ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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25.あたらよムーン(上)

25.あたらよムーン(上)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 朝の空気が壊れていく。日が(ひる)に向け昇っていく。その部屋で麻雀卓を囲む子供たちは一言も発さず淡々と山を切り崩し、河を牌で埋めていく。

 

 全員が聴牌を迎え、崩れ、さらに張りなおして幾巡かが過ぎた。時の刻みは微分されたように遅々として進まない。

 ただし一定に保たれた摸打の拍子は打ち手に停滞を許さない。

 

 山から牌を摸す。

 そして和了(アガ)りでなければ、河に打つ。

 

 連綿とその動作は繰り返される。

 誰かが和了るか、誰も和了れないことが確定するまで遊戯は続く。

 

 単純で明快な、そして厳格で残酷な決まりごとである。

 南家(花田)による東家()からの{南}ポンが唯一の副露である南四局において、16巡目の京太郎の牌が通ったいま残る自摸は七回だった。

 仮にこのまま誰も和了らなければ、全員聴牌による点数移動のない一本場である。そんな静かな結末も麻雀にはしばしば訪れる。

 

 けれどもこの瞬間に限っては、誰もそんな終局を信じていない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 宮永咲は無心である。彼女の思考に遊びはない。ただ目の前の流れにのみ専心している。積まれた山は動かない。埋もれた残りの牌も揺らがない。この終盤において咲は意図的に感覚を鈍らせている。たとえば、咲の望む牌が他家の筋にいたとする。それを気取った自分が、何らの反応も示さないと言い切ることはできない。いずれにせよ局面はすでに運否天賦を問う領域に足を踏み入れている。それは技術や感覚や能力の外に置かれる要素である。

 

 けれども、咲は祈らない。

 いま、彼女はそんな気分ではない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 花田煌は胸の鼓動のままに打つ。何を引いても勝つためには打つしかない。和了り牌以外は捨てるしかない。あらゆる要素が花田に突っ張ることを要求している。ここに至れば技術や知識が介在する余地はほとんどない。ただ運だけがものをいう。技術の研磨に積み重ねた努力が、勝敗の帰趨を決することは無い。この土壇場で席に座るのが花田ではなかったとしても、結果は恐らく変わらない。それが麻雀である。花田もそんなことは知っている。

 

 けれどもこの結果にたどり着くまでの道程は、自分とこの面子でなければありえない。

 それが心の底まで刻み込まれているから、この理不尽な遊戯は花田を惹きつけて止まない。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 宮永照は瞳を伏せて、ただ静かに決着のときを待つ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{二二二六六六⑥⑦⑧⑧白白白} 

 

 ツモ:{8}

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 花田:{三四赤五④⑤11678} ポン:{横南南南} ツモ:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 花田の唇が歪んだ。

 彼女に神がかった直感はない。不可視を見通す瞳はない。だからなんの根拠もないただの勘にすぎないけれども、彼女は確信した。

 

(ああ、これは……)

 

 それでも、止めることは出来なかった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 打:{二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 時間が止まる。

 

 ――少女が鳴いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{六六六⑥⑦⑧⑧白白白} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{白}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{六六六⑥⑦⑧⑧} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{六}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

「まったく」

 

 と、月子は切なげに呟いた。

 

「……やってられないわね」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 17巡目

 咲:{⑥⑦⑧⑧}  カン:{■六六■} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 嶺上ツモ:{⑤}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

「――ツモ」

 

 と、咲は言った。

 

「三槓子、白……」

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9}) 槓ドラ1:{④}(ドラ表示牌:{③}) 槓ドラ2:{一}(ドラ表示牌:{九}) 槓ドラ3:{6}(ドラ表示牌:{5})

 17巡目

 咲:{⑥⑦⑧⑧}  カン:{■六六■} カン:{■白白■} カン:{横二二二二}

 

「嶺上開花――」

 

 {⑤}

 

「――4000オール」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:53

 

 

 【南家】花田 煌  :26000→18000(- 8000)<割れ目>

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :25700→21700(- 4000)

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:26300→22300(- 4000)

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :22000→38000(+16000)

     チップ:+14

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:55

 

 

 南四局0本場が終わった。ただし、この場ではラス親による和了り止めは認められていない。つまり咲が聴牌せずに流局を迎えるか咲以外の誰かが和了ることでしか、半荘に終わりはやってこない。

 この特殊ルール下において、咲の点差は圧倒的とはいえない。けれども次局、接戦を力で捻じ伏せた咲に隙はなかった。彼女の警戒は最大の障害である照に偏ることもなく、満遍なく高い次元で三家をケアし続けたのである。

 

 そして、

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 18巡目

 咲:{三三五五赤五⑦⑨} カン:{■二二■} カン:{■八八■}

 

「……()()()()

 

 咲:{■■■■■■■} カン:{■二二■} カン:{■八八■}

 

 宣言と共に、咲は牌を伏せた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 花田:{九九①①⑨1199南南西西}

 

「――ふぅ」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 照:{一一三四五六七⑦⑧⑨中中中}

 

「……」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 南四局1本場 ドラ:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ1:{中}(ドラ表示牌:{發}) 槓ドラ2:{中}(ドラ表示牌:{發})

 京太郎:{一二①②②③③④⑨1238}

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:03

 

 

 それぞれの牙が咲に届くことはなく、半荘は終結を迎えた。

 

 【南家】花田 煌  :18000→19500(+ 1500)

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :21700→23200(+ 1500)<割れ目>

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:22300→20800(- 1500)

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :38000→36500(- 1500)

     チップ:+14

 

 一回戦

 持ち点

 宮永 咲  :+57

 宮永 照  :+ 3

 須賀京太郎 :-19

 花田 煌  :-41

 

 チップ(一枚百G)→点棒(点五十G)換算

 宮永 咲  :+14→+28

 宮永 照  :- 3→- 6

 須賀京太郎 :- 6→-12

 花田 煌  :- 5→-10

 

 合計

 宮永 咲  :+85(+4250G)

 宮永 照  :- 3(- 150G)

 須賀京太郎 :-31(-1550G)

 花田 煌  :-51(-2550G)

 

 清算(持ち金)

 宮永 咲  :11000円→15250(+4250)円

 宮永 照  :  500円→  350(- 150)円

 須賀京太郎 :90000円→88450(-1550)円

 花田 煌  :13000円→10450(-2550)円

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 09:10

 

 

 咲が、何かの実感を確認するように掌を開閉している。

 その様を(いろ)の無い瞳で見つめながら、

 

「次」

 

 と、照が明瞭な声を発した。

 

「――打とう」

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 鹿児島空港発・中部国際空港行 国内線飛行機内/ 09:30

 

 

 霧島市内から鹿児島空港への道行きも祖母との合流も、滞りなく進んだ。思い描いていたよりも随分手狭な飛行機への搭乗にもとくに問題はなかった。万事は旅慣れた様子の祖母に付き従うだけで済んだ。FAの案内にしたがって席に腰を下ろすと、窓外に舞う雪がよく見えた。粒子は風に翻弄され、複雑な軌跡を描いて地に落ちる。その様は落花に似ていた。

 積もるほどの勢いはない。

 石戸古詠(こよみ)は雪を追いかけることをやめて、瞑目した。

 やがて機内アナウンスを経て機体が動き出し、飛翔した。耳抜きのために鼻をつまんでいると、

 

「疲れましたか」

 

 と、傍らに座る祖母が問いかけてきた。

 和装の貴婦人といった風情の彼女は、格安航空会社のエコノミー便にそぐわない雰囲気をまとっている。

 彼女の言葉に、古詠は首を振った。

 

「まだ起きたばかりだし、そうでもないです」

「空港には10時前には着きますが、そこからは長旅になるのだから、眠ければ寝ておきなさい。私と話したところで面白くもないでしょうし」

「そんなことは、ないです」

 

 突然の踏み込みに、面食らいながら古詠は応じた。祖母は神官である。ふだんは従姉である石戸霞や親戚の神代小蒔と同様、『神境』を在所としている(つまり、古詠と同居はしていない)。彼女はだから、古詠にとっては血縁であってもいわゆる一般的な『家族』ではない。それでも彼が鹿児島の地で知り合った中では飛びぬけて尊敬できる存在だった。

 親しみを感じているとは言えないけれども、彼はこの厳しい老人が嫌いではなかった。情実の枯れたような言動が好きだった。自らに任じた役目のためなら私心を殺す潔癖さが好ましかった。孫に亡くした娘の面影を見ることを戒めているような瞳が何より古詠の気を惹いた。

 祖母は古詠が出会った中でもっとも完成された『大人』だった。それだけに彼女の心や思考を彼はとても興味深く感じている。手塩に掛けて育てた娘が生家から逐電し、堅気とはいいにくい男を相手に子供をふたり産み、育て、やがて疲れて心を病み、ついには自裁した事実を母としてどう考えているのか、聞いてみたくてたまらなかった。

 

 自分が思うことと祖母の思うことにどれだけの乖離があるのかを、古詠は知りたかった。

 

(訊けないけどさ)

 

 今頃は病で臥せっているであろう薄墨(うすずみ)初美(はつみ)にその心境を打ち明けたときのことを思い出しながら、古詠は温度のない息を吐き出した。

 薄墨は古詠にとって、鹿児島において唯一といって良い気安い相手だった。もっとも薄墨に対して、彼がとくに友情や親愛を篤く感じているというわけではない。ただ薄墨は古詠に対して何も望まないし期待をすることもない。彼女は気まぐれで、時おり古詠の肝を冷やすような残酷さを発露させる。かと思えば年下としか思えないような無邪気さを見せることもある。それでも、ある一定の線を越えて古詠に歩み寄ろうとは決してしない。薄墨にとって古詠はどこまでいっても『石戸霞の従弟(おとうと)』でしかない。完全に固定されたその距離感の保ち方が、古詠にとっては意外なほど心地よかった。

 

 そんな薄墨が、石戸の祖母について愚痴らしきものを口にしたことがあった。内容は他愛ないものだった。勤めについて叱責を買ったというようなものである。その合いの手として、古詠は内に抱いた祖母への感情をふと零してしまった。それを耳にした薄墨は、稚気をはらんだ表情を一瞬で冷酷なそれに変えると、ひどく突き放した口調で古詠に忠告した。

 

 ――君は誰にもほんとうのことを言うべきじゃないと思いますよー。もちろん、わたしにもです。

 

 この言に対して、古詠はおおいに頷いた。納得せざるを得ないとおもった。彼は薄墨の慧眼にたいへん感じ入ったのである。

 以来、彼はとりあえず何か判断に迷ったときには薄墨を頼るようにしていた。今回の長野行きについても正直なところ薄墨の助言を仰ぎたかったけれども、あいにく彼女は常日頃の薄着が祟って寝込んでいる。致し方なく、古詠は試みに賽を振って長野へ向かうかどうかを決めたのだった。

 

 福岡空港を出発して三十分ほど過ぎたところで、古詠は暇に耐え切れず機内誌を眺め始めた。プロリーグの牌譜は預けた荷物に入れたままだったのである。退屈な観光案内の文字を追いかけていると、効果覿面、数分もしないうちに睡魔が古詠を訪れた。

 

(あ)

 

 まどろみの中で、疑問が閃いた。ふだんなら理性が歯止めを掛けるそのせりふを、古詠は思いついたままに舌へ乗せた。

 

「お祖母さん」

「――どうしました」応じた祖母が、古詠に目をやった。

 

「もしも、死んだお母さんに会えたら、お祖母さんならなんて言いますか」

 

「『迷うな』というでしょうね」

 

 即答だった。

 

「……なるほど」

 

 と、古詠は頷いた。

 

 通路を挟んだ先の空席に座った母の亡霊は、相変わらず涙を流し続けている。

 

 未練がましいひとだと、古詠は眠りのふちでぼんやり呟いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・信州麻雀スクール近辺/ 11:32

 

 

 花田煌に託された紙片を頼りに、押っ取り刀で支度した。威勢よく家人に小遣いを要求し、行きの電車賃をせしめると自転車で最寄の駅まで向かった。年越しの準備をすっかり整えた道行を尻目に片岡優希は疾駆した。

 

 胸の内には不甲斐ない自分への怒りが燃えていた。

 

 一週間前、片岡は宮永照を相手取り、須賀京太郎と共に惨敗を喫した。勝負を切ったのは京太郎の言葉だった。夕刻と共に彼の口から発せられた事実上の降伏宣言に、片岡はいたく腹を立てた。

 

 ――()()()()()

 

 内心は、救われた思いだった。本音をいえば、あの怪物めいた少女と、片岡はもう打ちたいとは思っていなかった。敗北や勝利を経て築いてきた自負のようなものを、宮永照の麻雀は根こそぎ砕いていった。遠慮呵責のない圧倒的な力を前にして、片岡はかろうじて抗うだけで精一杯だった。

 京太郎の提案は、だから渡りに船だった。自分自身の戦意は萎えていないことを示しつつ、片岡は勝負の場から立ち去った。照が片岡に向けて何かを発することはなかった。

 

 何もかも打算づくで振舞ったわけではなかった。良くも悪くも片岡は単純な性質だったし、京太郎に対して裏切られたような気分になったことも事実である。けれどもあの場における自分の行いは、少なくとも、

 

(ろくなもんじゃ、なかったじぇ)

 

 と、片岡は思うのである。

 そして自身の心象がそう断じたならば、その行いは正されねばならない

 いまでも、麻雀のことを思い浮かべるたびに、片岡は照の底知れない瞳を思い出す。その追想には恐怖が伴う。萎縮が伴う。あの吐気を催すほどの無力感と徒労感を彼女は忘れていない。

 

 ――だからこそ、打たねばならない。

 

 そう心に決めて、花田の誘いに応じた今日である。

 花田の紙片には、『麻雀打ちたかったら』という添え書きと共にある麻雀教室の住所が記されていた。他に頼りもない片岡はとりあえず最寄り駅へと向かう電車に乗り、目的地で降りた(人生ではじめて、ひとりだけで電車に乗ったことには後で気づいた)。

 

 そして迷った。

 完膚なきまでに行く道を見失った。

 住所など紙に書かれても、そこへどうやって着けばいいのか、片岡は判らなかったのである。

 

「どこ、ここ」

 

 途方に暮れた片岡の言葉に、応じる人の影はない。勢いだけで走り始めただけに、その火が消えればとたんに片岡の胸に不安が兆した。

 

「んん……」

 

 ひとしきり唸る。腕を組み頭を捻る。妙案は閃かない。しかたがないので、片岡はとりあえずあてどなく歩き回ることにする。駅の近場まで行けばそれなりに人通りもある。メモを見せて訊ねれば道も開けようと、彼女は楽観的に構えた。

 

「とりあえず、つぎに見かけたひとに道を聞いてみるじぇー」

 

 薄っすら雲の張った空を見上げながら、鼻歌混じりに片岡は歩く。ほどなく彼女の視界に特徴的な三人組が入り込む。若い女、片岡より少し年上と見える少女、そして老境の男性という組み合わせである。年齢はともかく、まとう空気は少なくとも親子孫というそれではない。道を尋ねるのに適した組み合わせとも思えない。けれども一度決めたことなので、片岡は一切ためらわずに大声を掛けた。

 

「もし! そこのひとたち!」

 

 喫驚した様子で、一同が片岡を顧みた。見知らぬひとに一斉に視線を向けられると、ふつうは萎縮する。年端もいかぬ子供であればなおのことである。けれども片岡は、そういう意味での『普通』からは縁遠い少女である。

 

「信州麻雀スクールってどこにあるかしりませんか!」

 

 と、胸を張って訊ねた。

 無言の間が過ぎて、片岡をよそに三人が顔を見合わせた。老人は労わるような目を片岡に向けた。長身の女は何かを思い出すように首を捻っていた。

 三人目の少女が、ポニーテールを揺らしながら、呆れ混じりに告げた。

 

「あなたのうしろにあるのがそれよ」

「――」

 

 いきおい、片岡は背後に目をやった。一面が硝子張りの建物がそこにある。いまはブラインドが降りて屋内を見透かせないけれども、見上げた位置にあるその屋根には、確かに、

 

 信州麻雀スクール

 

 と、あった。

 

「まじか」

 

 と、片岡は呟いた。

 

「もうちょっと看板わかりやすくしたほうがいいかなぁ……」若い女が悩ましげにいった。

「これ以上わかりやすくしようとすると、ネオンでもつけるしかないんじゃないかね」老人が苦笑した。

 

「ここが、わたしの旅の終わり……」

 

 万感を込めて、片岡は胸に手を添えた。

 

「で、結局あなた何しにきたの?」

 

 心なしか距離を置いて問いかけてくる少女に、片岡は肩をすくめて応じた。

 

「おねえさんはおバカなのか?」

「あ?」少女が剣呑に眉をひそめた。

「麻雀スクールに、麻雀以外のなにをしにくるんだじぇ!」

「……まァ、たしかに」少女は片岡の言にしぶしぶの納得を見せた。

 

 これを見た片岡は、

 

「まあ、気にするな。だれにでも間違いはあるじぇ!」

 

 といって、鷹揚と笑った。

 

「あ、ありがとう。――あれ? なに、私いまなんで慰められたの?」

 

 これが片岡優希と南浦数絵の、記録にも記憶にも残らない初遭遇であった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

 ――電話が鳴った。

 

 弾かれたように、月子は立ち上がる。ソファから腰をあげると、足元が少しだけ揺れた。立ちくらみもした。どれだけ長い間観戦していたのかと時計を見つめて、彼女は小さく声を漏らすほど驚いた。時刻はすでに13時を半分近く回っている。開戦からじつに6時間以上も、かぶりつきで麻雀を見ていたというわけである。

 

 池田華菜は、すでに長丁場に見切りをつけて、別室で仮眠を取っている。

 

 月子は鳴り続ける電話に催促されながら、強く握り締めてしわだらけになった収支表を見下ろした。

 

 ―― 一回戦

 宮永 咲  :+85(+4250G)

 宮永 照  :- 3(- 150G)

 須賀京太郎 :-31(-1550G)

 花田 煌  :-51(-2550G)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

 ―― 二回戦

 宮永 照  :+105(+5050G)

 花田 煌  :-  8(- 400G)

 宮永 咲  :- 31(-1550G)

 須賀京太郎 :- 66(-3300G)

 

 

 ―― 三回戦

 宮永 照  :+ 98(+4900G)

 宮永 咲  :±  0(    0G)

 花田 煌  :- 28(-1400G)

 須賀京太郎 :- 70(-3500G)

 

 

 ―― 四回戦

 宮永 照  :+ 77(+3850G)

 宮永 咲  :+ 20(+1000G)

 花田 煌  :-  2(- 100G)

 須賀京太郎 :- 95(-4750G)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 13:26

 

 

「……ツモ」

 

 宣言と共に、宮永照が牌を倒す。焦燥に満ちた顔でその様を見送るのは宮永咲である。

 花田煌は、言葉少なになって久しい。摸打にこそ陰りはないが、瞳には疲労がちらついている。

 

「6000は割れ目で12000オール――」

 

 そして須賀京太郎は、色を亡くした顔で、積み重ねられる和了を、呆けたように見つめていた。




2013/6/24:牌譜修正

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