞬間が記憶喪失した瞬間なら、紙が入ってる棚に血がついてるのは確かにおかしい。記憶喪失した後に正しい場所へ片付けてるってことになっちまうからな、確かに。
というか、紙に汚れがついてなくても、その近くが汚れちまう可能性があるのは当然じゃねえか。なんで忘れちまってたんだ。で、コイツはいつの間に部屋の確認なんかしやがったんだ。仕事ができるにしても限度ってもんがあるだろ。
「そして、普段の執事長なら、不注意で頭をぶつけるなどあり得ません。几帳面で、慎重で、失敗したことなど一度もない。つまり、わざと頭をぶつけて、記憶喪失を装った。そうでしょう?」
心臓がうるさい。喉が乾いてきた。マジかよ、元のアシェルはそんなに完璧な人間だったのか。なら、今の俺が完璧じゃねえことも察せってんだよ。
立ち上がったレミが俺の方へ、ゆっくりと近づいてくる。靴音が石床を叩く音が、やけに大きく聞こえる。一歩ごとに、心臓の音も大きくなる──マズい、完全に読まれてやがる。
「さらに言えば、旦那様との会話で、そのことを一言も言わなかった。つまり──これは任務ではない。執事長個人の、隠し事です」
レミが俺の前に立つ。見下ろす形になる。ガルトン以上に表情が読めねえ。
額の包帯の下で、傷がズキズキ痛む。手のひらに汗が滲む。
ここで、コイツがこんな話を持ち出すってことは、目的は──
「旦那様が隠し事を嫌うのはご存じのはず。私に従えば、この件は黙っていましょう。従わなければ──旦那様に報告します」
──脅迫、か……。
逃げ場がねえ。こっちは何の武器も持ってねえ。レミは暗殺要員で、戦闘力もある。ここで暴れても、勝てる見込みはねえ。それに、ガルトンに報告されたら、それこそ終わりだ。
「……分かった。従う。だから、黙っててくれ」
「賢明な判断です」
レミは満足そうに──いや、表情は変わってねえが、そんな雰囲気で頷く。そして、ゆっくりと元の席に戻り、背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いた。
「いや、でも、これだけは言わせてくれ」
「はい? 何ですか?」
それでも、これだけは言わねえと。今後の俺の生活に明確に影響が出ちまう。コイツは俺を「記憶喪失のフリをしているだけ」だと思ってるんだから。
レミが僅かに首を傾げる。そして──
「確かに隠し事はある、それは本当だ。でも、記憶喪失になっちまってるのも本当なんだ。だから──とりあえず先に仕事を教えてくれねえか」
「……はて?」
無表情が、初めて崩れた。
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