ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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11.つきよのばんに

11.つきよのばんに

 

 

 五回戦

 南四局(終了)

 南浦 数絵    :49900

 須賀 京太郎   :17700

 石戸 月子    :17700

 花田 煌     :14700

 

 途中経過(五回戦終了時点)

 花田 煌      :-  6.1

 石戸 月子     :- 58.8

 南浦 数絵     :-  7.0

 池田 華菜(京太郎):+ 87.2

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・G卓/ 17:53

 

 

 誰かが、あるいは誰もが息を詰めた。雨は降りしきっている。雷もどこかで鳴っている。長引いた半荘は決着した。麻雀という競技における帰結がたいがいそうであるように、結果は明確だった。勝利者は南浦数絵、そして須賀京太郎である。京太郎と三位との差は席順でしかないが、振り込んでの落着は、物言いの隙もない。牌を倒した京太郎は、吐息しながら、独り言のように呟いた。

 

「ちょうど2600だから、17700の同点だ。こういうときって、おれの勝ちでいいんだよな」

「……ええ、そうですね」花田が頷いた。「キミが二位――キミの勝ちです。たいへん、すばらでした」

「まあ、一位とはずいぶん離されちまったけど」

 

 手をひらひらと振って、京太郎は南浦を流し見る。南浦は目を細めて、その視線に応じた。彼女の瞳は真っ直ぐで、動揺や含羞は億尾にも出さない。

 

「おめでとう、っていったら嫌味かな」南浦が笑って言った。

「素直にもらうよ――」京太郎は苦笑した。「ありがとさん」

 

 卓上の牌が音を立てたのはそのときだった。

 

 音源は石戸月子である。背を曲げ顔からラシャに突っ伏して、ぴくとも動かない。長い髪が束ごとに背に肩に机に広がって、露な肌の白さと机上の緑に映えている。ゆるく曲がった指先が、牌を掻くように関節を曲げる。すぐにその動きも止まる。南浦は厭そうに顔を歪める。花田は手を伸ばしかけて、掛ける言葉を探すように口を開閉させる。

 京太郎はきっぱりといった。

 

「おれの勝ち。おまえの負けだ」

 

 月子の肩がぴくりと動く。

 

「おかげで楽しかったよ。ありがとうな」京太郎は二心なくいった。「おまえの打ち方がどうとかなんとか、正直、そんなもんは忘れてた。ただ、面白かった。そんだけだ」

「………」

 

 だが、月子が何かを返すことはなかった。

 

「そりゃ、アンタは勝ったから楽しいだろうけどな」池田が口を挟んだ。

「負けても麻雀は楽しいですよ?」花田が言った。

「それは麻雀が楽しいだけで、負けるのが楽しいわけじゃない」池田は断言した。「どっちにしろ、いつまでもぐずるもんじゃない。勝負は水物。――須賀との勝負は済んだんだ、ホラ、起きなよ石戸。続きだ続き」

 

 それでもなお、月子は動かなかった。そのまま十秒が過ぎ、三十秒が過ぎた。一分が経った。それからようやく、彼女は立ち上がった。

 顔に色はない。表情もない。視線は誰に定まっているわけでもない。誰も彼女に声を掛けない。花田が何かを言おうとしたとき、その台詞を遮るように月子が呟いた。

 

「トイレ」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・女子トイレ/ 17:54

 

 

 足取りは確かだった。頭痛も目眩も悪寒も嘔吐感もなかった。月子は迷わず行き着いた手洗い場の戸を開き、洗面台に両手を着く。暖色の照明の下で、鏡の中にいる石戸月子は見たことも無い表情をしている。その揺れる視線を追うともなく追いながら、彼女の脳裏では過去の様々な記憶が再生されていた。

 それは彼女と麻雀にまつわる記憶だった。

 

 ――はじめは四人だった。

 

 まだ月子にとっての『家族』というものが歪でも苦でもなかったころ、父母と兄と囲んだ卓が、月子が初めて打った麻雀である。前後の記憶はない。打つに至った経緯はわからない。原風景のひとつとしてそのスチルは切り出され、心の奥深い場所に置かれている。当然勝負の行方も覚えていない。ただ皆楽しそうに笑っていた。月子ももちろん、笑っていた。あの父でさえ、少しだけ微笑んでいた。

 

 ――そこからひとり欠けた。

 

 父がいなくなると、母は家から父の面影を残すものを隠したがった。ただ捨てる踏ん切りもつかないようだった。月子はなんとはなしにそんな思いを察して、麻雀からは離れるようになった。月子はたぶん、家族みんなでいることを大切に思っていたし、楽しいと感じていた。父が欠け、母に辛さを強いるその遊戯に、独りで没頭する気にはなれなかった。

 一方兄はというと、母の心情などお構いなしだった。無神経に麻雀を求めた。独りでも牌に触れ続けた。彼ははじめ月子に対局を求めたが、それが叶わないと知ると母に請うようになった。母は仕方なさそうに兄の求めに応じた。近所の人や勤め先に来る麻雀好きな客(ダンベエ)に頼んで、手ごろな相手を用意してやりさえした。 

 

 そんな日が暫く続いた。月子はすっかり、麻雀を忘れた。兄は無邪気に牌と戯れ続けた。生活は豊かではなかったが、彼はいつも笑っていた。麻雀を打てることが楽しかったのだろう。そんな兄を見て、母も笑っていた。疲労をその顔に刻みながらも、母は兄の成長を生き甲斐のようにしている節があった。

 

 月子は笑うのが得意ではなかった。どうしてもうまく笑えないのだ。他人は月子にとって不快の呼び水でしかない。月子は誰とも触れ合えない。もちろん、母には何度となく体質について相談した。その都度母は眉間にしわを刻んで『おまじない』を月子に掛けた。いっとき、母の『おまじない』は月子を癒した。だがかわりに母は更に疲労した。『おまじない』のたび歳を刻んでいくように()()()()()()母を見て、月子は相談することを止めた。

 

 もう平気になった――そう嘘を吐いた。

 

 母はたぶん、その嘘に気づいていた。

 でも何を月子に言うこともなかった。彼女にはすでに兄がいた。兄は母に優しかった。よく笑いかけた。労わりもしたし、稚い気遣いも見せた。それが月子にできないわけでもなかったが、母はたぶん、兄にそうされるほうが嬉しかったのだ。月子はそれを知っていた。

 

 だから、月子は歯を食いしばって生きることにした。不得手な笑顔を作ることを止め、他者を排斥し、勉強に運動に没頭した。それでいくらか、身に負う苦痛を減じることはできる。かつて大事にしていたものから遠ざかることになったが、それは仕方のないことだった。

 

 ――次に、母が倒れた。

 

 それはいつか訪れるべきものだったし、母が裕福な男と再婚でもしない限り避け得ない現実だった。朝夕の仕事に疲労を溜めた母は頻繁に体調を崩すようになった。彼女の優れた容姿はそれなりの見返りを石戸家にもたらしたが、知識や狡猾さや精神の脆さをおぎなうほどの長所にはならなかった。それもやはり、仕方のないことだった。

 ある日のことだった。小さな医院に運ばれた母を、月子は兄と見舞った。病床にいる母の顔色は紙のようで、豊かできれいだった黒髪に、白いものが光っているのを、月子は見た。見た瞬間、彼女はどうしようもなく、何もかもが厭になって泣けてきた。管を通る生理食塩水にブドウ糖が混じった点滴と、月子の頬をつたう液体は殆ど同じものだった。それなのに一方は病人の身体を癒し、一方は月子の心をささくれ立たせた。

 

 月子は、母ではなく、自分の未来を案じて悲嘆に暮れていることを自覚してしまった。

 

 母は頑張っていた。月子も頑張っていた。兄もきっと、彼なりに頑張っていたのだろう。でも月子はどうしても母も兄も、もう好きにはなれなかった。親しみを覚えることができなかった。家族と他人の区別ができなくなっていた。人の労わり方を、優しさの使い方を、月子は忘れていた。

 この世にいる全ての人間がどうでもよかった。どうにかして自分が幸せになる術を考える必要があった。でも月子がそんな妙案を思いつくことはついぞなかったのである。それは至極当然で、なんとなれば、月子は幸福の条件も忘れてしまっていた。月子にとって幸福は過去と空想の中にしか存在しないものになった。彼女が何とかうまく生きていくためにはそうする必要があったのだ。

 

 ――別れた父を頼ることを、母が告白した。

 

 別れた後も、母と父は連絡を交わしていたらしかった。兄はそれを知っていた。月子だけが何も知らなかった。割り切っていたつもりでいながら、その事実は月子にそれなりに衝撃を与えた。誰かに悪意があったわけではなく、それを月子も心得ていたが、心情はまるで納得しなかった。当て所のない衝動が、少女の体内で反響し続けた。

 

 わたしはなんなのだろう、と月子は思った。父母の娘であり兄の妹である。しかしそれは実感の伴わない現実でしかない。意味がわからなかった。月子は全てから距離を置いて生きたかった。でもどうやら、心はそう思っていなかった。何かに寄り添いたがっていた(そうでなければ、どうして他人の振る舞いに傷つくことがあるだろう?)。

 

 父は裕福だった。彼の計らいで月子たち三人は引越し、腰を落ち着けることができるようになった。当座母が無理を押す必要も無くなった。どのみち、母の身体はもう無理が利く状態ではなかった。心も、もしかしたらこの頃から傾いでいた。

 

 父が再び、月子の人生に合流すると麻雀もまた距離を詰めてきた。父は麻雀を生業とする人であった。昔からそうであったらしいが、それは月子の与り知らぬ世界の出来事だった。テレビのゴールデンタイムで放映される華々しい勝負とは、同じ道具を扱いながらも一線を画した道の話だった。

 

 この頃にはすでに麻雀で一頭地抜けた才覚を示していた兄は、当然父の眼に留まった。兄は何年かを置いてまた父に麻雀を習い始めた。はじめは反発もあったようだが、父の水際立った腕前に、兄はやがてすっかり感服したようだった。月子にも父の教導を盛んに勧めた。あのひとはすごい、ぼくらのおとうさんはすごい、プロより強いかもしれない――よりによって母がいる場所でも、兄はそんな台詞を吐いた。

 それは月子にとって許容しがたい無神経さだった。ありえなかった。母が――あの疲れた女が、どれだけ兄のために心身を削ったと思っているのだろう。その女の前で、全てである息子がその労苦の元凶を誉めそやしているのだ。

 情ではないと月子は思っている。それは義憤だと思っている。けれども実際は情なのだろうとも思っている。ついに誰にも顧みられなかった月子は、ただ、誰の視線をも集める兄を強く嫉んだのだ。そしてその衝動に促されるまま、月子は暴力を振るった。驚いたのか怯えたのか、それとも違う理由なのか、兄はされるがままだった。遠慮呵責ない月子の暴力を甘んじて受けた。こめかみを縫うほどの怪我を、月子は彼に負わせた。

 

 母は激昂した。月子を厳しく詰責した。泣きながら手も出した。あれだけ激怒した母を、月子は生まれて初めて見た。月子は頑として理由を話さなかった。彼女にも意地があった。母にも意地があると知っていた。あなたがあんまりかわいそうで、あの莫迦な兄が許せなかったから手を出したなどと、言えるわけもなかった。

 

 でも実際は、言えばよかったのだろう。

 

 母を諌めたのは父だった。月子を一時預かるという話にもなった。月子は拒んだが、母はそれを是とした。お互いに頭を冷やしたほうがよいというのが母の言い分だった。

 そういうわけで、月子は家族と離れることになった。彼女に感興は特段なかった。どこにいても変わらないという諦念は、すでに月子の中心に居座っていたからだ。

 

 けれども、生まれて初めて、そこで友達ができた。

 

『よいよ――なぁんかたいぎぃ顔しよる子がおるの。あんた、どーしょんなら?』

 

 耳慣れない言葉をつかう、美しい少女だった。歳は月子の一つ上だといった。彼女の父が月子の父――新城の知己であり、広島の遠地からたまさか、遊びに来ていたのだという。

 まず自分より容姿に優れた同世代の同性という存在が認められず、月子は猛烈に反発した。だが、問題を起こして移った場所でまた問題を起こすわけにもいかない。少女は異常に人懐っこく、月子のすげない態度にめげることもなかった。彼女はいつも笑っていた。それは兄や母が浮かべるのとは全く違う種類の笑みだった。

 有体に言えば、作り笑いなのだ。

 けれども、無理がどこにもない笑顔でもあった。

 

 なぜ、楽しくもないのに笑うのか。

 

 それが、月子が少女に初めて自分から掛けた言葉だった。

 

『はぁ。あんた、何いいよんよ。楽しくにゃー(わろ)ーたらいかんの? そがぁなことないじゃろ。いっこもいなげなことないじゃろ。なんよのぅ――どーゆん? しんきな顔しよったって、よういいコトあったりゃーせんじゃろ。ほじゃけぇ、()()()()()()は笑うんかいの――ハッ、あんたもなー、そがぁに他人ら、気にすなや。あんならぁ、どいつもこいつももとーらんことゆーだけじゃ。ちゃちゃのんはのぅ、あんならに笑ーとるわけじゃァない。そっちのほーが気分えーから笑ーとるだけじゃ。いまもそーじゃ。あんた、ちゃちゃのんのともだちになりんさい。ちゃちゃのん、あんたが気に入ったんじゃ――』

 

 あっけに取られて口を開ける月子を前に、少女はこう言った。

 

『――そーいえば。あんた、麻雀打ちよるん? 打ちよるんじゃろ? 打とーや、いまから。いますぐ!』

 

 にかっと歯を見せたその顔は、最初の儚げな印象を裏切る少年のような顔だった。

 彼女との交友をきっかけに、月子はまた麻雀を始めた。彼女は目眩がするほど麻雀が強く、月子はやはり麻雀を楽しいとはそれほど感じなかったが、それでも、悪くは無かったのだろう。彼女はそう長い期間滞在していたわけではなかったものの、月子の心に強い影響を残していった。

 

 少女は月子の言い分などほとんど聞かなかった。彼女はしたいようにした。当たり前のように自分の言い分を通した。

 月子は、彼女に憧れた。

 ただ独り、ただ高いだけでは駄目なのだ。

 

 ()()()()()()()()()()()

 

 ――それから。

 

 それから月子は――

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・女子トイレ/ 18:05

 

 

「月子さん?」

 

 春金清が背後に立つのを、月子は鏡越しに見た。春金は注意ぶかく月子と距離を取っていた。そういえば、初対面からこちら、春金が月子に肉体的接触を試みたことはない。おそらく、父から月子の『体質』を聞いていたのだろう。

 今回の催しも、たぶん、月子のスカウトなどは二の次だったはずだ。

 

(視界が、急に、広がった気がする)

 

 自虐を込めて、月子は顔を歪める。

 

「春金さん」と月子は言った。「負けました。わたし。初心者にさえ」

「えっと、それがどうかした?」春金は首を傾げた。「プロだって小学生に負けることもあるのが麻雀なんだけど」

「それでも、勝つべきところで勝てない人に向いてるゲームでもないでしょう」

「……否定はしないけど、刺さるな、その言葉」春金は苦笑した。

 

 月子は、軽く浅く、呼吸を重ねた。

 

「春金さんの話、いまのわたしじゃ、受けられません」

「――そっか」春金はやるせない顔で頷いた。「素直に残念に思うよ。本当に」

「あ、勘違いしないでください」と、月子は言った。「言ったでしょう、『今の』わたしじゃ、って。これから勘を取り戻して、もっと真面目に勉強もして、強くなるので――それまで待ってもらえれば、嬉しいんですけど」

 

 春金が、きょとんと目を瞬いた。

 

「そりゃ――もちろんだけどさ。でも、それなら何も……」

「たぶん、わたしが麻雀で強くなろうと思うなら、まずお父さんを頼るべきなんです。教えてくれるかどうかはわかりませんけど、でも、教えてもらわなくちゃならないんです」

「いいの?」春金は徐々に月子の変心を呑み込み始めたようだった。嬉しげに、口元に笑みを浮かべている。瞳には気遣いの色もある。

 

「いいんです」

 

 と、月子は言った。

 

「――それがたぶん、わたしの正着(したいこと)です」

「せんぱいが渋ったら、私も説得に協力するよ」春金が請け負った。

「それはどうも。とても、心強いです」月子は笑った。だいぶぎこちなく――なんとか――しかし確かに、笑った。「ま、それはそれとして、春金さん。わたし、初心者なんかに負けて――ぴったり差されて、超、死ぬほど、悔しいです。悔しくて泣きそうです。あの、叫んでもいいですか」

「えっ」春金が耳を疑う素振りを見せた。「つ、月子さん? どど、どうしちゃったの?」

 

 月子は深く息を吸い込んだ。

 

「あっ――」

 

 感情を、体中から集めようと、彼女は思った。

 

 

「あァッあああああああああああああああああああ! むかつくッ、むかつくッッ、むっかっつっくぅぅあア、もぉぉっ! まけた、まけた、まけちゃったあ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ッ!!」

 

 

 鏡がふるえるほどの声量を絞った。腹筋が攣るほどに力を込めた。ありったけの感情を吐き出した。体の錆を落とす必要がある、と月子は思った。とまった時間を動かすために、あちこちの部品を磨いて研いできれいにする必要がある。肺のなかに篭った何もかもを、脳に溜まった全ての澱を、月子は残らず放出した。

 感情の整理がそう巧くいくわけは無いことは、もちろん心得ていた。石戸月子には瑕がある。心は多分に歪んでいる。

 矯正はしなくてもいいのかもしれない。

 ただそれは、月子が許せる限りの話だ。

 

(次に行こう)

 

 ここで腐って留まったままでいることを、ようやく嫌うことができた。

 

(クソ初心者なんかにしてやられるわたしが――いまのわたし)

 

 石戸月子は、いまの自分を良しとはしなかった。

 

(なんでもいいから前へ進もう。次に行こう)

 

 声を出し切り、喉を枯らして、彼女はしわぶきを落とす。きびすを返す。耳を押さえてうずくまる春金をよそに、トイレを後にする。

 真っ直ぐに卓へ向かう。

 少年少女がそこにいる。

 

 さしあたって、彼と彼女らが、月子が乗り越えるべき壁である。

 

「須賀くん」と、月子は言った。「まさか、勝ち逃げする気じゃないでしょうね! せめてあと一回は打ってもらうわよ!」

「いいぜ」

 

 と、京太郎は即答した。

 

「嫌って言ったってむりにでも……」二の句を次いでいた月子は、勢いを奪われ、口をすぼめた。「……いま、いいっていった?」

「ああ」京太郎は頷いた。「悔しいんだろ? なら、勝負だ。いつだって、何回だって、付き合うよ」

「そ、それはどうも。……なんかものわかりがいいわね」

「まあ、楽しかったからな。――なんなら、おれが勝ったんだから、あの、サシウマだっけ? それで命令したっていいくらいだ。でも、そっちから言われたんなら、別のことに使わないとだな。まあ、なんか考えとく」

 

「そういえば、そんなこともあったっけ――」勝者の権利を思い出した月子は、手を打った。「そんなのいつまでも持たれても気分わるいから、いま言いなさいよ。なんでもいいから考えなさい」

 

「急に元気になったな」池田が呆れ気味にいった。

「いいじゃないですか、前向きなのはすばらなことです!」花田は手を叩く。

「それより、さっきの絶叫、やっぱり石戸さんでしょうか……」南浦が顔をしかめていた。

 

「そうだなァ」京太郎は数秒思案して、「あ、じゃあこういうのはどうだ?」

 

 かれは、こう続けた。

 

「おれに、麻雀を教えてくれよ――」

 

「え゛」

 

 月子は思い切り、いやな顔をした。

 

 

 ▽ 長野県 国道153号線 タコス(ファミリーレストラン)/ 20:29

 

 

 残り三回戦の内二回に京太郎は参戦し、きれいに二回とも飛んだ(ちなみに京太郎を飛ばしたのは池田と花田である)。最後の一回戦は当初の少女たち四人で囲んだ。月子は劣勢から怒涛の追い上げを見せたが、最後は2000点差で池田にまくられ、決着した。総合順位は池田、花田、南浦、月子の順である。

 

 猛烈に悔しがる月子をよそに、春金は遅い夕食を提案した。それがだいたい、20時過ぎのことである。

 

 ちょうど雨が上がった頃だった。南浦数絵の祖父だという老人がスクールに現れたのも同時刻である。意外な場所で見知った顔に出会った京太郎は、ここで暇をしようとした。いいかげん時間も深かったし、少女たちに囲まれた夕食というのは、なんともすわり心地が悪そうだったからだ。

 が、

 

「君も来なさい。男一人では私が居づらいじゃないか」

「お祖父様がこういっているので」

 

 南浦老人の一声によって、半ば強引に同席することとなった。ファミリーレストランの喫煙席に陣取った都合七名の集団は、思い思いのメニューを注文した。ちなみに京太郎は対面に南浦老人、左手に月子、右手に池田という位置だった。

 月子の注文はサラダバーとドリンクのみで(調理されたものを食べると気分が悪くなるらしい)、その発達した肉体に違和感を覚えるほど小食だった。京太郎はそもそも食に興味がないため、腹にたまれば何でもよいという意見である。マイノリティとして意外なところで意見の一致を見た二人に、池田から物言いが入った。

 

「うまいものを食べないなんて、あんたたち人生損してるし! 大きくなれないぞ!」

「うっさいわね。放っておきなさいよ。そんな台詞はわたしより背とおっぱい大きくしてからいいなさい」

「おまえが育ちすぎなんだよ!」池田がさも心外というふうに反論した。

 

「おっぱい……」花田が難しい顔で月子の胸部を注視した。

「わたしたちはこれからですよ」南浦は澄ました顔でスープを啜る。

 

「須賀くんは胸が大きいほうと小さいほうどっちがいいの?」

「普通に考えたら、大きいほうに決まってる」京太郎は息をするように答えた。

 

 女性陣が、声をそろえて「最悪」と言った。

 

「私も彼に同意見だな」ほうじ茶を飲む南浦老人が、京太郎の肩を持った。「女性はやっぱりふくよかでないといかん。かつすこやかであればいうことなしだ」

「南浦プロ、やっぱりはやりんとか好きなんですか」花田が純粋に疑問に思った様子で問うた。「あのひと、おっぱい大きいですよね!」

「いや、彼女はちょっと……」南浦老人は言葉を濁した。

「はやりんてだれ」池田が首を傾げた。

「若手の瑞原プロのことです。ほら、最近教育番組で麻雀のおねぇさんをやってる――」

「あー、あのキャラ作ってるプロかぁ」

 

「でもま、そういうこと言う男に限って全然タイプが違う子とくっついたりするんだよねえ」春金が訳知り顔で京太郎に囁いた。

 

 京太郎は答えず、肩を竦めた。

 かれの気は、終始漫ろだった。かれにとっての関心は、目下今日の麻雀とこれからの麻雀にしかない。かしましい少女たちと共にする食卓が楽しくないわけではない。ただ、それは日常の楽しさでしかない。須賀京太郎にとって、彼女たちの魅力は『面白い麻雀が共に打てる』ことに尽きる。ただ食事をするだけであれば、他の誰とでも代替可能なのである。

 京太郎は笑える。必要であれば泣くことも出来る。だからかれは喜怒哀楽を持たないわけではない。ただそれは表層的な反応でしかない。この場で起きる全ての出来事が、かれの深い部分に届くことはない。

 

「ねえ、須賀くん」

 

 食事と会話に勤しむ少女たちをよそに、石戸月子が小声でいった。

 

「なんだ?」と、京太郎はこたえた。

「なんだか、不思議ね。わたしたちみんな、今日会ったばかりなのよ。麻雀をいっしょに打っただけの――他人なのに」

「あれだけ打てば、みんな友達(ツレ)みたいなもんだろ。不思議でもなんでもない」

「……そうなの?」月子は、心底不思議そうにいった。「みんな友達だなんて、あなた、幸せな頭、してるのね」

「おれは、おまえも友達だと思ってるけど」他の誰もと同じように、と京太郎は思った。「なに、おまえって、友達選ぶタイプなの」

「もちろん」月子は頷いた。「すくなくとも、わたしに勝ってる部分がない人とは付き合いたいとは思わないわ」

「なら、あっちの三人は資格アリだな」京太郎はいった。「おまえより、麻雀が強かった」

「とりあえず、今日のところはね」それから彼女は早口で付け足した。「あと須賀くんも」

「おれが?」京太郎は首をかしげた。「おれは――全然だったろ。結局、おまえに勝てたのは最初の一回だけだった」

「それで十分よ。ここ一番で勝てる。それはいまのわたしにない資質だからね」はあ、と月子は嘆息した。「ねえ、最初の半荘のオーラス。なんで{③⑥}で受けたの? わたしはてっきり……」

 

 月子の言わんとすることを察して、京太郎は言葉を先取りした。

 

「{一萬}だと思った、か?」

「うん。――やっぱり、気づいてたんだ」

「まあ、なんとか、たまたまな」京太郎は肯ずる。「そうだな、もしも、{一萬}を引いていたら、それで待ったと思うよ。待ったかもしれない。でもさ――」

「そんな話、してもしょうがないわね」今度は月子が京太郎の言葉を奪った。「わかってるわよ。ちょっと、気になってただけ」

 

 それきり、今日の麻雀について取りざたされることはなかった。京太郎はそれを物足りなく思った。麻雀のことについてならば、いくらでも語れる気がしたからだ。

 

 やがて食事が終わる。春金がくわえた煙草から紫煙が立つ。南浦老人も同じように一本()もうとして、京太郎の視線に気づいた。

 

「――喫いたいなんていわないでくれよ。マスコミを喜ばせるだけだ」

「喫いたくなったら自分で喫うよ」京太郎は言った。「喫う……喫いますよ」

「無理に言葉をととのえなくていい。その年頃でちゃんと使える数絵が特殊なんだ」

「いいことなのに、変なことしてるみたいに……」祖父の言い草に、南浦は気分を害したようだった。

「はは、すまんな、数絵」南浦老人が愉快げに笑んだ。「それで少年、何か言いたそうじゃないか。質問でもあるかい」

 

「麻雀って、どうすれば強くなれる?」

 

「何をしても強くはなれない」南浦老人は間髪入れずに答えた。「麻雀が努力を受け入れるのは巧拙の分野だけだ。だから、『どうしたら巧くなれるか』という質問には色々な用意がある。なんなら朝まででも語りつくせる。だが、きみの問いに対する答えは一つだ。これは恐らくどんなトッププロに聞いたところで同じだ」

「なるほど」京太郎は満足した。「よくわかった。ありがとう――ございます」

「……ああ、まあ、いいが」南浦老人は意外そうに京太郎の礼を受け取った。

 

(なるほど)と、京太郎は心中で何度も繰り返した。

 

 南浦老人の回答は、まったく京太郎の思い描いたとおりのものだった。

 

(――それでこそ、遣り甲斐がある)

 

 

 ▽ 長野県 国道153号線 / 21:06

 

 

 春金の車に揺られて、助手席の池田が豪快な寝息を立てている。月子は見るとも無しに窓越しの夜景を眺めている。京太郎はただ目を閉じて、心を静めていた。

 南浦数絵は、祖父と共にどこかへと向かった。花田は通り道ですでに下車した。少女たちはすっかり気を許しあったようで、ファミリーレストランを出る頃には皆、長年の友人同士のようだった。

 

「――あまり、のめりこまないようにね」

 

 京太郎の胸中を言い当てるような言葉を発したのは月子だった。

 

「なにがだよ」と、京太郎は言った。

「麻雀の話よ」月子は言った。「どれだけ楽しくても、あれは遊びで、ギャンブルなんだから。プロでも目指すなら別だけど、人生を賭けるにはちょっとリスキーなゲームだと思うわ」

「――ふうん。そういうもんか」

 

 月子の言葉を、京太郎は心に留めることにした。今日はたまたまある局面で勝っただけで、こと麻雀という事物における関わりは、月子のそれは京太郎よりもずっと深く濃いはずである。そうしたものの言葉を忽せにする理由もとくにない。

 

「でも、なんでまたいきなり」

「さあね。ただのおせっかいみたいなものよ」月子は咳払いした。「それより、麻雀を教えるって話だけど。いつ、どこで教えればいいの?」

「いつでもいいし、どこでもいいよ。教えてくれるだけで、ありがたい。――ただまァ、言ったきりほったらかしとかは止めてくれよ」

「女に二言はないって、いったでしょ」

 

 それからまた会話が途切れた。春金が何かを言うこともなかった。車中はラジオから流れる少し古いポップスの曲調に満たされる。茫洋と窓外に目をやる京太郎と月子の視線が合うことはない。京太郎の目線の先――雲の晴れ間に、黄色く大きな月が浮いている。雨に洗われたように鮮やかな月を、京太郎は無感動に見つめる。

 

 月子の指が、京太郎の指に重なる。触れた部位の面積は爪の先ぶんもない。その半分程度の交流である。包帯が巻かれていない彼女の左手の指は、かすかに冷たい。

 

「よくわからない。あなたは、本当に、なんで平気なのか――」

 

 月子の自問のような独り言に、京太郎はもちろん答えを持たない。

 

 月が明るい。

 車は道を行く。

 

 じきに夏休みがやって来る。

 

 京太郎は興奮に身を任せて、目を閉じる。

 

(図書館に行こう――あの子に会えるまで)

 

 心に、そんな思いを秘した。

 

 だが、かれが数日前に図書館で出会い、卓を囲んだ少女と再会するまでには少し間があった。

 

 少なくとも、夏に再会は叶わなかった。

 

 秋も同じだった。

 

 ――その年の暮、冬の寒い日に、ようやく、かれは、宮永照と再会できた。

 




2012/9/17:みはるんとはやりんが悪魔合体していたため、一部表現と誤字(みはりん→はやりん)を修正。
2013/2/18:牌画像変換

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