因習村VS異世界帰りの勇者 作:オシガマ侍
松平県溝落郡、女腹村。
二つの山に挟まれた谷間に、村は沈むように存在していた。朝はいつも霧が濃く、八時を過ぎるまでは陽の光が届かない。霧はまるで村を隠す結界のように、外界との境を曖昧にしていた。
その朝も、霧は重く垂れ込めていた。
ひょろりと痩せた背の高い男が、軋む音を立てて平屋の玄関を開ける。霧はまだ残っており、白い靄が男の顔を半分覆っていた。
寝ているのか起きているのか判別のつかないノッペリとした顔をしたまま、男は歩き出す。
作業着に長靴、軍手をはめたその姿は、農作業に向かう者のようだったが、どこか異様な空気を纏っていた。
家の軒先からポリプロピレン製の買い物かごを幾つも取り出し、両手に持って歩き出す。男は何かを収穫に向かうようだ。
「うん?」
突然、男は立ち止まり霧の先をじっとみる。瞼をしばたたかせる。また、じっと見る。
「山……か?」
霧の向こうに、土の塊がドームのように浮かび上がっていた。
緩やかな曲線を描いていて、可愛らしいフォルムをしている。ただし、サイズが可愛くない。高さは地面から五メートルはある。横幅は十メートル以上だろう。
両手の買い物かごを地面に置くと、吸い寄せられるように男はドームに近付く。ドームにはところどころに穴があいていて、ガラスのようなものが嵌っている。つまり、窓だ。首を振ってみると、煙突のようなものまである。家にしか見えない。つまり、ドームハウス。
昨日まではこんな建造物はなかった筈だ……。男は急に夢から覚めたように、顔をキリと引き締め、警戒を強めた。
男はドームハウスの周りをぐるりと歩く。
「玄関……?」
ドームハウスの一部がくり抜かれ、木でつくられた扉が備え付けられていた。
男は恐る恐る扉に近付き、ドアノブに手を――。
ドン! と勢いよく扉が開き、何かが飛び出してきた。
「ひいぃ!」
男は慌てふためき、恐怖で顔を引き攣らせながら地面に尻餅をつく。
ドームハウスから出て来たのは――。
「あっ、驚かしてごめんなさい! 大丈夫ですか?」
アウトドアウェアに身を包んだ、若い女だった。その後ろにはシンプルな恰好をした男もいる。
「あぁ、昨日の長ナス男か。どうした? そんなに驚いて」
「えっ、いや……、この家は……なんだ?」
長ナス男と呼ばれたことには触れず、ドームハウスを指差して尋ねる。
「あぁ、この家か。落ちてた」
「お、落ちてた?」
若い男は飄々と答え、そのまま歩いて行ってしまう。
女と残された長ナス男はようやく立ち上がると、今度は若い女に尋ねた。
「これは、一体どういうことなんだ? 何が起きた?」
「私にも分からないです。テントで寝て、朝起きたらこうなってました」
女はドームハウスは振り返りながら続ける。
「あの、野宿するのはいいんですよね? 怒られたりしないですよね?」
「……野宿はいいが……これは、野宿なのか?」
「たぶん」
女と長ナス男が話し込んでいる内に、若い男は戻ってきた。その右手には、大きな肉の塊がある。
「千葉さん!? なんですか、それ!?」
「肉だ。マナーの悪いキャンパーが置いて帰ったらしい」
「えっ!? それ、腐ってないんですか?」
女の声はどんどん大きくなる。興奮しているらしい。
「たぶん大丈夫だろ。熟成肉だ」
「ええ! 嫌ですよ! 千葉さんだけ食べてください!」
「腹減っても知らないからな」
長ナス男は茫然とした表情で二人のやり取りを眺めている。
若い男はドームハウスに併設されていた竈の前に行き、火を起こし始めた。どんな仕掛けを使ったのか、あっという間に薪は燃え上がり、すぐに食事の準備が始まる。
「千葉さん、いつの間にフライパンなんて……」
「昨日の夜、見つけたんだ。一ノ瀬が寝ている間に」
ジュウジュウと肉の焼ける音がし始める。食欲をそそる香りが周囲に漂い、それに押されるようにして、朝霧はすっかり晴れた。
千葉と呼ばれた男は竈の横の棚から包丁を取り出し、フライパンの肉を斬り始める。
肉はミディアムレアに綺麗に焼けていて、抗うのが難しい程の魅力を放っている。
「いい感じだな。どれ、味見を」
千葉は肉を一切れつまみ、パクリと口に収める。肉は柔らかいようで、三回ほど咀嚼すると呑み込んでしまった。
「……うまい……」
「えっ!? 本当ですか? 腐ってないですか?」
「滅茶苦茶うまい……」
一ノ瀬と呼ばれた女は、千葉が持つフライパンの周りをぴょんぴょんと跳ねながら、「どうしよう。食べちゃおうかな~。どうしよう。どうしよう」と落ち着きがない。
その間に、千葉はどんどんフライパンの上の肉を減らしていった。喉を鳴らしながら。
「わぁ、千葉さん、ズルい! 私も食べます!」
結局、一ノ瀬は誘惑に負けて謎の肉に手を伸ばした。そして口に入れると、身体を感動で震わせる。
「美味しい! 今まで食べたお肉で一番美味しいい! もっと下さい!」
千葉と一ノ瀬は朝からステーキ肉に舌鼓を打ち、長ナス男はそれを遠巻きに眺める。
不可解な時間はしばらく続いた。