『豊穣の女主人』の店内には、いつものように冒険者たちの賑やかな声が響いていた。
時間帯とあって、ダンジョンから帰還した冒険者たちが次々と扉を潜り抜けてくる。
その一角で、白髪の少年―ベル・クラネルが一人寂しく食事をしていた。
周囲の冒険者たちの笑い声や鎧がぶつかる金属音、杯のぶつかる音が賑やかに響く中、少年の視線は自分の皿だけに向けられ、他の声や動きは遠くの音のように感じられた。
すると突然、隣の卓にどさりと大皿いっぱいのパスタが置かれる。湯気と共に漂う香ばしい匂いがベルの鼻腔をくすぐり、思わず顔を上げる。目の前に現れた大皿は、予想以上の量で、熱々の麺と濃厚なソースが光を反射して輝いていた。
「足りないだろ、今日のおすすめだよ!」
豊穣の女主人の店主であるミア・グランドの明るい声がベルの耳に入る。
湯気に混じる香りが鼻をくすぐり、冒険で疲れた身体の奥まで温かさが染み込むようだ。
しかし、そんな簡単にもらうわけにはいかないと、ベルは慌てて手を振った。
「い、いやいや、受け取れませんよ!」
だが、結局はテーブルの上に置かれた大盛りのパスタに視線を落とす。
否定の言葉とは裏腹に、彼の胃袋は静かに鳴り始めていた。
するとチリンと客が入ってきた合図が酒場に響き渡り、店員である猫人アーニャ・フローメルは客の傍による。
ベルは扉の方へと目を向けるとそこに立っていたのは――昨日の薬屋の老人だった。
「おひとりですかにゃ?」
「…あぁ」
「席をご案内しますにゃー」
老人は静かに頷いた。
昨日、ポーションを売ってもらった時と同じく、顔は深く帽子に隠され、表情は見えない。
「この席にゃー」
なんと老人の席は、ちょうどベルの隣の席だった。
「ありがとう…感謝するよ」
「どういたしましてにゃ」
そう言ってアーニャは軽快に案内を終えると、小さな足取りを弾ませながら席を離れていった。
ぎぃ、と椅子の脚が床を擦る音が、やけに長く尾を引いた。
老人は腰を下ろすと、深くかぶった帽子の庇をわずかに押さえ、視線を落とす。
鼻先に漂うのは、土と薬草が入り混じった独特の匂い。昨日、薬屋で嗅いだものと同じだ。
「ご注文は何になさいますか?」
豊穣の女主人の店員――シル・フローヴァが、にこやかに盆を抱えて立っていた。
「…この酒場で一番安いのを頼むよ…私の財布はかつかつでね…」
シルは微笑を崩さぬまま頷き、注文を厨房へと伝えるために小走りで奥へ消えた。
冒険者たちの笑い声や杯のぶつかる音が背景にありつつも、ベルの意識は自然に老人にへと向いた。
そんなベルの視線を感じたのか、老人はゆっくりと顔を上げた。
相変わらず帽子の深い庇の下で表情は完全に隠され、瞳さえはっきりとは見えない。
「もしかして…君は…昨日、私の店を寄ってくれた少年かい?」
「…あっ!…はい、そうです!」
唐突な問いで言葉に詰まりながらも、ベルは頷いた。
よく冒険者や町の人々と話すことはあったが、今目の前にいる老人との会話は脳に強く焼き付いていた。
「…薬屋の時ダンジョンで傷を負った…と言っていたが、君は冒険者をやっているのかい?」
「…はい…まぁ、まだ駆け出しですけど…」
ベルが自嘲気味に答えると、老人は軽く頷き、言葉を続けた。
「…駆け出し――だが、君は確かに歩き出した」
老人は指先を机に置いたまま、微かに震える動きで言葉を紡ぐ。
「歩みを選んだ以上、必ずその歩みは誰かに見られ、導かれ、時に試され、いずれ幸福を手にし…いつの日か、
「…厄災ですか?」
「あぁ、それは…避けられぬものだ。光が差せば影が形を作るように、朝日が昇れば夜が後ろに残るように…」
まるで長い年月をかけて得た真理を語るように、老人の声の中には絶対的な確信があった。
「…正しい道筋を、たとえ聖人が間違わずに歩んでいようとも、悪事は時に起こり避けられない……それが
その瞬間、帽子の下から視線を送った老人と、ベルの目が合致した。
瞳は濁った灰色であり、そしてどこか異様な光を宿していた。老いによる濁りではない。深淵を覆う靄のように、掴みどころのない陰影がその奥に渦巻いていた。
ベルは思わず息を飲む。威圧感というよりも、どこか底知れぬ何かに見透かされているような感覚が胸に広がり、ぞくりと背筋が冷たくなり、箸を握る手が少しだけ震えた。
「ご予約のお客様、ご来店にゃ!」
すると、アーニャの元気いっぱいの声が酒場に響き、ベルの無意識の緊張はほぐれた。老人から送られる視線の重みは依然として胸に残っているが、店内の明るい雰囲気と、楽しげな冒険者たちの笑い声、杯のぶつかる音が少年の意識を少しずつ現実へ引き戻していく。
ギイィッ、と厚い木の扉が開かれると、外から入ってきたのは、その場にいる誰もが顔を知っている者たちだった。
「みんな、ダンジョン遠征ご苦労さん! 今夜は宴や! 思う存分飲めぇッ!」
大きな声で主神ロキが宣言すると、酒場の中は一気に沸き立った。
入ってきた一団――それは、オラリオでも指折りの大規模ファミリア、ロキ・ファミリアの精鋭冒険者たちだった。
彼らが通るだけで周囲の席にいた客たちは無意識にその背中を目で追ってしまう。ベルもまた例外ではなかった。
賑やかな声と笑い声が交錯する中、シルがそっとベルに耳打ちした。
「…ロキ・ファミリアさんは、うちのお得意様なんです。かれらの主神、ロキ様がここをいたく気に入られたみたいで」
ベルはごくりと唾を飲み込む。喉を通る感覚すらぎこちなく、全身が緊張に包まれていくのを自覚した。
なぜなら今目の前にいるのは、彼の憧れであり、そして一目惚れをした相手――アイズ・ヴァレンシュタインその人がいるのだから。
「…あれは神…なのかい?」
すると、老人の低い声が酒場のざわめきにかき消されそうになりながらもベルの耳に届いた。
シルは、持っていた盆を抱え直し、柔らかい笑みを浮かべたまま答える。
「…えぇ、そうですけど…知らないんですか?…ロキファミリアはオラリオで最も有名なファミリアとも呼ばれていますが…」
シルがそう言うと、老人は椅子にかけていた杖を手に持った。
「…申し訳ないが…私はこれで帰宅するよ…用事があることを思い出してね…」
老人はそう告げると、静かに椅子を引いた。ぎぃ、と木の脚が床を擦る音が、酒場の賑わいの中にわずかに響く。ベルは思わず視線を向け、老人を見ると既に深くかぶった帽子の庇の下からは、もう瞳すら覗かせず、表情は完全に隠されていた。
「…えっと、注文した品物は…」
「…頼んだものは…少年、君が食べてくれ…いつか借りを返そう」
「えぇっ!…ちょっと!?」
ベルが慌てて声を上げるも、老人は懐から硬貨を数枚取り出し、指先から零れ落ちた硬貨は、卓上に淡い音を立てて散らばった。
ベルは慌てて手を伸ばすが、零れ落ちた硬貨は器用に卓の縁を跳ね、いくつかは床へと転がり、思わず「あっ!」と声を上げるが、周囲の冒険者たちの笑い声や杯のぶつかる音に紛れ、誰も特に気に留めない。
人々の喧騒の中で、老人だけがまるで別の時間を歩んでいるかのように静かに、しかし確実に扉の方へ歩を進めている―――その時だった。
「そこのおじちゃん、ちょっと待てや」
ロキ・ファミリア主神――ロキが、声を張り上げた。
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