──ルシア。
待て、なんで俺は口に出した? 頭の中で思うだけでよかったのに、声が勝手に漏れちまった。ああ、なんでこんなとこにいんだよ。これが他の顔も名前も知らねえ兵士なら悩んだりしなかったのに!
ルシアの動きが止まる。
兜を脱いだまま、水袋を持ったまま。顔が、ゆっくりとこっちを向く。随分遠い位置だったはずなのに、正確に俺のいる方向を、いや俺のいる場所そのものを捕捉してる。
「……どうして、私の名前を」
低い声。驚きじゃない。警戒だ。目が細くなって、視線がまっすぐ俺を捉えてる──マズい。
体が先に動いた。踵を返して、走る。路地の奥へ──
「ッ! 待ちなさい!」
クソ、なんでこんな状況になっちまったんだ!? レミの指示は「兵士の注意を逸らせ」だった、それだけだ。なのに、まさかその兵士がルシアだなんて、考えもしなかった。
──いや、考えるべきだったんだ。ルシアは正規の兵士になった。巡回任務につくのは当然だ。王都のどこで会ってもおかしくない。
でも、会っちゃいけなかったんだ。
俺は今、ガルトンの執事長だ。悪名高い詐欺富豪の右腕。裏の仕事も知ってる犯罪者。そんな奴が、真面目な兵士のルシアに会えば──警戒されるし敵対される。当たり前だ。
それに、もし俺がルシアに出会っちまえば。
ガルトンの執事長が、一般兵士に絡まれて問題になった。それをガルトンがどう思うか、ルシアの身に何か起こるのは間違いねえ。それをレミがどう思うか、俺は「不慮の事故」の被害者に早変わりだ。
角を曲がれば樽が並んだ路地。人は……いねえ。
よし、走れ俺。息なんざ上がったって構わねえ。
「ハァッ……ハァッ……クソ……!」
「待ちなさい!」
背後の足音が近づいてくる。速いな、いやちょっと速すぎ……はっや!?
なんだ、なんでこんなに速えんだ!?
兵士の頃、ルシアと一緒に走った。朝の外縁を、三周、四周、五周。あの頃は俺の方が速かった。いや、少なくとも同じぐらいだった。競り合ってたんだ。
なのに、今は全然違う。距離がどんどん縮まってくる。背後の気配が迫ってくる。影が伸びる。
なんでだ? 今の俺の体があの兵士の頃とは違うからか? 俺が気づかなかっただけで、あの時からルシアにはめちゃくちゃ才能があったのか?
──いや、それだけじゃない。アイツ、正規の兵士になってから、どれだけ鍛えたんだ? 見習いの頃とはスピードも、技術も、全部上がってる。俺が知ってるルシアじゃねえぞ。
それでも逃げなきゃいけねえ。ここで捕まるわけにはいかねえんだ。
大丈夫、元々の指示を考えれば、ここでルシアを撒きさえすればいい。そうすりゃ兵士の注意は引いたことになるし、問題なく帰ってこれれば完全な無能とは思われねえだろうし、俺とルシアは出会わなくて済む!
「待ちなさい! そこの男!」
だから! 諦めてくれよ!
*
次の角を曲がれば──うぉわっ!?
石畳が、濡れて。クソ、体勢が──
「──っ!」
視界の端に影が差した。そう思った次の瞬間、体勢が崩れる──肩に衝撃。
何が起こった? 分からねえ。分かる前に、すげえ力で背中が地面に叩きつけられた。
「っ──があ!」
息が詰まる。肺から空気が全部抜けたんだ。
そのまま間髪容れずに腕が捻られて、背中に回された。動かせねえ。背中に重たいもんが乗った感触──こりゃ膝、か。
「動かないで」
耳元で声がする。やっぱりルシアの声だ。この声聞いたのは兵士の頃以来、か……? あの頃とは込められてる感情が正反対だが。
抵抗したいが身動き一つとれねえ。完璧に固められちまってる。最優秀成績ってのは伊達じゃねえってことかよ。大の大人数人でかかってもまるで話にならなさそうだな。
「あのガルトン家の人間ね。何故私の名前を知ってるの? 何が目的で私に? 答えて」
どうする、どうすりゃいい。膝が背中に食い込んで痛え。
このまま黙ってりゃ、連行される。兵士に引き渡されて、ガルトンの執事長として取り調べを受けるのは確実だ。それはもう色んな意味でマズい。
かといって、正直に俺のことを言っても信じてもらえるわけねえし、仮にも赤の他人が「俺はお前の死んだ元相棒だ」なんて抜かしたら──どう考えても怒らせるだけだ。
でも、適当なことを言えば後で辛くなるだけ、だから決定的な一撃を叩き込まねえと、どっちにしろ詰む……!
「早く」
「っ、俺は──」
膝の圧が強くなる。息が、しづらい。
クソ、何て言えばいい? 何を言えば──
「──アシェルだ!」
「……っ!?」
「俺は、アシェルから、王都の兵士の、お前の事を聞いた……! それで知ってる、だけだ!」
背中の膝が、止まった。
圧が、ほんの少しだけ緩む。よし、よし!
思いついたのは文官時代にベラにもやったこの方法だ。「アシェルの現在を知る人間」としての立場を偽る。
相手が「アシェルと共に過ごした時間」と「アシェルは死んでいるはずという前提」を持っているなら、「今もアシェルは生きていて」かつ「俺はその伝言役に使える」と主張することで、相手の敵意を無視して対話に無理やり持ち込める。
いざこざを一旦保留させつつ、今の自分とアシェルが同一人物であるという信じられないような真実を言わなくてもいい状態に持っていけて、かつ伝言役という体でアシェルの感情や思考を俺本人が代弁できる。自分で言っておいてなんだが訳分からねえなこれ。
「……何、ですって?」
声が変わった。
冷たさが消えて、何か別のものが混じった。驚き、期待、それとも──
「もう一回言って」
「アシェルから、聞いたんだ。お前の名前を」
「……ッ」
ゆっくりと、膝が完全に離れた。腕を掴んでた手も緩む。
背中から重さが消える。ルシアが息を呑む音。立ち上がる気配。
「アシェルから? あなたが? 本当に? 王都の兵士の私って……ここに来る前に、アシェルはもう──」
声が震えてる。さっきまでの冷静さが全部消えた。
やっと体を起こせるぞ……背中が痛え。
ルシアは立ったまま、俺を見下ろしてる。冷静さの代わりに他の感情が漏れ出してた。これは、怒りか、興奮か──それとも、別の何かか?
目が揺れて、唇が震えてる。ただ、そのまま俺の目をしっかりと見ながら、強すぎるぐらいの力で俺の腕を掴んで、短く言った。
「場所を、変えるわ。ついてきて」
*
引きずられるように歩かされて、気づけば建物の陰に入ってた。人通りがなくて、壁に囲まれた狭い空間で、外の音がやけに遠く聞こえる。
ルシアが立ち止まって俺を壁に押し付けた。逃げ場がねえ。
「じゃあ、聞かせて。アシェルは、生きてるのね? どこにいるの、いつ会ったの、何を話したの。全部、詳しく教えること」
ルシアが顔を上げた。さっきまでの動揺は消えてるが、目の奥にまだ何かが燻ってて、それが時折表面に浮かび上がってる。
「それは──」
「ああ待って、嘘はつかないで。まず初めに証拠を出して、それが無いなら信用できない」
来たか。
ルシアの表情が僅かに睨みを強める。まるで「過去にも騙されたことがある」って言いたげな、相手を信用しきれてない表情。いやまあ俺を信用するのは間違いで正解なんだが。
でも想定内だ。ルシアは頭がいいから簡単に信じるような奴じゃねえ。だからこそ俺には兵士時代の記憶があるからそれを使えばいい。あんまり詳しく話しすぎれば、「なんでそこまで知ってるんだ」ってなる。かといって曖昧すぎれば信じてもらえねえ。バランスが難しいが、とにかく具体的に、でも不自然じゃない範囲で、確実にルシアとアシェルしか知らない内容──つまり。
「アシェルからは、朝、兵舎の外縁を走ってたって話を聞いた。三周から始めて、次は六周だったはずだが、その約束を果たせてないのが気がかりだ、と」
「……っ!!」
これだ。あれは俺が死ぬ寸前にしてた約束だ。あれの直後に俺は死んだはずだから、そのことを事前に知っている他の誰かってのは存在しない──アシェルが生きているという前提が無い限り。
ルシアの喉が小さく動いた。呼吸が浅くなってる。目を見開いて、何かを確信したみたいに──
「じゃ、じゃあ……! アシェルは、本当に、生きてる、のね……? 死んでなかった、そうなのよね?」
声が震えてる。さっきまでの警戒心が消えて、代わりに溢れ出してるのは──喜び、だ。純粋な、隠しきれない喜び。
てか揺らさないでくれ、お前力強いんだから。
「あ、ああ。よく装備をつけ間違えてただとか、王女を守る兵になることが夢だとか、他にも色々聞いてるぞ」
「そう、そうよ! 本当に、本当なのね、良かった……!」
追加でいくつか言えば、ルシアの手が俺の肩から離れて、自分の口元を覆った。
息を整えようとしてるのか、それとも感情を抑えようとしてるのか分からねえが、目が潤んでる。でも、間違いなく喜びを隠しきれないような態度で。
「もう、アシェルったら。私のことをそんなに他人にべらべら、と…………あれ……?」
まだ俺自体への警戒は溶けてなさそうだが、それでも、さっきまでの鋭さが少し和らいでるのは確かだ。死んだと思ってる奴が生きてたっていう証拠が出てきたんだからな、喜びが勝ってるんだろう。
「──じゃ、じゃあ。なんであなたがそれを知っているの? アシェルは今どこに? いつなら会える?」
「うっ……」
しまった。来ちまった。一番答えづらい質問だ。
どうする、何て言えばいい。
「それは……言えない」
「──どうして?」
ルシアの目が細くなる。さっきまでの喜びが消えて、また敵意が戻ってくる。
ここで「すまない、嘘だから会わせられない」なんて言っちまえば槍で脳天まで一直線に貫かれても文句は言えない。かといってガルトンの屋敷にいるなんて言ったところで、ルシアは「監禁されてるのね、救出しなきゃ」と乗り込んでくるのが間違いないだろう。そうなったら俺もルシアも無事でいられる保証がねえ。
「言えないって、どういうこと。生きてるのは分かった、でも会えないの? 理由を教えて」
「それは……」
咄嗟についた嘘だから頭が回らねえ、何て言えばいい。会えないって言えば、絶対に理由を聞かれる。理由を曖昧にすれば疑われる。真実なんか言えるわけがねえ。嘘をつくしかねえが、どんな嘘なら信じてもらえる? どんな嘘なら、ルシアを納得させられる?
なんとか、「王都の兵士としてのルシア」があきらめざるを得ない、少なくとも今すぐは動けない理由が要る。それってどういうのだ。考えろ、考えろ、考えろ──
「アシェルは、今……自由に動ける立場じゃないんだ」
また咄嗟に言葉が出た。自分でも何を言ってるのか分からなかったが、口が勝手に動いた。
ルシアが一歩前に出る。距離が近い。圧がすげえ。背中が壁に押し付けられて、逃げ場がねえ。
「自由じゃない? どういうこと? 詳しく教えて。なんでアシェルは自由じゃないの? 何があったの? どうしてあなたがそれを知っているの?」
「その、アシェルは今……ガルトンに、あくまで『合法的な手段で』縛られてる。だから会えねえ」
「ガルトン……? あの男が、アシェルを……?」
また咄嗟に出た。クソ、何言ってんだ俺。でも、他に言いようがねえ。
とりあえず俺がガルトンとこの人間だってことはバレてんだ。だから、この言い方なら、俺がアシェルの現在を知っていても矛盾にはならねえ。『合法的な手段』って言い方ならルシアの特攻だって封じられる、コイツは法を遵守する兵士なんだ、法を無視してまで探索を強行なんて今すぐにはできる訳がない、はず。
俺の言葉を飲み込んだのか、ルシアの表情が徐々に変わっていった。眉が寄って、唇が引き結ばれる。
……怒りだ。コイツめちゃくちゃ怒ってる。
「あ、ああ。詳しくは言えないが、『合法的な手段』で、自由を奪われてる。だから今すぐに会ったりとかはできねえ」
嘘だ、全部嘘だ。でも、ガルトンならやりかねねえ話だから、説得力はあるはずだ。実際、似たようなことをやってるのは裏帳簿で見た。だから、信じてもらえるかもしれねえ。
急に槍玉に挙げられてガルトンには悪いんだが、普段からあくどいことやってるみたいなんだから見逃してくれ。少なくとも今ここでこう言っておかねえと、怒りに身を任せたルシアが正当性を武器に屋敷まで突っ込んできそうなんだ。
「──そう……! そう、あのガルトンが、よりにもよってアシェルを……そう……!」
あれ、これ大丈夫か? なんか変なとこに火つけちまった気がするんだが、いいのか?
……大丈夫だよな? ちゃんと踏みとどまってくれるよな?
*
……いつまで考え込んでるんだ。目の前のルシアはずっとぶつぶつ呟きながら下を向いてる、俺への注意は緩めないままに。
レミはもう用件終わらせたのか? 結果だけ見れば俺はもう十分すぎるほどに時間を稼いだぞ。これでこの場が何事もなく収束すれば万歳なんだが。
「ねえ、あなた」
俯いて何かを考えこんでたルシアが顔を上げる。
さっきまでの怒りの表情が消えて、代わりに浮かんでるのは──笑顔? いや、笑顔じゃねえ。笑ってるように見えるが、目が笑ってねえ。冷たい、何かが壊れたような目だ。
「あなた、ガルトンの部下なのよね。一緒にいるのを見たことがある。そうよね?」
「あ、ああ……」
なんだ、この空気。さっきまでの怒りとは違うような……。
「なら、話は早いわ。私に協力して。ガルトンを裏切って、私について」
「……は?」
な、何言ってんだコイツ……?
いや待て、落ち着け。
今の俺はガルトンの執事長で、ルシアは兵士で。ルシアは兵士の俺が生きていると思ってて、その俺を助けたいと思ってる。そして──目の前にはガルトンの部下にもかかわらず、内部情報って体の「アシェルの現在について」をただ垂れ流した俺がいる。
……あれ?
「アシェルを解放するの。あなたが内側から協力してくれれば、さらに『合法的な手段』でガルトンを追い詰められる。証拠を集めて、訴えて、法の裁きを受けさせる。そうすればアシェルは自由になれるはず。だから、協力して」
ルシアが一歩近づく。距離がさらに縮まる。息が掛かる距離だ。
確かにそうだ。もし本当に兵士のアシェルが生きてたとして、ガルトンに囚われてて、目の前にガルトンの内部情報にアクセスできる、しかも簡単にそれを喋ってくれるカモみたいな奴が現れたら……。
いやいや待て待て、行動が急ぎすぎだ。俺がガルトンを裏切る? 証拠を渡す? そんなことしたら、レミに気づかれちまう。気づかれたら、俺を待ってるのは「不慮の事故」だ。だから──
「もし、嘘だったら」
ルシアの手が、俺の喉元に伸びた。触れてはいない。でも、その指先が喉のすぐ近くにある。
「もしあなたが嘘をついてて、アシェルが本当は生きてなかったら──その時はあなたを殺すわ」
「!?」
は……えっ……? 殺す……って?
えっ、嘘なんだが。兵士のアシェルはもう生きてないんだが。俺死ぬのか?
「私は兵士だから、法は守るわ。でも私の大事な人の事を引き合いに出して騙そうとしたりするなら、流石に黙ってるわけにはいかないから。正当防衛とか、職務中の事故とか、そういう理由をつけて、どんな手段を以てしてもあなたを殺してみせる」
指先が、僅かに喉に触れた。冷たい。
「私、ずっと待ってたの。アシェルは生きてるって言われて。でもあの文官の男は約束を守らなかった。助けてあげたのに、結局来なくて。おかげでアシェルの事は分からず終いで」
文官の男に、約束って……まさか、その時からずっと引きずって……。
いや、違う。コイツは、兵士の俺が死んだその時から、今に至るまでずっと俺の事を引きずってやがるんだ。それが今、変な形で出力され始めてる。
「だからやっぱりアシェルは死んでたんだって、諦めようとしてた。諦めなきゃいけないって、自分に言い聞かせてた」
「お、おい、待て──」
「待たない」
ルシアの目が据わってる。正気じゃねえ。いや、正気ではあるんだろうが、何かが壊れてる。踏み外してる。言葉が溢れ出てくる。感情が漏れ出てる。
「でも今、あなたが確かに言った。アシェルは生きてるって。証拠も出した。なら、もう諦める理由なんてないわ。何をしてでも、アシェルを取り戻す。法を守れる範囲で、ギリギリまで。それでもダメなら──」
指先が、喉に食い込む。痛え。
「法を、破ってでも」
──マジかよ、コイツ。
確かにあの動きができるコイツなら、敵が何人いようと問題じゃないのかもしれない。屋敷に乗り込んで、俺も殺して、ガルトンも殺して、そういうことだってできかねない。
でもコイツ、こんな奴じゃなかっただろ。いくら引きずってるとは言え、人を殺して動揺するような女だったはずなのに、法を無視するなんて行動とは程遠い真面目な女だったはずなのに。何が、どうして、こんなに──
「どうなの。答えて」
完全に板挟みだ。レミからは「無能なら殺す」と脅されてる。ルシアからは「嘘なら殺す」「裏切らなければガルトンごとまとめて殺す」と脅されてる。どっちかに明確に従えば、自動的にもう片方が俺を殺す仕組みになってやがる。
ルシアの目が、じっと俺を見てる。喉に食い込む圧が、強くなる。「その気になれば今この瞬間にもお前を殺せるんだぞ。分かってるよな?」って言いたげに。
息が乱れる。視界が揺れる。
クソ、どうしてこうなった。考え無しに嘘ついたとはいえ、こんなはずじゃ。こんなはずじゃなかったのに──
「もちろん。私に、協力してくれるわよね?」
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