「納得できません……ですが、理解は致しました」
レミの声が、静かな部屋に落ちた。相変わらず抑揚のない声。でも、さっきより僅かに、ほんの僅かに、困惑が混じってる気がする。
俺は椅子に座ったまま、その声を聞いてる。これで状況は良くなったのか? 額の包帯の下で、傷がズキズキ痛え。自分でやっといて文句言うのもおかしいが、マジで痛え。
「隠し事をされている、しかし記憶を失われているのも事実。意味は分かりませんが、そう仰るのであれば今は受け入れましょう」
「……そうか」
お前の言い分を信じる訳じゃないけど、とりあえず今はそれで通してやるってことか。
まあそりゃそうだろうな。俺だって自分で言っててよく分からねえんだから、それでいいよ。というか、それ以上突っ込まれても困る。実際に隠し事はあるし、理由なんて言えるわけねえんだし。
「それで、これからどうするんだ?」
俺は椅子に座ったまま、レミを見上げる形で訊く。
これでとりあえず仕事を教えてもらえる算段はついた、はずだ。あとは、どこまでコイツに本気で教える気があるかだが。
「これより、執事長の職務を一から教えて差し上げます」
即答だった。迷いがない。準備してたみたいに、言葉が滑らかに出てくる。
「旦那様は執事長を信頼しておられます。ですので、記憶を失われたからといって、すぐに何か不都合が起こることはないでしょう」
言葉を選んでる、感じがする。
なるほど、ガルトンは俺を信用してる、ね。だから記憶喪失になったからといって、すぐに見捨てるようなことはしねえと。それはそれでありがたいが……含みがありそうな言い方だな?
「ただし──私が、執事長を無能と判断した場合は、話が変わります」
「……どういう意味だ」
「せっかく執事長を従える立場になったというのに、肝心の執事長が記憶喪失状態で役に立たない──それでは意味が無いのです」
意味が無いって、そりゃ……。
ていうか、コイツは何がしたい。俺を従えたいってことは、何か目的があるんだよな? 元の俺が気に入らねえ? ガルトンへの謀反? それとも他に何か?
「もし、執事長が私の指示を経ても職務を果たせないと判断した場合──残念ながら、不慮の事故というものが起こるかもしれません」
心臓が跳ねた。不慮の事故って、おい。
考えるだけでも例えば、階段からの転落、厨房での火傷、馬車の横転。どれも、この屋敷かつ目の前の女なら簡単に起こせるだろう。そして、レミはそれを「自然な事故」に見せかけることもできる。
「旦那様には、執事長が事故で亡くなったと報告致します。そして私が、執事長の職務を正式に引き継ぐことになるでしょう」
淡々と、まるで天気の話をするみたいに言いやがる。ただ、事実を述べてるだけ。それがかえって、俺の背筋を冷やしていく。
そして言い切って、僅かに首を傾げた。まるで、俺がどう反応するか観察してるみたいに。
「ご理解いただけましたか?」
……ちゃんとした脅しだ。仕事を覚え、その上で自分に従え。できなければ、事故に見せかけて殺す、と。実際にそれを出来るだけの力がレミにはある。
となれば。今の状況は、知識不足であり、弱みが握られていて、釈明する言葉も思いつかねえ俺が圧倒的に不利、ただ頷く以外にできることがねえ。
「賢明なご判断です。では、まず屋敷の案内から始めましょう。執事長が管理されていた場所を、改めてご覧いただきます」
「……ああ」
俺は立ち上がるのを見て、レミが先導した。廊下に出ると、冷たい空気が頬に触れて、窓から差し込む光が、床に長い影を作ってる。
やっぱりこの女が今回の人生における一番の強敵だ。ガルトンなんかよりもずっと俺の今後に関わってくる。
コイツの試練をいかにして乗り越えるか、そしてどうやってこの家を抜け出すか。
それが当面の目標になりそうだ。
*
レミの後をついて歩きながら、屋敷の広さを実感する。マジで広い。
廊下は長えし、曲がり角が多い。窓の数も数えきれねえ。盗賊の頃に忍び込んだ貴族の屋敷より、明らかにデカい。ガルトンってのはそんなに儲けてんのか。詐欺ってのはすげえな。
レミが扉を開けた。中から湯気と、肉の焼ける匂いが流れてくる。
天井が高くて、竈が五つもある。使用人が十人以上、忙しなく動き回ってる。皿を運ぶ音、包丁が俎板を叩く音、鍋がぶつかる音。
「こちらが厨房です。執事長は、こちらの食材の発注、人員配置、予算管理を担当されておりました」
……全部か? マジで?
俺が管理してたって言われても、全く実感が湧かねえ。こんな大所帯を回すだけでも大変だろうに。元の俺はどれだけ優秀だったんだ。
レミは既に次へ向かってる。俺は慌てて後を追った。
「こちらが使用人の部屋です。使用人の勤務時間、休暇の管理、給金の支払い──全て執事長の職務でした」
長い廊下に、扉がずらりと並んでる。十以上、いや、二十はあるか。
一つ一つに札がかかってて、名前が書いてある。誰が誰だか分からねえが、全員この屋敷で働いてる人間ってこと、だよな?
そうか。つまり、全員の生活を俺が握ってた、と。なんて責任だよ、記憶喪失じゃなきゃ初日で間違いなくぶっ倒れてら。
「そしてこちらが倉庫です。在庫の管理、補充のタイミング、業者との交渉──これも執事長の仕事です」
扉を開けると、薄暗い空間が広がってた。棚がいくつも並んでて、箱や樽が積み上げられてる。布、食材、酒、道具──何でもある。
「ご覧いただいた通り、執事長の職務は多岐に渡ります。全てを一度に覚える必要はございませんが。少なくとも、基本的な流れは理解していただく必要がございます」
レミは立ち止まって、振り返った。表情は相変わらず読めねえが、値踏みするような目だ。
なるほどな。こんだけの仕事を一人でこなしてたなら、ガルトンが信頼するのも分かる。だが、今の俺にはそんな能力ねえ。というか、記憶が無いから何をどうすればいいかすら分からねえ。
「では、次は──少し、特別な場所をご案内致します」
「……特別な場所?」
レミは廊下の奥へ進む。人通りが少ない方向だ。窓も減って、光が薄くなる。
やがて、階段が見えた。下へ続く、石の階段。
「こちらです」
レミが先に降りていく。俺も後を追う。
一段ごとに、空気が冷たくなる。湿った匂いがする。地下、か。
階段を降りきると、狭い廊下に出た。壁は石で、天井が低い。明かりは少なくて、松明が一つだけ。
レミが立ち止まって、右手の扉を指差した。鉄製の、重そうな扉。
「こちらが『処分室』です」
げえ……。
レミが扉を開けた。ギィ、と軋む音がして、中が見えた。
なんとなく良いもんじゃねえってのは分かってたが……いやもう完全に理解した。名前からしてもう思い知った。
石の床。壁には鉄の輪が埋め込まれてて、鎖がぶら下がってる。隅には木の台があって、その上に道具が並んでる。刃物、鉗子、鞭。どれも使い込まれてて、錆びてる。
床には、茶色い染みがいくつもある。血だ。間違いなく、血だ。
「こちらで、口を割らない債務者や裏切り者を『説得』致します」
レミの声が、やけに響く。
俺は黙って中を見てる。喉が渇いた。心臓がうるさい。
──ああ、思い出した。
盗賊の頃。牢獄で、処刑される前に見た石の床。冷たくて、湿ってて、鉄の匂いがした。
あの時と同じだ。ここも、同じ匂いがする。
「記憶を失われた今、実感が湧かないかもしれませんが。執事長も、以前はこちらで作業をされておりました」
作業。
つまり、元の俺はここで人を拷問してた。指を折ったり、爪を剥いだり、骨を砕いたり。そういうことを、やってたってことか。
レミが部屋の奥の浴槽の縁に手をかける。
……普通の風呂じゃねえ。深さが異常だ。人一人が沈められる深さで、縁には鉄の枷が取り付けられてる。頭を固定して、無理やり沈める用の……。
「この浴槽は特に効果的です。人は溺れる恐怖に、驚くほど早く屈します。痕も残りませんし、後始末も簡単です。外から状況を把握できますし、内容物も自由に変更可能です」
淡々と、まるで料理の作り方を説明するみたいに言いやがる。
浴槽の中は空だが、水が張られてる光景が勝手に浮かぶ。鉄の枷で頭を固定されて、無理やり沈められて、息ができなくて──背筋が凍えそうだ。
その気になりゃここを酸や生き物を入れたっていい。パニックになるのが早けりゃ早いほど、心をへし折るのは簡単になる。
失敗すれば、俺もあそこに入れられるのか……? 鎖に繋がれて、浴槽に沈められて……ゾッとしねえ。
地上に戻ると、窓からの光が眩しかった。廊下の空気が、さっきより温かく感じる。
レミは何事もなかったように、前を歩いてる。背筋が伸びてて、歩幅が一定で、まるで何も感じてないみたいに。
俺の額の傷が、また疼き始めた。包帯の下で、ズキズキと痛む。
さっきの部屋の光景が、頭から離れねえ。鎖の音、浴槽の深さ、鉄の枷。
元の俺は、あそこで何人殺したんだ?
答えは分からない。でも、きっと少なくねえ。
ガルトンに信頼されるほどの執事長ってのは、そういうことだ。表の仕事だけじゃなく、裏の仕事も完璧にこなせる。そういう人間だったってことだ。
今の俺に、それができるか?
──いや、できねえ。
盗賊の頃、人を殺したことはある。だが、拷問なんてしたことねえ。兵士の頃だって、文官の頃だって、酒家の頃だって、当然探検家の頃だって。誰かを苦しめて、情報を吐かせるなんて経験はねえ。
もう気分が最悪だ。額の包帯に手を当てたら、不安のせいか、傷がまだ痛んだ。
*
王都の商人街は、昼過ぎで賑わってた。人の波、売り声、馬車の車輪が石畳を叩く音。これまでの人生で何度か歩いた道だが、今は全然違う立場だ。
余所行きの仕事服を着て、レミの後ろを歩いてる。今日は仕事に慣れさせるため、記憶回復のためにってことで、レミがガルトンに提案して「仕事」に俺を連れ出してきた。
向かった先は、大通りから一本入った裏路地の看板のない古びた建物の前。人通りも店も少ない。窓に板が打ち付けられた建物が並んでて、扉に小さな覗き窓がついてる。牢獄の扉みてえだな。
レミが扉を二回叩く。間を置いて、独特のリズムでもう三回──合図か? 覗き窓が開いて、目が覗く。すぐ窓が閉まった後、鍵が外れる音がして、扉が開く。
「お待ちしておりました」
……なんだこの男。
四十代くらいか。顔に傷があって、ガリガリに痩せてる。こいつ、ただの商人とかじゃねえな。あからさまに「私はマトモな人間じゃありません」って雰囲気がしてやがる。
「お久しぶりです。ご機嫌如何ですか」
「おかげ様で。お二方もお変わりないようで。ではどうぞ、こちらへ」
お変わりあるんだけどな俺は、目に見えるような症状じゃないってだけで。
通された部屋は薄暗かった。窓が少なくて、ろうそくだけが明かりだ。奥に小さな机と椅子が二つ。壁には何も飾ってない。
男が椅子に座った。レミも向かいに座る。俺は後ろに立ったままだが、向こうは何も聞いてこない。何かあっても詮索するなって躾けられてるんだろうな。
「では、早速」
男が懐から紙の束を取り出した。薄い紙で、細かい字がびっしり書いてある。
「先月お願いされた件、こちらが報告書です。北の商人ギルド、南の港湾局、東の貴族連中──全て調べました」
「ご苦労様です」
レミが紙を受け取って、目を通す。表情は変わらない。でも、視線の動きが速い。
「特に注目すべきは、港湾局の局長です。裏で密輸に関わっているとの情報があります。証拠もこちらに」
「証拠の信憑性は?」
「確実です。こちらで裏を取りました」
男が別の紙を差し出す。
レミが頷いて、紙を懐にしまう。慣れた動きだ、当たり前だが今日が初めてってことは無さそうな感じ。
「では、報酬です」
「……ありがとうございます」
レミが小さな革袋を机に置いた。じゃらじゃらした音、金貨とかだろうか。
男が袋を開けて、中身を確認した。目の反射が中身を教えてくれる、やっぱり金貨みたいだ。
てことは……情報屋、か?
こういう奴、盗賊の頃にも何人か知ってた。裏の情報を集めて売る仕事。危ねえ商売だが、需要はある。最も俺みたいな下っ端は関わることもあんまりなかったが。
で、ガルトンはこいつを使って、色んな奴の弱みを集めてる、ってことか。脅迫のネタにするために、へえ。
その後は特にやり取りをすることもなく。男が「ガルトン様に宜しくお伝えください」とだけ言って終わった。
外に出てもレミは休もうとする気配を見せないまま、「次に向かいましょう」と言ってまた歩き出す。
なるほどな。楽ではあるが、重要な仕事だ。ひとたび襲撃を受ければ無事に帰ってこれない可能性のある使用人に任せられるような内容じゃねえ。相手への顔パスも必要になる。
レミがさせたかったのは、こういう仕事の雰囲気を俺に覚え込ませることか。覚えたところで俺に務まるかどうかは疑問だが。
まあいいか。今はとにかく俺が失望に値するような人間じゃないってことを少しでもアピールしねえと──
「執事長、一つお頼みしたいことが」
「……何だ?」
「次の取引所なのですが、兵士の巡回が多い場所なのです」
レミが路地の先を指差した。角を曲がったところ、確かに人影が見える。槍を持ってるってことは、兵士だな。
だからなんだ、いつもはどうしてたんだ、やっぱり兵には見せられないことなのか。
「ですから、私が入ってから出るまでの間、兵士の注意を逸らしていただけますか? 方法は問いませんので」
「は? 注意を逸らすって……」
レミが冷たい目で俺を見てくる。
いや待ってくれよ。俺はガルトン家の執事長で、悪い意味でそこそこ顔が割れてるんじゃねえのか。今まで順調だったのに、記憶喪失だったはずの俺に、どうしてそんなリスクのあることを──
「これから私に従っていただく上で、少なくともそれぐらいはできて当然です。できなければ……少し評価を再考せざるを得ないでしょう」
──まさか。
俺が使えるかどうかを、試すために……なのか? 今日連れてきた本当の目的はそれか、この女? 「この程度」のこともできなきゃ、役に立たねえから……って、冗談だろ……?
「では、よろしくお願いします」
レミはそう言って笑う。
相変わらず感情の読めないその顔で見送られて、俺はもう後ろに戻れなかった。
*
──クソ、どうする。
俺を見張る人間はいなくなった。でもそれは、逃げられるようになったって意味じゃない。むしろ逃げれば数時間後にはレミの足元で冷たくなって動けなくなるだけだ。
じゃあ俺は何としてでも今を乗り切るために、あそこにいる兵士をなんとかしなきゃいけない。できなきゃ結果は逃げたときと同じ。
物音を立てる、話しかける、わざと何かを落とす。やりようは色々あるが、ここは王都の路地だ。不自然な行動をすれば、逆に怪しまれる。
兵士が俺の顔を知ってるとも限らねえが、もし向こうが俺に見覚えがあるだなんて言おうものなら、余計に疑われる隙を作るだけ。レミの指示は全くこなせなかったことになる。
どうする? 一体どう──ああ畜生。落ち着け、俺。焦りすぎても何もねえ。
今はただあの兵士がどう動くかを観察するんだ。そこから結論を考えたとしても別に遅くはねえ、は……ず……。
「ふう……」
目線の先の兵士が兜を脱いだ。暑かったのか、目にゴミでも入ったかは知らないが、ハンカチで顔を拭って、水袋から水を一口含む。
結い上げた髪、力強い目つき、見覚えのある横顔。
その顔を俺はどこかで見たことがある。いや、どこかなんてもんじゃない。一時期毎日のように顔を合わせてた。別れてからそれっきりだったが、確かに、ここにいてもおかしくはない人間。
「ルシ、ア……?」
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