商人街を抜けて、次の通りへ向かう道。太陽が傾きかけてて、建物の影が長く伸びてる。窓からの明かりが増えてきたな、そろそろ夕暮れか。
レミは俺の半歩前を歩いてる。背筋が伸びてて、歩幅が一定で、変わらずただ黙々と前を向いて歩いてるだけ。服の裾が規則的に揺れて、靴が地面を蹴る音だけが淡々と続いてる。特に何も言ってこない。……不気味だ。
あれで、良かったのか?
さっきルシアと別れて、路地から出た後ほどなくして、レミは俺に合流してきた。レミは特に変なことも言わず、問い詰めもしなかった。ただ、「お疲れ様でした」と短く言っただけだ。つまり、レミから見れば──俺は「上手くやった」ように見えてる。そういうことなんだろう。
でも、本当にそうなのか? 本当に、あれで良かったのか?
元々は「建物に入ってから出るまで兵士の注意を引いていろ」が指示だったはずだから、外に出られてるってことは一応指示は完了してるってことになる。俺はルシアに捕まって、嘘をついて、脅されて、二重スパイを強要させられた。それを、レミは知らない。知りようがない。だから、「問題なかった」と思ってる。
ただ、初めの追いかけられてたとこは見られてただろうし、レミはもっとスマートな解決法を望んでたかもしれない。コイツの有能無能の基準が分からねえから、どういう対応を取るべきだったのか、どこまでいけば合格だったのかが未だに掴めねえ。
ただ、とにかく今は何も言われてない。それのおかげでかえって不安になっちまう。自分で「さっきの俺はどうだった?」なんて聞くのもらしくない気がするし。
何か言ってくれれば、少なくとも俺の立ち位置が分かるんだが。「よくやった」と言われれば、とりあえず今日明日で殺される心配はない。「怪しい」と言われれば、言い訳を考えなきゃいけない。
遠くで馬車が通り過ぎる音がする。商人が客を呼び込む声が響く。子供が笑いながら走ってく。日常の音だ。平和な音だ。
「執事長」
不意に、レミが口を開いた。
「な、何だ」
「先ほどの件、お見事でした」
……お見事。……そうか。
「記憶を失われた状態で、よくやれましたね。問題なく戻ってこられたようで、何よりです」
「……運が良かっただけだ」
「そうですか」
それだけ言って、レミはまた黙った。歩くペースも変わらない。表情も変わらない。ただ前を向いて、淡々と歩いてる。
問題なく、か。やっぱりそう見てくれたのか。
そう見えてるなら、それでいい。少なくとも、レミは俺を疑ってない。じゃあ、今すぐ殺される心配もない。とりあえず、今日のところは──上手くいった、ってこと、だよな?
気持ちだけだが、さっきまでとは空気が違う気がする。僅かに、ほんの僅かに──レミからの敵対的な意識が緩んだ気がする。歩調が少しだけ穏やかになった気がする。
てことはやっぱり、コイツは俺を試してたんだな。
俺が「記憶喪失で何もできない無能」なのか、それとも「記憶喪失でもある程度は動ける人間」なのか。一応、俺は兵士に捕まった状態から和解したような素振りで通路を出てきた、それが問題を解決し時間を稼いできた姿に見えたってことだよな。それで「使える」と判断した。少なくとも、「すぐに処分する必要はない」と思ったんだろう。
それは、良いことだ。レミに認められれば、当面の命は繋がる。
でも──
今の俺には、レミへの恐怖と、ルシアへの恐怖の両方が胸の中で渦巻いてるままだ。
レミには「無能なら殺す」と言われてる。
ルシアには「嘘なら殺す」「裏切らなければガルトンごと殺す」と言われてる。
どっちが怖いかって聞かれたら──そりゃ、レミだ。
ルシアは──あのルシアは、確かに怖かった。目が据わってて、喉に指を当てられて、凄まじい圧があった。あれは本気だった、あんな顔ができるだなんて思ってもみなかった。
でも、ルシアは本来優しい奴のはずだ。根っこは真面目で、誠実で、人を殺すことに抵抗がある。だから、もし俺が本当に殺されるとしても──それはルシアにとっても辛いことのはずだ。罪悪感に苛まれたり、後悔したりするんだろう。夜中に目が覚めて、自分が何をしたのか思い出して、吐くかもしれない。相手が今すぐには裁けない犯罪者の部下で、その上「アシェル」のことを口にした、だからちょっと冷静さを失ってただけなんだろう。
そもそもルシアに殺されるってのは、なんか嫌だ。あのルシアに、そんなことをさせたくない。王女を守る兵になることが夢だったアイツが、俺なんかを殺してその夢を汚すなんて──そんなの、あっていい訳がねえ。
それに比べて、レミは何もかも違う。
コイツは、躊躇わない。感情を見せない。「処分する」って言ったら、本当にそうするんだろう。しかも、「不慮の事故」に見せかけて。
実際にコイツが俺に力を見せたことはない、ただ情報として知ってるだけだ。ただ、コイツが時折見せる殺意みたいな奴は肝の底から俺を冷やしちまう。あれは並大抵の人間が出せる覇気じゃねえ。舐めてかかっていい訳がない、もしかしたらルシアよりもずっと強いのかもしれねえし。
あー、クソ……。
なんでこうなった……。
ガルトンたちを誤魔化すために記憶喪失を偽装して、でもレミには一瞬でバレちまって。
外に出る機会は得たけど、その先でルシアに会って、嘘をついて、二重スパイにさせられて。
全部、俺の選択の結果だ。でも、こんなつもりじゃなかった。
周りの喧騒が遠い、耳に入ってこない。頭の中が、ルシアとの会話でいっぱいだ。
いくら追い詰められてたとはいえ、俺はどうして──あんな契約しちまったんだ。
*
「協力……って、具体的には──」
「ガルトンの内部情報を流して」
俺が聞き終わる前に答えが返ってくる。迷いの欠片もない。とっくに決めてたみたいに。
「犯罪の証拠、取引の記録。何でもいいから、ガルトンを裁くための材料が欲しいの」
「待て、そんな簡単に──」
「お願い」
有無を言わせない口調だった。一応お願いとは言ってるが、交渉の余地がない。俺の意見なんて最初から聞く気がない。
頭を使う高度な交渉をしてくるなんて思ってはなかったが、主導権がルシアにある以上、多少力づくな無理やりの交渉でも俺は従わざるを得なくなる。だから俺にできることは、とりあえず話を聞いて、飲めそうな条件だけ飲んで、あとは何とか誤魔化すことだ。
ガルトンに肩入れしすぎるつもりはないが、ルシアに傾きすぎてもいけねえ。今の俺にはレミっていう、扱い方を間違えればその瞬間に爆発する爆弾があるからな。
「定期的に連絡して。十分な量と確実性を準備できたらそれを持って然るべき機関に通報するわ」
「定期的って言われても、俺は自由に動ける訳じゃ──」
「基本的には王都の南門近く、廃棄された礼拝堂があるでしょ。あそこなら人目につかない。私が定期的にそこへ行くから、あなたも週に一度来て」
こっちの都合なんて関係ない。全部ルシアのペースだ。
南門近く、か。確かに、ガルトン邸からは随分離れてる。人通りも少ない場所だ。密会するには都合がいいのかもしれない……けど。
「機会があればって、そんな曖昧な……」
「あなたが来られないなら私が別の方法を考える、手紙とかでもいい。情報を流す手段はいくらでもあるし。大丈夫、もし無理なら最悪私からガルトン邸に行くから」
なら死ぬ気で行くしかねえじゃねえか。
お前をわざわざあんな危ない場所に来させたくねえんだが。
ルシアが一歩踏み込んでくる。距離が縮まった。もう壁に背中が張り付いてて、これ以上下がれない。綺麗な目が、じっと俺を見てる。
「それと、次に会うときは、新しい証拠を持ってきて」
「証拠?」
「アシェルが生きてる証拠。さっきの話だけじゃ足りない。もっとはっきりした、物としての証拠が欲しい」
物?
「アシェルの持ち物。とにかく『確かに生きてる』って分かるものを持ってきて」
「いや……無理だろ。個人の持ち物は」
「無理じゃない。彼は『ルシアが欲しがってた』って言えば、きっと渡してくれると思うから」
「……お、おう」
冷たい声だった。拒否を許さない響きがある。
んなこと言われたってできるわけねえだろ。だってアシェルは俺なんだから。物的証拠なんてどこにもない。あるわけがない。
「もし持ってこられないなら、直接会わせて」
「それは無理だ、今アシェルは──」
「なら証拠を持ってきて。どっちかは必ず」
選択肢がない。どっちも無理だ。でも、拒否できない。
俺は喉の渇きを感じた。唾を飲み込もうとしたが、口の中に何もない。呼吸が浅くなる。ルシアの指先が、わずかに食い込む。
「分かった、分かった。何とかするから」
「本当?」
「……ああ」
「約束ね」
ルシアの声が、少しだけ震えた。
いや、そんなことはどうでもいい。今の俺にとって重要なのは、ルシアを納得させて、この場を切り抜けることだけだ。
「じゃあ七日後の夜。南門近くの廃礼拝堂で待ってる。来られなかったら、三日まで待つわ。とにかく、できるだけ早く来て。証拠は忘れないで、必ず持ってくること」
「……分かった」
「ああ。あと、もし──」
ルシアが俺の肩を掴んだ。力が強い。爪が服越しに食い込んでくる。
「もしあなたが私を騙してたら」
声が低くなった。
「もしアシェルに会えなかったら」
握力が強くなる。痛い。
「その時は、分かってるわよね?」
それは確認じゃなかった。
暗に「こっちの意図は分かってるよな?」っていう脅しが含まれてた。
正直なところ純粋に怖かった。俺は頷くしかなかった。
*
──で、今に至る。
若干の後悔とどうにもならない不安を抱く俺に対して。商人街から大通りに出て、さらに北へ進んだところで、レミがごく普通に口を開いた。
「執事長。帰る前に書記局の市務課に寄ります」
「……書記局、市務課?」
「ええ。書類の手続きがございますので。少々お付き合いいただけますか」
「あ、ああ」
王都政院・書記局市務課。
マジか。文官の頃、毎日通ってた場所だ。タリエがいて、ソラナがいて、ベラがいた。書類と睨み合いをして、ベラに目を付けられねえよう気を配って、やり方が分からねえってタリエとソラナに泣きついて。そんな風に毎日同じことを繰り返してた。
今思えばあの時はかなり楽しかった。仕事は何やってるか微塵も分からなかったが、危険のない空間で、俺に懐く後輩二人と色々やって、帰りには二人を連れて飲みに行って。規則が多くて若干息が詰まることを無視すれば、今までの中でもかなり恵まれた立場の人生だった。
面倒ではあったが、今世や前世に比べれば遥かに平和だった。誰にも命を狙われてなくて、板挟みにもされてなくて、ただ毎日同じことを繰り返してるだけ。それがどれだけ良いことなのか、マトモな暮らしを知らない当時の俺は分からなかったが、一度地獄や修羅場を経験してしまった今の俺はそれを強く思い知らされてしまった。
また、あそこに行くのか。
いや、あの場所に戻る訳じゃない。ただの単純な用事の一環だってことは分かってる。それでも足が自然に動いた。「場所を覚えているのですね、やっぱり」なんてレミが言ってくるが気にならない。
あの建物を、またこの目で見ることになるのか。中に入ることになるのか。もしかしたら、タリエやソラナに会えるかもしれない──
──ああ、いや、待て。舞い上がりすぎだ。
今の俺は、ガルトンの執事長だ。あの二人と必要以上に深く関わろうとするのは御法度だって何度も自分に言い聞かせたばっかりじゃねえか。
直接は会わない方がいい。見るだけだ。久しぶりに会いたいし、話をしたいとも思うが……元々、俺の目的の一つは二人が元気でやれてるかどうかの確認なんだ。
そのことを考えれば、直接対面して言葉を交わす必要は無い。噂の「クビになった」って書記官が二人じゃないか確認するだけなんだから、わざわざ会いに行く理由なんてどこにもない。
大通りを抜けて、左に曲がる。石造りの建物が並ぶ区画に入った。政院の管轄する施設が集まってる場所──そして、見えた。
二階建てで、灰色の石壁。窓が規則正しく並んでて、入口には柱が二本立ってる。変わってない。あの頃と、まるで同じだ。
レミが階段を上る。俺も続く。階段を一段ずつ踏みしめるこの音も、懐かしい。
扉が開いて、レミが先に入る。俺は一瞬ためらったが──中に入った。
書類の匂いだ。インクと紙と、少しだけ埃っぽい空気。変わってない。あの頃と同じだ。壁には掲示板があって、規則や通達が貼られてる。床は石で、磨かれてて、靴音が響く。天井は高くて、窓から光が差し込んでる。
全部、覚えてる。全部、懐かしい。この場所に安らぎを感じるようになっただなんて、文官のアシェルに言えばなんて顔をするだろう。
「こちらで少々お待ちください」
レミが受付の職員に何か告げて、奥へ案内される。俺は置いて行かれた。まあ、今日の俺はお荷物だからな。
俺は少し離れたところで待つ。レミの視界から外れない程度に、でも邪魔にならない距離で。
廊下の突き当たりは職員の仕事部屋だ。ガラス張りになってて、ここからでもよく見える。机が並んでて、職員たちが座ってる。書類を書いてる奴、今の仕事を話し合ってる奴、立ち上がって別の席へ向かう奴。
吏長の席──あそこに、ベラはいない、別の男が座ってる。年配で、白髪混じりの髪を撫でつけて、書類に目を通してる。ベラはマドリーのとこで療養を受けてるし、そもそもクビになったんだからここにいないのは当たり前なんだが……でも、やっぱり違和感がある。ほんの数週間の記憶のはずだが、随分根付いちまったらしい。
それと……ああ、あそこだ。
確かあの机で俺は働いてた。あの椅子に座って、書類を整理してた。タリエとソラナが両隣にいて、今は全員そこにいない。二人は席が変わったのか? 俺がいないのは死んだからなんだが。
──ていうか、タリエとソラナはどこだ?
視線を巡らせる。一人一人、顔を確認していく。若い職員、年配の職員、男も女も。でも、二人とも顔が見つからない。
「………………ん? おっ? おおっ!?」
いや、待てよ。
奥の方、窓際の席。あそこに……いた! タリエだ、なんか目が死んでる気がするがあの顔は確かにタリエだ!
後輩っぽい若い職員が隣に立ってて、タリエが何か説明してる。書類を指差して、丁寧に教えてる様子だ──てことは無事、か。元気にやれてるんだな。
胸の奥で、何かが緩んだ。タリエは生きてる。ちゃんと働いてる。後輩を指導する立場についてる。成長してるってことじゃねえか、良かった良かった。
兵士の頃から、タリエは真面目で几帳面で仕事を丁寧にこなしてた。でも、俺の後輩で、どちらかと言えば新入りに近い立場だったはずだ。
それが今は、後輩に教えてる──へえ、偉くなったんだな。良かった。
タリエは、ちゃんと前に進んでる。文官アシェルが死んだ後も、ちゃんと生きてる。
じゃあ後はソラナだな。タリエとよく組まされてたし、席が移動になってんなら多分タリエの近くになってんだろ。
ちょっと歩いて、奥の方を覗き込んで……あれ、いねえな。別んとこか?
*
まさか……。
「あー……? どこだ……?」
まさか…………。
「あっちはさっき見たよな……?」
まさか………………。
「えっ……と、やっぱり……か?」
…………ソラナいねえ!! 何回探しても見つからねえ!!
気を病んでクビってやっぱりお前なのかよおい!! 悪かったな、畜生!!
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