ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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28.あたらよムーン(魄)

28.あたらよムーン(魄)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:30

 

 

「答えは急ぎません」

 

 と、祖母は言った。そう前置きした上で、「ただし」と付け加えた。

 

「これから、私はあなたにいくつか質問をします。その答えによっては、そうのんびりとは構えていられないかもしれない」

「質問に、答えることについてはべつにいいです」心持ち前のめりになって、月子は目前の老婆を正面から見据えた。「それより、『体質』って? 古詠からわたしのこと、何か聞いてるんですか」

「あなたについてそれほど多くのことを知っているわけではありません」祖母は淡々と答えた。「あなたの体のことについては、古詠というより、そこの――あなたのお父さんから何度か相談を受けていました」

 

 月子は、思わず新城を顧みた。

 

「どういうこと?」

「聞いたとおりだ。それ以上でも以下でもない」

 

 父の態度は相変わらずである。視線にも物腰にも漫ろな部分が毫もない。真っ直ぐに娘の瞳を受け止め、ただし必要なことも不要なことも語らない。彼は常に変わらない。

 もちろん今に限って、例外が起きるわけもない。

 彼から何かを問いただすことは早々に諦めて、月子は祖母へ向き直った。

 

「……治るんですか?」

「きっと」いとも容易く請け負って、祖母は皺深い顔に笑みを浮かべる。 

「ずいぶん、簡単に約束してくれるんですね」月子は反射的に皮肉をこぼした。「母さんには、結局どうすることもできなかった。あなたなら、どうにかできるんですか?」

「本当のところは調べてみなければわかりません。けれども『治るかどうかはわからない』という言葉をあなたが聞きたいとも思えません」祖母は微笑んだまま、揺ぎ無い口ぶりで続けた。「また、『がんばったけれども駄目でした』と、私はあなたに言う気にも未来永劫ならないでしょう。であれば、最善を尽くし結果を出すだけです。子供に助けを求められて、応じられない人間に大人を名乗る資格はない、と私は常々思っていますので」

 

 肯う老人にためらいはない。

 そうですかと、月子は掠れた声で言葉を返した。

 納得はできなかったけれども、約束の反故を恐れず子供の安心を重んじた回答は、月子を様々な意味で安心させた。体質改善の可否はどうあれ、自分たちの祖母は、善人らしい。

 月子は、話題に関心を示さず頬杖をつく兄を見る。

 母の死を知って、衝撃の後に月子を訪れたのは、古詠()への後ろめたさである。

 自分ばかりが父と平穏に暮らし、友人に恵まれ日々を過ごしていた。その間古詠は母と死に別れ、他人も同然の人々に囲まれ暮らしていたという。

 月子は古詠に対して好感や親愛をほとんど抱いていない。それでも彼は月子の兄には違いない。切っても切れない縁が家族を結んでおり、そこにはやはり情もある。遠地で暮らしていた兄が必ずしも不幸だったわけではないらしいと推察して、月子は安堵した(実際に古詠が何を感じたかは月子にとって問題ではない。月子が重視するのは自身への心理的な圧迫である。だから彼女はもとより、異郷における古詠の生活について深く聞き出そうとは全く思っていない。それは彼女にとって遠く隔たった世界の出来事だからである)。

 

「もし」気を取り直して、月子は祖母へ問う。「わたしがそっちへ行かないって言ったら……」

「だからと言って臍を曲げたりはしませんよ。少し不安にさせる言い方でしたね――ごめんなさい」祖母はあっさりと頭を下げた。「あなたの身体と心は、なんというか、そう――恐らくとても特別なものです。そして我々が住まう神境もまた特殊な地です。あなたのお母さん、つまり私の娘も、そして私も、その特殊な地に育ちました。私の母やその母も同じです。私たちはずっとそこで暮らし、血を継ぎ器を接ぎ、大体にしてそこから出ることなく一生を終えます」

「えっと、たしか、神社、なんでしたっけ」

 

 記憶の底から、月子は頼りない実家に関する知識を思い返した。昔、母の持ち物に幣や水干を見つけたことがある。母が自分に対して『おまじない』をする時、それらが持ち出されたこともある。

 祖母は頷く。

 

「そうです。同じようなものですし、実際に同じこともします。ただ、いま言った通り、我々は、とくに神境の女はあまり『外』には出ません。まったく出ないわけではありませんが、領域の外に出ることは基本的に好ましくないと考えられています。血を絶やさないこと、外界の穢れに触れないこと、ただし俗世の毒を矯めること――それが霧島の女の生業です。だから、深山幽谷――狐狸鳥獣も避けるような山奥で私たちはふだん、暮らしています。学業が終わればもう、一部の例外を除いてそこから出ることはなくなります。そんな生活はあなたにしてみれば不自由に聞こえるでしょうし、実際に不自由のない暮らしとはいえません。飽き飽きだといって出て行くものも少数ですが絶えません。とはいえ、私たちは、意味も理由もなく閉じこもっているわけではない――まァ、簡単に言えば、私たちにとって、ときに『外』の空気は害になるのです」

 

 『外』と口にしながら、祖母は漠然と指で机を叩く。月子にも、それが『ここ』であることは察せられる。 

 祖母は窓外に遠く聳える山嶺を目顔で示した。

 

「たとえばこのあたりに住んでいるのなら、シナノキンバイは知っていますか? 高い高い山の――雪の解けた夏ごろに咲く、黄色くて可愛らしい花の名前です。私はあの潔く伸びた茎と萌える花弁のかたちがとても好きで、むかし苗を取り寄せ咲かせようとしたことがあるのですが」

「うまくいかなかった?」結果を先取りして、月子はいった。

 

「うまくはいきました」祖母は緩やかに首を振った。「たいへん苦労しましたがね。まず芽吹かせるのに二年以上使いました。咲いたのは苗を育て始めてから五年目です。土やら気温やら、識者の力を借りてようやくです。それだけに感慨もひとしおでしたけれど、咲いた花はとても弱々しく、私の知る花のありようとは少し違ったものでした。だからといってがっかりはしなかったのですが……私も娘たちも、とてもその花を可愛がっていました」

 

 祖母は一瞬だけ眼差しを過去に投じる。

 

「花に限らず、生き物にはそれが生きるのに合った環境というものがあります。私の仕立てた苗床は、その花にとってあまり住み良いところではなかったのでしょう。――少々くどくなってしまいましたが、神境の女もまた、いと高きに咲く花と同じなのです。そこで息することに血の隅々まで適応してしまっているのです。だから時として『外』にいると、その空気に中てられることがある」

 

 彼女の眼球に、月子は母の面影を幻視した。

 

「月子さん、あなたのように。そして、あなたの母のように」

「つまり」と、月子はいった。「わたしのこの体質を完全に治すためには、わたしは『そこ』でずっと暮らす必要があるかもしれないってこと?」

()()()()()()

 

 祖母の言葉を切欠に、会話が途絶える。

 月子は水を呷って大きく息をつく。喫茶店の中に流れる音楽に彼女は気づく。耳にようやくメロディラインが届くような音量である。それは瞬間的に生まれた静寂を効果的に塗りつぶして、気まずさをいくらか希釈してくれる。

 音楽の効能を月子は思う。

 そして自分の心について考える。

 

「なんとなく、わたしたちの血筋はいろいろ面倒だってことはわかりました」と、月子は端的に祖母の言葉を総括した。「でも、わたしは実は、あんまり『なんで自分が』とか『どうして』とか、そういうことを今は気にしていません。昔はそればかり考えたこともありましたけど、いまはもうぜんぜんです。というのも、まず考え飽きたということがあります。そしてある程度、もう仕方ないかなって思えるようになったからです。要するに一度諦めたわけです」

「ええ」

 

 と、祖母は頷く。月子は慣れない敬語を繰りながら、言葉を丁寧に選んだ。

 

「諦めたのは……そうするほうが楽だからです。一々なんでどうしてと喚いて悲しい気持ちになるより、そうするほうが楽しく生きていけるからです。人生は差し引きです。どうやったって辛いことや苦しいことからは逃げられないんだと思います。そういうものと向かい合うために、楽しい気持ちは使われます。そういうものと向かい合わないためにも、楽しい気持ちを使っています。この違和感や吐気や目眩は永遠にわたしを困らせると思うんですけど、そういう時に、でも、楽しいことを思い出せば、どうやらいくらか気持ちはマシになるみたいです。わたしはその、と、とも、トモダチ……的な人たちといて、最近ようやくそう考えられるようになりました。だから、おばあさんの言っていることをそのまま受け止めていいかどうか、今凄く迷っています」

「――そうね」

「おばあさんの聞きたいことに、答えます」月子はいった。「でも、たぶん、間違ってるんですけど、きっといつか後悔するような気もするけれど――でも、どうにも、いろんな顔がちらついて」

 

 月子は、池田華菜のことを思った。花田煌のことを思った。春金清のことを思った。父のことを思った。

 須賀京太郎のことを思った。

 それらと引き換えに手に入れる健常な未来を思った。

 口元を引きつらせて、祖母を見返した。

 

 天秤は、

 

「身体は、治ればいいと思います。ほんとに、思います。でも、それは、もう――

 ――わたしにとっては、今、何より大事なことじゃないんだわ」

 

 つりあわない――

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:32

 

 

 戻らない月子の代わりに闖入者二名を観客に加えて、六回戦が始まった。起親は照である。席順はそのまま花田、咲、京太郎と続く。

 お手並み拝見とばかりに後背に位置取った新顔二名をまるで気にせず、照の指は牌に触れる。京太郎はさしたる感慨もなく自分の手牌を見下ろす。

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 配牌

 京太郎:{一二五八九①②⑥337西西}

 

 急所が早々に埋まれば、あるいは勝負になるかもしれない。とはいえその仮定が成り立たないからこそ打ち手の苦労は絶えない。

 

(こんな手牌で、たとえば池田さんなら、チャンタにピンフ、三色ドラ1を立直一発でツモって見せるのか)

 

 京太郎は淡々と打つべき牌を吟味する。負けが込み、いまは一本でも多く点棒が欲しい状況ではある。それでもかれの中に焦りはまだない。敗北に慣れたわけではないけれども、それはそれとして、かれは平静を保っている。年不相応の精神性が具わっていることも、京太郎の平常心を支える一因である。ただもっとも大きな理由は、

 

(このくらいは、当たり前だ)

 

 と、頭からはらを括っていたためである。

 照、花田、そして照と日常的に打ち交わしている咲と卓を囲もうという時点で、不利は見込んでいた。むろん数回の内にそれがここまで如実に現れようとは思っていなかったけれども、それでも予想の範疇に収まる出来事ではある。

 

(あと、どれだけ、おれは――)

 

 場は静かに進捗した。京太郎は僥倖に恵まれ、5巡目にして一向聴に漕ぎ着ける。

 そして、

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 6巡目

 京太郎:{一二三七八九①②133西西} ツモ:{③}

 

 高目を確定させる急所を埋めた。

 打{3}で{2}(ドラ)待ち――ダマでも満貫、自摸れば跳満である。

 河に聴牌気配はない。

 立直を掛けて自摸ったなら、一発でなくとも裏が一枚乗れば倍満である。割れ目は照――仮に引ければ、東パツから照に対して40000の点差を稼げる。ほとんど絶対的なアドバンテージである。

 

({3}は場にも一枚切れている。{2}が山に生きている見込みはそれなりにある。これで曲げたら、出和了なんかあるわけねえ。でも、曲げていい形だ)

 

 かれは河に牌を置く。1000点棒も共に放つ。

 

 打:{横3}

 

 ――瞬間に、疑念が京太郎の頭を過ぎる。

 

(打{1}の{33西西}は――どうだった?)

 

 四翻下げて役なしの聴牌を取る利点はない。考慮にも値しない選択肢である。とはいえ、京太郎の脳裏にはそもそも想像すら及んでいなかった。視野が固化している、何よりの証拠である。選ぶ選ばないという次元ではなく、発想が浮かばなかったことをこそ、京太郎は危惧した。

 

(この面子で、悪待ちを取る理由はない。どうせどんな待ちでも出ないんだ。でも、{2}と{3西}のどっちが引き易いのかを、おれは考えないといけなかった――)

 

 京太郎の胸中で、答えのない自問が繰り返される。

 失着ではない。ここまでの選択に何の問題もない。その点については京太郎は声高に主張できる。けれどもそれはただ過誤がないだけである。そしてそれだけでは手も足も出ないからこそ、京太郎は知恵と工夫を凝らさなければならない。

 それを怠れば、京太郎がこの卓に座っている意味も無くなる。

 

 そして、2巡後、

 

 東一局0本場 ドラ:{2}(ドラ表示牌:{1})

 8巡目

 京太郎:{一二三七八九①②③13西西} ツモ:{西}

 

 生牌の{西}を引いた。和了り逃しを悔やむ京太郎ではない。そのこと自体を、かれは問題視していない。

 けれども――

 

 打:{西}

 

『ロン』

 

 ふたつの声が、同時に上がった。

 

「え――」

 

 倒された牌姿を見て、京太郎の背が凍った。

 

 咲:{一九九①⑨19白發中東南北}

 

 比喩ではなく、冷や汗が流れた。

 

(終わった――)

 

 と、かれは思った。

 が、

 

「……頭ハネだね」

 

 嘆息一つと共に、倒した牌の並びを崩す、咲である。

 彼女の目線は対面――京太郎の下家に向いている。

 

 照:{四四八八⑧⑧88發發東東西}

 

 照は何ら感慨を見せることも無く、

 

「2400の割れ目は、4800」

 

 そう呟いて、場にシバ棒を一つ積んだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 16:00

 

 

 牌を自摸り、打つ。場を警戒し、得点と失点を秤に掛けて、瞬間の選択に身を投げ出す。焦げ付くような高揚感が心を支配する。意想外の手運びに心が躍る。狙い通りの結果に胸がすく。ままならない牌運に歯噛みする。どうしようもない不運を受け入れる。京太郎が思う麻雀には、受け入れるべき失敗と可能な限り排すべき失敗が混在する。たとえば捨て牌一段目の役満聴牌を、かれの麻雀は考慮しないし、できない。

 もちろん、早い巡目の怪物手に対し、疑いを持つこと、あるいはと牌を抑えることも、決して不可能ではない。けれどもそれはただ逃避にも等しい守勢である。そこには勝率の吟味が存在しない。

 照や咲、あるいは条件を満たした場合の花田は違う。

 彼女らは何か、確信するに足る理由を以って振込みを回避する。だからこそ、より際どい線まで踏み込んでいける。押し引きの精度が京太郎のそれとは違う。京太郎は物差しをもとに考える。彼女らはけれども、見、触れ、必要があれば味さえ感じ取る。

 和了り続ける特性や、嶺上を見通す眼力や、箱下を回避する感覚は、京太郎にとってあまりに現実感がない。あったとしても、それはただの幸運と見分けがつかない。彼女らの力を計る尺度がかれの中にはない。

 だからこそ、かれの同一線上に彼女らが立った時こそ、力の差がはっきりとわかる。

 広い広いこの海原のような卓上で、彼女たちには、もしかすれば磁針が与えられているのかもしれない。

 京太郎には決して与えられないその利器を、かれが羨んでいないといえば嘘になる。

 

 けれども、どこか哀れにも思えるのである。

 

(『そんなのは、ただの負け惜しみ』)

 

 いつか(恐らく先週、風邪で寝込んでいたときのことだった)、照への心境を吐露した京太郎に、月子は酷くつっけんどんな態度でそう言い返した。

 そのとき、かれは月子から照にこだわる理由の説明を求められた。照に対する京太郎の心情は複雑極まりなく、散り散りでまとまりがない。恋慕がある。感謝がある。憧憬がある。倦厭がある。畏怖がある。尊敬がある。憐憫がある。好意も敵意も敬意もない交ぜになっている。ただそれらのどれひとつ、照に届いている気がしない。理由は恐らく、照にとっての京太郎が路傍の石のような存在だからだと京太郎は思っている。

 

 現実の照がどう考えているかではない。

 実存としての宮永照にとっての須賀京太郎の価値とは、ただしく無意味なのである。

 

 京太郎の心理は、だからある意味とても単純で明解だった。自らの行いに関する正誤をかれは斟酌していなかった。照が自分をどう思っているかなど、実際のところ()()()()()()()()()()。かれは照のために照を討つことを企図しているわけではない。照に宣言した通り、かれが打つ理由は徹頭徹尾自身にある。

 京太郎が麻雀を打つ理由は全て自分だけで完結している。

 かれはただ麻雀が打てれば良いだけの少年でしかない。

 そのために理不尽の権化のような少女が、邪魔だった。

 彼女の存在は、京太郎の思う麻雀の像を損なうと感じた。

 

『ばか』と、月子はかれに告げた。『そんなのはただのカッコつけよ、須賀くん。あなた自分で思ってるほどクールじゃないのよ』

 

 局は続く。

 賽が回る。

 牌が打たれる。

 ――京太郎ではない誰かが和了る。

 

『ただ我慢してるだけだと思うわ。それは感じていないのとは違うのよ、きっとね。あなたはただ宮永さんに構ってほしいだけなんじゃない? 見て欲しいって思ってるんじゃない?』

 

(そうだな)

 

 耳鳴りがする。

 何をしても、京太郎は届かない。

 照にも、咲にも、花田にも届かない。

 

『そうじゃないの? そうお?――でも、わたしにはそう見えてしかたがないわ!』

 

 振り込む。

 点棒が底を尽く。

 立直すら掛けられなくなる。

 それでも更に点は減る。

 

(そうなのかもな。でも――だから、なんだってんだ?)

 

 牌を河に置くたびに、京太郎の指が竦む。

 全員の安全牌以外、何を切っても中るような気分になる。

 

(それを認めたら、おれは強くなるのか? そんなわけはないだろう。何がどうなるんだ?)

 

 怯えを振り切って進む京太郎を遥か後方において、照と対峙するのは咲である。

 彼女は朝に見せた弱気をいまは完全に払拭している。果敢に立ち向かい、瞬間的に照さえ上回ってみせる。

 照はそんな咲に対してだけ、薄っすらと熱のようなものを見せる。

 二人は互いに叩き合い、高めあって、京太郎の理解が及ばない次元で遊戯に耽溺している。

 

 ―― 六回戦

 宮永 咲  :+ 53(+2650G)

 宮永 照  :+ 23(+1150G)

 花田 煌  :- 17(- 850G)

 須賀京太郎 :- 59(-2950G)

 

 そして、また京太郎はラスを引く。

 大言を吐き、全霊を振り絞って、それでもまったく届かない。

 惨めだった。かれは痛切に消え入りたいと感じた。見得を切った相手である片岡の顔を見るのが辛かった。それでも、そんな素振りは億尾にも見せない。

 かれはただ、次の勝負を促すだけだ。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 18:10

 

 

 ―― 七回戦

 宮永 照  :+ 43(+2150G)

 花田 煌  :+ 19(+ 950G)

 宮永 咲  :- 11(- 550G)

 須賀京太郎 :- 51(-2550G)

 

 七回戦目が終わる。清算が一通り済むと、咲が席を立ち、覚束ない足取りでトイレへ向かった。

 花田が欠伸をかみ殺し、やや充血した瞳で時計を見る。更に移した視線の先では、すでにすっかり夜の帳が下りていた。色々な都合上、部屋の窓はカーテンで締め切っているけれども、眠気覚ましも兼ねて花田が換気を提案し、全員が同意した。

 

「……」

 

 宮永照は、無言で今日十杯目のホットココアを飲み干した。

 

 部屋に言葉は少なかった。片岡は既に腹を括ったようで、先ほど自宅に電話を入れている。最後まで付き合うつもりらしい。

 南浦は南浦で、痛ましげに京太郎を見つめては、結局何も言葉を掛けずにため息をつくことを繰り返している。

 

 そして京太郎は、無言で部屋の調度の位置を直していた。

 

「わあ、さむぅ――い」

 

 窓を開け放った花田が、首を竦めて白い息を吐いた。温まりきった部屋に一気に寒気が吹き込んで、少女たちの眼差しが少しだけ冷える。茫洋とした瞳で一同の顔を見回した京太郎は、遅ればせながら彼女らと自分の疲労に気づいた。

 都合十二時間近く、麻雀を打っている。面子の中では花田、咲の疲れが顕著だった。照ばかりは顔に全く素振りを見せないので判断がつかない。とはいえ疲労を感じていない筈はない。

 京太郎もまた、悠長に他人の疲れを量っていられるほど余裕があるわけではなかった。思考はやや霞がかっており、目の焦点も若干合い難くなっている。頭の中心には疼くような重さが居座って、取り留めなく浮かぶ感覚や意思を統御することができていない。ひたすら牌に触れ続けた腕にも、気だるさが積もっている。

 

「須賀」

 

 と、声を掛けてきたのは池田だった。こちらは途中で自侭に仮眠を取ったせいか、さっぱりとした顔つきである。彼女は京太郎の顔を見、眉をひそめる。

 

「しんどいか」

「それなりに」

「でも、止めないんだろ」

 

 野趣溢れる笑みと共に突きつけられた確信的な言葉に、京太郎は対応できない。

 

「疲れた、ダルい、勝てねェ、ちくしょう――って(ツラ)ァしちゃいるけど、つらい、止めたい、なんて感じじゃ、ないなア。ちょっと、感心したよ」

「……」

 

 池田に、京太郎は腹案も勝算も何一つ告げていない。

 それでも、何かを汲んだように、池田は京太郎の肩に手を置いた。

 

「――でも、そろそろ潮時だ。何を待ってるかは知らないけど、もう止めとけ」

()()()」京太郎は即答した。

「ツブれるぞ」池田が酷く醒めた目で、京太郎を見つめた。「おまえが吐き出してる金を、おまえは使い道もない小遣いとしか思ってないんだろうけど、もうそんなに軽い額じゃない。いろいろと、もうまずいところまで足を踏み入れてるぞ。そうじゃなくても、フォームも随分崩れてる。なにも、麻雀が打てる日は今日だけじゃないだろ」

「それでも、だめだ」京太郎は頑なに言い張った。

「――そっか。ま、そう言うだろうと思ったよ。あたしでもそーゆーだろうし。いちおう、年上としての義務を果たしただけだし!」

 

 と、池田はいって、快活な笑みを浮かべた。

 

「なら、好きにしたらいい――納得するってことは、何より大事なことだし。ただ、」

 

 低く冷たい声で、彼女は呟いた。

 

「勝負をした以上、どんな結果も、それは一人だけのものじゃないんだ。それはおぼえとけ。ツブれてもいいと思うなら、相手に自分をツブした負い目を持たせることも、別に構わないってこと――そこはきちんと自覚しておけ」

 

 京太郎は、もう返事をしなかった。気遣いを無碍にした後ろめたさがあった。気を抜くと、池田の言葉に甘えそうになる自分がいた。

 口元を引き締めて、かれは池田から目を逸らし続けた。

 池田の飄々とした言葉は続いた。

 

「なア、須賀、おまえ何そんなに悲壮感背負っちゃってるんだ? 麻雀はさ、そんな、顔をしかめてやるようなことじゃねーだろ? 楽しくないのか?」

「楽しいよ」

 

 心から、京太郎はいった。

 言葉が震えていた。

 もしかしたら、心も震えていた。

 

「楽しいよ――こんなに負けてるのに、すげえ楽しい。何をしてもどうしようないけど、それは、全然、変わらない。池田さん、麻雀は楽しいよ。でもさ、そう思ってるのが自分だけかもしれないって思うと、笑えない。そう思わないか?」

「思わない」池田はきっぱりいった。「楽しければ、須賀、笑え。笑えねーなら、おまえは楽しくないんだ。楽しめてねーんだよ。人にそう思わせられないやつが、何を教えられるとか思ってんじゃねー。だから、笑え須賀。負けて土を噛んでも笑って死ね」

 

 池田の指が、京太郎の頬に触れる。

 口角をつまんで、自らもそうして見せて、池田は微笑んだ。

 

「こうやって、ね。――そうしたら、もしかしたら、奇跡が起きるかもだから」

「どういう理屈だよ……」京太郎は苦笑した。

「神頼みだよ」池田はいった。「あたしら非モテ組は、最後はそーやってお願いしなきゃなんないのさっ」

 

 それじゃと手を振ってソファに飛び込んだ池田は、南浦と片岡を捕まえて退屈だから付き合えと、もう一つ卓の準備を始めた。

 ちょうどトイレから戻ってきた咲が、眠そうな眼を開かれた窓に向け、

 

「あ」

 

 と声をこぼした。

 

 釣られて窓外を見た京太郎の目にも、大粒の雪が闇を舞っている景色が見えた。

 

「また積もりそうだね……」

 

 浮かされたような咲の声におざなりに応じて、京太郎は身動ぎもせず卓上の牌と語らう照を見る。

 

「照さん」

 

 と、かれは言う。

 照の意識が、言葉に反応する。

 京太郎は冷たい空気を吸い込み、

 

「――サシウマ握らないか?」

 

 と、彼女に告げた。

 




2013/8/20:ご指摘いただいた脱字を修正

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