お待たせ致しました。第三部、開幕です。
ARCUSが着信音を鳴らす。
風呂から上がったばかりのナギトはバスローブ姿のまま応答した。
エレボニア帝国レグラム領主、アルゼイド邸宅私室での事である。時刻はすでに20時を回っており、夕食と入浴を済ませて後は自由時間だった。
「はい」
「おうカーファイ、久しぶりだなぁ」
通話口の相手は名乗らずに久闊を温めるように親しげに名前を呼んでくる。久しぶりに聞く声だったがナギトも相手の正体に思い至り懐かしさに声音が弾んだ。
「レクターさん、お久しぶりです」
通信の相手はレクター・アランドール。帝国情報局特務少佐の階級に浴する軽妙ながら交渉では負けなしの伝説を持つ男。かつては《鉄血の子供達》の一翼として《かかし男》とも異名された人物だった。
「ここ最近噂は聞かなくなったが調子はどうだ?」
「絶好調ですよ、心身ともにね。心配事がないからですかね」
語尾に笑みを含ませてナギトは言った。
レクターは知る由もないが、ナギトにとってこの世界は二度目のものだ。一度目の世界では彼の元主人のせいで懸念事項が山ほどあった。その程度で屈するナギトの胃ではないが、精神が万全であったかと言われるとそうではなかった。
しかし、この二度目の世界において彼は改心し、そのおかげでここ一年は心休まる年であったと言えよう。
「そいつぁ良かった。ところでお前さん、なにか忘れてないか?」
ひとまずの挨拶が終わったところでレクターは本題を切り出したらしかった。
久々の連絡をくれたレクターだが、その要件とはナギトに何らかの忠告を与えるもののようだ。
「うん?」と考え込んだナギトにレクターはひとつため息をこぼすと告げた。
「お前は明日、オッサンと会う予定だろうが。マジに忘れてたとしたら大物過ぎんぞ」
「ももも、もちろん覚えてましたけど?」
「………その反応はマジで覚えてたやつだな、まったく」
そうした茶番で笑い声を交換し、ナギトは居住まいを正す。
「これから夜行列車に乗って帝都に行くつもりです。明日の宰相閣下との面会までには着きますよ、問題なしです」
レクターの言うオッサンとは、このエレボニア帝国宰相であるギリアス・オズボーンの事だ。その彼とナギトは明日の昼過ぎに面会する予定があった。そのためナギトは彼のいる帝都ヘイムダルに行く必要があるのだ。
「オーケー、了解だ。オッサンには俺から伝えとくが……問題ねえよな?」
「はい。お願いしますレクターさん」
「ああ、んじゃまた明日だな、カーファイ」
「ですね。終わったら飲みにでも行きます?」
「あー…ま、緊急の案件が入らなかったらな」
「ゴチになります」
「テメーから誘っといてそれはねえだろ!」
「ハハハ」と笑い、それから別れの挨拶を終えて通信を終える。
「さってと……準備するかね」
ナギトはARCUSを机に置くと、持ち物を確認した。本当は身ひとつで行っても良かったが、万一の事を考えて武器と装備一式は必要だ。あとはミラも。
素早く身支度を終えたナギトは家の者に声をかけると邸宅を出て駅へと向かった。
☆★
七曜歴1206年3月。
エレボニア帝国を騒がせた内戦《十月戦役》から一年余り、ナギトがトールズ士官学院を卒業してから一年が経過していた。
その間、世界は平和そのものでおよそ大事件と呼べるようなものはなかった。多少の問題は起きるものだが、それらも問題なく解決可能なものだった。
ナギト・シュバルツァー改めナギト・ウィル・カーファイの名は《刀神》の異名とともに帝国内において少しだけ浸透している。
トールズ士官学院を卒業した後、ナギトは同級生だったラウラ・S・アルゼイドと婚約した。現在は彼女の生家であるアルゼイド子爵邸に居候しているわけだが、その同棲生活が始まったのはトールズを卒業して半年後。今から半年前の出来事だった。
そうなったわけは単純で、ラウラが父ヴィクターと共に修行の旅に出たからである。主人のいない家で好き勝手できるほどナギトは厚かましくなく、半年間の間、ナギトは帝国各地を巡り様々な問題を解決していった。
《十月戦役》の揺れ戻しもあり、各地には困惑と悪意が入り混じり人々を混乱させつつあったが、それを鮮やかに解決して見せたのがナギトだった。その物事を一刀両断するかのような手口にナギトは《刀神》と呼ばれ始める。前の世界と同じ異名とは因果なものだ、と考えたナギトだったが、おそらくは前の世界の影響が残っているのだと思い直した。
そういった成果と名声もあってか、遊撃士として復帰していたナギトは準遊撃士からすぐにC級遊撃士へと昇格する事となった。
このままの勢いでサラ・バレスタインの保持する最年少A級遊撃士の記録を更新するものと確実視されていたが、ナギトはラウラが修行を終えるとレグラムに戻り同棲を楽しむ事にした。
世界がこのまま平和であったなら、と願うナギトの明日を占うのが、本日行われるギリアス・オズボーンとの面会だった。
帝都ヘイムダルの中心に座する皇帝の居城であるバルフレイム宮は同時に政治の中枢でもあり、宰相オズボーンはここで仕事をしている。皇族や宰相などの国家の最重要人物が住まう場所であるから警備も厳重を極めており、ナギトをしてこれを潜り抜けるのは容易くはないと思わせるほどだ。
今回は潜入する意味もなく正面から訪ね、迎えに来ていたレクターと共にバルフレイム宮内部に進入した。
「どうすか最近、お仕事の方は?」
案内をされながらナギトは探りを入れる。隣のレクターにとってナギトは遊撃士である事を除けば一般人であり、国家の機密を握る自分から話せる事はないはずだが、それにしては持ち得ている武力もコネクションも巨大過ぎる。敵に回れば下手な大貴族よりも厄介で、その何よりの証左がこうして国家元首から全権委任された宰相と面会する事ができる立場だ。
「可もなく不可もなく、だな。帝国はオッサンが変わった事で落ち着いたが、各国から見れば逆に不気味みてーだな。……嵐の前の静けさ、と言うべきか」
「まあ、あの《鉄血宰相》が急に改心したなんて話題にも上がらないでしょうね」
「………ナギト、お前が今日ここに来たのもその確認のためだろ?」
「鋭い。さすがは《かかし男》ですね」
ナギトがこうして一年ぶりにオズボーンに会おうとしているのは、改心したオズボーンにさらなる心変わりが起きていないか確認するためだ。
つまりは善政のギリアス・オズボーンが、陰謀戦争併合権謀術数何でもござれの《鉄血宰相》に戻っていないかの確認作業。
「レクターさんから見てどうですか、あの人」
「俺からすりゃあ、内戦が終わってからこっち覇気がなくなったままだぜ。どうやら政治の腕は衰えてないみたいだがな」
「鉄道網の拡大は元より、通信網の拡大も素早くやってみせた。………おかげで随分生活は楽になりましたね」
内戦が終結してからというもの、貴族の権威が落ちた事もあってかオズボーンの改革は留まる事を知らない。その結果、市民の生活は変わったが、その最たるものが通信網の拡大だ。
今はまだ大都市か重要地を結ぶだけの通信網だが、いずれは帝国全土を覆い尽くすものと思われる。昨日レクターが帝都にいながらレグラムまで通信が届いたのも、通信網拡大の恩恵だった。
「活用できてる市民は少ないみたいだがな。……ま、世間に浸透するのもすぐだろ」
通信網の拡大は同時にネットワークの拡大だ。
今は導力ネット黎明期と言えるが、その利便性たるや。数年で人々の生活とは切っても切り離せないものとなるだろう。
馬鹿でかい商機が目の前にある気がしたがナギトは無視する事にした。遊撃士として日銭を稼いで一日を過ごしていくだけで充分だ。
「ってなとこでご本人様とのご対面だ。着いたぜナギト」
宰相執務室は目の前だった。
☆★
ノック、返答、開扉、入室。
バルフレイム宮に設えられた宰相に与えられた執務室からは帝都ヘイムダルが一望できる。絢爛ならずとも上品な佇まいの調度品がバランス良く配置され調和を保っている。
これだけならば趣味の良い貴族の部屋だったが、その執務室の主人の存在感がこの部屋を質実剛健たる帝国人の有様に決定付けていた。
「来たか、ナギト・ウィル・カーファイ。久しぶりだな」
低く艶のある声。それは聞く者に確かな畏敬を抱かせるものだ。しかしそれに以前ほどの威圧感はなく、むしろ安心感を与える色に変じている。
「こんにちわ、ギリアス・オズボーン宰相閣下。お久しぶりです」
柔和に応じる。ナギトの心配はすでに杞憂であったと確信があった。
オズボーンは執務をしていたのであろう、いかにも高級そうなペンを机に置いて立ち上がる。
「かけたまえ。コーヒーと紅茶、どちらが好みかね?一応茶もあるが」
スタスタと茶葉のあるらしい戸棚に向かうオズボーンの気遣いに口元が綻ぶ。
「茶で。お手並み拝見いたします」
「フフ……お手柔らかに頼む」
オズボーンが意外にも手際良く茶を淹れながらナギトに話しかけた。
「どうだね最近?噂はとんと聞かなくなったが」
「………ふっ」
笑ったナギトにオズボーンが怪訝そうな雰囲気を出す。
「いえね、レクターさんにも同じ事を。まあぼちぼちやってますよ。仲間と肩を並べて大事件に挑むのも良いですが……平和な毎日をゆるーく過ごす方が性に合ってる」
「わずか半年で《刀神》と呼ばれるに至った苛烈な男とは思えない語り口だな」
オズボーンの言い草にナギトはまたしても「ふ」と笑う。これもレクターと同じような反応だ。
「しかし……前の世界と同じ異名をつけられるとはな。因果なものだ」
「前の世界の影響が今の世界にあるんでしょうよ」
「その最たるものがナギト、君自身というわけか」
「まさしく」とナギトが言ったところで茶が差し出された。テーブルに置かれた茶器を手に取る。心地良い暖かさだ。
「それで……あなたはどうなんです最近は?」
「私もぼちぼちと言ったところだ」
「………リィンとは?」
オズボーンは露骨に目を逸らす事で回答とした。
「まったく………。む、結構なお点前で」
ナギトは嘆息して茶を一口。手際の良さに比例した味と風味がそこにはあった。
賛辞の言葉を受け取ったオズボーンはいつものように「フフ」と笑い、先の質問に目を逸らした内訳を語る。
「……今更、どの面をさげて会えばいいと言うのだ。私があの子にした仕打ちは到底許されるものではない」
「……それはまあそう、ですけどやっぱり実の親子でしょ。いつまでも他人のふりはできない。……実のところ、もうわかってるんでしょ?これはあなたが……あなたとリィンが向き合うべき問題ってことは」
僅かな沈黙があり、オズボーンは女々しくも言い訳を口にした。
「だが、それは私の自己満足に過ぎない。リィンはすでにテオの息子として幸福な家族の内側にいる」
ナギトは「はあ」と天井を仰いだ。そんな面倒くさい論理でオズボーンはリィンの未熟を語ったのだ。
「………確かに今のリィンにはあなたを父親として受け入れる度量はないでしょうね。前の世界にはあった数々の試練……それを乗り越えた事で鍛えられた肉体と精神──、幸か不幸か…この世界においてリィンは試練に晒されず、未熟なままだ」
本来あるべき試練。リィン・シュバルツァーに降り注ぐ数多の決断。それはこの世界において生じなかった。オズボーンの改心によりリィンは英雄に祭り上げられる事もなく、平和な一年をトールズで過ごした。
しばし2人は黙り込んだ。ナギトの茶を啜る音だけが室内に響く。
ややあって、「まあいい」とナギトはこの話を打ち切った。
「本題に入りますね。形式的な質問になりますが……ギリアス・オズボーン宰相閣下。あなたに心変わりはありませんね?」
それはナギトが言った通りに形骸化した質問であった。しかしこれこそが今日この場にナギトが来た目的でもある。
すなわち、前の世界での出来事があったことで改心したオズボーンが鉄と血で舗装された道を往く《鉄血宰相》に戻っていないか、という質問だ。
「もちろんだ。我が身は皇帝陛下と帝国臣民に捧げると決めたあの時のまま………国家に忠を尽くす。その意志に変わりはない」
胸に手を当て、今度は目を逸らさずにオズボーンは宣言した。
言葉だけのパフォーマンスと言えばそれまでだが、ナギトの全能力を駆使してもそれが嘘だとは思えなかった。
「はい、ありがとうございます」
礼を言ったナギトは立ち上がる。この場を訪れた目的は果たせた。オズボーンの心変わりは確認できず、この先の帝国の安泰が予想できる。
「ではこれで」と立ち上がり退室しようとしたナギトはドアの手前で立ち止まり、薄ら笑みを浮かべて振り返る。
「このあとレクターさんと飲みに行く予定なんですが一緒にどうです?」
その提案が愉快な愉快な飲み会のはじまりだとはナギトにも想像がついていなかったのである。
☆★
「本気か?」と問うたオズボーンに「あなたと酒を飲むのも面白そうだ」とナギトが返した事で、驚くほどあっさりオズボーンの飲み会への参加が決まった。
レクターは苦笑いと爆笑の狭間で悶絶し、気まずくなった時の保険のために他の元《子供達》に参加を呼びかけたが、来る事になったのはクレアのみだった。ルーファスは公務で忙しく、ミリアムは用事があるとかで不参加だ。
そうしてオズボーンの執務が一段落した夕方に4人で集まり酒場を探す事になった。なぜ酒場をチョイスしたのかと言うと「高級な料理なんて食い飽きたでしょ」というナギトの馬鹿みたいな鶴の一声があったからだ。
酒場を探し求めて歩くナギトらの前に見知った人影が現れた。
「あ」と声を漏らし、次いで困惑した表情を見せたのは───
「リィンじゃ〜ん。おひさ〜」
リィン・シュバルツァーであった。ナギトの義兄弟にしてオズボーンの実子。なんとも絶妙なタイミングで現れてくれたものだ。その隣には同級生であったマキアスとエリオット、なんならミリアムまでいた。彼女の用事とはリィンらとの再会だったのだ。
「ナギト……久しぶりだな。…………というか、この面子は…………?」
「おう、なんか誘ったらあっさり乗ってきた。今から飲み会だ」
リィンは絶句した。マキアスとエリオットもだ。ミリアムは状況に笑っていた。
「そっちは?」
「僕たちの卒業祝いだ。一応Ⅶ組のみんなには連絡したんだがな、これだけしか集まれなかった」
マキアスはずれた眼鏡の位置を正しつつナギトの質問に答えた。
「え、俺誘われてないんだけど」
「ええっと…先にラウラに連絡したらナギトは今日が用事があるって言ってたから、それで誘わなかったんだ」
プチ同窓会に誘われていない事実に絶望顔をしたナギトにエリオットが慌ててフォローを入れる。
「そうかそうか。……改めて卒業おめでとう。…卒業祝いにこれから一緒にどうだ?奢るぜ……あの人がな!」
ナギトは背後に控えていたオズボーンを指し示す。レクターとクレアの存在感に隠れていた変装したオズボーン。その彼に気づいたエリオットが驚愕の声を───
「おっ、オズボ───!」
あまりにも予想通りの反応にナギトはエリオットの口を塞ぐ。マキアスも口をパクパクさせているが声は出ていなかった。
リィンとミリアムは当然ながら彼の存在に気づいていた。
エリオットとマキアスが落ち着くのを待ってナギトは続けた。
「で、どうだ?……一国の宰相からの誘いだ、まさか断るとは言わねえよな?」
いやらしく口角を吊り上げるナギトにリィン含む男性陣は苦笑いしか出ない。
「冗談だよな……?」
リィンの一縷の望みはナギトの「はははは!」というどちらともつかない返事によって断たれた。
こうして二組の飲み会は合同で開催される運びとなったのだった。
「まずは呼び方を決めなきゃな」
酒場では一応個室に通された一行だったが、まさかオズボーンが同行していると周囲の人々にバレるわけにはいかない。いつもの豪奢な服装ではないとは言えオズボーンの顔は個性的だ。そんな彼を名前で呼びでもしたら宰相がしみったれた酒場に来ている事が露見してしまう。
「オズボーンからとって、そうだな……オっさんとかどうだ?」
そんな前提条件ですらナギトにとってはボケの種だった。「ぶはっ」と吹き出したレクター。クレアは困り顔でミリアムは笑っている。リィンとマキアス、エリオットの3人は恐縮しつつも笑わなければならない雰囲気を感じ取って微苦笑していた。オズボーンが真顔なのも3人の苦笑いを助長している。
レクターが「それでいいんじゃねえか?」と言った事で賛成3、反対0、意思表示なし5、となりオズボーンのこの場での呼称は“オっさん”に決定した。
店員が注文を取りに来て、成人組は「ビールで」と決まり文句を言う。リィンの組は未成年という事もあり、ノンアルコールドリンクを注文しようとしたが。
「私の酒が飲めないと言うのかね?」
オズボーンが恐ろしい事を言い出した。
「いえ、未成年ですし……。冗談ですよね?」
リィンは冷や汗を浮かべつつ当然の常識を尋ねる。
「本気だが?」
しかしオズボーンには関係ない。相手が未成年であろうと自分が奢る酒を飲まないのは許さない姿勢だ。
「怖いよな?これが元帝国軍人のノリだぜ?」
レクターの感想によりナギトは爆笑。“私の酒が〜本気だが?”までが不器用なオズボーンのボケのワンセットなのだ。
「レクターさん、閣下──いえ、オっさんも。悪ふざけが過ぎますよ。困ってるじゃないですか」
クレアの修正力はさすがの大人と言うべきだ。敬愛するオズボーンをオッサン呼びするとは。
とナギトは言いたいところだったが怒られそうなのでやめておく。
やがてそれぞれに飲み物が届き乾杯の合図と共に飲み会の幕が上がる。この愉快な飲み会はおよそ2時間続き、卒業祝いと代され主賓扱いの3人は逆にげっそりしていたという。
飲み会の終わり、勘定はナギトとオズボーンで割り勘する事になった。
「オズボーンと割り勘って字面めっちゃ面白くない?」
そんな事を言ったらリィンから無言でチョップを喰らったナギトであった。
☆★
愉快な飲み会から数日後、ナギトはレグラムに戻って来ていた。
「ぜぇ……はぁ……マジ…なんなんだあの人……!」
そのレグラムの中心とも言えるアルゼイド流の練武場にてナギトは大の字で倒れていた。
そこにラウラが微苦笑を浮かべて寄り添った。
「大丈夫かナギト?…ほら水だ、飲むが良い」
「サンキュ」と短く礼を言ってラウラからボトルを受け取ると浴びるようにして水を嚥下した。
「ふうぅー。生き返った!」
大袈裟に息を吐いたナギトは立ち上がりボトルをラウラに返す。
「相変わらず……キレキレだったよ、お義父さんは」
ナギトが息も絶え絶えになっていた理由はつい先刻までラウラの父親であるヴィクターと手合わせをしていたからだ。
ヴィクター・S・アルゼイド。人呼んで《光の剣匠》。武を尊ぶ帝国において最強の剣士とされる人物だ。
ラウラと婚約しているナギトからすれば義父に当たる人ではあるが、こうしてたまに手合わせを申し込まれては快諾して、その度に帝国最強の剣士と呼ばれるのは伊達ではないと思い知らされる。
ヴィクターはすでに中年〜壮年に差し掛かる年齢で肉体的なピークはとうに過ぎ去っているはずだが、20歳そこそこで未だピークを更新中のナギトと互角以上に渡り合うというのだから、凄まじいと言うほかない。
そのヴィクターと一昼夜だか三日三晩だか戦ったとかいう自らの老いた師匠の化け物加減も再認識できる。
件のヴィクターは手合わせが終わった直後こそ息を切らしていたが、すぐに呼吸を整えてレグラムを発った。けろりとしていたのだからナギトの八葉を継ぐ者としての矜持も家出するというものだ。
「父上が愚痴っていたぞ。ナギトが本気を出さない…とな」
「んなこたねぇんだが」
だが、事実としてあまり気分が乗らないのはあった。ナギトとしては本気のつもりだが、全力が出せていない面があるのも確かだ。
それにヴィクターとの手合わせはアルゼイド流の門弟たちに観戦を許可していて練武場には人がごった返している。そんな、言わば見取り稽古をしている中で、彼らに不可能な戦技を披露するのも違うとナギトは考えていた。
「……そなた、少し太って来てないか?それでは動きが鈍るのも当然だ」
「幸せ太りだよ」
ラウラの咎めるような眼差しにナギトは即答で返す。最近のラウラは料理の腕もめきめきと上達していて振る舞ってくれる機会も増えた。そしてナギトの体重も増えた。
「別にいいだろ、平和な証だ。……こうして腕が錆びついて、幸せな日々を過ごしていく………それが良い歳の取り方をするってもんだろうよ」
ナギトの詭弁的な、しかし真理の如き語り口にラウラは回答を持たず、話題を変える事にした。
「そうか。……ナギト、今日の予定は?」
「ちょいとギルドに顔出すつもり」
「ふむ、そうであったか。フィーが先日帰って来たと連絡があった。どうやら複数の支部から推薦状を集められたようだ」
「ほー。……となると、まさかあいつ最年少正遊撃士か。大したもんだな」
「ああ、私も親友として誇らしいよ。フィーによろしく伝えておいてくれ。私はしばらくここで指導するつもりだ」
ラウラはヴィクターとの修行を終え、アルゼイド流の奥伝を授かっている。師範代としての位置に立ち、今では練武場に集った門弟たちを指導する立場になっていた。
「ああ、わかった。んじゃまたあとでな」
ナギトは手をひらひらさせると練武場をあとにした。
☆★
「お疲れっすー」
と気楽に遊撃士協会レグラム支部の入口から建物に入ったナギトを捉えた視線は2つ。
「あ、ナギト」
「来たわね」
フィーとサラの2人のものだ。
「ども、お疲れ様です」とナギトは改めて挨拶して2人と向き合った。
「久しぶりだなフィー。ラウラから聞いたんだが、正遊撃士になるための推薦状集めの旅が終わったんだって?」
「ん。なんとか規定数集まった」
「手続きはあるけど、これで晴れてフィーも一人前の遊撃士ね。最年少…って事になるのかしら」
フィーはトールズを卒業してから遊撃士を目指していた。16歳になるのを待ち準遊撃士としての活動を開始。間も無く正遊撃士になるために必要な各支部からの推薦状を集める旅に出たのが数ヶ月前だ。
「おめでとう。まあフィーの実力からしたら当然か」
「ありがと、ナギト。サラも。……オルディスの件でナギトとはニアミスしたみたいだけど」
フィーが言及したのはナギトが準遊撃士からC級遊撃士に半年で登り詰めるにあたり解決した事件の際に、その補助的依頼をフィーが遂行していた件についてだ。
「あったみたいだな。えらい楽に事に取り組めたから助かったよ。俺もあの時のヘルプがフィーだったと知ったのは後になったんだが……その節は大変お世話になりました」
ナギトは気品に溢れる一礼をした。
「さまになってるじゃない?」
とサラがそんなからかうように言って、ナギトも笑った。
「ちょくちょくクラウスさんにしごかれてますからね。アルゼイドに婿入りしたからにはこれから社交会にも出る事に…って話です。シュバルツァー家でも軽く学びましたし」
ラウラと婚約し、アルゼイド子爵家に婿入りする事が決まっているナギトは今後、その方面でも活躍が期待されている。そのため貴族としての礼儀作法と気品を身につけるべく修行の日々だ。
「そういやナギト。あんた…帝都で好き勝手したんですって?リィンが愚痴ってたわよ」
ひとまずの挨拶が終わったことを悟ったサラが話題を転換した。言及したのは先日の帝国での飲み会についてだろう。
「はっはっは」
笑うナギトにサラはため息をこぼす。
「まったくあんたって子は……、そうやって変に気を回すんだから」
「まあ……そういった意図がなかったわけじゃないですがね。なにより楽しそうだと思ったから誘ったまでですよ」
事情を知らないフィーは「?」だ。
先日の飲み会の主目的は偶然にもリィンたちと鉢合わせした事ですり替わっていた。すなわちリィンとオズボーンの親子関係の修復の一助になれば…という思いがナギトに芽生えたのだ。
しかし酒が入って気ままな振る舞いをした事実も認めなければならない。
「まあまあ、それはいいじゃないですか。あいつらにも、俺たちにも時間はたっぷりある」
ナギトは早々に結論を下した。そもそもこの話題は単なる世間話の一環だ。なにより分が悪いと思ったため早めに話を切り上げたい。
「今日はお仕事しに来たんですよ。サラさん、何か手頃な依頼はありますか?」
ナギトのあまりにも不器用な話題の変え方にサラは再びため息をつく。
「ええ。それなら2件ほどあるわね。フィー、あんたも暇でしょうしナギト先輩の仕事ぶりを見学してきなさい」
わざわざ“先輩”と装飾されたナギトは「うへー」と舌を出す。フィーは「わかった」と二つ返事。こうしてフィーはナギトに同行する事になった。
「サラさんは受付ですか?」
「そうね。フィーの手続きの件もあるし、処理しておきたい書類も山積みだもの。……いくら遊撃士協会の活動制限が解除されたとは言え……だからこそ人手不足ね。……酒が欲しくなっちゃうわね」
「サラ、勤務中」
サラのボケにフィーがきちんとツッコミを入れて会話は一段落。ナギトとフィーは依頼を受けて出発した。
☆★
それからまた数日経ったある日、ナギトは午前の仕事を終えてアルゼイド邸に帰宅していた。
ラウラと談笑しつつ昼食を摂り、ナギトは私室に向かう事にした。
「ちょっと休むわ」
「疲れたのか?……まあ夜更かししたからな」
「ああ、昼からの門下生の訓練に支障が出そうだ」
「………一緒に寝るか?」
ラウラは頬を朱に染めながら冗談っぽく言った。魅力的な提案だったがナギトはそれを受け流した。
「やめとけ。また門弟たちにからかわれる」
「フッ、そうだな」
やはりラウラも冗談のつもりだったようであっさりと引き下がった。
ナギトは部屋に入ると椅子に腰掛けた。ベッドに入ったら、満足感と達成感でそのまま寝入ってしまいそうだった。
アラームをセットして目蓋を落とす。その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。
ハッピーエンドのその先が、めでたしめでたしの続きが、こうも穏やかで満たされている事への────────
☆★
しかし。
ナギトの物語はこれで終わりではない。
運命はナギトを逃さない。
余生を送るにはまだ若過ぎるだろうと言うように、この軌跡は歪み果てる。
運命はナギトを嘲笑うように、弄ぶように。
あるいは、それは誰かの叫びだったのだろうか。誰かの願いだったのだろうか。
そして、世界は流転した。
☆★
アラームが鳴る。ナギトは目蓋を開ける。どうやらうたた寝していたようだ。
けたたましく鳴るアラームを止めようと時計に手を伸ばすより先にラウラが慌てた様子で部屋に入ってきた。
「ラウラ?どした?」
尋常ではない様子のラウラにナギトが問いかける。
その答えは──────
「──そなた、何者だ?」