29.あたらよムーン(影)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 15:22
時間を少し遡る。空がその模様をくすませてきた頃、石戸月子とその血縁者たちは会食を終えた。名分は家族といって差し支えない彼らの会話は、終始間合いをはかるようにしていた。
四人の中でいちばん遠慮の無い振る舞いをしていたのは、他の三人ともっとも付き合いの少ない石戸の刀自である。会話は常に彼女のペースで行われ、新城直道が相槌を打ち、月子や古詠は問われたことに言葉少なく応じるだけだった。年の瀬の店内にはそれなりに他の客も居合わせていたけれども、一角を占めるその奇異な四人組を、(少なくとも血縁のある)家族と見抜いた人間はほとんどいなかった。
石戸古詠とその祖母は、駒ヶ根市内に宿を取り、しばらく――少なくとも年明けから一月ちかくは逗留する予定とのことで、それを聞いた月子の父は珍しく顔に驚きを浮かばせていた。
ほとんど何も言わずに友人たちを置いてきた形になる月子は、会食の終了と共にマンションへ戻る心積もりでいた。結果的にそうならなかったのは、ひとえに刀自の誘いがあったためである。やんわりとした物腰で月子の『症状』を診させて欲しいといった祖母に月子は最初都合を理由に断りを入れたが、是非にと再三請われては、拒み続けることにも限界があった。結局、月子は古詠、石戸刀自と連れ立って、彼らが宿泊する民宿にともに向かう運びとなったのである。
新城は、「迎えが要るなら電話をしろ」とだけいって、立ち去った。
宿への道すがら、一人分の幅を置いて古詠とふたり、後部座席に居座った。運転手は祖母だった。月子は右手の古詠に視線を向けることもなく、頬杖をついて車窓越しに流れる景色を見る。歳末特有の遽しさと物寂しさが同居した光景に京太郎を連想して、月子はため息をついた。
(須賀くんはだいじょうぶかしら)
月子らが最初卓を立てていたマンションは駒ヶ根市内の駅近く、伊南バイパスよりも中央自動車道寄りに居を構えていた。これから彼女らが目指す宿は、中央自動車道よりも更に山よりの地域だった。スキー場をほとんど目の前に置いているような立地である。
「滑ったり、するんですか?」
老婆とウインタースポーツという組み合わせにはなんだか頷きかねる月子である。とはいえ血縁上自身の祖母に当たるというこの婦人はどうにも外見や言葉遣いと所作に一致しないところがあって、安易に判じかねた。
祖母は朗らかに応じた。
「滑れなくはないけれど、今回はそういう予定はありませんねえ」
それからいくつか、月子に当たり障りの無い質問を返した。月子は気づかなかったけれども、祖母による話題の選択には警戒に近い恣意が働いていた。石戸の祖母が言及したのは天気や気候、花や動物、霧島の生活などについてで、月子自身の核心に触れるようなことは全く口にしなかった。ただ運転をしながらも合いの手は巧みで、月子は彼女が思う以上に多くのことを舌に乗せた。三十分ほどかけて目的地に到着した頃、月子はいくらか親しみに近いものを祖母に対して抱いていた。
駐車場まで迎えに出た仲居に案内された宿の格に、特筆すべきものはなかった。客に月子を加えた頭数が予定と異なり少しだけ事務的な手続きは発生したものの、対応も部屋も無難で、むしろ普通過ぎることに月子は驚きを覚えた。
祖母はそんな月子の感想を敏感に察して、
「不景気ですから、必要のない贅沢はしませんよ」
といって笑っていた。
「さて、早速ですけれど、さっき聞いておいた通りこれから私から貴女にいくつか質問と……そして医師がするような診察めいたことをします。ちょっとした性格診断のようなものも兼ねているので、あまり構える必要はありません。と、思っていたんですけれど……」
祖母は首を傾げて、名案でも思いついたように手を打った。
「せっかく旅館に来たのだし、温泉にでも入りましょう」
唐突な提案に、月子は目を白黒させる。月子とて学ぶ。ここまでの経緯を踏まえると辞去は無為に終わるだろう。とはいえ今日出会ったばかりの人間に湯へ誘われて二つ返事で応じられるほど、月子の対人能力は高くない。彼女は戸惑いのあまり、古詠に助けを求めた。
「ちょ、ちょっと」
「ぼく、散歩に出てくる。食事の時間までには戻るから」
兄から妹への回答は、一瞥も無くその言葉だけで終わった。古詠は少ない荷物を通された座敷間に置くや、着替えもせずに部屋を出て行ってしまう。
「……」
兄妹仲は到底良いとはいえない間柄ではあるけれども、あまりな対応である。月子は閉口して、去った古詠の背中の替わりに戸をにらみ続けていた。
「御免なさいねと、私が貴女にいうのもおかしな話でしょうけど」祖母が苦いとも辛いともつかない表情でいった。「古詠にも離れて暮らしている間にいろいろあったのです。きっと、貴女と同じように。許せとはいわないけれども、見切りはつけないであげてほしいわ」
「あいつが空気読まないのは今に始まったことじゃないけど、あんなのでホントに仲良くやってるんですか」
「そうね」祖母は頷いた。「傍目には睦まじく見えます。霞――あなたたちの従姉とも、姫様とも。女社会だけど、不思議と馴染んではいるようです。よく気を遣っているし、細々としたことや小さい子たちの面倒も見てくれています。時々ふらふらといなくなるけれど、基本的に周囲の評判はおしなべて『いい子』ですよ。けれどもそれは、たぶん、本当の意味では私達に気を許していないからなのでしょう」
祖母が語る古詠の人間像は、月子の思考の埒外だった。甲斐甲斐しく他人の面倒を見る兄の姿など、想像することもできない。
月子が知る石戸古詠は、自分と麻雀にしか興味がない子供だった。彼は暴力的でもやんちゃでもなかったけれど、とにかく人のことを気にしない子供だった。自分のせいで誰かが傷ついたり泣いたりすることを何の苦にも思わない少年だった。彼がたまたま主張や執着をほとんど持たない性格だったから周囲との軋轢が少なかっただけで、関係の必然性から古詠と長い時間を共有している月子は、兄のことをまともだと思ったことはない(言葉を選ばず自分を棚に上げれば、異常者だと思っている)。その点だけを取れば、古詠にはいまの須賀京太郎とどこか似た印象がある。けれども月子は、古詠と京太郎を並べて似ているとは感じない。それは才能においてもそうであるし、何より二人の人間性があまりにかけ離れていた。
「見たらわかったと思いますけど、わたしたちね、仲良くないんですよ」
「そのようですね」
「というか、わたしが勝手に嫌いだったんですけど。たぶん、あっちはとくになんとも思ってなかったんじゃないかしら」
「さて」
須賀京太郎は常軌を逸した部分を持ってはいるけれども、基本的には気の良い少年である。他者の感情を、かれはひとしなみに想像することができる。自制もできる。言葉を選ぶことができる。
早熟であること、あるいは幼稚であることは、個人の資質によるものでしかない。そうした意味で京太郎は、歪でこそあれ生まれ持ったかたちそのものは健全であるといえる。
京太郎は精神的な病を抱えている。それは根深い。ただしありきたりだし、処方さえ間違えなければ深刻なものではない。月子が京太郎の重篤さを正しく見極められているかはともかく、彼女の本能は友人と兄の違いを嗅ぎ分けている。
月子の友人は変人だけれども、異常者ではない。
色合いが少し変わっているだけで、花実を結べるふつうの命だ。
月子が考える兄は、そういう
もっとも、古詠のそれが極めて稀有な性質かといえば、そうでもない。子供だけの社会においても、古詠のそれに近しい人間はそれなりにいる。彼ら彼女らは、たとえば人が当たり前にこなすことをどうしても同じように出来なかった。あるいは瞬間的な癇癪に人格全てを委ねてしまうものもいた。何の意味もなく日常的に嘘を吐き続ける人も見た。
自分以外の生き物の気配に触れるたびに吐気を覚えるものもいた。
それらがどんな場合においても深刻な障害になるというわけではなかったし、ときに利することもあるのかもしれない。実際は月子が思うような欠落ではなく、たんなる個性のひとつに数えられるのかもしれない。
それでも、月子は自分を含むそうした人間が
石戸古詠が、周囲を巻き込まずにいられない性質を隠蔽できているというなら、それは紛れもなく成長だと月子は思う。どちらかといえば矯正なのかもしれないとも思う。古詠は家族と離れ、母を喪い、妥協を覚えたのかもしれない。月子が想像する兄がここ一年で置かれた環境は、世辞にも安閑としたものとはいえない。だからといって月子が古詠に対して好感を覚えたかというと、それも否だった。むかし、二人の関係は悪かった。古詠の側はいざ知らず、月子は明確に古詠を嫌っていた。
いま、月子は古詠に対して苦手意識以外の具体的な感情を持ち合わせていない。なんとなれば、すでに兄は月子の日常の外にいる要素だった。彼がどうであろうと、それはもう月子にとって関心の外でしかない。
「それで」
と、言葉を次いだのは祖母だった。月子の瞳をまともに捉えて、彼女は試すように、
「
と、いった。
月子は答えあぐねて、
「……さあ」
とだけ呟いた。
古詠が消えた室内には居心地の悪いしじまが居座って、月子はぬるい緑茶に口をつける。手馴れた仕草で湯浴みの準備を整える祖母を目の当たりにしながら、
(え、ほんとにお風呂はいるの?)
と、彼女は考えた。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 15:53
ワンコールの途中で呼び出し音は途切れた。「はいっ」と若干裏返った声で電話を受けたのは幼い声である。続けて噛みながら応じた声(「社務所」を「しゃみゅしょ」と言っていた)の半ばで、古詠は受話器を置いた。
「……」
三分ほど間を置いて、小銭を入れ、再度同じ番号を押した。今度は四度ほど呼び出し音が繰り返された。先ほどとは打って変わって落ち着いた声が応じた。聞き知った声だった。アルバイトで社務所に勤めている地元の大学生で、親しくはないけれども古詠も何度か会話を交わしたことがある。
古詠は丁寧に挨拶をし、長野の宿に問題なく到着した旨を告げる。そもそもこの繁忙期に祖母が出かけているということを始めて知ったらしい彼女は最初要を得ていなかったけれども、とりあえず身内に伝えてとだけいって、古詠は受話器を置こうとした。
「もしもし、古詠くん、」
その腕を止めたのは、少し舌足らずな甘い声だった。
聞き間違えようが無い。
従姉――石戸霞のものである。
古詠は嘆息して、
「もしもし」
と、応じた。それから、まったく同じ報告を再度繰り返した。
「いま宿に着いたよ。父さんにも会えた。お祖母さんはお風呂に入るってさ。うちのひとには、よろしく言っておいて」
「月子さんには会えたの?」
その名前に、古詠は少しだけ息を詰めた。霞の聡さを、少しだけ鬱陶しく感じる。この従姉は古詠が意図的に妹の話題を避けていると知っていながら、話題の水を向けている。
「会えたよ。相変わらずだった」
「何を話したの?」
「とくに何も」と、古詠はいった。「いや――母さんのことを、すこし。あのひと、母さんが死んだこと、教えてもらってなかったんだってさ」
今度は霞が黙る番だった。霞は今年で12歳になる少女である。年不相応な責任感や振る舞いは立場が彼女に備えさせた特性だが、それはつまり彼女が年相応の無頓着さを持たないということでもある。身内の死といういかにも触れにくい話題を突きつけられて、霞は声の勢いをだいぶ失した。
「そう……」
「でも、それくらいだった。何を話せばいいか分からないとか、そういうのじゃなくて、ほんとに、ぼくたちの間には話すことがないんだ。むかしからそうだった。よくわからないけど、きょうだいなんてそんなものなのかも」
「そうとは、限らないと思うけど」
「霞さんと神代さんは、仲良しだよね。ほんとうの姉妹より姉妹らしいと思う」
「そ、そうかしら」答える霞の年上めかした物言いに、はにかみが混じる。
「でもそれは」と古詠は続ける。「ふたりがふたりだったからなんだよ。時間や場所や間柄より何よりも、それが一番大きいんだ。ぼくとあれはたまたま双子として生まれて、一緒に暮らしてきたけど、霞さんと神代さんみたいに仲が良かったことは一度もなかった。あれはずっとぼくのことを嫌っていたし、ぼくはどうしても納得がいかなかった。だから気にもしないことにしてた。
霞の声が途切れる。受話器の向こうで息を呑む音が聴こえる。古詠は夢を見るように目を閉じる。
彼は言葉を次いでいく。
「母さんがだめになって、父さんのところにいって、母さんとまた暮らすことになって、それもだめになって、霧島へいった。そこで家のことを色々聞いて、ようやくぼくは納得できた。ずっと不思議だったんだ。気になってしょうがなかったんだ。ぼくのことや、あれのことを、みんなのおかげでわかることができた。納得できた。だから、そのことは、すごく感謝してる」
『でも、古詠くんはお兄ちゃんでしょう? 月ちゃんのことを、守ってあげなくちゃいけないわ』
「それがそもそも嘘だったんだよ。ごまかしだったんだ。母さんだって知っていたはずなんだ。なのに黙ってた。認められなかったんだ。母さんは弱かったから、そういうことにするしかなかった。でもそれは嘘だった。おかしいことだったんだ。ぼくは聞いたんだよ。霞さんは隠してたみたいだけど、神代さんや薄墨さんから教えてもらった。狩宿も認めてた。久しぶりに会って、気づいた。あれは同じだ。神代さんや薄墨さんと、そしてたぶん霞さんとも、同じなんだ。だから、すごく、よくわかった。ぼくはあいつのことを知らなかったけど、もうわかった。あれは――」
そこで古詠は、とうに通話が切れていることに気づいた。受話器のスピーカは、無機質で規則的な電子音を響かせている。古詠は瞬きを二度すると、鼻を鳴らして公衆電話に受話器を戻す。仲居が会釈をして通り過ぎていく。母はフロントの目前で棒立ちして、何を主張することもない。古詠はおや、と思う。今しがた母と電話としていたはずだと考える。なのにどうして母はあそこにいるのだろうと疑念する。それから母はとっくに死亡しており自分はその死体を見ていて今まさに電話をしていた相手は従姉の石戸霞だということを思い出す。
彼はため息をついて、
(よくないな)
と、思う。
(ぼく、もう頭がおかしくなってきてるみたいだ)
その狂気への自覚は、けれどももう死んでいる母の幻影を殺すには至らないので、彼は途方に暮れるしかない。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・民宿『天川』/ 16:11
「とにかく一緒に入浴するのは無理」と頑なに主張して、月子は家族風呂に一人で沈むことに落ち着いた。祖母は特段残念がるわけでもなく、フロントで月子のために浴具一式を借り出すと、「身を清めておくように」と言い含めて自身は大浴場へ向かった。数秒立ちすくんだあと、月子はフロントの視線に負けてたまたま空いていた家族風呂の脱衣所に向かい、腑に落ちないまま服を脱ぎ、踏み込んだ浴場を見て少し感心した。
「へぇ……」
家族風呂は総檜作りで、民宿の外観からは想像できないほど本格的な作りだった。香りも悪くない。ふつうなら諸手を挙げて喜んでもいいのかもしれない。けれども月子は、そも入浴という行為そのものを苦手としていた。月子は異物を嫌う。それらは基本的に彼女を不快にする。そして水は媒介である。『水に浸かる』ということは薄く広がって同化するような心象とどうしても繋がってしまう。
この場においても彼女の宗旨が変わることはない。月子は隅々まで身体を清めると、時間を掛けて長い髪を洗い始める。夏場は暑苦しく、冬場は手入れするたび全身が凍えそうになるこの髪形を、月子は持て余している。発作的に切り落としたくなることが頻繁にある。それを踏み止まらせているのは、益体のない記憶である。
幼い頃、月子の髪を母が梳いていた。櫛通りがよく艶めく母譲りの特徴を、恐らく月子は気に入っていた(彼女は基本的に自分の容姿に自信を持っているけれども、なかでも一入だった)。月子の最初の友人である少女も褒めてくれた髪だった。池田や花田も、自分は癖毛だからと羨んでくれた。月子の中にあるいくつかの尊い記憶と、髪は強く紐づいている。彼女はだから、結局手間を惜しむことができずにいる。
その日もずいぶん長い時間を掛けて髪を洗った。浴場からさっさと出ても、時間いっぱい脱衣所で髪を拭いた。髪質が傷まないよう習慣化された手つきで労わった。今日初めて出会った祖母に手を引かれてきた非日常に彼女はいる。けれどもこの時間は単調で、静謐で、孤独で、充実していた。結局孤立に安心を求める自分の根暗ぶりを哂いながら、月子は身支度を整え、祖母の待つ部屋に戻った。
そして、唖然とした。
「お帰りなさい」
「……どうも」
湯上りと見える白装束の祖母が、座敷の上で正座している。先ほどまでしていたらしい化粧が落ちた彼女の面は、赤みを帯びて不思議と若々しく見えた。
部屋は大きな机が除けられ、中央には布団が一組敷かれている。枕元にはちゃちな着物を着せられた顔のない人形が据えられている(月子の知識に照らすと、案山子と雛人形の合いの子という表現がもっとも適当だった)。月子から視た祖母は布団を挟んだ彼岸に座していて、無言で月子に横になるよう要求している。状況を飲み込めない月子は思慮に思慮を重ねて祖母の要求を汲み取ろうとするけれども、最終的には諦めた。
「あの、それで、わたしは何をすればいいの?」
「楽な姿勢で、そこで横になってください」
「眠くないんですけど」
「でも、これからたぶん、気分が悪くなると思いますので」
「……はぁ」
少しだけ感情をささくれさせながら、月子は言われるがまま布団に腰を落ち着ける。厳粛な祖母の顔をうかがう様に、うつ伏せになる。鼓動がやや早まり、彼女に緊張の自覚を促す。
「月子さん」
と、祖母が言う。
「たぶん、あなたは自分が人と少し違うことを知っている。それが自分を苦しめていることも知っている。けれども違うからこそ優れているということも知っている。でもどうして自分が他人と違うかをわかっていない。ちがいますか?」
「……占いでもするんですか?」胡乱げに月子はいった。説教を聴くためにここに来たわけではない。
「それに近いことも必要ならします」祖母はいう。「あなたは――そう、人に触れることを厭うのでしたね。でもそれは人だけでしょうか?」
「……」発作的な反抗心が、一瞬月子を悩ませる。このまま沈黙を貫いてみるのも一興だと彼女は考える。けれどもそれはどう考えても子供じみた振る舞いでしかない。そうと自覚すれば黙っているわけにもいかず、彼女はしぶしぶ口を開く。「人だけじゃなくて、人が触ったものとか、作ったものでも、そうなります」
「そうですか」と祖母は頷く。「具体的に、どんなときにあなたの気分は悪くなるのですか?」
「人に触ったとき。触られたとき」
「ほかには」
「人が触ったものに触ったとき。人が作ったものを食べたとき。良くない人を視たとき。水に入ったとき」
「『良くない人』?」
「何かを運命付けられている人。特別な人。他から抜き出ている人。そういう……ほかとは違うなにかがある人」
「つまり、強く生きている人のことですか?」
「そう……そうかもしれない」
「呼吸はどうですか?」
「え?」
「わたしとあなたは、いま、この部屋にいます。同じ空気をふたりで吸っています。あるいはわたしが吐いた息をあなたは呼吸しているかもしれない。そのことについては何とも思いませんか?」
「思わない。思ったことがない……です」月子はぼんやり呟いた。「そういえば、なんでだろ……」
「気分が悪くなるとは、どういった状態を指しますか?」
「目が回る。頭が痛む。胸がむかついて、吐気がする。そんな感じ、です。あぁ、ちょっと、気持ち悪くなってきた……」
「その『気持ち悪さ』は、他の何かにたとえることができますか? たとえば車や船や何か乗り物で酔ったようなときとか、空腹でたまらないときとか、起き抜けに目が眩むときとか、そういったものです」
「たとえようがない。たとえにはならない。わたしはそういうたとえよりも先にこの感じと付き合ってきたから。ただ、しいていえば、乗り物酔いに、似てるかも」
「石戸の家のことを、あなたはどれくらい知っているのでしょう」
「えっと……」
「石戸の家は神職を担うものです。とくに霧島神境において、女系からは女仙を多く輩出した家系でした。あなたの母もそのひとりです。あなたの母は、生きた
「……」
「好きな方角はありますか?」
「……北東」
「天児とは、不運や災いを肩代わりする人形のことです。そこの枕元においてあるものがそうですね。名前や見目を偽るのと同じように、人を模したその形がよくないものを引き寄せます。けれどもそれは、やはり人形でしかない。だから本当に厄介なよくないものを誤魔化すことは、ただの天児ではできない。そこに石戸の需要がありました」
「意味が……わからない」
「仰るとおり、それはわからないものです。わかりえないものです。
「……」
「
「はい……」祖母の強い呼びかけが、月子の耳に長く響いた。祖母の言葉の十分の一も、月子は理解できていない。質問の意味するところもわからない。ただ呼びかけられるがまま、彼女は応じた。
「一年前の今日、あなたは何をしていたか思い出せますか?」
「わかりません。覚えてない……」
「ではそれより前は。さらに前は。いちばん旧いあなたの記憶はなんでしょう?」
「わかりません」
「あなたの気分を損なうものはなんでしょう。あなたはどうして生きるものやその名残に触れると傾いてしまうのでしょう。あなたを偏らせるものはなんでしょう?」
「運のせい」月子は答えた。「ものみなが持つ命の偏りをわたしは感覚している。その傾斜がわたしを不快にする。触れるたびに足元が揺らぐような心地になる」
「
「わたしは、わたし」
「産まれたときから、変わらない……わたし」
吐気がこみ上げる。
彼女は嘔吐する。
祖母の手が背に触れる。
「――諸々の
その祝詞を、月子は何度も聴いたことがある。
2013/9/29:誤字修正