9.はつゆきトーン(前)
▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・旭山/ 16:33
時計の針は黄昏時を踏み越えようとしている。正面の山には12月の前半に降り積もった雪の名残が見える。身体の芯まで凍えさせるような夜が近づくと、薄っすら雪化粧が施された尾根の景色はどこか妖しげに見えて、京太郎を惹きつけた。
地元に帰るのであれば、引き返すための電車までの間はあまりない。けれども遠出の疲労は京太郎の身体を確りと捕まえている。いいかげん歩くことに嫌気を覚えて、京太郎は適当な場所で座って眠り込みたい欲求に駆られる。
(それもいいけど――)
かれの服装はそれなりに防寒を考慮したものだったが、真冬の信州で一晩野宿して無事に済むほど徹底はしていない。人目を嫌って山に入れば、京太郎は結果的に当初の目的を果たすだろう(つまり、死ぬ)。それはもう、かれが望むところではなかった。積極的に自害する意思は、先刻もらった少女の言葉が霧消させた。丸一日かけて、京太郎を納得させたのは特段突飛な回答ではない。始終考え込んで得た結論でもなかった。始めから判りきっていることだった。
京太郎が麻雀と出会って数ヶ月が過ぎた。
かれが麻雀に魅入られた切欠に、代償的な刺激を欲する面は確かにあった。それは揺らぎようのない事実である。けれども刺激にはいずれ慣れる。京太郎が他の何をおいても麻雀にのめり込んだのは、麻雀自体の面白さに捉えられたからに他ならない。
麻雀は気を紛らわせるかもしれない。
けれども、命を終わらせる行為は麻雀の代わりにはならない。
須賀京太郎は死を志向している。
けれども生き続ける理由がある。
かれはまだ麻雀を打っていたい。
(結局のところ、おれは、だれかに、麻雀が好きだって保証してほしかっただけか)
徒労が肩を叩く。
(こんな遠くに来てまで、死んでやるなんて気になって、でも、打ってていいんだって、背中を押して欲しかったのか)
無性に気恥ずかしくなって、京太郎は深く息をついた。
(ひでえ甘ッたれだ――だせぇなァ)
次に沈黙を保っている少女を見た。長めの前髪の奥で、円らな瞳が無感情に京太郎を見つめている。少女の瞳は、ただそれだけで京太郎に宮永照を連想させる。透徹とした視線に畏怖のようなものを覚えている自分に気がついて、京太郎は唇に指を添えた。
「おれは、帰るよ」
と、なんとなく、京太郎は少女に向けて宣言した。最前の質疑とは違う、特段感情の篭らない声だった。思えば京太郎は、目の前にいる幽霊少女のことを何も知らない。少女もまた、京太郎のことを何一つ知らない。そして二人の間で何かを交換する必要性を、かれは感じなかった。
「そうすか」
と、少女も事務的に返答した。欠伸をかみ殺すように唇を引き締めて、さっさと踵を返す。一歩遠のくごとに、その小さな背中は京太郎の意識の焦点から外れていく。騙し絵を見ているような心地で、京太郎はむきになって少女の背中を凝視した。と、数歩進んだ所で少女が京太郎を顧みた。
「町のほうへ戻るなら、途中までは一緒っす。どっちに帰るんすか?」
「ああ」と、京太郎は呆けた頭を振った。「うん、そうだな。おれも、そっちだった」
苦笑を深めて、京太郎はまた歩き始める。
少女の背を追う。
思考はとても冴えている。
近づく夜の空気と同じくらいには、澄んでいる。
▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市/ 16:40
並んで歩く少年少女の間に、会話はほとんどなかった。暮れかけた空を漠然と眺めて、同じくらいの歩幅で、市街地の駅へ続くアスファルトの道をただ進む。道しな、京太郎は頻繁に少女の存在を忘れかける。しかしそのたびに不自然な意識の空白が少女の輪郭を浮き彫りにして、忘れる都度かれは少女を思い出す。それは頭痛が伴うほど不条理な現象で、京太郎は真剣に自分の頭を疑い始める。念のため二ヶ月前の月曜日から朝食のメニューを一つずつ思い出し、昨夜の夕食までを諳んじてみて、とりあえず記憶力に問題が生じているわけではないことを確認する。
そうなると、原因は外に求めるしかない。
「おまえ、なんなんだ?」
と、たまりかねた京太郎は、道すがら少女に訊ねた。
少女は一瞬だけ横目を京太郎に送ると、すぐに視線を逸らした。
「べつに――
「なんだそれ」
要を得ない回答に、京太郎は首をかしげる。すぐに、問われても困る類のことだったのかもしれないと、かれは思いなおした。やや気まずい心地で、他の話題を探す。思い当たるものなど一つしかなくて、自分の引き出しの少なさに辟易しつつ、京太郎はまた口を開いた。
「麻雀、いつもゲーセンで打ってるのか」
「だいたいは」と、少女は頷いた。「それか、ひとりで打ってるっす」
「ひとり?」京太郎は呟いて、「――もしかして、四人分の山積んで、一人で局を廻してるってことか」
「……よくわかったっすね」
ずっと前を向いていた少女の目線が、驚きの色とともに京太郎へ移った。
「おれもよくやる。まァ、人と打つほうが多いけどさ。おまえは――麻雀やる友達とか、いないのか?」
「
「そういうもんか」京太郎は腑に落ちない表情を隠そうともせず、いった。「おれは、やっぱり差し向かいで打つ麻雀がいちばん……そう、楽しいと思うけどな」
「――ふ」
京太郎の台詞を聞いた少女の表情から、一瞬、幼さや稚さが消失した。瞳から感情の色が抜けた。口元だけが笑みを象った。何も知らない子供を笑う、それは哀れみや嘲りの混じった微笑だった。
「君にはわからない」
と、彼女はいった。
「おれにはわからない」と、京太郎は繰り返した。「でも、おまえはそれで楽しいんだろ」
「そうっすね」少女は肩を竦める。
「だから、打ってるんだろ」
「そうっすね。そこは、きみと同じっす」
少女のまとう空気の質が変わったことに気づきながら、京太郎は頓着しなかった。かれは彼女に、奇妙な同調を感じていた。京太郎は人見知りする子供ではない。それでも訪れたこともない街で偶さか出会った少女に対する心境として、自分のそれが適当である気はしなかった。
京太郎が少女に対して仄かに抱く感情は、親しみや好感とは分類を異にしていた。かれは自分の感情に符合する言葉を探したが、ついぞ思いつくことはない。良く似た、けれども根本的に由来が違う二種の生き物が出会えば、ちょうどこんな心持になるだろうという気がした。相憐れむには隔たりがありすぎ、割り切るには相似が多すぎる。曖昧な関係性が京太郎に連想させたのは、先日図書館で手に取った絵本の内容だった。
「なら、それで十分だと、おれは思うよ」
京太郎は、当たり障りのない言葉を、強いて選んで口にした。
「きみは――」そこまで言いかけて、少女はかぶりを振った。「きみ
京太郎が曖昧に応じると、また会話は止まった。駅に近づくにつれ、道に人通りが戻り始める。京太郎は歩調を緩め、勝手知ったる少女の先導に従う。彼女を見失わないように必死で眼を凝らす。
少女は軽やかに道を進む。行き交う人々は誰一人彼女に注意を払わない。半歩譲るような素振りさえ見せない。少女は人波をすばしっこく縫って歩く。彼女は誰の目にも留まらない。暗色のダッフルコートの裾を翻らせて、スニーカーが石畳のうえを踊る。黒髪の襟足が揺れる。京太郎は彼女の影を目で追いかける。引き離されないよう足を早める。
夜を前にして、街は人造の光源を燈し始める。目前に控えたクリスマスに向けた装飾が、アーケードの天井や通りの並木を彩っている。広場には巨大な樅の姿もある。電飾が賑やかに夜を照らしている。星より強く輝く暖色の灯りは
どこかで楽しげな音楽が鳴っている。聖夜を招く歌が響いている。誰も少女に気付いていない。京太郎は歩くのを止めたくなる。無性に少女から目を離したくなる。動悸が激しくなる。呼吸が落ち着かない。不安で仕方がなくなる。いったい、あんな人間が存在していいのか? と、かれは思う。周囲は人で溢れかえっている。悩む人を気取る京太郎自身も、群衆に含まれている。少女は違う。彼女だけがこの道の中で浮いている。京太郎は心理的に、彼女は実際的に、
(意味がわかんねえ。なんでおれは)
京太郎は目頭を押さえて、自問した。
(泣きそうになってんだ――)
「どうかしたっすか?」
京太郎の様子に気がついた少女が、顔を覗き込んでくる。白皙の肌は寒気に晒され仄かに朱く色づいて、少女が彼岸の人ではないことを示している。
「おまえは」乾いた声で、京太郎はもう一度いった。「
一瞬だけきょとんとしたあと、少女は悪戯っぽく笑った。
「ただの――人付き合いが嫌いな、影が薄い女の子っすよ」
冬の空より透明に突き抜けた、曇りのない顔だった。
懊悩や逡巡をはるか遠くに置き去りにした人特有の危うさを、京太郎は彼女に感じた。ただ、それを直接言葉にすることは躊躇われた。直感を整理することはできなかったが、少女に対して哀れみや同情を投げかけるのは、ひどく不適当だという思いがあった。京太郎は苦りきった顔で口を噤む。そうこうする内に少女は歩みを再開する。京太郎は後を追うしかない。
ほどなく、二人は駅が目に見える通りにたどり着く。時刻は17時を半分回っていた。
少女はさっぱりとした調子で、「それじゃ」と別れの挨拶を口にする。
「わたしは、こっちなんで――」
「ちょっと待て」
思わず、京太郎は少女を呼び止めていた。とはいえ、用件などない。制止の声を発してから、その理由を探して、かれは咄嗟に視線を彷徨わせた。
「なんすか?」
「そこにいろ」と、京太郎はいった。
「はあ」
「――いいか、かってにいなくなるんじゃないぞ。そこにいろよ」
言い置いて、京太郎は走り出す。横断歩道を挟んだ交差点の向かいにある自動販売機へ足を飛ばす。理由のわからない不安が、京太郎の背中を押す。焦りがかれを急がせる。かれは呼吸を乱しながら飲み物をふたつ買う。
数分も間を置かなかったはずである。
けれども、元の場所に戻った京太郎には、少女の姿を見つけることはできなかった。
「……はぁ」
弾む呼吸を抑えて、京太郎は両手に握った缶ふたつ――火傷しそうなほど熱い汁粉の缶を見下ろした。
右にも、左にも、少女の姿はない。
「礼を、いいたかったんだ」京太郎は、小声で呟いた。「べつにおまえじゃなくてもよかった。でも、おまえに楽しそうっていってもらえて、おれは、救われたんだよ」
かれは嘆息した。
「でも、そんなもんはおれの勝手な都合なんだろうな」
頬に、冷たいものが触れた。
雪だった。
京太郎は天を仰ぐ。
白い粒子が、次から次へと降りしきる。雪国では当たり前の光景である。周囲からは感嘆よりも、明日の除雪を嘆く声が多く立ち上る。日中の好天からは予想がつかないほど勢いを増し始める降雪に、京太郎もうんざりとした心地になった。
「ありがとな」
京太郎はその場にひとつ、未開封の缶を置くと、その場を離れた。
▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市/ 17:35
「――どういたしまして」
とぼとぼと立ち去る少年の背中を尻目に、プルタブを押し開けた。
「そういえば、名前も聞いてない」
一息で飲み干した汁粉は、火傷しそうなほど熱く、歯が疼くほど甘かった。
「――そのうち、またどっかで会うっすかね」
東横は、快活に笑った。
「なんて、私に気づけないんだから、無理っすね! ……」
それからふと無表情になると、彼女は数秒、空になった缶と近場のゴミ箱を見比べた。
停滞は数瞬のことだった。
「………………さむ」
白い息を落として、コートのポケットに缶をしまうと、彼女はまた目的もなく逍遥をはじめた。
▽ 12月下旬(月曜日) 長野県・飯島町・七久保駅/ 22:20
長旅に凝った身体をほぐし、京太郎は大口を開けて欠伸した。電車を降り、駅を出、充満する寒気を肺に取り込み思考を覚醒させる。
雪は七久保でも降っていた。交通が阻害されるほどではないが、積雪は相応で、靴下まで水浸しになることは覚悟しなければならない。長野市内で購入したビニル傘を差して、京太郎は誰もいない夜の道を歩き始める。精神的にはともかく、身体的にはほとほと疲れ果てて、かれは一刻も早く眠りにつきたかった。
夜闇に浮く白雪が視界の大半を埋める。その見慣れた光景を、美しいと思う感性が京太郎にはない。ただ美しく思えればいいとは思う。
遠地で出会ったあの幽霊めいた少女の姿を、かれは追想する。京太郎の目には、彼女はどうしようもなく孤独に見えた。慮るのも憚られるほどの隔たりを感じた。京太郎が望む存在とは、畢竟彼女に他ならないとも感じた。そこには羨望や嫉妬はなかった。感情のヴェクタさえも一切遮断するほど、あの少女の不在は際立っていた。
(夢でも見せられたみたいだ)
寂々と、雪上に足跡を刻みながら、京太郎は沈思する。無為に過ごした一日を思い、死に損なった自分を無様に思い、何より今すぐにでも麻雀を打ちたいと思う。糸は解けてまとまらず、思索はとりとめもなく広がって定まらない。
かれの足取りが重いのは、家にたどりついたときにひとつの現実を見ることを予期しているからである。
今日は平日で、すでに時間も深く、常ならば須賀家の両親はともに帰宅している時間だった。京太郎はふだん、毎朝両親が置いていく小遣いで朝食と夕食を済ませた(実際にはほとんど遣っていないから、かれには小学生としては分不相応なほどの蓄えがある)。日常的には、朝餉や夕餉をかれらと囲むことはなかった。例外はせいぜい月に一、二度くらいなもので、それで須賀家は概ねうまく廻っていた。
かれの両親は、特段不仲というわけではなかった。お互いに意中の相手は家の外にいて、そのことについての不満や悪意は澱のように積もっている。けれどもそういった不和が家庭で発露されることはない。京太郎は、その理由が自分にあることを察している。唐突に得体の知れない振る舞いを見せる異物に対する倦厭と、多感な時期にある息子への配慮とが、須賀家には混在している。
京太郎は、両親が嫌いではない。二人とも幸せであってほしいと心底想っている。けれどもそのためには自分が障害となるであろうことも自覚している。彼らに心配をかけるのは、だから本意ではない。
単純に、かれは家出の露見を恐れていた。両親は京太郎を避けているが、かれに無関心というわけではない。今回のような大胆な行動に踏み切った裏を、必ず追求するはずである。むろん自殺のことなど仄めかすわけにもいかない。従って適当な言い訳を作る必要があり、それはかれにとってはたいへんな面倒だった。
しかし、仮に両親が自分の不在に気づいていなければ、このまま朝を待って何事もなかったようにやり過ごすことができる。
ぼうっと落ちる雪を眺めることしばし、京太郎は今夜の方針を決めた。
(――月子んちに泊めてもらうか)
そうと決まれば、とばかりにかれは公衆電話を探した。普段存在を意識していないこともあって即座に場所は思いつかないが、少なくとも駅まで戻れば確実に一台はある。かれは踵を返し、
そこに石戸月子がいた。
▽ 12月下旬(月曜日) 長野県・飯島町・七久保駅/ 22:22
何があったのか、月子は激しく呼吸を乱していた。汗までかいているようで、額に長い黒髪がはりつき、ふだんは乱れのない髪の流れも今はあちこちに広がっている。断続的に吐かれる息は明らかに熱を持っていて、紅潮した頬からさえ湯気が立っている。
「月子? なにやって」
問いが終わる前に、月子が動いた。高い位置にある彼女の頭が沈む。黒髪が反動に跳ね上がる。墨跡のようにそのまま尾を引いて、月子は一瞬で京太郎に肉薄する。京太郎は呆気に取られて全ての様を見送る。月子の右手が振りかぶられる。手先には拳が作られている。コンパクトに畳まれた腕は撓んで開放の瞬間を待つ発条を連想させる。そのイメージを裏切ることなく、引き絞られた拳は勢い良く放たれて、京太郎の顔に向かう。
殴られる、と京太郎は思う。
殴られた。
鼻の奥で、火薬のような匂いが広がる。痛みよりも、感触と衝撃が感覚の全てを占拠した。捩れていく首の動きに逆らわず、京太郎は足を支えにその場に留まろうとしたが、気がついたら靴底が地面から離れている、あ、おれ飛んでる、と思った次の瞬間にかれは頭から雪に突っ込んだ。冷え切った身体にさらに冷たい雪が覆いかぶさる。
「とりあえず」と、月子が息も絶え絶えにいった。「手間賃として、一発、殴らせなさい」
(もう殴ってるじゃねえか)
と、思いはするものの、京太郎は声を発することができない。頬が尋常ではなく熱く、頭が揺れてまるで思考がまとまらない。突然の暴挙に抗弁しようとするものの、地面に手を着いて立ち上がろうとした傍から滑り、膝が笑って、また這い蹲る。口はしから唾液が滴り落ちる。雪面に出来た染みには赤いものと、白く硬質な物質の欠片が混じっている。
そんな京太郎の襟首を掴む手がある。むろん月子である。無理やり身体を引き起こすと、月子の端整な顔が京太郎の視界いっぱいに広がる。汗みずくの月子の体温の高さを感じて、京太郎はふいに、事情を察した。
「――あのね、須賀くん」
と、万感を込めた調子で、月子がいった。
「莫―――ッッッッッ迦じゃないの!? ばーか! ばぁか!!」夜を劈くほどの絶叫だった。「なんなの、負けてソッコー家出とかいったいどういう神経してるの!? あなたヘーキな顔しておいてもうなんなの! ほんとに! ひとにひとにもぉおお、心配掛けて! なんなの!? ほんっっっと、あせったっ! 幽霊かと思った! 須賀くんのせいでまだ無駄に運悪くなっちゃうじゃないなんなの! もう、莫迦!」
「おちつけ」と、京太郎はいった。
また殴られた。
「冗談じゃないわよほんとにもう――ちょっとねえ、ひとがっ、どんっだけ心配したと、くっ――ばか! 用水路とか川とかでなんかへんな塊見るたびに心臓に悪くてもー! むかつく! なに平気な顔してるの!? なんなの!?」
仰向けに倒れこんだ京太郎に馬乗りになって、月子は支離滅裂な罵声を浴びせ続けた。興奮のあまり、月子の目じりには涙が仄見えた。鼻も時おりすすっているようだった。本格的に泣き出さないのは、彼女の意地のゆえだろう。加減のない暴力を、京太郎は粛然と受け入れた。甘んじて受け入れる必要がある痛みだった。
一頻り衝動を吐き出した月子が落ち着いたタイミングを見計らって、京太郎はいった。
「おまえなんで、おれが家出したってしってるんだ」
「そんなの」と、月子はいった。「あなたの親に連絡もらったからに決まってるでしょう! 春金さんも! 父さんも! あなたのおとうさんとおかあさんも! みんな! 須賀くんのこと探してるわよ、いま!」
(あァ――そっか。そうだよな)
京太郎は、
(そういうことも――あるよな。親だもんな。なんで、気が回らなかったんだろう)
目を閉じた。
「そいつは、わるかった」
「謝れば済むと思ってるわけ!」
「いや、そうじゃねえけど」
対応に苦慮する京太郎を目にして、月子はようやく、声のトーンを落とした。
「……死んじゃったかと思ったわ」
図星を刺されつつ、京太郎は自然な態度で笑った。
「たかが麻雀に負けたくらいで、そんなわけあるか。ただちょっと、サボっただけだよ」
「たかが、なんて思えないよ」弱弱しい声で、月子がいった。「だって須賀くん、いつも、いなくなりたそうじゃない」
今度こそ、京太郎は驚きのあまり、呼吸を止めた。
「――なんで」
「なんで? なんでってなにが?」月子が顔をゆがめた。「
京太郎は、咄嗟に答えられなかった。
「須賀くん、麻雀以外、全部どうでもいいって顔しかしてない。何話しても、誰といてもそうじゃない」月子はさらに言い募った。「いつも遠いし、どうでもよさそうだし、上の空で、須賀くんが楽しそうにしてるの、麻雀以外じゃ見たことないもの。あんな調子で、それでみんなうまく誤魔化せてると思ってたわけ? ひと当たりよくして、優しくしてれば、それでどうとでも流せると思ってたんでしょう。――あのね、須賀くん、自慢じゃないけど、わたし、友達があんまりいないのよ」
自ら殴った頬に手のひらを添えて、月子が告げた。
「だから、
最後に、いくぶん弱く(それでも鋭く)、月子は京太郎の頬を張った。
それからいった。
「だから、反省しなさい。――わたしも、一緒に謝ってあげるから」
全ての言葉に耳を澄ませ、心の奥深くに納めると、京太郎は呟いた。
「月子」
「なに」
「麻雀が、打ちたい」
「――――――――――――」
『絶句』というタイトルをつけて飾っておきたいほど、そのときの月子の表情は見ものだった。
そんな顔をさせたことに満足して、京太郎は笑った。
「冗談だよ」
と、いった。
もちろん、嘘だった。
▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町/ 13:18
終業式が終わったその足で、目的地へ向かう。急く気に任せて、歩調は小走りになる。本調子ではない身体は気だるさを訴えているが、かれはまったく頓着しなかった。
家出の後、京太郎は熱を出した。この季節に冷えすぎたこともあるが、根本原因は月子の打撃である。彼女の一撃は京太郎の乳歯を砕き、傷口に雑菌が入り込み、それが高熱をもたらした。とはいえ体調が悪いと気づいたのは翌日の朝のことであり、当日の夜、京太郎は月子(と、遠巻きにふたりのやり取りを眺めていた春金清)に引き連れられて、両親の元に送り届けられた。京太郎の姿を見た父はとりあえず安堵したものの、本格的に取り乱していた母は顔を腫らした息子を見て更に混乱する羽目になった。
詳細は省き、とりあえず京太郎は両親に心配を掛けたことを謝罪した。
もちろん、須賀家に内在する問題が、そんな一幕で解消するはずはない。それは当事者たちがいちばんよくわかっている。わだかまりは厳然と存在していたし、それは息子が行方不明になるという非常事態にあっても同じだった。ただ、困難を共有するという経験はいくらか両親の関係性を改善したようだった。それは養育者として息子を気に掛けるという方面の一致であり、恐らく家族としてのそれとは異なったが、改善には変わりない。
とまれ、京太郎は冬休みを目前に控えた数日を、病床で過ごすはめに陥った。見舞いには級友が数人と、月子が一度だけ訪れた。母は一日だけ仕事を休んで京太郎の世話をしたが、多少回復が見込めた二日目以降は、京太郎自身が母を促して仕事に向かわせた。
その間、京太郎はずっと考えていた。
――どうすれば、宮永照に勝てるかを。
照に対して、何かしらの悔恨があるかといえば否である。喫した手ひどい敗北については、京太郎自身に責がある。だからかれは、別段雪辱のために照の攻略を検討していたわけではなかった。かといって、月子に初めて挑んだときのような釈然としない心地を感じているわけでもない。
照は強い。
強いて挙げるとすれば、それだけが京太郎の動機だった。改めて麻雀に向かい合い、生きていくために、照に挑むことは、悪くない案のように思われたのだ。しかしただ対局するだけでは、どうにも勝てる気はしない。仮に勝てたとしても、それはたんなる偶然に任せた結果に過ぎない。そうした勝利が欲しいだけなのであれば、極論麻雀をする必要はない。賽の目でも振り合うだけでもいい。それでは足りないから京太郎は麻雀を打つ。
そして、打つからには勝つべきだという想念がある。
勝利への意欲が、やはり京太郎は希薄である。それは純粋に性質的な問題で、短期間で覆るものではない。ただ不可能事への挑戦であれば話は違ってくる。
照は壁である。磐石で途方もなく高い。少々の小細工では到底打ち崩せない。余程の策と幸運に恵まれて、ようやく瑕のひとつもつけられるかもしれない。
だからこそ、挑み甲斐があった。
そして、証明しなければならない。
(あんたは別に何も悪くないし、おれは、これでいいってことを)
京太郎は、だからまた、照に挑む。
▽ 12月27日(金曜日) 長野県・飯島町/ 14:00
「――」
照の足が止まる。表情は全く変わらないが、もしかしたら驚いているのかもしれない、と京太郎は思う。
いつか見たコートにマフラー、ランドセルの装いで、照は一人で帰路についていた。周囲に友人やそれ以外の影はない。京太郎は以前一度だけ歩いた彼女の家に続く道の前で、ただ待っていただけである。
「こんにちは」
「うん」
と、照は頷いた。他にどういったらいいかわからないという風情である。その不器用さがなんとも微笑ましくて、京太郎は相好を崩した。
「わかってるだろうけど――麻雀、うとうって言いにきた」
「打たない」照は言下に言い切った。「麻雀は、京太郎に向いていない」
「それを決めるのはあんたじゃない」
「わたしは何も決めていない」と、照は答えた。「ただ、そうだからそういってる」
「そうだったとしても、麻雀がおれに向いていないとしても、おれは
京太郎は、あくまで穏やかに反駁した。
「前も言ったけど、照さん、おれはあんたが好きだよ。たぶん、初恋ってやつだ」
「……うん」
少しだけ照の挙動が不審になったが、構わず京太郎は続けた。
「ただ、それは、それだけだよ。必要なものじゃない。でも、麻雀はおれに必要なんだ。おれが生きていくのに、そいつはどうしても必要なんだ――もし生きていくのなら、そう生きたいって、心から思ったんだよ」
「――」
「前に言ったよな、おれが本当にやりたいことはなにかって」京太郎は、雲に覆われた空を眺める。「もうわかってるだろうし、今さらだから白状するけど、おれはずっと、この世からいなくなりたかった。――ていうか、いまもそうだ。なんか、いなくならなきゃいけないような気がしてる。誰もそんなこと言ってないし、言われたこともないんだけど、そう言われてるような気がしてるんだ。もうずっとそうだ。長いこと、そんなふうに感じながら、毎日生きてきた。そのうち、何が正しいのかわかんなくなった。いなくなったほうがいいんじゃないか、それが本当なんじゃないかって思って、でも実際に死ぬような思い切りもなくてさ、ナァナァでやってきた。馬鹿みたいなことや危ないことを時々やって、ああ、今回は駄目だったな、でもいつか本当に死んじまうのかなって、思ってた。――はじめてあんたらに会った日も、そうだったよ」
一息で喋り、京太郎は照の様子を伺う。生涯で初めて、かれはおのれの本音を赤裸々に語る。照は黙して、京太郎の告白に耳を澄ませている。
「でも、麻雀を打ってると、そんなことは忘れられるんだ。逃げてるだけって思うかもしれねーけど、でも、おれは、それがそんなに悪いことだとは思わない。照さん、なぁ、照さん――おれは弱い。あんたよりもずっと弱い。下手だからとかそういう話じゃなくて、たぶん、どうしようもないところで、おれの弱さとあんたの強さの間には線が引かれてる。なぁ、そうじゃないか?」
「わからない」と、照は答えた。
その留保は、彼女の優しさだ。
京太郎は満足げに頷く。
「おれは弱いよ」京太郎は繰り返した。「でも麻雀が好きだ。まだ好きになれると思う。これからも打っていく。だれを向こうに回しても。何を相手にしたとしても。おれはこいつと生きていく」
呼吸、
「そのために、あんたが邪魔だ、照さん」
照の眼が細められた。
「どういう意味?」
「ごめん、言葉が足りなかった」京太郎はわざとらしく頭を下げた。「
「……京太郎は、わたしが
「照さんが
「それを証明するために、京太郎はわたしと打ちたいと思ってる」
「おれの負けは、おれが弱いからだ。照さんの勝ちは、照さんが強いからだ。そいつは外側での決まりごとなんかじゃねーんだ。おれはそのことについて、どうしても納得したい」
「わたしたちの勝負は、わたしたちが決める」
京太郎は肯んずる。
「恥ずかしいけど、もういっかい言うよ、照さん。おれはあんたが好きだよ。あんたの麻雀や強さに憧れてる。これからも、できれば打っていきたい」
「うん」照の瞳に、力が宿る。
常勝の強者に相応しい圧力が、その身から発される。
「だから照さん」と、京太郎はいう。「勝負しよう」
「わかった」
と、照はいう。
「――打とう」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:30
その部屋は12畳ほどのリビングである。3LDKの一室として、極々平均的な間取りの中央部に、違和感の塊が鎮座している。全自動麻雀卓――それも家庭用ではなく業務用だった。
「まだひとり到着していないみたいだけれど、ざっとルールの確認をしましょうか」
夜明けの陽射しを浴びながら、面子を見回して石戸月子が語る。
「前もって聞かされていると思うけど、念のため最後の確認です。まず、今日あなたたちは麻雀を打つわけだけれど、打つに当たっては、
含みおきのルールである。異論を発するものはいない。
「
各自が頷いたのを見、月子は満足する。
「さて、プラスして、今回のゲームではちょっとした特殊ルールを採用します。っていっても、特別ヘンというわけじゃないけどね。採用する特殊ルールはみっつ。『ご祝儀』と『割れ目』、そして『ドボンなし』よ。さっき言ったとおり、基本的にお金の清算は半荘ごとだけど、ご祝儀についてだけは一局清算とします。ただ半荘の途中で終了することをさけるために、オーラスまでは基本、チップでやり取りしてもらうわ。チップの価値――つまりご祝儀は、一枚100円。ご祝儀の対象は、『一発』一枚、『赤』ひとつにつき一枚、『裏ドラ』ひとつにつき一枚、『役満』は一役につき五枚。当然、出和了よりも自摸和了のほうが多くを稼げるということになるわね」
咳払い、
「次に割れ目。こちらはわりと単純なルールです。開門のとき振った賽の目にあたった人については、支払および収入を二倍計算とする。つまり
――で、最後に『ドボンなし』だけれど、これはそのままね。ようするにトビなしってこと。南四局の親が流れるまで、たとえハコワレしても半荘は終了しません。さて、ここまでで質問は?」
「はい」
「どうぞ、
手を挙げた少女――花田煌は、早朝を苦にもしない溌剌とした調子で、司会を気取る月子に問うた。
「割れ目なんですけど、自摸被りの支払いも倍になるんですか? たとえば子の一人が割れ目で1000・2000を別の子が自摸和了ったら、収入は4000じゃなくて5000?」
「そのとおりよ」
「ふーん。ナルホド……和了基準がちょと変わりますね」しばし宙を見やって、「――すばらっ。はあくしました!」
「それはよかった。――宮永さんと須賀くんは……まあ、須賀くんは大丈夫よね。
「まーな」京太郎は頷いた。
「わたしもルールについてはとくにない」非常に眠たげな宮永照が、それとは別に質問がある、といった。
「なに?」
「さっき、ひとり到着していないって言ってた」
「いったわね」月子は肯定する。
「面子はもう四人いる」照が、自身と京太郎、花田、月子を指差した。「あとひとりって?」
「ああ、それね」月子は手を打った。「今回はわたし、打たないのよ。いま麻雀やってもサンドバッグになるだけだから、今回は遠慮するわ」
そこまで答えたところで、インターフォンが室内に鳴り響いた。
「――きたみたい」
間もなく現れた少女は――
「ねむいし。ひじょーに眠いし……」
寝ぼけ眼を擦る池田華菜である。トレードマークのキャップを目深に被って、何度も欠伸をかみ殺していた。
「あれ」と首をかしげたのは月子である。「池田さん、呼んでたかしら」
「念のためおれが呼んだ」と、挙手したのは京太郎だった。「リザーバーっていうか、ホケンとして」
「要らなかったみたいだけどな」ぶっきらぼうに池田が呟いた。「ホールでうろうろしてたから、ピンときて連れて来たよ。たぶん、あいつが須賀のお客さんだろ? ――オイ、隠れてないでさっさと来る!」
「は、はいっ」
おずおずと顔を見せた最後の少女の姿を見て、照が目を瞠った。
「咲――?」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 06:30
ルール:半荘戦
持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)
赤ドラ :あり({[五]、[⑤]、[⑤]、[5]})
喰い断 :あり
後付け :あり
喰い替え:なし
ウマ :あり(二位:10000点、一位:30000点)
レート :1000点・50円
チップ :一枚・100円
祝儀 :一発(チップ一枚)、赤ドラ(チップ一枚)、裏ドラ(チップ一枚)、役満(チップ五枚)
その他 :割れ目
一回戦
起親(東家):花田 煌
南家 :宮永 照
西家 :須賀 京太郎
北家 :宮永 咲
2013/2/19:牌画像変換