「そこのおじちゃん、ちょっと待てや」
ロキ・ファミリアの主神――ロキが、声を張り上げた。
場の空気が一瞬にしてぴたりと止まる。
酒と肉の匂いが渦巻く喧噪の中で、まるで冷水を浴びせられたかのように沈黙が広がり、視線が一斉に老人の背に突き刺さった。
しかし、老人の足取りはロキの声を背に受けてもなお、まるで届いていないかのように止まらない。
杖の石突きが床を叩く乾いた音だけが響き、酒場の空気をますます張り詰めさせる。
「なんや、無視かいな? せっかく、ウチが声をかけてるってのに」
ロキが眉をひそめながら言うと、ガタンッ、と客席の一角で誰かが立ち上がる。
椅子を倒して立ち上がったのは、まだ若い冒険者の男だった。
場をわきまえぬ老人に憤りを覚えたのだろう、鋭い視線で老人を射抜いていた。
「アンタ、ロキ様が声をかけてくださってるんだぞ! 返事くら―――」
しかし、その言葉は最後まで紡がれることはなかった。
舌を噛み、口の端から血がじわりと流れ出す。
呻き声を押し殺しながらもまた一歩、老人へとにじり寄った瞬間、彼の腰が机の角に強くぶつかり、食器がガシャリと跳ね飛んだ。
「…ッ!…」
視線を落とした彼の横腹には、いつの間にかテーブルに転がっていたフォークが深々と突き立っていた。防具の隙間、ちょうど何も守られていない柔らかい部分を正確に。
男は目を見開き、必死に唇を結んで声を殺した。尊敬するロキ・ファミリアの前で醜態をさらすことだけは避けたかったのだ。
しかし、止めどなく血が滲み出し、衣服を濡らして床へと滴り落ちていく。
男は横腹をおさえながら、なおも老人へ向けてまた一歩踏み出した。
「ッ…はぁはぁ…おい!…ッ…いい加減にしろ! ま―――」
突然天井から、乾いた軋みが響く。
木材の梁がきしみ、長年の重みに耐えかねたかのように小刻みに震え始める。酒場の客たちが一斉に見上げた瞬間、一本の梁から小さな木屑がぱらぱらと舞い落ちた。
「…え」
バゴンッ!
耳をつんざく音とともに、男の頭上の天井が崩れた。
一枚、二枚、三枚……次々と鋭い角を剥き出しにした梁が、容赦なく重力に引かれ、男へと落下してくる。
衝撃音が響き渡り、床に散らばった破片はあたりへ跳ね返り、椅子や卓を巻き込んで転がった。
舞い上がった粉塵は辺りを覆い隠し、視界は数歩先すら霞んだ。
咳き込む声はあちこちで上がり、やがて煙がゆっくりと晴れていく。
周りの者は梁が落下した場所へと目を向けると――――
「キャーー!!」
そこに横たわっていたのは、無惨に押し潰された男たちの亡骸だった。
一人は頭蓋を梁に抉られ、一人は両腕をあり得ない方向に折り曲げられ、背骨までも砕けたのか痙攣すらなく沈黙していた。
最期の一人は肩口に突き刺さった梁の破片が心臓を貫き、口から鮮血を泡立たせたまま動かない。
血がとめどなく溢れ出し、やがて赤い水溜まりを作る。椅子の脚や客の靴底を濡らし、冷たい光を帯びて鈍く反射した。
崩れ落ちた梁の下で、呻き声ひとつ発せられないまま倒れ伏す男たち。
数息前まで杯を掲げ、仲間と笑い合っていたはずの彼らは、もはや誰の声にも応えない。
「どけッ!! 邪魔だッ!!」
「ちょっと、押さないでよッ!」
一部の客たちは一斉に席を蹴立て、出口へと殺到した。
椅子がひっくり返り、卓が押し倒され、酒と料理が床にぶちまけられる。
誰もが我先にと通路を奪い合い、怒号と悲鳴が渦巻いた。
踏み倒された皿やジョッキが粉々に砕け、足元に散乱した破片が血と混じり合い、滑って転んだ者が次々と押し潰されていく。
「ウッ…」
あちこちから嘔吐する音が立ち上り、胃液と血の混じった酸っぱい臭気が立ち込める。鼻をつく悪臭はさらに混乱を増幅させ、吐き気を堪える者の顔を青ざめさせていった。
ベルも例外ではなかった。視界が揺れ、口の奥からこみ上げてくるものを必死に押さえ込む。
つい先ほどまで笑い声と香ばしい料理の匂いに包まれていた豊穣の女主人は、いまや地獄の饗宴へと姿を変えていた。
「…お、おい、大丈夫か…お前ら!」
事故にあった男たちと同じ机を囲んでいた客の一人が男たちの元に向かうが、すでに男の瞳は虚ろになっている。頭蓋を貫いた木の板から、どろりとした血が途切れることなく流れ続けていた。
「だめだ…もう…彼らは…」
ロキ・ファミリア団長、フィン・ディムナが重い声で呟くも、その現実を受け入れない客は顔を真っ赤にし、フィンを睨みつけた。
「…ッ…コイツ等、俺のファミリアでも期待の新人たちなんですよ! そんな簡単に見捨てられまませんよ!」
声は激情に震えていたが、場の喧騒にかき消される。
酒場は怒号が交錯し、押し合う腕と肩が渦を成す。
倒された椅子やテーブルが道を塞ぎ、料理や酒が床を汚泥のように散乱していく。
床に散らばった破片を踏み砕く音が響き、赤く濡れた酒や血に足を取られて転倒する者もいた。
「…ックソ!…何が起きてんだ!?」
狼人のベート・ローガが怒鳴るように吐き捨てる。
「分からないが…一つ言えることは…今のは魔法ではない…それだけは確かだ」
ロキ・ファミリア副団長、リヴェリア・リヨス・アールヴは、低く告げながら前を見据えた。
長い年月を冒険者として過ごしてきた彼女ですら、今の出来事に説明の糸口を見つけられずにいた。
天井の梁が「たまたま」落ちてきたのか。はたまた「何か仕組まれたもの」なのか。
「ロキ、どうするんじゃ……原因は分からないが…今見た過半数の者たち…いや、ほぼ全員が、この件の原因は
ロキ・ファミリアの重鎮、ガレス・ランドロックが言い放つ。
「…わかっとる…」
いつもならおどけた笑みを浮かべるロキが、今は珍しく唇を結び、眉間に皺を寄せている。
豊穣の女主人は、オラリオでも指折りの人気を誇る酒場だ。この場所を閉ざすことになれば、通い慣れた冒険者も、市井の人々も大きな不便を強いられることになる。
しかし――死人が出た、それも三人。その事実はあまりにも重すぎる。
外聞は最悪であり、もし「事故」として片付けられれば、この酒場が長年築き上げてきた名声も信用も、一夜にして瓦解しかねなかった。
「…表向きは事故で通るやろうけど…アレを偶然って言うには出来すぎとる…」
ロキは内心で舌打ちをする。
彼女は数多くの眷属たちの生き死にを見てきたが、先ほどの惨劇はどうにも胸の奥に澱のような違和感を残した。
目を細め、赤い瞳を向けた先で、老人は既に酒場の喧騒から姿を消していた。
(…ッ…どなしよかな…あのおじちゃんが何かしら関わっとるのはほぼ確実や…けど…ありえんと思うけど…もしほんまにただの事故やったらどうする?)
ロキは胸中で自問した。
神としての直感は「ただの事故」ではないと叫んでいる。
だが、証拠は一つもない。ただこの場に残されているのは、無惨に横たわる死人と、血の匂いだけ。
軽々しく『老人の仕業』と断じれば、ロキの影響力の強さから、その言葉を信じる者は過半数に達するだろう。
もしも、無実ならば平穏な生活を送っていた無実な老人を犯罪者に仕立て上げることになりかねない。
だが一方で、このまま見過ごせば、同じような惨劇が再び起こる可能性もある。
ロキは苦虫を嚙み潰したような表情で、眷属へと顔を向けた。
「…ッ…
そう告げた瞬間、唐突に彼女の頭部に強烈な衝撃が走った。
口調なども全く分からないんですよね…ダンまちのキャラ…
今後から更新は週に一回くらいになりそうなので、気長にお待ちください。
追記
フィンの親指はなぜ反応しない?
これは私がフィンの親指は敵意に反応するものだと勘違いをしていました。
申し訳ありません。
今後このような事が起きた場合には一度この作品を非公開し、ダンまちの知識を蓄えてもう一度書こうと思うので、このようなミスをまた見つけた場合教えてくださると幸いです。