ギルドの職員、エイナ・チュールは机の上に積まれた書類を手に取り、深いため息をついた。
窓から差し込む陽光が紙面を照らしているにもかかわらず、彼女の表情は晴れなかった。美しいエルフの面差しに浮かぶのは困惑と不安、そして理解の及ばぬ事態に対する薄暗い影だ。
書類には昨日の昼下がりに起きた惨劇の詳細が記されている。
オラリオ商業区の外れ――普段は人通りの多い場所から、わずかに外れた路地。そこで狼人の男たち三人が、立て続けに命を落とした。
一人は散乱したガラス片に頭部を貫かれ、一人は鳥に頭蓋を突き破られ、最後の一人は落ちてきた窓枠の直撃で肩を砕かれ、そのまま陶器の破片に貫かれて息絶えた。
どれも偶然にしては出来すぎている。
だが、書面に記された死因はすべて「事故」だった。
「三人とも、死因が『事故』扱い...この場所で起きてる事件は十件を超えてる…」
エイナは小さく呟き、眉根を寄せた。
報告書を重ねるたびに、重苦しい空気が部屋を支配していく。
「…どの事件にも目撃者はなし…ね」
死体だけが残され、犯人の姿はどこにもない。
オラリオという巨大都市の中で、まるで影のように現れ、痕跡ひとつ残さずに消えていく『何か』が潜んでいる。
エイナは手にした資料を机に置き、ゆっくりと目を閉じた。
「……これ以上、下級冒険者が巻き込まれるようなことになったら……」
声は囁きにも似て小さく、それでいて胸の奥に潜む恐怖を抑えきれなかった。
下級冒険者たちはオラリオにとっての未来である。だが、彼らは無知ゆえに好奇心から危険へと足を踏み入れてしまう。
――白髪の少年の顔が、エイナの脳裏に浮かんだ。
◆◆◆◆
朝の光がダンジョンの入り口を照らし、今日もまた多くの冒険者たちが地下への階段を降りていく。石畳は冒険者たちの足で削られ、無数の傷跡を刻んでいる。鎧の擦れる音、武器が打ち合わさる金属音、そして仲間同士の笑い声や士気を高める掛け声が入り混じり、いつもと変わらぬ活気を見せていた。
その中に、白い髪の少年の姿もあった。彼の背丈は他の冒険者たちに比べれば小柄で、装備もまだ質素なものばかり。それでも、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
「今日こそは、もう少し深い階層まで!」
ベル・クラネルは小さく拳を握りしめ、胸の内で意気込みを固める。ヘスティア・ファミリア唯一の眷族として、その肩には誇りと同時に重責がのしかかっていた。誰も頼れる仲間はいない。
それでも、前へ進むことだけは諦めない。
それが彼の長所でもあり短所でもあった。
だが現実は甘くない。
4階層に到達した頃、彼は早くも壁に突き当たる。
曲がり角の先から現れたのは、数匹のゴブリン。
それはすぐに群れとなってベルを取り囲み、彼を絶望へと追い込もうとする。息を切らしながら剣を振るい、必死に応戦する少年の姿は必死そのものだった。
どうにか撃退に成功したものの、右腕に深い爪痕を負ってしまった。裂けた袖の下からじわりと血が滲み出し、腕を動かすたびに鈍い痛みが全身を突き抜ける。呼吸は荒く、額には冷や汗が伝っていた。
「うう...ポーションを...」
弱々しい声を漏らし、ベルは腰の小袋に手を伸ばす。だが、次の瞬間、顔が凍りついた。
――ない。
中を確認した瞬間、愕然とした。昨日の探索で、最後の一本をすでに使い切っていたのだ。手のひらに残ったのは、わずかな硬貨の入った小袋だけ。そこに余裕がないことも、ベル自身が一番よく知っていた。
彼の胸に、重たい焦りと不安が広がっていく。
下級冒険者にとって、ポーションを持たないということは、死と隣り合わせで歩くことと同義だ。
「神様やミアハ様に迷惑を掛けたくないし…そうだ、安い薬屋を探せば...」
ベルは地上へ戻ると、陽光が眩しいほどに降り注いでいた。
―――数十分後
少年は自然と、メインストリートをわずかに外れた場所に、足を向けた。
石畳は欠け、泥の溜まった場所もある。商人たちの威勢のいい声は遠のき、代わりに聞こえるのは猫の鳴き声のみ。
ベルは腕の痛みに顔を歪めながら歩き続けた。血は辛うじて止まっているものの、このままでは明日の探索に支障をきたす。
焦燥に駆られ、半ば祈るような思いで目を巡らせる。
すると古びた看板を掲げた小さな店を見つけた。
看板に書かれた文字は色あせ見えず、建物全体が長い年月を感じさせている。
目を細めると、老人が座っているのが見えたベルは、早歩きでその場に行った。
「…すみません。ポーション売ってないですか? ダンジョンで傷を負っちゃいまして…」
店内の静寂の中、老人は杖を軽く突きながらゆっくりと立ち上がった。深くかぶった帽子の庇の影で表情は読み取れない。
奥の棚に手を伸ばし、木製の小箱を引き寄せると、そこからいくつかの小瓶を取り出す。透明な液体が光を受けて淡く揺れる。老人は一つを手に取り、慎重に小袋に入れると、静かにベルの方へ差し出した。
「ポーションは…250ヴァリスですよ」
「250ヴァリス!?」
ベルは驚愕した。
普通なら五百ヴァリスはするであろう傷薬が、半額で手に入るとは思いもしなかった。
小袋の中身が心許ない彼にとって、それは天の助けそのものだ。
「…普通なら500ヴァリスをするんですけど…」
おそるおそる尋ねた少年に、老人はゆるやかに頷いた。
相変わらず顔は深くかぶった帽子の影に隠され、表情はうかがえない。
だが、その声音には確かな落ち着きと、奇妙な安心感があった。
「…久々のお客様ですから…サービス…というものです」
ベルは小さな硬貨を取り出し、老人の前に置いた。
手元のポケットの中身は少なく、明日のダンジョン探索を考えれば、貴重なヴァリスの一部である。だが、今は迷っている余裕などなかった。
「あ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げるベル。
ポーションを手にした瞬間、心の底から安堵が広がるのを感じた。
冒険者にとってポーションは命そのもの。下級冒険者はこれがなければ、明日の探索も命がけの綱渡りになる。
その時、ふとベルの胸の奥に小さな疑問が芽生える。
(何でこんな安いのに、噂にならないんだろう?)
下級冒険者にとって、この値段はあまりにもありがたい。
普通なら列ができてもおかしくない。大通りにある高価な薬屋より、よほど需要があるはずだ。
それなのに、この店の前には人はちらほら見かけるが、冒険者の気配は一向にない。
大通りから外れているが、すぐに辿り着けない距離でもない。
立地の問題でもないだろう。
建物自体は古びてはいるものの、朽ち果てているわけでもない。看板も一応掲げられ、商品棚には確かにポーションが並んでいる。
ベルは店主を見る。
深くかぶった帽子の庇に顔は隠れ、年老いた身体は黒い衣服と厚いマフラーに包まれている。
木製の杖を片手に、微動だにせず腰掛けている姿は、ただの老人にしか見えない。
「…なにか、問題でも?」
「い、いえ何も…」
ベルは慌てて目線を逸らし、次の一歩を踏み出した瞬間、木の枝が頭に落ちてきた。
軽い衝撃に思わず手をやり、足早にその場を去った。
自分の想像以上に好評でありがたい限りです。
ダンまちの知識を蓄えなければ…